両親のこと
父は慶応三年の生れであるから私は父が五十歳近い時の子供ということになる。父についての記憶は第一に外柔内剛だったことである。温和な風ぼうと共に、よその人達には極めて親切で人望もあった。ところが内に対しては厳しかった。それも自分と言うよりは家族に対して厳しかった。
晩年、村の仕事で多忙な為、家業は母中心に運営する様になり家族はヤレヤレと胸を撫たものである。記憶の第二は非常に達筆だったことだ。子供は男六人女三人計九人であるが未だに父の足許にも及ばない。
寺小屋教育の成果であろう。父は若い頃学問を志したが果せず後年私の進学に理解を示して呉れたのも自分の夢を私に託したことの様である。それにしても大学は出して貰ったが何等なすなく晩年を迎えんとする吾が身を顧み誠に申訳なく思う。
母は気丈な女でした。無一物の状態から出発し沢山の子供を育て世に出して行く為には気丈にならざるを得なかったことでしよう。長子相続制の当時にあって、子供達に夫々自立出来る程度の財産を分与独立させることが母の夢であった。農業の経験のない母が最盛期を過ぎた鰊漁場での呉服商に見切りをつけ土地を求めて農業に転業したのもその為であった。
苦闘の甲斐あって母の夢は実現した。吾が家は長男から次々と家を出て独立した末弟が最後に父母のもとに残り父母の位牌を守ることとなった。
妻のこと
妻のことを書く前に苫米地義三氏のことを述べなければならない。両親達が入植したところは旧南部藩士苫米地金次郎翁が下級藩士を引率して入植開拓したところであった。
父は呉服商時代翁と面識があり又後年翁の記念碑建立に尽力した関係で翁の三男義三氏四男四楼氏と交遊を得ることとなる。私の大学時代及び就職の保証人は当時東北興業副総裁だった義三氏であり又戦時中、上官として私の兄弟を色々面倒みて呉れたのが津軽要塞司令官だった四楼氏であった。
私がシベリアから復員して最初に訪ねたのも義三氏であった。氏は当時芦田内閣の官房長官であった。私が東芝え復職し札幌え赴任する迄約一ヶ月同氏の好意で官邸の居候となる。このことが妻との出会いの契機となった。
義三氏の選挙区には妻の父が長年町長をしていた地区があり、その関係もあって妻の兄が秘書官を、又、妻が夫人のお手伝いをしていた。
或る日夫人が「いゝ人がいますが会って見ませんか」とのことだった。元来見合結婚というのは仲人を信用するか否かが鍵である。僕は義三氏夫妻を信頼してゐた。
この話は間もなくまとまった。簡素な結婚式を明治神宮で挙げた。私が三十二歳妻二十六歳昭和二十三年九月のことである。当時明治神宮は戦災にあい社殿はバラックで鳥居だけ大きく見えた様に記憶してゐる。式後直ちに宮邸え帰り宮邸詰の記者も混えて内輪の会食をした。話題は大臣を中心に政治問題が主だったと記憶してゐる。
私に一番印象に残っているのはお隣の総理官邸の食堂から届けられたお赤飯の美味しかったことである。物資欠乏の当時、苫米地夫妻の御配慮によるものである。
さて亭主としての私は文字通り関白様であった。然し妻はよく耐えた。貧乏世帯を切り廻し三人の子供の養育を果して呉れた。感謝のほかない。
妻の生活態度の特徴は第一に物を大切にすることである。古くなっても簡単に捨てることなく工夫して必ず再生活用されていた。衣類などは幾度か再生され、最後に自分の下着にするという具合であった。その為の労力は少しも厭わない。吾々が学んだ経済学では解明出来ない。この習慣は現在でも変らない。特徴の第二は子供に対する態度である。常に一定距離を置いて接し、母としての自覚を厳しく保っている如くである。その為か吾が家の子供達は子離れが早い。私には物足りないが妻は淋しい素振りを微塵も表さない。
子供達のこと
子供は二男一女である。長女は既に嫁ぎ、長男は外科医の道を自ら選ぶ。彼には適職と思う。次男は外交官に進む。教大付属駒場高校という東大予科の如き高校に進みながら私の希望を容れて一橋大に進んでくれたことを心から感謝している。
我々両親は益々老い行くのみで子供達に稗益するものは何もない。子供達が健康で社会人類の為、少しでも多く役立つことを願うのみである。
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