7組  河本 博介

 

 学校を出てから五〇年という歳月が過ぎたことになる。一口に半世紀といってもそれはたいへんな年月である。しかし長かったようで短かい時間であった。眼を閉じて黙想すると歳月のみ徒らに過ぎ去っていった感がする。五〇年という年月をどう生きて来たのか。回想してみるとまさに茫々とした思いである。

 実業界に入る希望は初めから持っていなかったので入社試験の経験はない。平凡な教師人生の道に入ったがこの道を選んだことに悔いはなかった。多くの若い青年学生と学問を通して交流して来たことは、波瀾こそ乏しいがこの一筋の道であった。平凡なと云ったが、それは金銭と縁のない人生であったということで、自分たちの生きて来た時代は決して平穏、平凡といったものではなく、狂瀾怒涛の時代であった。二〇世紀が後世どのように歴史の中で位置づけられるかは別として、この時代を生きて来た人間は否応なく戦争と動乱を繰返し体験しなければならなかった世紀であった。

 田舎の中学を出て、初めて親のもとを離れ長崎高商に入学した。長崎はまだ異国情緒を残した独特のカラーに富んだ数少い街の一つであった。他国者にあたたか味のある街で青春の日を送るにふさわしい土地であった。ここを卒業して一橋に進んだが、振返ってみると郷里を離れて以来今日まで、東西を規則正しく往復していたことになる。

 始めに郷里の山口県を出て長崎の土地を踏んだ。ついで東に向って一橋に入った。就職は西にくだって北九州にある私立の専門学校に勤めた。初めての教師生活を体験して一年余在籍し、東に移動して横浜の当時Y専と呼ばれていた学校に転勤した。戦時中から戦後にかけて横浜と東京で下宿生活を続けた。戦争も後半に入った頃は毎日学生と共に川崎地区の工場に勤労動員されて、講義どころではなく学校は正常な状態ではなくなった。やがて東京は大空爆を受け、下宿探しにも難渋するようになって都会地は住むに最悪の状況であった。戦後結婚はしたものの住む家とてなく、若い教師に家を建てる力など無論なく、初めから別居生活を余儀なくされた。都の遊休住宅開放措置で一時妻を東京に呼び寄せたが、まもなくそこも追い出され結局元の別居生活に戻るような有様で開放措置の利用価値はなかった。こんな状態がいつまで続くのかと思っていた折も折、母校の長崎の恩師が郷里の山口大学に転任されることになって後任に望まれ、これを機会にあっさり都会に見切りをつけ勇んで長崎に赴任した。人生の一つの転機となって約七年振りの帰西となった。

 これで別居生活は解消した。長崎は原爆を受け戦前とは様相が変り、特に浦上地区は壊滅的な打撃を受けていてぼつぼつ復興途上の状態であった。こうして長崎に住んでいつの間にか三〇余年が過ぎた。多くのよき学生に恵まれ、彼等との交流は卒業後も引続いて教師冥利につきる思いをしたことも多かった。やがて長崎が第二の故郷となってここで定年を迎えることになった。

 定年後の計画も立てていなかった時に、あちこちの大学から招かれたが結局久留米大学に決め、定年を待って三〇余年振りの東への移動となった。ここは曾て亡兄の住んだことのあるゆかりの土地であり、この街と学校にとけこんでよき思い出をつくって五年間を過し、引退の予定で西、長崎に帰って来た。一抹の寂しさは禁じ得ないことであった。ところで、偶然にも後輩の世話をしようとしていた第一経済大学から講義を依頼され、結局また東へ、太宰府に生活の場を移すことになった。そうして古い太宰府の歴史を学ぶことになり、天満宮が格好の散歩の場所に入った。仕事は余りないが殆ど毎日のように学校に顔を出し、研究室と図書館の間を往来して若い時に読めなかった本を含め、読書三昧の生活である。その間若い学生相手に講義をするのは楽しいことで、社会奉仕の積りで勤めに精を出している。若い時から不健康で多病であったが、戦争を経てともかくここまで生き得たことに感謝し、運命の不思議さを強く感ずるばかりであった。ここを退職し、長崎に帰西する時は長崎が愈々最終の土地となって、東西移動も終局を迎えることになるわけである。ところで、実際に長崎が終焉の地となるであろうか。近頃ふとそうした思いが頭をかすめることがある。神のみぞ知ることではある。

 私は軍隊とは無縁であった。戦地に赴いて危地に遭遇したというような経験はなかった。その点、体験者に比較してそれだけ人生経験の幅が狭く平凡だと指摘されるだろう。しかしそうしたことがなくて済んだことは幸いなことであった。勿論空襲その他で危険に出くわした経験はあったが、ともかく無事であった。しかし戦争の被害がなかったわけではない。戦争で研究は阻害中断させられる如きであったことはともかく、我が家では終戦の年に兄が結核で亡くなった。当時食糧は欠乏し、国民は飢餓状態にあった。病人に一番肝腎な栄養に事欠き療養は名ばかり意にまかせなかった。戦争は病者を余計者とする程冷酷であった。次の兄は一橋を出て大阪商船に入社し、戦争前から戦時中にかけてハノイに駐在していた。本社転勤で帰国途中アメリカの潜水艦に乗船を瞬時に撃沈され、波間をただよいながらやっと救助されたようなことであった。戦後の海運復興途上の多忙な勤務は今で云う働き過ぎの状態で、戦時、戦後の生活の悪環境の中でこれからという時を前に卒然として長逝した。直接の戦没でなくとも戦争の影響する被害は広く、また戦争が終ればすぐに消失するものではない。戦争さえなかったならの思いは強く、忘れることの出来ない大きな打撃であった。

 大学時代は国立で過した。入試の際、既に体調を崩していて受験から帰省するなり寝こんでしまった。大阪にいた兄を頼って神戸の須磨病院に入院したりして治療し、漸く軽快して学校に出て来たのは秋もやや深くなろうとする頃であった。田舎者には東京の街は余りに大きく、住むにうす寒い思いがして空気のよい国立で下宿した。規則的に講義に出席出来るまでには至らず、また教練にも欠席した。幹候の資格がとれなくなると心配してくれた友人もあったが、教練には遂に出ず仕舞いであった。体調のよい時には武蔵野の面影を求めて国立の周辺を歩き廻った。そうして一方経済学に次第に開眼してゆく思いであった。

 日米戦争勃発の年に繰上げ卒業となった。やがてこれまで黒板に向かっていた位置から黒板を背にする位置に変った。始め無口の私には講義はすこぶる苦手であった。講義の準備に苦労して勉強した。Y専に転勤してから戦争も緒戦の調子は崩れ、熾烈に不利に進んでいった。そのうち勤労動員、学徒出陣と学園の正常状態は崩壊していった。前途有為の多くの学生を出陣で送り出した。ゼミの学生の出陣する者も出て来た。私は体に気をつけることだけ案じ、激励じみたことは遂に一切口にしなかった。彼らの中には再び戻らない者もあって胸の痛む思いを深くした。

 戦後、軍国主義から平和主義への教育の転換が叫ばれたが私にはもともと変るところはなかった。永年にわたり学生に経済学の講義をしながら、自らは貧乏教師であることに皮肉と恥じらいを感じざるを得なかった。しかし経済理論が欲望の充足とか経済原則云々と云っても、消費社会の成熟、物質主義がそのまま人間幸福に比例的に結びつくものではない。個人も社会も同じであろう。学生時代に講義の中で経済学は末梢的な学問であるとかの言葉を聞いたが、今は自分なりの考え方でそれを理解し同感する年齢ともなった。知足者ハ常富ムとか少欲以知足とか味わうべき語句と心得ている。

 こうして私も七〇才代を迎えた。老妻と二人だけの生活は全く静かである。やがて叙勲を受けることになった。昔教えた卒業生たちが喜んでくれたのは嬉しいことであった。竹下首相名の案内状を受け、指定された日に家内と共に坂下門から初めての宮中に入った。係の人に案内されてピカピカの廊下を通って春秋の間に入った。夫妻同伴の人が殆どだった。この日午前中に勲一等の親授式があり、午後が勲二等の伝達式である。約九〇余名の人数であったろうか。深々とした赤い絨艶が敷きつめられた部屋の一隅に九谷焼の大花瓶、天井には大きなクリスタルのシャンデリア、一方の壁には西陣織に仕立てられた東山画伯の海波、他方の壁には同じく北山杉、豪華な大広間であった。定刻に式が始まり受章者は名前を呼ばれ順次別室の松風の間に入り、式部官の指示で一人ずつ首相から勲記と勲章を受けた。これが終って一同豊明殿に移り、ここで当時ご不例の昭和天皇のお言葉が代わりの皇太子から伝えられた。豊明殿を出て南溜りと思われる所で築山、池、緑したたる美しい庭を瞥見し、東庭で記念写真を撮った。あと記念品を受けて車で宿に送ってもらい当日の行事がすべて終った。平穏な生活の中でひとつの色どりを添えてくれるものとなった。そうして再び元の静かな生活に戻った。

 今日男性の平均寿命は約七五才という。その年齢になってみると余生という感じは否めない。世間には余生という言葉が消極的だとして嫌う青春老人も多いだろう。私は素直に余生と受けとめている。近年姉弟を相ついで亡くし、先輩、知人の訃報に接することも多くなり、その中には私などより若い人もいて改めて自分の年齢を感じさせられる。身辺整理を考えるのも死への意識、無意識からであろう。これを余生と云わずして何と云うべきか。

 日暮れは寂しいが落日は美しいものであってほしい。それは残された人生が短いだけにその生き方にかかわって来る。健康で暮らせることは余生にとって第一に仕合わせなことである。しかし年齢的に何ひとつ故障のない人は少ないであろう。昔から一病息災というが一病ではもうまにあわず二病、三病息災でよしとせねばなるまい。私などもう病気とたたかう気力は薄れ、病気とつきあい共生する気持である。

 元来若い時から来年のことを云うと鬼が笑うといったことを口にし、そうした気持で日常生活を送って来た。近頃敬仏(鎌倉期)の「私はこの三〇年余生きているのは今年ばかりと思い続けて来た」という言葉を知って似たような考えだなと思った。更に彼は「今は老残の身何事も今日ばかりと思うようにしている」と。なかなかにそこまでに至れない徹底した心境である。病気は善知識であるということも理解出来る。益軒の養生訓は常識的で肯けるが、今は曲直瀬道三の「養生するは死を善くせんがためなり」に共感している。

 いずれ死は確実に訪れる。「七〇で迎えが来たら早過ぎると追返せ、八○で迎えが来たら……、九〇で……百まで待てと云う」。語句の使われ方は人によって夫々若干異なっているが広く巷間に伝わっている。長寿は人すべての願望であるがこれは人間の我執のあらわれでもある。いくらじたばた拒否しても死ぬ時が来れば死なねばならぬ。良寛の書簡の「死ぬ時節には死ぬがよく候」と書いた言葉を噛みしめてみる。

 人間は死を自覚出来る動物である。それだけにまた当然死を怖れる。現代人は普通に死後いわゆる地獄極楽が存在するとは考えないだろう。死によってすべて無に帰するとしても「人間死ねばゴミになる」では余りに佗しく無残であろう。霊魂の不滅や死後の世界の存在を信じまた信じたいと思う人もあろう。生は死への過程であることに人生の優さを思う。この年齢になって尚死への覚悟などなにも出来ていない自分を情けないと思う。余生の境涯に入って宗教への傾斜は強くなってゆく。先哲碩学の仏教書をひもとく。だがそれは仏教哲学、仏教思想の知識を与えてくれるものとなっても信仰に結びつくものとならない。

 悟りとは一体何をどのように悟ることなのか。悟りの境地とはどのようなものであるのか、私には理解し難いことである。敢えて推察してみると次のようなことに関係があるように考える。それはまず縁起を正覚すること、これは仏教の空観に結びつくものであろう。ついで輪廻転生からの断絶である。また生死についての解脱といったことである。仮にそのように考えると我々にとっては差当り生死についての覚りが最も身近かな問題である。八万四千の法門は死の一語を説くという(一言芳談抄)。人間存在のぎりぎりの問題は死である。そうして死は余生にとって何より直接的なことであるが、誰しもが必ずしも解決出来ている問題とは云い難い。悟りの境地に入っていると思われていた高僧が癌を告知されて狼狽、意気阻喪して病状を重くしたとかの話が引合いに出されたりする。善知識の生死を超克した言葉にはただ嘆息するばかりであるが、一方でその中に独りよがりのものを感ずることが全くないであろうか。「生き死にも天のままにと平らけく思いいたりしは常の時なりき」という長塚節の言葉に正直な告白をきく思いがする。「昨日は悟り今日は迷いぬ秋の暮」(読人不詳)にこそ本当の姿がある思いがする。

 これまで悟りを窮極的な至高のレベルヘの到達で考えまたそう考えたいと思って来ただけに、常人が修行によって到達出来る境地ではなく望むべくもないことと思っていた。そこに人は他力門でないと救われ難いとの思いがあった。歎異抄を始め親鸞の著作の中の言葉が素直にまた強烈に頭の中にしみこんでくる。釈迦は苦行と禅定を経て悟りに入ったという。そうして仏陀になった。古い経典の中には苦行をたたえる言葉があるが、後の経典には苦行で悟りは開かれない、また悟りを開いた後でも悪魔のささやきがあるということである。正法眼蔵に「仏道は初発心のときも仏道なり成正覚のときも仏道なり」と。仏道を悟りの語と置換えてみる。また「修行の彼岸に到るべしと思うことなかれ、彼岸に修行ある故に……」これも彼岸を悟りと読みかえてみる。そのようにみると悟りは頓悟であっても一回きりで終るものではない。悟りの後にも迷いはつきまとうと考えられる。悟りにも深浅があるわけで「生死に自在を得るとても金色光明を放つでもない、世界の外に走りいづるでもない」(慈雲)とか生涯十八回悟ったとかいう白隠禅師に真実なものをみる思いがする。そのようにみてくると自力門にも一縷の道が開けてくるように思える。要するに低いレベルで悟ったとしてしたり顔となる自己満足をこそ最も戒しむべきことなのであろう。だが機根に乏しい我が身にはとても悟りなど縁なき衆生の如くである。といって他力門に純粋に徹底することも極めてむつかしいことである。いわゆる妙好人が現代社会で誕生し難いように思われるのもそれを示しているのではなかろうか。法然の「往生のためには念仏第一なり、学問すべからず、ただし念仏往生を信ぜん程には学すべし」或いは道元の「学道の人は最も貧するべし」と。同じことなのであろう。なまじ学問が信仰の障害となることへの悲哀である。禁断の実を手にした信薄き者のこの壁を現代の信厚き人はどのように教示されるであろうか。

 「今日既老矣 余生不足言(寒山)」である。死は否応なく来る。とすれば死を学ばねばならぬ。それは結局死を受容することでしかない。しかし死の肯定は生の否定ではない。同時に生を生きることを学ばせてくれるものとなる。よりよく死ぬることはよりよく生きることである。自分の力でこの世に生を享けたものでもなく、自分の意志で死ぬのでもない以上それは神のはからいということになる。それが生死は生死にまかすことなのであろう。凡なる身としては精一杯余生を生きることに努めるしかない。それは死を待つでなく死を厭うでなく、老いを老いとしてありのまま自然にとの思いからである。

 


卒業25周年記念アルバムより