4組 柿沼幸一郎 |
一、金と鉄と これまで読んだ本の中で、金(きん)と鉄について、とくに印象に残っている文章が二つある。 その一つは、吉田兼好の「徒然草」の第百二十二段の末尾、「金はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きに及(し)かざるがごとし」である。 「金・銀及び鉄はゲルマニアには極端に乏しかった。この地方には銀の鉱脈は実に豊富で、後に、ブラウンシュバイクやザクソンの君主らの探索には、潤沢な報償があったのだが、ここの住民らは、その鉱脈の探索には、技術も忍耐力も缺いていた。現今西欧に鉄を供給するスウェーデンは、当時はやはり自国の財宝に無知であった。そして、ゲルマニア族の武器を一見すれば、この金属の最も高貴な用途と当然彼等が見なしていたに違いない武器の製作に、いかに少なくこれを使用しえたか、その十分な証左が現れている。和戦に関したさまざまの交渉は、或る種のローマ通貨(主として銀貨)をライン及びドナウ沿岸の住民間に紹介した。しかし、遠い奥地の蛮民らは金銭の使用を全く知らず、物々交換によって彼等の狭い範囲の交易を行った。そして、彼等の君主や大使らにローマから贈られた銀の器具も、彼等の常用の土器と同一に評価した。思考力を有する人々にとっては、叙上のような主要な大事象は、非重要な諸種の事情について千万言を費すよりも却って有益である。 金銭の価値は、丁度、文字が吾々の観念を表現するために発明されたように、一般的同意によって吾々の需要と財産を表現するために決定された。そしてこれらの機関は双方とも、人間性の能力及び感情に一層活溌な元気を与えることによって、その代表するところの当の目的物を増殖する上に効果を挙げた。金及び銀の用途は、大部分は不自然で作為的である。が、しかし、火と熟練した人手との工作によって調煉加工された鉄から、農業を始めとしてあらゆる芸術が受け取ったさまざまの重要な幇助は、到底数え上げることが不可能であったろう。一言にして云えば、金銭は人間産業の最も普遍的な刺戟剤であり、鉄はそれの最も有力な機関である」。 いま、NHKの大河ドラマでやっている「太平記」と、ほぼ同時代(一三〇〇年前後)に書かれたと思われる「徒然草」は、金と鉄との間に軽重をつけているように見える。十八世紀(一七〇〇年代)の英国で書かれた「ローマ帝国衰亡史」は、金と鉄との間に、違った局面における同等の重要性を認めているようである。 私達が働いてきた二十世紀の中の「五十年」には、半導体、原子力、石油等々の登場で、金と鉄とが、それらに伍して、どのような重要性をもっているか、もひとつ、わかりにくくなっている。 たまたま私は国家公務員を志し、半生を官庁で送ってきて、それも、大蔵省、日本銀行を職場としてきて、ここにいう金"通貨には、常に、なにがしかの関心を持ち続けなければならない立場におかれてきた。 そして、こちらの方は、やや偶然であったかも知れないが、最初の中央官庁勤務が海軍省兵備局で、担当が鉄の物動計画であり、また公正取引委員会での仕事の相当部分が、八幡、富士の合併問題の処理であったことは、傍観者的ではあったかも知れないが、鉄への関心を持ち続けることになった。 二、わが国の特別会計群 最初の職場であった大蔵省の歴史を振りかえって見ると、わが国が近代国家として発足したあと、財政は一群の「特別会計」という形で、国営企業の経営乃至は国有財産の管理を行って来た。 維新後、官営事業の発展に伴い、別途会計をもって処理されていたものには、富岡製糸場、各所牧畜場、堺製糸場、新町紡績場(内務省)、造幣寮、紙幣寮(大蔵省)、横須賀製作所、唐津及兵庫出張所、鹿児島製造所(海軍省)、佐渡、生野、小坂、大葛、釜石、三池、秋田の諸鉱山寮支庁、各地鉄道、各所電信局、赤羽製作所、深川セメント製作所、兵庫製作所、長崎製作所、品川硝子製造所(工部省)の他、北海道開拓使所属の諸事業、直轄学校、公債等があった。 明治二十二年の会計法制定により「特別会計」制度が確立され、翌二十三年度予算で、特別会計を設けられたのは、造幣局、印刷局、富岡製糸所、電信燈台用品製造所、広島鉱山、官設鉄道(一般)、東京砲兵工廠、大阪砲兵工廠、千住製絨所(陸軍)、鎮守府造船材料資金、紙幣交換基金、鎖店銀行紙幣交換基金、整理公債金、中央備荒儲蓄金(基金又は資金)、預金局預金郵便貯金預所貯金及郵便為替金(官営事業)、帝国大学、各種官立学校及図書館、合計三十三であった。 明治二十九年創業の官営八幡製鉄所は、特別会計の管理下におかれていた。 資本主義と共産主義を絶対的対立としてとらえる思想的、理念的考え方はともかく、近代経済学の普及とともに一般化した考え方は、一国の経済を「公共部門」(パブリック・セクター)と「民間部門」(プライベット・セクター)に二分するものであった。 資本主義国といわれる国々も、わが国の明治時代や発展途上国に見られるように、大きな割合で公共部門をもつものもある。また、そうした国が戦時統制経済下におかれたり、福祉国家として社会民主々義的考え方が普及するにつれて、公共部門の拡大が必ずしも発展の方向に逆行するものではないという考え方もある。 共産主義国といわれる国々では、いわゆる資本の国有化や計画経済の実施によって、公共部門の割合が極めて大きいが、そうした国においても、民間部門がないわけではない。わが国で、戦争直後の自由党政府や中曽根行革によって、民間部門の割合の急拡大が図られたように、ソ連の戦後史を見ても、フルシチョフの時代、ゴルバチョフの時代に民間部門のなにがしかの拡大が行われている。 昭和九年の日本製鉄株式会社の発足、昭和二十四年の八幡、富士の分割、さらには、日本鋼管、住友金属、神戸製鋼等の企業的発展は、鉄の民間部門化を推し進めることになった。 これに対して、金の民間部門化は、日本銀行制度の発展や為替管理制度の変遷にともなつて、やや複雑な様相を見せて来たといえよう。 わが国の特別会計制度は、国運の進展とともに変遷を重ね、その数は、明治三十九年度五十九をピークに、大正末年度三十二、平成二年度三十八を数える。平成二年度で予算定員の大きなものを五つあげると、1郵政事業、2国立学校、3国立病院、4国有林野事業、5食糧管理であり、登記がこれに続く。 三、公共部門の一橋人 一ツ橋は、国際貿易を中心とする民間部門で活躍する人材、キャプテン・オブ・インダストリーを送り出す大学といわれた。 私が公共部門に奉職したこともあって、公共部門における一橋人に関心をもつことが多かったので、その一端に触れておく。 公共部門の指導的分野は政界である。政界の核心は新旧憲法を通じて閣僚であるが、図書記念室に掲げる十四人の如水会理事長の中にも、第六、七代平生釟三郎氏、第十一代村田省三氏の二名の閣僚が含まれている。両氏とも民間部門に育って公共部門に転じておられる。 母校出身者年次別総覧によると、東京商業学校本科明治十八年卒業十五名の中に久原房之助氏(逓信大臣)、高等商業学校本科明治二十三年卒業四十名の中に平生釟三郎氏が、同明治三十年卒業八十五名の中に中島久万吉氏(商工大臣)がおられる。そして、東京高等商業学校本科出身者の中からは、明治三十七年の佐藤尚武氏(外務大臣)、向井忠晴氏(大蔵大臣)、明治三十八年の内田信也氏(鉄道、農商、農林大臣)が続き、一ツ橋は国立大学となる前から、多くの閣僚を輩出している。 中退者、その後の卒業を含めて見ると、 法務大臣 石井光次郎 話を金と鉄とのからみに戻すと、大平総理の大きなお仕事の一つに、昭和五十四年の外国為替及び外国貿易管理法の大改正が挙げられよう。貴金属特別会計、外国為替資金特別会計等を通じて、国家管理の下におかれていた対外取引が、「自由に行われることを基本」とすることになったのである。 斎藤実内閣が製鉄合同に動き、「商工省製鉄所」が「日本製鉄株式会社」になったときの商工大臣は、中島久万吉氏であった。中島商工相は、旧稿「足利尊氏」(「現代」昭和九年二月号再掲載)が、貴族院において攻撃を浴び、二月九日、宮中の意向を慮る首相の示唆、勧告に従って辞任したといわれている。その数年後、平生釟三郎氏が日本製鉄株式会社社長に就任されている。 |