7組 秋元 茂 |
卒業五十周年の記念文集への寄稿が気にかかり乍ら、まとまらないうち編集委員から品の良い丁重な督促を貰うに至った。十二月クラブの会合に欠席勝ちなので、是非何かまとめようとあせる。 構想を練っている時、偶々桜花を見る数多くの機会に恵まれた。四月上旬新幹線を利用して新大阪へ、そして南海電鉄で和歌山に出、バスで南紀の海岸線を伝うて白浜・勝浦そして鳥羽へ出て伊勢神宮に参拝した。その間、紀三井寺・道成寺・那智大社等の桜花を満喫したが、車窓から望見する風景にも再三の桜花の満開に迎えられた。 わが生涯を振り返ると、束京近在の農家に生れたが、明確な記憶の最初は関東大震災の恐怖である。小学・中等学校そして国立六年(専門部・学部)は自宅からの通学で全くのんびり過ごしたが、其の後の軍隊生活と市民としての防空壕生活では人並みの苦労をさせられた。併し終戦後は被占領下での企業整備や朝鮮戦争の勃発など働き盛りの身として、前途の混迷に悩み乍らも比較的順調、且気楽なサラリーマン生活を続け得た気がする。 今から十三年前の昭和五十三年の夏、偶々終戦記念日に当る八月十五日、最愛の妻を僅か一週間の看病で他界させて了った。会社の方も多忙な経営陣の一角から半現役的な監査役の立場に移り、これからは時々二人での旅行も出来るのを楽しみに話していた時だけにショックは大きかった。残ったのは子供(男子)二人に自分を加えての男世帯の生活だった。真先の懸案は息子二人の結婚だったが、三年程度の間に息子二人も相手を選択して新家庭を始めるに至った。ここまで来て今更の如く自分の今後を考えさせられた。如何に大事に面倒を見て呉れても息子の嫁では出来ないものがありこれは止むを得ない。一義的に自分のことを心配してくれる存在を求める意欲が次第に強くなって来た。これも自分の我が儘の表れかも知れないが、当時周囲の人々からも「一度だけの人生だから、もう一度花を咲かせてはどうか」の誘いの言葉もあり、とうとう六十七才を超えての再婚に踏み切った次第。その後既に五年を経過したが、幸いに新たな充実した生活を続けている。これも遅咲きながら一つの花盛りと云えよう。だが残念乍らこの高齢では桜のような美しさは望むべくもないが、反面花盛りの期間だけは桜のように短期間で終らせないよう十分心掛けている。 記念文集への寄稿だから気の効いた内容をと考えながらも、文才も詩想も持ち合せない自分では結局無理な相談で、平凡極まる他愛ない身辺雑記に終らざるを得なかった。「花盛りの記」の表題も稍気障(きざ)なたわごとものであり、文脈の前後にも不連続が多く申訳ないが、暇人(ひまじん)の戯言としてみて頂ければと存じます。 |