7組  篠原康次郎

 

 縁というものは、まことに不思議なものだとつくづく思う。福岡の出身である私は、いずれは福岡へ帰るか、そうでなくても東京に住むようになるのかなと思っていた。それが広島に住みついてから早や二十数年にもなり、結局、骨を埋める土地になったかと思うと、感慨ひとしおなるものを覚える。

 私は、学校卒業後、日本銀行に入ったが、軍隊から復員して最初の勤務地が広島支店であった。昭和二十年の十月末のことである。
 七十五年間、草木も生えぬところだということで、周囲の者から「体には十分注意するように」とさんざん脅されて赴任した。しかし広島に着いて、駅前の道ばたに、ふと小さな緑の草の芽が目につき、何はともあれほっとしたことが、深く印象に残っている。
 支店の建物は、堅牢であったため倒壊を免れたが、周辺の建造物は、ほとんど壊滅状態で、まさにすさまじい廃虚の中での勤務であった。

 一年足らずで離任してから二十年、この間全く広島を訪れる機会がなかったが、はからずも二度目は、支店長として勤務することになった。見事に復興していた広島の姿に、目を見張る思いで、三年間があっという間に過ぎ去った。
 当時、広島相互銀行の社長は、かなり高齢であって、後継者も決っており、いずれはバトンタッチということになっていた。ところが、私の在任中に、この予定されていた後継者が、思いがけずも急逝された。そこで、あとを是非やって欲しいと、すでに本店に転勤していた私に要請があったわけである。
 当初、私は広島出身でないのを理由にご辞退していたが、次第にそうもいかなくなり、結局入行することとなった。昭和四十四年十一月である。
 私の広島勤務がなかったならば、また後継者の人が健在であったならば、この話はおよそありえなかったと思う。今やすっかり、広島人になったつもりであるが、銀行の内外ともに、どうやらそういう見方をされるようになってきたのも、時の流れのせいであろうか。
 そして、一昨年(平成元年)二月、普通銀行に転換して、行名も広島総合銀行となり、越えて昨年二月には、私は頭取を退いて会長に就任した。普通銀行への転換という大きな課題があったりして、ついつい在任期間が延びてしまっただけに、とりわけほっとした感じがしていることは否めない。

 ところで、長らくこういう仕事をしていると、本業のほかに、いろいろと地元の世話役的なことも増えてくる。これも、地域社会へのご恩返しというか、奉仕として、できる限りお引受けすべきではなかろうかと思っている。
 その中で、今年の大きな課題として、やり通したいと考えているのが二つ程ある。
 一つは、地元で育ってきた、広島交響楽団のウィーン公演の件である。広島でも国際化が進展しているが、国際平和文化都市として二国間交流が盛んになり、一昨年四月にはオーストリアとの友好関係を深めるため、広島オーストリア協会が設立され、私がその会長を仰せつかることになった。
 広島とオーストリアの関係は、オーストリアが中立国で国際連合の機関もあることと、広島市が世界最初の被爆都市として平和のメッカであることで、いわばお互い共通の課題をかかえているということであろうか。そこで、昨年五月、ウィーンを公式訪問した際、先方の文部大臣から、今年の十月に同地で開催される国連デーのオープニングセレモニーの公式行事の中で、「広島交響楽団に平和の使節として演奏してもらえたらどんなにか素晴らしいだろう」との提言があったのである。これを受けて、広島でも是非その意向に答えるべきだとの雰囲気が盛り上がり、その具体化を推進することとなった。
 その実現には、かなりの費用を必要とするが、これも広島県や広島市、それに地元経済界、一般市民の力強い協力がえられることとなっている。何といっても、音楽の都ウィーンの檜舞台での演奏である。
 国際平和文化都市広島を、世界にアピールできる絶好の機会であり、また広島交響楽団の今後における飛躍的発展への強い励みにも必ずなるだろうし、是非成功させなければならないと考えている。
 次の課題は、平成六年に広島で開催されるアジア競技大会に向けて、「心の豊かなまちづくり」運動を展開することである。

 先般、北京で開催された大会を引継ぐことになるわげであるが、一国の首都でなく、地方都市で開催されるのは初めてのことであるだけに、地元では全力を挙げてその準備に万全を期している。
 競技施設の建設、宿泊設備や交通手段などの整備が大切なことは、いうまでもないが、一方内外から訪れる多数の人々に対する、いわばソフト面の対応も極めて重要であるといわねばならない。つまり、広島は明るく、美しい、そして親切でさわやかな都市であるとの好印象をもってもらえるようにすることである。

 実は、ここ十数年、「小さな親切」運動の広島県本部代表をお引受けしている。「小さな親切」運動というのは、昭和三+年に、当時の東京大学、茅誠司学長の提唱で始められた。わが国は物質的には大変豊かになったが、心の豊かさはそれに伴っていない、明るく住み易い世の中を作るために、しようと思えば誰にでも出来る親切をしよう、それが世間の習慣になるようにとの趣旨で、その運動は全国的に展開されている。私どもはこの趣旨を踏まえ、アジア競技大会を目指し、「心の豊かなまちづくり」運動を市民の間に拡げて、広島を明るく親切な街にしよう、さすがに国際平和文化都市だと、高く評価されるような街づくりをしようと、呼びかけているわけである。これも多くの市民のかたがたのご支援ご協力をえられるものと期待をしている。

 さて、「人生七十古来稀なり」といわれるが、この頃では、七十才を越えたからといっても、珍しいことでもなくなった。しかし七十才を越えてみると、残り少ない人生という実感がひしひしとして迫るとともに、自分が歩いてきた人生というのは、一体何であったのかという反省の想いに、駆られることしばしばである。だが、まずまず健康で、今日を迎えられるということは、何としても幸せであり、深く感謝しなければならないと思う。

 顧れば、私は、とくに幼少の頃は体が弱かったし、長ずるに及んでも、何か人に示せるような、これといったようなものの持ち合わせもない。およそ平凡な人生であったと思うが、ただ与えられた環境に対しては、誠意をもって精一杯微力を尽くしてきたつもりではある。いずれにしても、永遠の時の流れ、果てしない空間、その中にある極めて小さな人間の生涯である。
 ある人がこういうことを言っていた。「私は頼んで生れた覚えがない。生命が与えられて生かされとるわけです。生命をどうこうするというのは向こうの仕事でね。死ぬ心配をしてるってのは馬鹿なことだと気付いた。そんなことは、私の知ったことじゃなくて、生命に従って生きることが、私の本職だとわかった」と。人も所詮は大自然の中で、自然の摂理に従って生きている。というよりも、生かされているといった方が適切であろう。

 ところで人間は、一人で生きていけるものではない。多くの人々の力がなければ、人は生きていけないはずである。従って人生の中で、最も大切なのは、人間と人間との関係ということがいえよう。
 それについての基本は、相手の立場に立って物事を考えられる心というのか、つまり「思いやり」であるといわねばなるまい。孔子の「己の欲せざるところを人に施することなかれ」の恕の精神である。
 他人に対する思いやりの心をもつことは、自分自身にも心のゆとりをもたらし、それは生きる喜び、生かされている喜びにつながり、幸せな社会を築く基盤になろう。
 とりとめのないことを書き記してきたが、ともかく残された人生の一日一日を大切にして、私なりに少しでも有意義に過していきたいものだと思っている。