5組  重松 輝彦

 

 湾岸戦争を、米国は待ち構えていたという話もあるが、どうもそうではないようだ。むしろ逆に、不意を打たれた状態と想定する。
 しかしその対応は迅速であった。ブッシュ大統領の決断の速さもさることながら、陸海空を問わず、世界中何処へでも、旬日を出でずに展開可能な大部隊の編成を、常時準備していた成果であろう。
 湾岸戦争の結果は、数日の地上戦をもって終ったが、その仕組は、昨年の八月二日以降の十日間程度で大凡決まったものと思われる。

 一、米ソ蜜月

 イラクがクウェートを侵略した頃、私はカリフォルニア州の西南端サン・ディエゴ市の長女の家で、夏を過していた。
 丁度七月三十一日に、ソ連太平洋艦隊に属する駆逐艦二隻と給油船一隻が、親善のために同市を訪れ、米国側から大歓迎を受けた。同艦隊司令官のKhatov提督は、これに答える挨拶の中で、「世の移り変わりは早いものだ。もし一年前に私があなた方から、米国に来ることが出来ると思うか、と聞かれたら、私の答は否定的であったと思う」と述べている。
 四泊五日の碇泊中には、公式行事が相次ぎ、その合間をぬって乗組員の市中見物が行われた。また乗組員個別の希望にも応ずるなど、米国側は、至れり尽くせりの配慮であった。
 若いソ連軍医は言った。「子供の頃は、米国は敵だと教えられた。こうして米国に来ていることが、夢ではないかと思う。私は米国人の生活振りと、外科手術の現場を見せてもらいたい」と。
 兵曹は言った。「資本主義は悪だと言われていた。それが今や善になった。私は町を歩いて、一般の米国人と話をしてみたい」と。
 一般市民も自宅を開放するなど協力を惜しまず、朝野をあげてのウエルカムといったところであった。この米ソ交歓を目の当りにして、私は冷戦の終ったことを実感した。またこの時期であったからこそ、次に述べるクウェート占領に対するイラク制裁措置が、米ソ協力して、即刻、実施出来たものと思う。しかし今にして思えば、この頃が、米ソ蜜月の最高に達した時であり、或いは最後の時であったかも知れない。ソ連提督の言葉通り、世の移り変りは誠に速い。
 このソ連艦隊が、まだ碇泊中に、イラクのクウェート攻略のニュースが飛び込んできて、町の関心は急速に湾岸にシフトしていった。
 この町には、軍港の他にも、近くに海兵隊や空軍基地など、軍関係機関が散在しているから、市民はきな臭さを身近に感じたようだ。

 私はこのイラク軍侵攻のニュースを聞いて、なぜ米国が事前に手を打たなかったのか不思議に思った。既に日本の新聞にも、イラク向けの長距離砲の砲身と思われるものが、ロン.ドン税関で、輸出差し止めになったという記事が載っていた。米国の偵察衛星ならば、イラクの大軍の動きを見逃す筈はない。バスラ市からクウェート市までは平坦な一本道である。この疑問は未だに解消されていない。

 二、ホワイトハウスの動き

 私が後にLos Angeles Times(以下ロス紙という)で読んだ記事によると、七月の半ば以降、米国でも中東でも、情報関係者は、イラク・クウェート国境付近におけるイラク軍部隊の不穏な動きを報告していた。しかしエジプトのムバラク大統領(以下ムバラクという)が、この点を、イラクのフセイン大統領(以下フセインという)に確かめたところ、これは日常の行動であり、不審な点はない、現に部隊は、国境から八○キロも離れた場所にいる、と答えた。また質問に対して、クウェートを侵略する積もりは無いと答えている。以上の事実を、ムバラクは、八月八日に、エジプトの全国放送を通じて明らかにしている。

 このムバラクの例でも分るように、世界のリーダー達は、イラク軍の動きを知り得ても、暫くの間、これを過少評価したのではないか。米国政府は、駐イラク大使にロンドンでの休暇を許可した。ブッシュ大統領(以下ブッシュという)の主な関心事は、議会との予算折衝であった。

 この嵐の前の静けさは、湾岸時間の八月二日夜明け少し前、米国東部標準時間の八月一日午後八時一四分、フセインの戦車によって破られた。

 この第一報を瞬時に受けてから、ホワイトハウスのスタッフはどう対処したか。新聞情報によれば、三人一組の当直者が、攻略が真正のものであることを確認の上、スコウクロフト国家安全保障担当補佐官(以下スコウクロフトという)に連絡した。

 同補佐官は、約二〇分で、ワシントン郊外ベセスダの自宅からホワイトハゥスに到着し、ブッシュに攻撃の事実を報告の上、政府の危機管理チームの会議を開いた。
 この間、ロブソン財務長官代理と法律家のチームが、ホワイトハウスに集り、イラクとクウェートの資産凍結令の案を煉った。
 翌朝ブッシュに情報担当者から提出された報告は次の通り。「フセインのクウェート侵略の目的は、イラクが中東における超大国となり、フセインがOPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries)を支配することである」と。この報告には、「OPECを支配することは世界の工業国の首根っ子を、フセインが押さえ込んでしまうことになる」との警告が付いていた。

 三、湾岸の石油

 ブッシュが最も関心を持った中東石油の実情は次の通り。
 原油埋蔵量においては、一九九〇年一月一日現在、中東は世界全体の六五%を占めている。その中でも、サウジ・アラビヤ(以下サウジと略称する)が、中東の三九%を占める。(第-表参照)
 原油生産量においては、一九九〇年歴年で、中東は世界全体の二六%、サウジは、中東の三三%を占めている。(第2表参照)
 日本の原油輸入量では、中東からものが、一九八九年において、輸入総量の七一%を占めている。(第3表参照)
 このように中東の石油は、日本経済にとっても、世界経済にとっても、死命を制する程の重みを持っている。
 フセインの軍隊は、一九九〇年八月二日には、この中東における原油産出国の一つ、クウェートを、数時間で占領し、自国の分と合計すれぱ、世界原油埋蔵量の一九・四%をその支配下におさめた。その軍隊は、クウェートの狭い国土を南下して、あと一歩でサウジとの国境という地点に達していた。
 おそらく、フセインの重戦車の前には、サウジは敵すべくもなく、数日のうちに占領されたであろうし、サウジの東南に点在する小国群、カタール、UAE、OMANも、日ならず、フセインの軍門に降ったであろう。

 
 
 

 そうなると、実に、原油の世界全体の埋蔵量のうち、五五・五%がフセインの手に握られることになる。このような危険が、昨年の八月二日には目前に迫っていた。

 四、曾遊の地イラク

 湾岸戦争以来、イラクとかバグダッドという地名と場所が、テレビを通じて、茶の間まで飛込んでくる。私は、これらのニュースを見聞きしながら、私が初めて同国の土を踏んだ一九七三年頃の様子を思いおこしていた。
 当時のイラクは、日本から見ると、遠く貧しい国であった。経済人にしても、同国と取引の経験のある人は少なく、多数の日本人は、イラクとイランとの区別すらつかなかった。ただ、チグリス、ユーフラテス両河の流れるメソポタミアの地であるというと、小学校で習った歴史を思い出してくれた。
 私が降りたバグダッド空港の建物は、当時の発展途上国の空港の中でも、狭い質素な印象であった。宿は、バグダッドホテルといって集中冷房を備える唯一のものであった。規模が大きく、ガッチリした英国風の造りで、二階には広い庭園があり、樹木が繁っていた。バビロンの空中庭園を摸したものかと後になって気付いた。英国の勢力が、この国に浸透していた頃は、さぞ見事であったろうと思われたが、如何せん、洗面からは錆が交った赤茶けた水が出るし、壁も所々剥げ落ちたままという状態であった。前夜ベイルートで泊まった米国式の新しい高層ホテルとくらべると、イラクの貧しさを知らされた。しかも泊まり客は、吾々を除いては、数人に過ぎなかった。
 しかし仕事で接触した人々は、やる気満々であった。夏の日の午後、摂氏四〇度を越える酷暑の中を、ネクタイを締め、上衣を持って、汗を拭き拭き職場にやってくる交渉相手の様子を見ていると、一握りのエリートであろうが、このような集団がある限り、この国の将来は捨てたものではないと感じた。部屋は窓に力の弱い冷房が付いているだけで、暑さの中、交渉が行われた。
 彼等は雑談の折に、日本の明治維新以来百年間の急速な発展の理由を知りたがった。これが彼等にとっては驚異であり、何とも羨ましい限りであったようだ。その間に日清・日露の役と大国を相手に戦って勝ち、益々国を強大にしたこと。そして最後には、米英を相手にして、数年間も戦うことが出来た。こんな日本を尊敬するという。私は「結局負けてしまって、国民は塗炭の苦しみを舐めた」というと、「勝敗よりも、列強を相手に、長期に亘って戦ったというその事実が偉い」といっていた。私は過去の日本を見る思いがした。

 この国は所謂警察国家であった。地図が一般に売られていない。言論の統制が厳しく、重大な情報は、口コミでしか伝わらない。写真撮影禁止の場所が多かった。鉄道も、橋も、政府の建物も、軍隊も、港湾設備も、油田も、機内からの撮影も、すべて禁止といった具合で、まるで戦時中の様相であった。
 宗教の戒律には、さしてこだわっている雰囲気ではなかった。早朝、波のように祈りの声が流れてくることは、他の回教国と変わりないが、女性が顔を出して、堂々と街を闊歩しているし、何よりも、酒がホテルでも、レストランでも自由に飲めた。ただ今回の戦争でフセインが、取って付けたように、宗教を持ち出してきたのは戴けない。
 イラクでは一九五八年に、アラブ民族主義運動による革命がおこって、王制を倒すとともに、地主階級や資本家階級を追放して、国が大企業の経営管理を引き受けた。
 革命政権内部の権力闘争と、経済制度の変更に加えて、クルド民族およびイスラエルとの度重なる紛争のため、資源の無駄が多く、仲々貧しさから脱却できない状態であった。
 イラクの富の大半を占める石油にしても、IPC(Iraq Petroleum Company)という英・米・仏・蘭資本の会社が、その二つの子会社とともに、利権を殆ど一手で握っていた。一九七二年にイラク政府はこれの国有化に成功した。
 私がイラクの仕事に関係していたのは四年間であるが、その最初の年の十月に所謂第一回目のオイルショックがあった。これを境にして、従来バーレル当り二米弗弱であった原油価格が、忽ち一〇米弗を超えてしまった。
 イラク政府は、収入の増加を受けて、それまで手がけられなかった各種プロジェクトを一斉に発注した。その結果として、製造された完成品、半製品、原材料が、海外から怒涛の如く入着し始めた。バスラ港の荷揚能力は、日ならずしてパンクし、荷揚を待つ外洋船の列が、シャトル・アル・アラブ川を食み出して、延々とペルシャ湾の沖合遥かに延びていった。
 これは経済官僚の計画性欠如の一例であるが、こういう手違はあったものの、油価暴騰による政府収入増加の効果は覿面(てきめん)で、私は、出張する度に、バグダッドの町が変貌していくのを目撃した。
 ホテルの新築が増えた。役所、公団が綺麗になった。立派な郊外住宅の新築が目立つようになった。
 政府収入が増えると、商売の機会が増える。そこを狙って外国からビジネスマンが売り込みに来る。ホテルの予約が取りにくくなる。それでも、政府や軍から申し込みがあると、客室は、いとも簡単に、そちらに廻されてしまう。独裁政権である発展途上国の通弊が、イラクにも現れてきた。その中枢部でフセインは、病弱といわれたバクル大統領の後釜を狙って、せっせと地歩を固めていた。
 革命後のイラクは、湾岸の王制の国々からは、危険思想の輸出者として極度に警戒されていた。やがて始まった対イラン戦争で、イラクが、湾岸王国の全面的な援助を受けたが、全く中東では何がおこってもおかしくない。合従連衡、遠交近攻、三国志、こういったものが生きている。「昨日の敵は今日の友」に加えて、「昨日の友は今日の敵」になり、その翌日には再びこの関係が逆になる。政治の世界だけに限らない。

 私は、イラクが一九九〇年において、軍事大国の仲間入りをするとは予想していなかった。当時吾々が開発中の油田の片隅に、一個分隊程が常駐し、「明治の大砲」を彷佛させる砲が一門、イランの方角を睨んでいた。もっともクルド族と戦いに行くという戦車の轟音を聞いたことはあるし、ゴラン高原で、イスラエルと戦って、イラクから行った戦車は、一台も帰ってこなかったという噂を聞いたことはあるが……。
 それが数年後の一九八○年には、解体されたとはいっても、旧パーレビ王朝の大軍備を引き継いだイランを相手に、互角に戦える軍事力を有するまでになり、さらに一〇年、戦争を継続しながら装備を増強した。
 このような軍拡を可能にしたのは、第一に各国の兵器売込合戦である。ソ連が行った援助条約に基づく売り込みが大部分であるが、フランスも大統領、首相を先頭に押し立てて、売り込みに動いたといわれていた。
 軍拡を可能にした第二の理由は、湾岸諸王国からの財政援助である。フセインは、後述の通り、国境線の変更のために、イランに進攻したものであるが、湾岸の諸王国に対しては、アラブ全体の防波堤となって、異民族と独り戦っているように印象づけた。そこで軍事力の小さい湾岸諸国は、得意の札びら外交を実践した。
 フセインは、機を見るに敏にして、機を利用するにも敏であるが、これを結実する能力に欠けている、と私は見る。
 イラクは、一九七五年のアルジェ協定では、イランのパーレビ王朝の軍事力の前に押し切られて、シャトル・アル・アラブ川の国境線を、従来イラン岸であったものを、川の中央に押し戻されてしまった。
 これを不満とするフセインが、イラン国内政治の混乱に乗じてイランに進攻した。爾来八年間一進一退を続け、国民に多大の犠牲を強いたが、所期の目的を達成できず、昨年の八月十五日に、イランとの間で結んだ平和条約では、アルジェ協定を確認するに止まった。
 この譲歩を、フセインは国民に対して、クウェート獲得の代償と説明したが、そのクウェート占領も、また八年戦争の成果として築き上げた軍事力も、今回の湾岸戦争の結果、元の木阿弥に帰してしまった。フセイン指揮の下に、両戦役を戦ったイラクの国民は、今何を考えているだろうか。

 五、米軍の展開

 一九九〇年八月三日付のロス紙によると、ペンタゴンは、直ちに、空軍による湾岸一帯の哨戒を強化するとともに、イラク軍がクウェートに越境してから数時間後には、重火器、装備、食糧、燃料など軍需物資を積んだ船が、インド洋のデイエゴ・ガルシア基地を出発した。
 また同日空母Independenceを中心とする戦闘集団が、印度洋から湾岸に向け出動した。これらは、イラクの新たな攻撃を許さないという米国の決意の表明であった。
 以上の迅速な行動に比較すると、陸上基地を必要とする軍事力の展開は、遅々としていた。米国としては、クウェートの奪回よりも、サウジの防衛が焦眉の急と考えたにも拘わらず、そのサウジが、米軍の駐留を渋っていたのが、その理由である。
 吾々の常識としては、今にもフセインの大軍が、自国を併呑してしまうような非常の時に、サウジが、米軍の支援を拒むことなど、ありえないと思うが、それがそうでないのが中東の難しさである。
 このサウジの消極的な姿勢に応じて、米国は、侵攻の始まった八月二日から、米国とサウジ間の諒解がついた八月七日までは、「サウジを基地として使用しない」という前提の下に、遠からずおこるであろうイラク軍のサウジ侵略を、如何にして阻止するかという戦略を検討していた。
 米国の軍事専門家達は、先ず、ペルシャ湾の外側に配置する空母の数を増やす。B52爆撃機、FB111戦闘機を、グァム島からデイエゴ・ガルシャ基地に、F16戦闘機を、ヨーロッパの基地から、ガルシヤ基地またはトルコなど協力国の基地に集めて、そこから湾岸に出撃させ、燃料の不足分はOMANかUAEの沖で補給する。
 このように無理を重ねても、サウジを守って、世界の石油事情の激変を防ぐ狙いと見受けられた。
 ホワイトハウスの発表によれば、八月二日、ブッシュはサウジのファハド王(以下ファハドという)と三〇分許り話合い、次の声明を出した。「両首脳は、今回の侵略が、受け入れ難いものであり、且つこの状態を処理する可能な方策を討議することに同意する」と。
 翌三日ブッシュは「もしイラクが、この戦略的に重要な国に侵攻すれば、米国はあらゆる可能な方法を使って、サウジを援助する積りである」と警告した。

 八月四日現在、イラクは、クウェートに七個師団と二千台の戦車を持ってきていた。これだけでも、サウジを占領するには充分すぎる。この中には、サウジ国境まで八キロの地点に達している部隊もあった。
 それでもペンタゴンは、サウジが、米軍に「来てくれ」と言わない限り、派兵しないことを信条としており、この考え方は、ホワイトハウスも国会も一致していた。
 そこで米軍の首脳部は、ブッシュに対し、もしフセインの侵攻を阻止すべしと考えるのであれぱ、米軍はサウジ国内に至急防衛陣地を確保しなければならないと進講した。同日遅くスコウクロフトは、ワシントン駐在のサウジ大使(国防大臣の息子であり、ファハド王の甥にあたる)と会談し、数時間後に、ブッシュが、ファハドと話し合った。その日のうちにチェイニー米国防長官(以下チェイニーという)がサウジに飛んだ。
 サウジが、米軍を国内に入れることに慎重であり、米軍もまた出来る限り、サウジを説得するべく時間をかけていたが、その理由を纏めて見ると次の通りである。
 サウジ王家の外交姿勢は、軍事力に頼らず、周到な話し合いと札びらに頼っていた。イラン・イラク戦争のときも、サウジは、イランと戦闘機の撃ち合いに巻き込まれたが、それでも、外部の介入は受け付けなかった。

 この方針に加えて、国内の王制に対する支持が盤石とは言えない。一九七九年、スンニー派の狂信者がグランド・モスクを占拠し、また一九八○年にはシーア派の熱狂者が、石油の豊富なハサ地方で暴動をおこしたが、丁度その時期はイスラム原理主義者が増えた時期と一致していた。イスラムとは別に過激な左翼も争乱をおこすから、政府は過去何回となくこれを鎮圧せねばならなかった。
 王が懸念したことは、米国に助けを求めることが、サウジ国民にだけでなく、その他のアラブの人々にも、好意的には受け止められないのではないか、ということであった。またもしこの方法が、「米国に対して諂っている」と受け取られるとなると、それは、王および王族にとって、最悪の場合死を意味するという不安である。多くのアラブは、米国とイスラエルとは一体と見ている。

 米国側としても、サウジ王家と同様、アラブ側からの反応に充分注意を払っている。サウジ王家が、米国が介入した許りに、国民の反感を買って、追放されてしまう事態にでもなれば、事志に反する。
 米国の中東における覇権に対し、ここ一〇年以上に亘り、アラブ諸国において、年中行事のように、抵抗運動が行われてきた。一九八二年、イスラエルがレバノンに侵入した後で、米国を主力とし、英国イタリーを含めた多国籍軍が、国際社会の支持を受けて、ベイルートに展開したにも拘わらず、展開したその年に、米国大使館と海兵隊の兵舎が攻撃され、さらに翌年には、海兵隊員二四一名が犠牲になったような人間爆弾攻撃が行われた。

 八月六日の夜、チェイニーと米中東軍司令官とが、ファハドに、イラク軍の現況を、資料を示しながら説明し、米軍のサウジ国内への駐留を、一刻も早く認めてほしいと懇請した。会議は二時間に及んだが、その終りにファハドは、サウジ国内への米軍の展開を要請した。
 協定の決め手は、高性能戦闘機F15S譲渡の決定にあった。この機種の売買は、一九八四年に、決まりかけたところ、イスラエルの熾烈なロビー活動により、くつがえされたいきさつがあり、サウジとしては、面目上からも実質的にも、どうしても欲しいものであった。これが、ブッシュの決断で成立して、米軍九万のサウジ駐留が決まり、中東石油ひいては世界石油需給の混乱が回避できる可能性が生じた。これが八月七日である。
 サウジ国内の空軍基地は、米軍の設計と仕様に基づいて作られたもので、米空軍の作戦基地として最適である。特にダーランは、世界の有数の規模を持つといわれ、この基地を使うことは、米空軍の念願であった。
 八月七日、ブッシュは、工業社会の石油供給を確保するために、米軍をサウジを主体とする中東地域に派遣する命令を出した。第一陣の四千名が翌日サウジに展開した。
 これで八月一日(米国東部時間)夜遅く、不意打ちを喰った米国政府は、ホワイトハウスも、国務省も、ペンタゴンも、ようやく愁眉を開くことが出来た。

 六、米国の外交

 八月二日、ベイカー国務長官は、シベリヤのイルクーツクで、ソ連のシュワルナゼ外相と会談中であった。会議の合間にクウェート侵略の報を受けて、ベイカーは同外相に「ソ連がイラクに武器の引き渡しを停止する」よう要請した。同外相は、その日のうちに、右要請に沿った措置を決めて発表した。これも米ソ蜜月の表れであろう。
 八月二日、ブッシュは、イラクの行動を非難し、クウェートからの無条件完全撤退を、イラクに要求するとともに、米国とイラクとの貿易を禁止し、イラク及びクウェートの米国内の資産を凍結し、国連のイラク非難決議に賛成した。
 八月三日には、ソ連とともに、イラクに対する全面的な武器取引禁止を世界に向けて呼びかけた。貿易禁止の焦点は、トルコとサウジを経由して、夫々地中海と紅海のターミナルに到るイラク原油のパイプラインを、夫々の経由国に止めてもらうことである。
 八月六日には、ブッシュのロビー活動その他が功を奏して、国連で、イラクに対する包括的なエンバーゴーが採決された。これに基づき、トルコは、前記のパイプラインを即日ストップした。
 ブッシュは、アラブ連盟に働きかけていたが、これも、エジプトが、八月十一日に、数千名の部隊をサウジに派遣して、多国籍軍とともにイラクに対して戦う旨を、ムバラクが発表した。シリアとモロッコがこれに続き、ブッシュの目論見通りのイラク包囲網が完成に近づいていった。

 ペルシャ湾岸は、一野心家の判断の誤りから、世界の列強が右往左往する大事件の舞台となった。湾岸の原油に依存するところが大きい日本にとって、今回の戦争は頂門の一針である。政府は金さえ払えば、原油は何処からでも買えると考えないで、湾岸の平和を維持するよう最善の努力をして戴きたい。
 日本の学識経験者と称される人の殆どが、テレビのお蔭で、国民の前に、その無知無能を露呈した。これは日本のためには、むしろ幸いであったと思う。イラクを例にとって言わせてもらえば、私が仕事に従事した頃は、日本では外務省と東京銀行を除いては、殆ど情報の蓄積がなかった。これに反し、米国では地方の大学でも、立派な研究が行われていた。日米両国の隔差に驚いたことを覚えている。あれから二〇年近く経ったが、日本の学識者先生方の進歩は遅々たるものと思われる。もうこの辺で一億総評論家時代は終りにして戴きたい。