4組  執行 一平

 

 四年ほど前の『十二月クラブ通信』に、同じ題名で今の私の仕事について紹介しましたが、これは六十歳からの私の生きざまの抄録として、後年子や孫たちの目につきやすい形で残して置きたいと思い、この記念文集刊行の機会に多少手を加えて書き改めました。前稿と重複する部分も少なくありませんが、どうかご勘弁願います。

 私は同期生の中では最年少者の一人で、ことし"やっと".七十一歳になりました。長年勤めた三井物産を退職したあと、学校の教職に転じ、すでにこの道十一年目になります。学校というのは、東京新宿にある短大レベルニ年制の外国語専門学校で、初めは学生数が数百名の英会話スクールでしたが、その後私の提唱で創設した「ビジネス・コース」をはじめ、各種の実務コースや外国人留学生のための日本語コースが設けられて、今では男女学生合わせて四〇〇〇名近くに増え、この種の学校の中では有名校に数えられるまでに成長しました。日本の学校とはいえ、教育の責任者はアメリカ人で、アメリカ式の教育システムが多分に取り入れられ、教員も総数二〇〇名のうち約三分の二が米英人を主体とするネーティヴ・スピーカー、教員室はさながら日本の中の"外人コロニー"といった雰囲気です。

 こうした中で、私のほか日本人の年輩教師数名が、「ビジネス英語」「貿易実務」「国際経済事情」など一連の実務講座や教養講座をクラス別に分担していますが、その中の一人は我々と同期の平岡浩君(七組、休学のため昭一七卒業)で、同君とは十一年前にこの学校で初めて知り合い、爾来ずっと一緒に働いています。七年前には大串隆作君(三組)の紹介で同学の佐々木太郎君(昭一七)を招き、四年間ほど机を並べましたが、そのあとは同君の絵仲間でやはり同学の渡辺弘己君(昭二四、元丸紅、日本力ーリット勤務)に受け継いでもらっています。私自身は"言い出しっぺ"でビジネス・コースの主任をつとめ、本来の講義のほかに、コースの運営・管理や関係教師の指導・調整など、一般教員以上の仕事まで背負い込んで、今や学校教育のプロになり変わりました。

 一方、学生たちから私への反響は年齢差にもかかわらず上々で、自ら言うのも大人気ないですが、毎年一部のクラスで行われる教師の人気投票ではいつもトップクラス、バレンタインデーの"もらい"も人一倍、卒業式の日などにはサイン攻めや記念スナップに引っ張り凧といったモテっぷりです。この高年パワーには、若手や外人教師連中も目を丸くしています。私は人一倍声が大きいことと、学生のマナーにうるさいことで定評があり、受講中に私語するなどの学生は、大声一喝、軍隊調のきびしい語勢で叱りつけますが、大半の〃まじめな"学生にはこれがけっこう歓迎されているようです。また、時々は思いっきりくだけて、学生の爆笑を買う冗談を飛ばしたり、短い講義時間を割いて、時事漫談や学生・軍隊・会社時代のミニ体験談など、面白い話も聞かせたりしますので、ここら辺りで私の点数がグーンと上がっているようです。「先生の授業が一番よかった」などと毎年多くの学生が言ってくれますが、この硬軟両様の授業運びが"人気の秘密"といったところでしょうか。

 こんな具合で、私は今の教師生活を大いにエンジョイしていますが、どうやら私には性格的にも教職が一番向いているように思えてきました。ちなみに、わが家の先祖は代々旧佐賀藩士で、古くは藩主の子弟の教育掛りをつとめた先祖もいますし、私の祖父や曽祖父は藩校で教鞭をとっていましたから、私もその血を継いでいるのかも知れません。それはともかく、今の私は、学生時代や会社時代に蓄えた知識や経験を自分一人の"宝の持ち腐れ"にすることなく、それらを正規の講義や余談の形で学校教育の場に生かし、これから世に出る若者たちのために役立たせ得る職場に恵まれたことを無上の喜びとしています。日進月歩の世にあって、とりわけ若者たちに教えるには、新しい知識や〃ナウな"センスの吸収も欠かすことができませんので、毎日々々が私自身の勉強の連続でもあります。あと何年やれるか分かりませんが、私の体力と学生の人気の続く限り、もう一ふんばりしようかと思っています。

 おわりに、十二月クラブ会員、準会員諸兄姉のご長寿と物故会員諸霊位のご冥福をお祈りすると共に、本文集編集委員諸氏のお骨折りに心からの謝意を表します。