6組 鈴木 栄喜 |
はじめに 定退して自適生活に入ってから、既に一〇年以上が経過した。通勤する必要がなくなると、一日二十四時間が自分自身を中心とした生活になって来る。 一日中テレビを見ている訳にもゆかず、その時間を消化せねばならないことになる。人それぞれによって、時間のすごし方が異る訳だが、若し消化し切れない時間をもて余して、茫然とした状態が長く続いたり頻度が増して来ると、老化を早めたり呆けたりすることになるのだろう。 多趣味の人は呆けないとよく云われるが、趣味も人によって色々ある。 暇つぶしに、会員名簿趣味欄からその順位人数を集計してみると、 私は、ゴルフでアンデュレーションを上り下りすると足がつってショット出来なくなりプレーを中断して、パートナーに迷惑をかけることが再三続いたので、それ迄三十年近く続けて来たゴルフをやめ、新品同様のクラブやバッグを人に与えて、専ら会員権の値上りだけを楽しみにしている。 従って、ゴルフが出来なくなった穴埋めに、半世紀近く続けて来た麻雀に趣味時間が加算されることになった。幸いにも、家内も特訓した甲斐もあってかなりの打手になり、寧ろ私よりも家内の方がのめり込んで、夫婦仲好く一緒に楽しめるようになった。週に何回か葉山の三菱商事OB夫妻と囲んだり、月に四、五回大船迄出かけて商事OBと旧交を暖めたり、月に各々一回有志を誘って箱根にドライブがてら(私は乗る身分、専ら家内が運転)、二泊三日の麻雀宿泊旅行に出かけたりで、嘗て経験した時とは別の雰囲気で、麻雀をエンジョイしている昨今である。 いつから麻雀を始めたかはさだかでない。 麻雀に本格的に取組んだのは軍隊時代からである。経理学校を出て、軍馬補充部高鍋支部の主計将校として終戦迄勤務したが、明治三十年代に開設された該支部の主計どんは謂わば街の名士であった。 その様なことが度重なると、流石部隊長も気付いたらしいが、大目にみてくれた。 戦後、二十年十月末復員したが、虚脱状態にあっては流石囲む気にもなれず、その機会もなかった。日本郵船を飛び出して、郵船・物産の若者達が集って作った炭砿労務者用住宅(炭住)関連会社に勤め始めた頃から、そのチャンスが到来した。当時の石炭は、黒いダイヤとして重点産業に指定され、復興金融公庫(復金)から前金が流れ込んで来たので資金は潤沢だった。相手は殆ど全部が炭砿会社で、その受註競争の為、毎日接待に明け暮れた。 接待は銀座のバーと麻雀が主であった。 その頃、最も印象深かったのは、N鉱業の那須さんであった。同氏は、東大教授那須農学博士の令息で、麻雀のベテランと云うよりも寧ろ手品師のようなもので、盲牌・ツミコミはお手のものであった。先ず盲牌だが、三、四枚廻った処で、牌を全部伏せて了い、ツモ牌は盲牌で見ることなく、捨牌は伏せた牌から一枚抜き出して棄て、やおら立直(リーチ)をかけ、栄和(ロンホウ)すると初めて伏せた牌をあけるという仕儀である。 確か西家であった那須さんは、思いがけずに北家に地和(チイホウ・役満)を打込んで了った。然し、彼は少しも動ずることなく、自分が荘家(親)になった時、後を振向いて観戦していた私に小声で「よく見ていなさいよ」と云い乍ら、白発中を順番にツモって来て、アッというまに大三元(役満)をツモ上りする始末。あとで、二人で話した時、「ツミ込みは自由自在だから、浮こうと思ったらいつでも浮ける。だから麻雀をやっても余り面白くない。それ故麻雀を本当に楽しむなら、此の様なインチキに手を染めることのないように……」と、うそぶかれるのには唖然としたが、爾後ツミコミなどという邪道には一切心に留めないようになったのは、良い教訓であった。 三年位して炭住景気も下火になった頃、昭和二十五年明和産業に移った。移った当初、パチンコに凝ったことがある。あのジャラジャラという快音に魅せられて、はじく指の感触は何ともいえないものがあった。終電間際まで、新橋駅界隈のパチンコ屋を廻り打ちした。然し、それは懐中なにがしかの余裕があったからで、大低の場合スッカラカンになるのがオチであった。麻雀の場合勝ち負けはあるが、パチンコの場合タマが無くなる迄快音を楽しむのだから、財布が空っぼになるのは自明の理である。迚もパチプロになる資格はなく、どぶに金を棄てるようなものだ。それ以後、パチンコからは手を洗った。 それと同じように、私は競馬の馬券を買ったことはないし、宝籤に関心を持ったこともない。競馬新聞などは迚も読む気になれず、なにがしかの小金でウンプテンプを信じて夢を買う気持ちにはなれないからである。麻雀なら負けても自分で納得出来るし、仮令負けても自分の小遣が少くなる程度で済むからである。 閑話休題。当時の明和産業は虎の門にあり、そのビル裏に恰好の麻雀屋があった。おかみは徹夜にも快く応じてくれたし、看板娘もいた(その娘は、明和の雀狂社員と結婚し、現在同社常務夫人の由)。麻雀の腕前に磨きがかかって来たのはそれからである。時には、一週間連続で終電車の時もあり、時にはその間に徹夜がはさまれる、亦徹夜してもその翌日終電のこともある。それでうまくならなかったら、労多くして実りの少い話になって了っただろう。その頃、私の仇名は"オニ"になった。私の面相も関連のあってのことだろうが(そうではない証として"雀鬼"なる印鑑まで作ったのだが)、オニと連呼されても有難く受けて今日に到っている。 私が日本麻雀連盟(後註)に関係して来たのは、昭和二十七年頃である。連盟理事長の手塚晴雄先輩(昭六学)の肝入りで、学士会対如水会の対抗麻雀が行われ、学士会には負けたものゝ私は個人優勝した。その成績で連盟から三段を授与され、連盟に加入、評議員として段位推薦権も与えられた。(以後段位推薦した者約一五〇名) (註) 日本麻雀連盟は、菊地寛により昭和初期麻雀の普及・懇親を目的に創設され、爾後久米正雄・佐々木茂策(文芸春秋関係)に引継がれ、其後新日鉄会長に受け継がれている。稲山さんは百数十の名誉職を兼ねたが、総裁職は連盟だけなのでその職名を喜んでいた由。 連盟道場にも屡々通った。当時最高段位にあって麻雀の神様と云われた川崎備寛八段と二〜三回手合せしたことがある。同氏は、中小企業の社長をしていたが、朝出勤前に一荘、退社後一荘と一日に二回麻雀をエンジョイしていた御仁である。 或る時「全然理牌(リイパイ)しない人がいるが、それではバラバラの牌のつながりに余計な神経を使うことになる。如何に上るべきかに精神集中すべきで、理牌は励行した方がよい」と云われ、以後その教訓を忠実に守ることにしている。 ここで、当時の社員で雀狂の珍談をご披露したい。彼は中学四修東大出身の秀才である。その彼が麻雀になると、それに熱中して目がすわって了い、夜半おそく夜食のおむすびが出ると、牌ばかり見ていて、灰皿に手を突込んでおむすびのつもりで煙草の吸がらをむしゃむしゃと噛んで平然としていたり、或る時、白発をポンして大三元の聴牌(テンパイ)をしていた処、対面(トイメン)のからかい師が、ポンカスの白をこれ見よがしに"これかッ!"と云って出すと、それにつられてテッキリ中だと思い込んで"それだ!"と牌を倒して錯和(チョンボ)の罰金を払わされることもあった。そんな彼だから、殆ど勝つことがなく、精算出来なくて、真冬だというのに一張羅のオーバーを力夕にとってくれと懇願する始末であった。 如何に麻雀にのめり込んでも、総務の業務をサボったことはない。徹夜しても、その翌日、朝九時前には出勤簿を前にして、出勤管理を厳重にした。当時は、ボーナス査定に遅刻分も減額調整したので、減額分よりもタクシー代の方が安いからとて、タクシーで息せき切って駆けつける者もいたが、定刻が過ぎると遅刻印が押され、出勤簿を引上げてあるので否応はなかった(心をオニにした訳である)。 三菱商事に移った二年間は、麻雀どころではなく、社風を吸収するのに精一杯であった。転籍二年後、社内に施設部(油槽所建設管理業務)が新発足するに際し、建設業務を担当することとなった。それからは、業務の都合上、業者との付き合が多くなり、ゴルフ・麻雀のチャンスが増え、麻雀にも一層磨きがかかることになった。 昭和四十五年の春先きであった。日本麻雀連盟手塚理事長の推薦で、"週間文春"記者の取材訪問を受けた。丸ビル内の喫茶店で取材に応じたが、記者氏も相当の打手であったらしい。 そして、最後のしめくくりもふるっていた。 それから暫くして、週刊誌"週刊大衆"主催の麻雀名人位決定十番勝負が行われた。 (註一) 戦いは十番勝負で(一人ヌケ待ち)、各家の後には記録係がひかえ、ツモった牌・捨てた牌を克明に速記し、あとでトレース出来る仕組みであった(インチキは出来ない)。 @若し、鈴木氏がチーしなかったら、流れた牌で、メンタンピンドラ1の手をツモ上りした。 十番勝負でも、一人ヌケ待ちするから、一人八荘勝負することになる。私は、最終持点二万点を割ることはなかったが、トップになったのは二回にすぎない。それにひきかえ、青山氏はハコテンに近い回が二回あったが、トップを五回確保した。 十番勝負の結果は@青山、A鈴木、B村石、C阿佐田、D小島の順で、残念乍ら、私は準優勝のトロフィ獲得に止まった。 全局終了後、別席が設けられ、戦いのあとの回顧、検討が行われた。席上、私に対しては、 彼は、その著書の序文の中で、歴戦の心境を次の如く書いている。 準優勝トロフィは貰ったものの、東京駅迄タクシーで来て、ほろ酔気分でタクシーを降りた処で、トロフィをタクシー内に置き忘れて了ったことに気がついた時は後の祭、到頭その儘となって了ったことは、かえすがえすも残念なことだった。 それから間もなく、「週間現代」の勝抜戦に出たことがある。 萩本氏は、芸能界の出身であるだけに(芸能界は暇人が多く、又賭けも大きいから、ベテランが多い由)、殆どポン・チイすることなく、手なりに面前清一(メンチン)を指向するタイプであった(順位は三位)。 週刊誌に名前が出るようになってから、或る時三菱商事の役員会の雑談で、藤野社長から「我が社に麻雀No.1が居るそうではないか」との話が出たと、同席していたY専務から聞かされ、それ以後週刊誌の記者取材には一切応じないことにした。 藤野氏も仲々の打手で(六段)、麻雀についてのエピソードの多い御仁であった。若手社員とやるのは、「中小企業をいじめるのは可哀相だ」と云ってやらなかったらしいが、相手になるのは高額所得者で、K前取締役から直接聞いた話にこんなのがある。 「K君のそんな打ち方では、迚も常務にはなれないなあー」 そのK氏に、私が手合せを挑戦すると、ニャリと笑って、「泥棒みたいな者とやれるか」と、軽くいなされた。 昭和四十九年、千葉県市原市に新設された産業廃棄物蒸溜会社に出向、六年間のチョンガー生活を余儀なくされた。3LDKのマンションに一人住いとなったので、退社後毎晩卓を囲む為の社員の溜り場になった。 @ポン・チーしたり、ヤミテンで上った場合、上り牌と同じ牌が、裏ドラ(そのもの)にあると一枚につき千円の罰金をとられる。 千円札束をポケットに入れ、すぐリーチを振込めば千円払、ツモれば各家より千円ずつ貰えるが、裏ドラ罰金も現金払いとなる。 私は、レートの高い麻雀をやる時は、いつもパーソナル・チェックを持参することにしていた。銀行支店長に頼んで、当座貸越契約を結んでいたので、その時は限度内の小切手払いで済んだ。 昭和五十五年、会社をやめて、逗子の自宅に帰り、やっと家庭麻雀をやれるようになって、私の麻雀人生も修羅場から解放され、嘗ての"オニ"が"ホトケ"のようになって(嘗てのように勝てなくなった意味も含めて)、今日に至っている次第である。 おわりに 麻雀の趣味の外に、半世紀以上も続いているものに、読書と写真がある。 写真も、小学校五年生の頃から始めて、連綿と続いて居り、原板・フィルムもその頃からのものが保存され、亦アルバムも現在たまって一二七冊に達している。 最後に、半世紀に亘って続けて来た麻雀について、感じたことをしめくくりとして述べてみたい。 @麻雀に必勝法なるものはない(後註)。現行ルールによる麻雀は運七分技三分である。日本麻雀連盟ルール(アール・シイ・アール麻雀)でも運三分技七分である。いづれにしても運(ツキ)の要素に、多分に左右されるゲームである。いかなるベテランでも勝率八割以上を確保することは不可能に近い。六割以上を保てれば、上の部に入るだろう。二、三荘の短期戦では、時には初心者でもベテランに勝つこともあるが、連荘長期戦ではそうはゆかない。 (註) 十二月クラブ会報六十四号(四十五周年記念特集号)に「麻雀必勝法教えます」なる記事を書いたが、それはオコガマシイ表現で多勝法と解釈して頂きたい。 A麻雀は組合せ(註)と確率をベースとしたゲームであるが、組合せは一枚でも多くの結びつきを求めて取捨選択すべきで、よくつながりの少い牌を抱え込んで、チャンスの多い牌を早く棄てて、棄てた牌で上っているケースを見かけするが、それが度重なるようでは勝目は殆どない。確率は、数学上のそれに加えて、打牌上の裏をかく意味で、時には意表外の地獄待ちも必要である。それは、残りの山にあったら確率○であるが、安全牌の積りで温存されていたら、出る確率九〇%の、謂わば一か八の賭けである。 (註) 配牌の組合せは、コンピューター計算によると、百二億一千二百五十三万三千七百六十とおりある由なので、一生のうち同じ配牌が二度くることは、先ず皆無と云ってよいだろう。百三十六枚の牌の内、最後の十四枚は王城牌として残され、又他家の配牌が十三枚ずつ持たれるので、残る七十枚の牌を模打して勝敗を争うことになる。七十を四で割ると一人一七・五四の牌が、模打によって組合せのゲームが行われる訳である。ちなみに、天谷君が提唱する牌の排列法で、捨牌を六枚ずつ三段に並べると(最近卓が小型化して三段並べの方が場所をとらない利点もあるが)、初めの一列目は序盤、二列目は中盤、最後の三列目は終盤となり、夫々の段階で対処の判断を工夫することは、理にかなった排列法と云えよう。 B麻雀は千変万化のゲームである。従って、配牌がいかによくても、ツモの変化に応じて手作りしないと、うまい手は打てない。よく形に凝る人を見かけるが、ツモの変化を無視して形に固執して突張る人は、反って大怪我をする。「牌運には逆らうな」と云われる所以である。純チャン・三色などの手は、偶々ツモの変化で、手成りに出来上るケースが多く、無理して作り上げようとしても、それだけ手がおくれ、上りのチャンスを失うことになる。然し、その逆で、三色気配のことに気がつかず、あと一枚つながれば三色になるのにその牌を棄て、捨牌で三色をツモ上りする結果になり、安上りに得々としている人を見かけることもある。 C現今行われている半荘戦では、上り栄和(ロンホウ)のチャンスは平均二回となる。配牌・ツキ具合・手作りの遅速といった要素が加わるので、皆が平均回数だけ上れるとは限らない。又放銃(ホウチュン・フリコミ)なしで、半荘を回すのも難しい。どんなベテランでも一回位の放銃はあるものである。仮りに、半荘に二回上ると共に放銃がなければ原点近くを保持出来るし、三回栄和して小さい放銃で済めば、トップ又は二位を確保出来るだろう。時には大きな手で上るに拘わらず、終局したらマイナスの人を見かける。「柳の下にいつもどじょう」の欲張心理に駆られて、上りの得点以上に失点を重ねて了うからで、得点保持テクニックが未熟だからである。亦、栄和回数には内容が伴わねばならない処がミソであり、より高い手作りを心掛けるのが麻雀の醍醐味であり、「二回栄和にマイナスなし」という金言の意味もそこにある。 D河に棄てられた牌の状況をよく見極めるのが大切で、それによって、上りを多くし、又少なくする。よく初心者で、双磁(シャンポン)のリーチをかけて、河の捨牌状況をよく見ると、片方が出尽くしているのが判って慌てることがあるが、こんなことでは勝てる麻雀は望むべくもない。前記名人戦で、読みの深さで定評のある阿佐田氏と手合せした時のことである。彼は、八回の内二回放銃なしの回があった程ガードがかたく、記録を辿った観戦記者によると、或る回中盤で、ドラ頭・手の内三色同順・メンタンピン(出上り満貫)の聴牌をしていたが、一万を持ってきて、スンナリと降りて了った。その時対面は、字牌を二枚捨てていたが、東待ちの国士無双を聴牌していたのである。その牌ズバリの降りではなかったが、放銃の危険回避に徹した打ち方と云えよう。そんな彼でも、最終順位は四位であったのだから、麻雀がいかにツキの要素が大きいかが察せられる。 Eプロ雀士のテクニック上の金言で、参考になるものを挙げると ○混一(ホンイチ)はお子様ランチである。 思いつく儘書き下ろして来たが、未だ書き足りない思いはあるものの、此の辺で筆を擱く。麻雀人生亦楽しからず哉。「たかが麻雀、されど麻雀」ではあるまいか。 |