1. 国土と時代
われわれは、日本の国土に生をうけ、二十世紀中、後期を生きてきた。
「あやにやし えをとこを」「あやにやし えをとめを」こんなに素直な「愛」の言葉を交わしたイザナギ、イザナミの二神が造りなしたという日本列島は、山紫水明の地である。たがい歴史の過程においては紆余曲折があったとしても概ね単一民族が平和に暮してきた。
大和民族の一員であるわれわれは幸いであったといわねばならない。
倭は国のま秀ろば 畳づく青垣山 こもれる倭しうるはし
約百五十年前開国をした貧乏国日本は、国力一般はもちろんのこと学問文物において立遅れていた。富国強兵をモットーとし、西欧追及に突走ったわが国は惨胆たる敗戦をもって一九四五年を迎えた。
この時代にわれわれの青春を燃焼させた責任は、われわれが負わねばならないのだろうか。この戦争で生命を奪われた級友には、ひたすら手を合わすのみです。
戦後、民主主義社会を維持し約半世紀にわたり戦争を避け、自由主義国第二位のGNPを現出するまで国力を発展させた担い手は、正にわれわれであった。後世はわれわれをどう評価するであろうか。
凩が焦土の金庫吹き鳴らす 楸邨
夏ビル街生きて一筋ふりむかず 生々
2. 一橋大学
われわれは東京商大に学び多くの立派な級友に恵まれ一生を切瑳琢磨して暮してきた。しかも、われわれは一橋大百周年記念祭に際会したのである。一橋大は日本が極端な軍国主義体制や思想の激動期にあったにもかゝわらず、他の帝国大学にもみられない、きわめて総合的、ユニークな自由な雰囲気のもと、本格的なアカデミズムの殿堂であった。
一橋の原点には、国際的視野に立ち、独立自尊の精神をもって実学を重視する貴重な伝統がある。それは社会において、「キャプテン・オブ・インダストリー」とか、「国士的経済人」(三浦新七博士の言)とか、「国際的経済人」(中山伊知郎博士の言)のごとき標語に相応しい足跡を残してきた。われわれの後輩は「Captain
of New Trail」(石原慎太郎氏の言)への構えで精進している。
ある意味で日本は法科万能時代から経済優先の時代に転化した。そして新しい科学を基盤とした産業の集中化により技術エリートの台頭がみられる。その意味で一橋大学型の人材が要求される時代である。今日の大学が如何に経・商・営の学部の多いことか。
しかし、高学歴社会と知識産業の重要性が増加している現代において、一橋大学が飛躍するためには量・質ともに新しい手を打つべきであるというのがわたしの年来の主張である。一橋大学が国立で私学的建学の精神をもっていることに特色があるとするならば、現在の国立一橋大学は大学院中心の学問の薀奥を究めるところとし、別に如水大学を設立し、これを英国ロンドン郊外か、米国のワシントンDCあたりに位置させて教育することである。もちろん教授は、一橋大の先生ないし識見のある先輩を中心にするのである。国際人として真に次の時代を担う教養、能力を根底から会得させるためであることは謂うまでもない。
平和がほしい誰にもにおう夜の木の芽 一石路
冬ざれに教師は重き鞄提げ 生々
3. 研 究
わたくしは、卒業と同時に徴兵され北支を転戦していたが、終戦の翌年、独立歩兵の大隊副官として復員した。就職していた日本商工会議所を退職し、一時電機会社に勤めた。その会社は特別経理会社に指定されて、その経理をわたくしが担当した。
当時の商法の改正もあり湧然と学問研究に興味が惹かれた。昭和二十二年、内池・片野先生の推薦を得て高千穂経済専門学校(後の高千穂商科大学)の簿記・原価計算の講師になった。戦時補償打切りと再建整備法や集中排除法による会計処理方法、商法の改正や会社更生法の制定と会計問題などについて研究を始めた。
一橋大図書館やアメリ力文化センターからReceivershipやSanierungの文献など借り出し勉強した。最初の論文は「会社整理と企業評価の問題」というのであった。その後吉永先生や番場先生に時折論文を見てもらい批評を受けた。
その後、友人の会社の経理をみたり、親戚の会社の非常勤重役をしたこともあるが、埼玉大学、国学院大学、そして法政大学と一貫して教育畑を歩んできた。自称ポツダム教授である。
わたくしは、工程別総合原価計算の新しい計算方法とか合併比率の算定方法とか部分的研究頃目はあるが、一貫した対象は連結財務諸表に関するものである。ニュー・ラブの書物を訳し村瀬玄先生に見参に及んだのは昭和二十七年のことであった。
わが国企業が、コンビナートを結成し、そのうちに貿易の自由化、独禁法の緩和、国際競争力への挺子入れと次第に資本集中への過程をたどってきた。それに、一九四八年イギリス会社法におけるグループ会計、一九六五年西独株式会社におけるコンツエルン決算書、それにアメリヵ証券取引法に応ずるソニーや東芝のADR適用、世界銀行からの融資と研究対象には事欠かなかった。連結会計に関する書物を現在四冊書いて,いる。
連結財務諸表制度化傾向の情勢になって後発学者や審議会の先生の追及が急になった。切角のこの方面に先鞭をつけたのに、成果を腐らせること口惜しく、勇を鼓して昭和五十三年法政大学大学院社会科学科経済学専攻過程に「連結会計の多面的研究」という論文を提出し「幸い「経済学博士」の学位を獲得することができた。
その内容は、集団資本の循環の態様により、全面連結(営業循環による)、持分法一行連結(財務循環による)、そして部分的総合計算書(非資本的企業結合による)の意味付けがその一つである。
また、国際的連結財務諸表の理想型として、在外子会社の財務諸表と本国親会社財務諸表を共に現在原価会計に基づき再表示(restate)し通貨の換算には、非貨幣性資産、負債については購買レート(物価指数の変動比と利子率の変動比の積から割り出す)を適用し、貨幣性資産・負債については期末実勢レートを適用すべしという、購買力平価レート(測定尺度)公準論という主張である。
学問のさびしさに堪え炭をつぐ 誓子
春愁も書を披けば消えにけり 生々
4. 運 命
われわれの前には、近い将来死が待ち受けている。それは運命であるから、想いわずらうまい。国の前途、子孫の将来、一橋大の来し方も憂いたところでどうなるでもない。それらは、それぞれ叡知をもって歴史を築いていくとおもう。
われわれをしてこのような人生を送らしてくださった絶対者や周囲の方にひたすら感謝を捧げるものである。わたくしは、これからできるだけ恩に報いる勤めと祈りを捧げたい。わたくしは禅宗であるが、若いとき心酔した親鸞の教えをいまも信ずる。
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じてて、念仏もうさんとおもいたつこゝろのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり(歎異抄)。
南無阿弥陀仏。
死は蒼し氷壁よぎる大揚羽 素人閑
銀杏青葉貧交了るいつの日ぞ 生々
|