7組  秋元 茂

 

 卒業五十周年の記念文集への寄稿が気にかかり乍ら、まとまらないうち編集委員から品の良い丁重な督促を貰うに至った。十二月クラブの会合に欠席勝ちなので、是非何かまとめようとあせる。

 構想を練っている時、偶々桜花を見る数多くの機会に恵まれた。四月上旬新幹線を利用して新大阪へ、そして南海電鉄で和歌山に出、バスで南紀の海岸線を伝うて白浜・勝浦そして鳥羽へ出て伊勢神宮に参拝した。その間、紀三井寺・道成寺・那智大社等の桜花を満喫したが、車窓から望見する風景にも再三の桜花の満開に迎えられた。
 中旬にも中央高速道路を駆って諏訪湖畔を廻り、長野善光寺に詣でて東山魁夷館で絵画を鑑賞した。翌日は小諸の懐古園を訪れ、最後は高遠城址の桜見物の機会を得た。この旅行の途次も立ち寄る先々で桜花の盛りの連続であった。
 流石に桜は日本の国花であるだけに、旅行の行く先、行く先でその美しさに頻繁に接するのは当然のことで、格別驚くことではないが、この四月訪れたゴルフコースでも殆ど例外なく桜の開花に恵まれた。藤沢の芙蓉、埼玉の高根と日高、神奈川の厚木国際、御殿場の富士国際など、夫々のコースで桜満開の時期にプレイを楽しむことが出来、正にその美しさに堪能したと云える。
 花の盛りを訪ねているうちに、自分らの人生の花の盛りをどう考えるべきか、又どうだったのか、人夫々の境遇により大きく異なろうが……。
 年齢的に見れば、花の盛りと云えば国立で過ごした頃かも知れない。併し当時は忍び寄る戦争の気配に、残念乍ら存分の開花を見ることもなく過ぎ去ったように思う。一方社会人としての花の盛りはもっと後年で長い期間に亘るであらう。自分のその時期を回顧すると、ただ懸命に生きて来たの一言につきる。戦後復興、経済大国日本の機構の中の小さな担い手として、気負いと自負をもって皆頑張って来た筈である。

 わが生涯を振り返ると、束京近在の農家に生れたが、明確な記憶の最初は関東大震災の恐怖である。小学・中等学校そして国立六年(専門部・学部)は自宅からの通学で全くのんびり過ごしたが、其の後の軍隊生活と市民としての防空壕生活では人並みの苦労をさせられた。併し終戦後は被占領下での企業整備や朝鮮戦争の勃発など働き盛りの身として、前途の混迷に悩み乍らも比較的順調、且気楽なサラリーマン生活を続け得た気がする。
 其の間生活の気構えは全くだらしなさの連続だった。我が儘と物ぐさをべースに、専ら吾が道を往くの一語につきるものだった。又その反面自分は時として他人の意表を突く行動を楽しんで来たようだ。
 当時の戦局から問題視されるような強引な幹部候補の辞退、折角入社した銀行からメーカーへの突然の転職、比較的順調なサラリーマン勤務中での転勤拒否や自己中心の職場選択など、そして最終的には六〇才半ばを過ぎての再婚など。大袈裟に云うと奇行に思える面も多かったが、その都度周囲の人々の温情で看過ごして頂いて来たことに深く感謝しなければなるまい。

 今から十三年前の昭和五十三年の夏、偶々終戦記念日に当る八月十五日、最愛の妻を僅か一週間の看病で他界させて了った。会社の方も多忙な経営陣の一角から半現役的な監査役の立場に移り、これからは時々二人での旅行も出来るのを楽しみに話していた時だけにショックは大きかった。残ったのは子供(男子)二人に自分を加えての男世帯の生活だった。真先の懸案は息子二人の結婚だったが、三年程度の間に息子二人も相手を選択して新家庭を始めるに至った。ここまで来て今更の如く自分の今後を考えさせられた。如何に大事に面倒を見て呉れても息子の嫁では出来ないものがありこれは止むを得ない。一義的に自分のことを心配してくれる存在を求める意欲が次第に強くなって来た。これも自分の我が儘の表れかも知れないが、当時周囲の人々からも「一度だけの人生だから、もう一度花を咲かせてはどうか」の誘いの言葉もあり、とうとう六十七才を超えての再婚に踏み切った次第。その後既に五年を経過したが、幸いに新たな充実した生活を続けている。これも遅咲きながら一つの花盛りと云えよう。だが残念乍らこの高齢では桜のような美しさは望むべくもないが、反面花盛りの期間だけは桜のように短期間で終らせないよう十分心掛けている。
 現在では極く一部の関連を除いて全く自由な立場であり、遊び廻ること自体が仕事だと公言してはばからない日々である。体調も今の所行動にブレーキをかけるほどの障害もないので、海外旅行も年一度は実行しているし、陽気の良くなった此の四月だけを例にとっても稍遊び過ぎと云えよう。三泊四日・二泊三日の二度の国内旅行、七回のゴルフプレイ、麻雀二晩、囲碁五日の遊びを消化する忙しい一ヶ月の生活になって了った。親戚関係の慶弔禍福や会社関連の行事への参加も考えると退屈する時間は無い。考えようではこの忙しさも我が生涯の花盛りと云えるのか知れない。 

 記念文集への寄稿だから気の効いた内容をと考えながらも、文才も詩想も持ち合せない自分では結局無理な相談で、平凡極まる他愛ない身辺雑記に終らざるを得なかった。「花盛りの記」の表題も稍気障(きざ)なたわごとものであり、文脈の前後にも不連続が多く申訳ないが、暇人(ひまじん)の戯言としてみて頂ければと存じます。
 「花盛りの記」として小生の意のあるところを何とかご理解頂ければ幸いです。いつも変らない学友諸兄の御厚情に甘えてこの雑文でお赦しを得たいと思います。