7組 吉林登喜雄 |
一九九〇年度の海外旅行者は一〇〇〇万人になんなんとする状況である。最近の円高に裏打ちされた旅行熱は益々高まるばかりである。それぞれの人々も旅行中の思いではさまざまでありましょう。私の最初の海外旅行は一九六四年丁度東京オリンピックの開催の時であり、又この旅行中思いがけないハプニングの連続で特に思い出深いものがある。目的は国連主催の国際鉛亜鉛世界会議スペイン大会出席の為であった。この大会は毎年国を替え開催され、来年はぜひ東京開催を実現しようと政府も大いに張切り業界にも多数参加の働きかけがあった。 この会議は国連主催であるので代表は政府で、我々業界はオブザーバーの立場で参加し、私はその一員として出席したのである。当時としては業界ぐるみで海外に出掛ける事は未だ稀であり出発に先立ち羽田空港出発ロビーで盛大な壮行会を行ってもらい勇躍KLM機で出発した。 マドリッドのコンベンションホールで世界二十五ヶ国の関係者が一堂に会し十日間の日程で会議が始まった。会議は各国代表による意見の発表に初まり淡々と進んで行った。最終段階に入り日本代表による発表と、一九六五年度東京大会開催をぜひ決定して貰い度旨発言し万場一致可決、明日からは市内見物と云う事で全日程終了のはこびに相成ったのである。会議中何時も隣りに席していた鉱業協会(鉱山会社の団体)の専務理事がようやく終りましたね、お疲れさまでした、カフェテリヤでコーヒーでも、と二人で議場を後にした。コーヒーを飲みながら色々と雑談に耽っていた。突然彼は立ちあがり、トイレに行った。暫らくしてガヤガヤと皆が集って来た。少々早いが今日はホテルに戻ってゆっくり休養しよう。ところで専務は何処へ行った。私は彼がトイレに行っている事を話し少し待って下さいと云いながらトイレにさがしに向った。トイレは静かで人影はない、はて別のトイレかなと附近をさがしたが何処にもいない、変だなと思いながら様子を伺っていた。するとかすかに内からうめき声が聞える。この中にいるに違いないとノックをした。何の応答もない。いそいで皆が居る処へ戻り、ボーイに頼んで扉をこじ開けてもらった。 一瞬眼をみはる状態で一面血の海だ。私はとっさに胃潰瘍の吐血だと感じた。さあ大変だと早速救急車で病院にかつぎ込んだ。病院で白いひげの立派なドクター氏早速診断、やはり胃潰瘍だ。自分が手術すれば二週間もたてば日本に帰れるようになるだろうと自信満々の御宣託である。我々は一刻も早くお願いする事に決心した。手術は成功裡に終了し一同ほっとした。徹夜で見まもって居た我々は一度ホテルに戻った。ホテルでシャワーを採り、ぐっすりとベッドで寝て仕舞った。所が夜中の三時頃、病院から電話で容態急変、あぶない、至急集合してくれとの事で早速とび起きて病院へ向った。真夜中のマドリッドはさすがに寝静まっていた。病院は真夜中なのに例のドクター氏一生懸命みまもっていてくれた。大使館の人々、商社の連中もそれぞれ集ってくれた。明け方になりドクター氏疲れた表情で、その後病状も思ったより回復が早いようだ、もう心配はないだろう、ホテルに戻って休んで下さいとの事で一同ほっとして病院に別れをつげてホテルに戻った。其後病人も徐々に快方に向って来た。何時までも我々全員ここに留るわけにもいかない。二、三人残って他の人々は次の会議のOECDに行かねばならない。人選が始まり、団長格の尾本さん、秘書の山本君と私三人が残り、他はフランスに向う事になった。 尾本さんは昭和八年卒で当時のスペイン大使の関さんとは同窓である。その関係でこの件につき、ひと方ならず御世話戴いた次第である。 その後病人も益々元気になり、スペイン人のきれいな看護婦とも冗談をまじえるまでになった。従って我々も一日中病院に居る必要もなく、朝様子を見れば後は暇である。よしこの際出来る限りスペインを見学しようと三井物産の社員の案内で市内は、かの有名なプラドー美術館、闘牛場、リテイロー公園は勿論遠くはトレードグラナダ、コルドバ等々足を延した。何百キロものドライブ、行けども行けども赤茶けたオリーブ畠の連続である。一夜グラナダでアルハンブラ宮殿見学後、野外劇場へ出掛けた。スペイン人は陽気な人種で飲めや歌えの大騒ぎであった。壇上のギタリストが我々を見つけ「バモスアカンタール」と坂本九の「上を向いて歩こう」を演奏し始めた。我々も東京を出発して十数日、異国の地での日本の歌、久しぶりに大感激。この感激は一生忘れ得ないことである。 其後病人もすっかり快方に向いて来た。もう大丈夫だ。我々三人はマドリッドに別れを告げ、OECDの連中と合同すべくパリーに飛んだ。その後病人も予定通りロンドン経由東京へと無事帰国した旨連絡を受けた。帰国後体調も良好で、現在も益々御壮健で人生を楽しんでおられるとの事である。誠にめでたしめでたしである。 思いがけないスペイン滞在約半月、この間種々スペインの国について観察し得たことは何よりの経験だった。当時物価は安いし、親日的で国民全体が楽天的でのんびりしている。夜は真夜中まで遊ぶ。夕食は夜九時でないと店は開かない。映画は十一時からだ。翌日朝は会社へ出勤するが、昼間は例のシェスターで十二時から十四時まで昼寝だ。そして四時から六時まで出社と云う具合だ。我々日本人の半分位しか働かない。こんな事をしているスペインは駄目になって仕舞うのではないか。反対にこの悪循環を断ち切ったら大発展間違いないだろうと色々考えさせられた。 その後、各自それぞれのスケジュールに従って帰国の途に着いた。私は他の常務氏と二人でミラノ郊外の鉛亜鉛製錬所見学に出掛けた。このプラントは鉛二〇〇〇トン、亜鉛三〇〇〇トンと中規模のプラントで別に目新しいものはなかった。日本語が上手だと云うふれこみのエジプト人従業員の案内でベニスに入った。ここで又々ハプニングに遭遇した。 一夜明けてゴンドラに乗り、ベニス空港のさん橋に到着した。空はどんよりとして今にも雨が降りそうだ。空港は相当な人でごった返していた。何か掲示が出ている。今朝は濃霧の為凡てのフライトはキヤンセルだ。皆それぞれカウンターへ行き、打合せの後帰って行く。これはこまった。兎に角聞いてみようとカウンターへ。実はこれからローマに行く予定だ、こんごの見通しはどうか。カウンター嬢はきれいな女性だ。でも何か愛想がない。早口でべらべらと答えてくれた。然し全然何を言っているかわからない。常務氏と二人でベンチに腰かけ、内部の情況をしばし見まもる事にした。そこに一見プロフェッサー風の日本人が入て来た。我々を見付け、欠航の様ですね、私はこれからローマまで行こうと思って来たのです、見通しはどうでしょうか。実は我々もローマに行く事にしているのです、カウンター嬢に聞いてみたが、さっぱり判らないので休んでいる処です。時間は段々と経過して行く。三人の為に何とかしなければと意を決し、再度カウンターへ行った。よし日本でも善く言う様に、余りきれいでない女性は親切だ。これを実行してみようと一番きれいでない女性に声を措け、何とか助けてくれないかと懇願した。 彼女はメモ用紙と時間表を持ってきて親切にわかり易く説明してくれた。ここで航空券を汽車の切符に切換えてやる。それからここのボーイをつけてやるから駅まで行きなさいと。早速ボーイを呼んでくれた。ボーイはてきぱきと我々の荷物をトランクに入れ、我々を駅まで案内してくれた。地獄に仏とはこの事かと一同感激。その御礼にとボーイにチップを渡した処が彼はがんとして受け取らない。何かべらべらとしゃべっているがわからない。たぶんこれは自分の仕事だから、そんな事をしてもらっては困ると言っている事だろうと想像した。東京を出る時は旅行中は気を付けろ、特にイタリヤは最悪だとたたみこまれていた丈けに、この出合は格別の印象を受けた。聞くと見るとは、かくも違うものかとつくづく感じた。 三人は思いがけない汽車旅行を満喫して無事ローマに到着した。翌日ローマを見学し南廻りで帰国する事にし、フランクフルトヘ向った。フランクフルトの空港で又々ハプニングに出合った。空港はひっそりとしていた。何かあるのかなと日本航空のカウンターをさがして近寄った。今日はストの為クローズトだ。これはこまった。ジャルが駄目ならパンナムでと、パンナムのカウンターへ。カウンター嬢私のチケットを見てOK。やれやれこれで帰れると全身から力が抜ける様な気持ちになった。かくして約二十五日かかった最初の海外旅行もハプニングの連続で自分は運の無い男だ。将来明るい見通しもないだろとつくづく感じた次第である。 帰国後会社に出勤、出張報告を役員会でやらなくてはならない。然し全然仕事の纏めはしてない。報告は外国の入院の模様でも話してごまかそうと腹を決めた。処が社長以下、まあまあ大変だっただろう、病人も無事日本に帰って元気だそうだ、海外での突発事故で対応に苦慮しただろう、報告はしなくても、とねぎらいの言葉。今でも忘れえない事である。 七十才で会社を完全リタイヤーして、目下毎日が日曜日の生活である。一九九五年は私の喜寿と金婚式の年である。最初の海外旅行がスペインである。人生最後の海外旅行をもう一度スペインと云う事で締めくくり度いと考えている。今度こそ、もっと有意義な旅行にすべく目下スペイン語に挑戦している。後四年頑張れば何とかなるだろうと遠大な計画を立て元気に毎日を楽しく暮している。願わくばそれまで健康を維持出来る様祈っている昨今であります。 |
卒業25周年記念アルバムより |