7組  岡本不器男

 

 三月の末から約一ヶ月、シカゴの南方に当たるインデアナ州のブルーミントンにいってきた。娘が一週間留守するのでブルーミントンで孫の世話をしてくれないか、という話が家内にあったのが事の始まりである。パック旅行しかしたことのない家内では心もとないので、僕も一緒に行くことにした。丁度ユナイテッド航空がシカゴ直行便をだすことになり、米国内空路のクーポン券を六枚つけての割引運賃なので、これを利用してボストンにも行く手配をした。

 三月三十一日十九時に成田を立ち、シカゴに十五時半についた。入国審査場は人が一杯であった。最近ビザがなくなったらしく、その代りコンピューターで一人一人チェックするので列が全然進まない。二時間位たった頃隣りの米国人用のゲートが空になったので、家内を列に残してそこにいった。パスポートにビザがあることを示して、何んとかならんかと頼んだところ家内を呼んでこいといってすぐ手続をとってくれたので助かった。三年前米国の西海岸にいった時とったビザが役にたった。審査場をでたところにユナイテッドの人が待っていた。名前をいうとインデアナポリス行の乗客名簿をだしてマークした。B七ゲートだと券にかいて教えてくれたので、迷わなくてすんだと係員に感謝した。歩道の上を教えてくれた色に沿って進んだが、ゆけどもゆけどもマークがつづく。上ったり下ったりしたかと思うと長い平たんなエスカレーターを何回かのりついで、やっとB棟についた。ゲートの番号が二十位迄あった。B七ゲートをみつけたのでやれやれと思った。

 待合場の椅子は半分位人でうまっていた。汗をふいて一休みした。頃合をみて搭乗手続をしたところ、係員は何故こんな所にきたのかという顔をした。驚いたのはこちらの方である。係員は電話をかけて何やら叫んでいる。今迎えがくるのでここで待っていろという。黒人のポーターが車椅子をもってやってきた。家内にのれという。事実家内はもう歩けない位疲れて白い顔をしていたので助かった。C13番だという。東京駅から大手町一丁目迄位の距離を歩いてやっとついた。ポーターにチップを払うのに弗がない。日本の百円銀貨を二枚渡した。相手は目をパチクリさせながら珍らしいものを貰ったという顔をして喜んで受取った。

 今度は大丈夫だと思ったがすぐ搭乗手続をして安心したかったのでカウンターに券をみせた。ところが又しても変更である。C三番という。係員の指先をみると五十米位先の所にあった。シカゴのオヘア空港はききしにまさる広さであった。そのうえ、時差ぼけと手荷物と不案内とで疲れはてた。C三では人影はまばらである。インデアナポリスはインデアナ州の州都である筈なのに、まるで都落ちするような惨めな気持になった。ところがである。なんと日本人の顔をした人が二人いた。こんな田舎だと思っていた処に何の用事でゆくのかとお互いがけげんな顔でチラッと見合っていた。日本を離れてきた今どんな事情があろうがどうだってよいじゃないか、しらん顔して通りすごすのがエチケットかなとも思ったり、或いは韓国人かなと思ったりで会話をしないまま搭乗が始まった。

 DC10が大体乗客でうまった。いつのまにかこんなに人がきたのが不思議に思えた。搭乗まぎわにどこからともなく集ってきたらしい。国内線は出発直前にかけこんでも平気だということがあとでわかった。座席に落ちついてみると二人の日本人の一人は家内の隣り、一人は私の真前の席にいるではないか。お茶がでる頃、家内の日本語的英語を聞いた隣りの娘さんは、大阪弁で堰をきって話しかけてきた。家内は時折り相づちをうってきいている。前の四十才位の紳士は後ろをむいて私にどこに何しに行くのかきいてきた。娘がブルーミントンで先生をしているが仕事で留守をするので子守にゆくのだといった。紳士はインデアナ大学のブルーミントン校で五ヶ月間生物の研究をして帰るがもう三回目だという。

 二十二時にインデアナポリスについた。ヨーコと書いた紙を持って立っていた若い農家風のカップルの所に大阪の娘さんがとんでいってだきあっていた。ペンパルで初対面の風景としては上出来だった。娘夫婦と二才過ぎのまごが車で迎えにきてくれていた。一時間かかり二十三時に娘の家にやっとついた。

 翌日から家内は、早速おさんどんを始めた。僕はスーパーの買出しや、散歩に孫をつれて歩いた。二日もすると家内は腕があがらなくなった。食器類が大きくて重い、なべ類が片手では持ちにくい程重い、戸棚は椅子にのらないと物がとれない、夫婦共かせぎなので一度に大量作っておくらしい。家内の腕や背中をもんで長持するようにした。娘は六日後に主人と孫をおいてチリーにでかけた。サンチェゴで鉱物関係の国際会議の同時通訳をして一週間して帰ってきた。これで僕達の役目は終ったので十四日からボストン見物にでかけた。

 きた時の逆コースでシカゴ迄でて、ボストン行に乗換て三時間位でボストンについた。トレモント・ハウスという十五階建の古い赤煉瓦のホテルに三泊した。翌十五日は偶然にもボストン・マラソンの日であった。市の西部は交通止である。朝北部にあるハーバード大学をみて、十四時半頃市の中心地コープレー広場にいってみた。マラソンのランナーがどんどんゴールにかけこんでいた。人垣でよくみえないが、スピーカーで出発後三時間以内に到着する人全員の名前と国籍を発表していた。色々の国がきこえた中にニッポンといったのでおやっと思った。16時頃雨が降り始め、強くなってきたので地下鉄の入口迄逃げ込んでホテルに帰った。十八時からホテルの一階は混雑してきた。マラソン協会主催のパーティがこのホテルの一階大広間で開催された。二十三時迄にぎやかだった。翌日から地下鉄やトロリーバスを利用してエム・アイ・テーやボストン美術館やコモン・パークを見物した。プルーデンシャル・ビルの五十階の展望台からは東西南北の景観が、好天に恵まれて手にとるように見えた。足許にレッドソックスのスタジアムや古い赤煉瓦のタウン・ハウスの町並や緑の公園が町を囲んで点在する。米国七番目の大都会でありながら、小さな町の雰囲気をもっており、地下鉄を利用すれば大抵の所は歩いてゆける親しみやすい町である。それでか、ボストンには靴屋が多いと感じた。

 十七日ブルーミントンに戻った。五万の人口の半分は大学の人である。この大学は音楽で有名らしい。毎晩どこかで音楽会が催されている。バッハのオペラは音楽部の建物で、モーツアルトのオペラは大学の中央シアターでみた。どれも学生の主演である。モーツアルトのオペラはニューヨークで五月に公演するという。又こんな田舎にどういう訳か、東大の仏文の大先生が一週間の短期講座を夕方六時から開いていた。娘も大学から出席者が少ないのでもりあげて貰いたいといわれ毎回でかけていた。話は面白かったらしい。八月の末東京の青学で仏文の国際比較文学会がこの先生の主宰で開催されるさい、娘の主人は何か発表するといって原稿をタイプしていた。七月の末親子三人が日本にくるので家内がくたびれなければよいがと思っている。

 来年の五月には、パリーでアパートを借りて一緒に住んでみないかと娘がいっている。五月十日位から八月末迄大学は休みになるので、その間パリーで勉強するなら学校から補助金が少しでるらしい。僕は来年四月から青少年向の電話相談員で忙しくなるので都合がつくかどうかわからぬが、それ迄健康で過したいものである。

 昨年から水墨画とてん刻を始めており、全紙や半折に書画と朱印の調和を楽しんでいる。漢詩も自分で作りたいので平仄の漢字を使いこなせるようにしたい。詩吟は健康によいと思い二年続いている。

 余談だが「丸」という雑誌社から、北鮮の清津羅南での対ソ戦が今迄の戦記から抜けおちているので書くようにと依頼があった。羅南師団で対ソ戦を部隊が一丸となって戦ったのは我が歩兵部隊である。東満のソ連との国境にあった琿春の部隊や豆満江の慶源慶興地区にいた野戦部隊ですら部隊単位で正面から戦闘を交えていない。関東軍では戦線を縮小する為転身を命じて兵員の損耗をさけたのかもしれない。しかし我部隊は違う。清津を奇襲したソ軍を阻止して邦人の避難を助けた。逃げて行く市民は自分の力で逃げられたと思っているが、我が部隊がソ軍の戦車の進撃を数日くいとめたからだ。そのために六十九名の英霊があの地に眠っている。当時の市民の方はこの英霊の方々がいた事を知り、慰めてあげてほしい。こういう気持があったので四百字詰で二十八枚かいて記録に残した。六月号で「丸」の別冊として出版されるという。「丸」の人は岡山の部隊長の家に電話したところ御遺族の方が東京の岡本がよく知っているので書いて貰うようにいわれた、といって僕のところにきたという。