仏教は一切を無と教へてくれた。近代史に於ける世界的大動乱とも云へる第一次世界大戦が終って間もなく、之の世に生を享けた吾々。十二月クラブの面々には、一九九一年に大学卒業五十周年を迎へた。後世の歴史家をして分析する材料に事かかず、又科学者をしてその進歩の如何に早かったかを、過去に照して眺めることの出来る期間ではなかったかと思ふ。この原稿を書いている時に、多国籍軍は遂にイラクに進攻を開始した。再び、ヘロドトスに御登場ねがわねばなるまい。
西暦二〇〇二年、十二月クラブは卒業六十周年記念行事を前年に済ませた。或る日ぼんやり日差しを楽しんでいると、散策係から知らせが来た。晩秋の箱根は木々の色づきが良く、例年にない紅葉が楽しめるとの事。日時を確めるとステッキ片手にやおら立上がる。電車の中には見慣れた爺さんが一人、二人、そして又一人と……。
「七十周年は無理だらうから、記念の大行事は六十周年で終ったね」
「気分はいと盛んだが、何分にも年だからね」
「出られることは目出度いよ。所で『波濤』のお前さんの記事、当っている所があるよ」
「早いもので、書いてから二十年経つね」
「二十一世紀対策委員会など、早過ぎる話と思っていたけれど、来ちまったね。今度は卆寿でも目標とするか」
「先がつまって来たね。ソビエトや中国も市場経済に少しは慣れて来たし、これからどんな具合になるかね」
「何事も方向だよ。誰が決めるでもなく方向が決って来るから不思議だよ」
「母校なんかも良い例だよ」
「方向が決まったね。国も企業も、学校さへも方向を先取りしてこそ、政治であり、経営なのだ」
「特に学校産業と云ふものは、ハイテクなどと違って加工度が低いカテゴリーに入るよ。だから良質の原材料が集らないと良い製品が出来にくい」
「良い原料を集める為には、良い製品が世間に出廻っていることが一番さ。そして製品は量の多い程効果的なのさ」
「総ゆる産業に、ソフトとハードの両面が不可欠で、文と理がオーバーラップすることが大切さ。理が解らないと小説の分野が狭くなったり、又機械分明にも、ファジイが入り込んで来て、女性文化的になって来たりして」
「時代を先取りする様な教育や学問があれば、質の良い学生が自然に集まって来るよ」
「その点商法講習所に始まった母校は、その時代、時代の方向を先取りした学園だったと思ふなあ」
「拡大して行く世界経済の只中に、積極的に入って行って、産業の発展に貢献する所が大きかった」
「全国の商業学校や、高等商業学校の頂点に立ってキャプテン・オブ・インダストリーとしての教育理念と、マーキュリーを頂いた士魂洋才の養成は大学の中の大学としての位置づけを東京商科大学に与へてくれた」
「然し第二次大戦後の新制大学の制度になって、曾ての頂点的性格づけがボンヤリして来た」
「六十年、いや七十年前の時代には、中等教育を受けられる者が、今の大学生の何分の一だったらうか。その時には大学卒は光る。その中でも商大卒は光った。然し今は二人に一人は大卒だよ。従って受け入れ側も大学の名にあまりこだわらない。事実その差が益々縮まる。偏差値とかで一芸が強くても駄目。皆平均点の世の中ともなれば数の大小が問題になる」
「士魂が抜けて商才だけになるか、銭儲けかよ」「制服に角帽をかぶる大学生はもう居ない。学校の記章もつけやせぬ。年頃の子は皆大学生なんだよ。数だよ」
「質はどうかね。相対的に昔と違ふ物差で計る必要がある。後生恐るべしさ」
「幼稚園から、高校生まで、塾と云ふ部外教育が物すごい。塾の広告が街に氾濫して、今を盛りの産業に見える。考へさせられるね」
「でも、ここへ来て教育の哲学的な模索と云へるかどうか、原点に帰って、国家は、世界は、企業は、そして学校はどうある可きか、どう変って行く可きか、と真剣な論議が交はされているのは頼もしいね」
「産業大学への構想は良いと思ふよ。実現するのではないかね。実現させ度いね」
「文と理、そして言語の合体。曾ての商大が過程に於て重視した世界語としての英語に加へて、夫々の国語を重視する姿勢」
「物を造り出すと云ふ姿勢ね。これを失ったら国は亡びるよ」
「産業の発展があってこそ、総ゆる文化や科学の進歩があるのであって、人類の未来に光を与へることが出来る」
「原動力だ。宗教にも変化を与へ、哲学的思想に影響を促す。産業こそユマニテかな」
「工業大学や、外国語大学と一橋大学が一つのゼミナールの中で討論する。考へただけでも素晴らしい」
「三本の矢は折れない。産業大学として三つの大学が一つになることだ」
「産業大学が実現の暁には教授や学生の熱気ある討論こそ、最も期待されることだらうね」
「思ふだにぞくぞくする。卒業生の活躍。又俊秀の集まり」
「産業大学のユニークな所は、産学一致の理念に基いて、基礎学問は勿論だが、今現在、或いは将来に向って、一般、或いは特定の国や企業が欲する重要問題を取り上げ、その産業的な実現を目ざすことにあるよな」
「その為にも、外国人の留学生を積極的に採用する。共に学ぶことによって、その国の宗教、習慣、世界観を知り、合せて言葉も互いに学ぶことが出来る。鬼に金棒。最高だね」
「私費と公費を問はず、旧来、日本への留学生が帰国して日本嫌いになるなんて、之程の無駄はありませんよ」
「全くだ。学問に国境なんかありませんよ。日本人が日本の学校を出ないと日本の学校に進学出来ないなんて、ナンセンスさ。学生の輸入拒否だよ」
「これではいつまでたっても井の中の蛙さ。日本人が国際人になれないわけが解るよ」
「その点で大変な前進を見たね。ユニークな国立大学が出来て。文部省を見直したよ」
「産業大学の卒業生に外国人が沢山居て、日本人の卒業と一所に世界中で活躍する。うれしい事だね」
「いづれ大学の二百周年記念大会があるよね。出席しようよ」
「旅券の手続きも、旅費も、一切無用の天国便で直行するさ」
「小田原だよ。強羅へと乗り継ぐか……」
なんとはな八十路の坂を秋の旅
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