7組  西堀 正弘

 

 お互いに還暦を過ぎると、矢張りおのが人生の来し方を振返り、ああ、あの時は助かった運が良かったなあと思うことがあるかと思えば、逆にあの時は若かった馬鹿なことをしたものだと臍(ほぞ)を噛んでみたり、ともかく長いとも短いとも思われる人生を顧みて感慨深いものがある。

 然し、大東亜戦争勃発と時を同じくして学窓を追出され、戦争と戦後の混乱をなんとか切り抜けて来た十二月クラブのわれわれ生存者は、なんと言っても基本的には運の良かった人生と心得て感謝すべきであろう。

 私自身は、開戦の年、昭和十六年の三月に外務省から三年間のアメリカ留学を命ぜられて渡米、漸くアメリカの学生生活にも馴れて来て楽しみ始めていた十二月の日曜日、ラジオの緊急ニュースが真珠湾攻撃を伝えた。ああこれで俺の留学も終りかと、暗澹たる気持ちで運の悪さを嘆いたものだった。

 幸い外交官の端くれに入っていたので、約一週間ボストンの移民収容所(上下四方金網張りの刑務所同様の部屋で二段ベッド。上段には二年先輩で同じくハーヴァード大学に居た、後に駐米大使となった東郷文彦さん、下段に私)に入れられはしたが、クリスマスの日に在ワシントン大使館に移動を許され、その後は当時のわれわれの在勤俸では一晩たりとも泊れない贅を尽くしたリゾートホテルに移され、野村、来楢両大使を初め諸先輩と一緒に、六ヶ月間の豪勢ではあるが自由のない抑留生活の後、第一次日米交換船で昭和十七年八月帰国した。

 待っていたものは、もちろん徴兵検査。目出度くか、情なくかはノーコメントだが、乙種合格、幸い海軍主計二年現役にとられたところ、アメリカでの抑留生活中に知遇を得た在ワシントン海軍武官であった実松譲大佐が軍令部に居られ、私が海軍経理学校で見習尉官教育を受けていることを伝え聞いて、どうだ軍令部の情報部アメリカ班に来ないかとの有難いお誘い。
 願ってもない幸せとばかり三拝九拝して部下に引取って載いた。実松大佐こそ正に命の恩人である。同大佐の知遇を得ていなかったら、恐らくは言葉の関係で南方の俘虜収容所長となり、部下の責任を取って終戦とともに十三階段を登ったことであろう。あるいは、軍艦とともに海の藻屑と消えたことであろう。全く紙一重の差で命を助けられた。

 更に、遡れば、私が昭和十五年の外交官試験を受けたところ、どうしたはずみかヤマというヤマが面白い程当ったお蔭で予想に反して合格。然し、翌十六年の試験を本番と考えての受験であったので、成績が良かろう筈はない。ビリで入ったのでは、一生試験成績がついて廻り、外務省でウダツが上るまいと考えたので、時の人事課長(戦後、駐伊、駐ソ大使を勤められ、引退後はホテルニューオータニの社長をなさった門脇秀光氏)のとこに行き、ヤマが当ったばかりに合格はしたが、成績はビリであろうと思うから、あと一年大学に居て来年良い成績で合格したいと申述べたところ、「馬鹿なことを言うな、外務省では試験の成績などは全く問題にしない。一年でも早く入った方が得だ」との御託宣。再び受験勉強をやらなくて済むなら、その方が楽だわいというわけで、そのまま入省した。
 若し、門脇課長が「それもよかろう」などと言われたら、翌年入省と相成り、アメリカ渡航は既に不可能となっていた。従って、命の恩人実松大佐の知遇を得る機会もなく、従って、十三階段か海の藻屑という段取りとなっていたことであろう。とすれば、命の恩人は、先ず門脇課長次いで実松大佐ということとなる。

 それからの人生は、言うなれば、儲けものをした余録の人生、もちろん慙愧の念のみ多い生涯ではあったが、どうせ余録の人生ではないか、何を文句を言うかと、自らに言い聞かせ、運の良かった面を感謝の念をもって憶い出すことに努めて、世をすねることもなく、少しは社会のお役にも立って、なんとか人並みの一生を送らせて載いて来たことと感謝している日々である。

 恐らくは、十二月クラブの生存者は、多かれ少かれこのような運の良かった方々ばかりであろう。ともかく幸運にも生き永らえて今日の日本の隆盛の恩恵を蒙る人生となったことを共に感謝しつつ余生を送りたいものである。

 


卒業25周年記念アルバムより