森有礼の人間像―森本貞子著「秋霖譜」に沿って
平成17年5月 奥村 一郎
1)我々は森有礼が「商法講習所」の生みの親であると知っているが、その事跡、人物をよくは知らない。
上記の「秋霖譜」は実によく彼の生涯を浮き彫りにしてくれる。有礼についての有名な事績は、 「廃刀案」「国語廃止論―英語にするー」「明六社」「「契約結婚」「商法講習所」「伊勢神宮不敬事件」「暗殺」である。
2) 米国から帰って公議所議事取調べ係りになった森は帰国の翌年(明治二年)六件を建議したが、そのうちの「廃刀案」は、大久保は「士族の困窮しているときに誇りを傷つける」と猛反対したにも拘らず「廃刀は随意なること」と改めて公議所に提出したが、一同の大反対に会う。士族の怒りは甚だしく、暗殺の危険さえあった。森は苦悩し辞表を出したが、大久保は懲戒免職の処分を下した。
「廃刀案」は二年後 明治四年八月「散髪、廃刀の自由」九年三月には「廃刀令」が布告される。森の案は時期が早すぎた。
3)鹿児島に帰って雌伏八ケ月で、東京から帰還命令があって、駐米弁務公使に任命され、ワシントンに公使館を開いた森は政界人と交際して、条約改正の下準備に励んでいた。そこに北海道開拓使次官の黒田清隆が訪ねてきた。森は開拓に必要な人材育成の学校を作る、女子も教育すべしと黒田を説いた。教師の選定・交渉を頼まれた森は精力的に教師を送り込んだ。尚送り込まれた女子留学生(津田梅子等)の世話もした。
条約改正は成功せず、国力の充実が先と思い知った森は辞意を表明した。森は明治五年、不正確な日本語を廃止して英語に変える「国語廃止論」を主張して、米の言語学者、米人の文部省顧問、伊藤博文等の反対を受ける。帰国の途中森はロンドンに行き、進化論で高名な哲学者H.,スペンサーに会って「宗教の必要」は同感されたが「国語の改変」より、国民の意識の進化があって初めて、それが言葉に表れると言われた。
4)帰国した森は洋学者 西村茂樹と共に提唱して、加藤弘之、津田真道、西周、福沢諭吉、箕作秋坪、中村正直を集めて「明六社」を明治六年九月一日に発足した。社が啓蒙に果たした役割は大きく森の功績である。
この年は、西郷の征韓論でもめ、森は国力の充実で伊藤と同意見で、力を併せて大久保 木戸の不和を調停し、西郷を下野させた(10月)。政局が安定した十二月十二日、森は外務大丞に任命され本省勤務となった。
5)森は黒田の作った開拓使学校女子校の第一期卒業生 広瀬 常(旧幕臣広瀬秀雄の長女)と婚約し、
明治八年二月六日木挽町の新築の森邸で「契約結婚式」を挙げた。証人兼司会の福沢諭吉が正面に座り式が進行した。森は明六雑誌に「妻妾論」で一夫一妻を主張し、蓄妾の弊風を攻撃したので、この結婚は江湖の大きな話題となった(広瀬常は旗本広瀬秀雄の長女で、開拓使女子学校(増上寺寺内)を優等で卒業した非常な美人で才色兼備の文字どうりだった。それに至るまでには複雑な事情があるが、秋霖譜に譲る)
6)森は外国商社に独占されている貿易の利を取り戻すための人材育成の商法講習所を作る計画だったが、官営の講習所は財政難から許可されず、東京府知事大久保一翁、東京会議所 渋沢栄一、勝海舟、福沢諭吉等の後援により銀座の鯛味噌屋の二階に仮開所した(明治八年九月二十四日)。
7)森は清国特命全権公使として明治八年十一月十日北京に単身赴任、常も長男清を連れて北京へ渡り、次男英を産んだ。外務大輔に昇進した森は明治十二年十一月六日駐英公使になり、ロンドンに赴任した。その前に常の父の広瀬秀雄が、常と妹の福のみでは広瀬家が存続しないし、留守中に自分に万一のことがあれば、と言って同じ旗本出身の「藪重雄」を養子に迎えた。藪は広瀬となった。
8)広瀬重雄は記者、評論家で自由党員であったが、政府を転覆する計画を建てその軍資金を作るために強盗を働いた。ロンドンから帰った森夫妻に、広瀬重雄が検挙された事件が降りかかる。二男一女を儲けた常に森は辛く当り、常は家を出て離婚した。森はその後に長女安を養女に出し、岩倉の五女と再婚し三男を儲けた。
9)帰国して希望した文部大臣になった森は、、「帝国大学令」「師範学校令」「教育勅語」等を制定して、国家主義者に変身し、地方を巡視して「国体」「国家主義」の講演を行った。明治二十年十一月二十八日伊勢神宮内宮に参拝した森は神宮の内陣の御簾の中に入いろうとして、宮司に留められて、御簾の前で参拝した。これが新聞では「ステッキで御簾を開けた」と誤報された。これが全国の不平分子、士族の憤激を買い、明治二十二年二月十一日憲法発布の日、森が刺殺される原因になった。
(私見)森の使命感は分かるが、明治二年の建議の「刑罪は其一身に止むべき」を放棄し、結婚契約にも違約した。森が一身の栄達を求めず敢然と職を辞したならば、信義の人として士族、民衆にも信頼され、憲法発布の翌年は国会開設である。議員に当選して国事に奔走も出来、伊藤の信頼の厚かったことから、伊藤の政党樹立にも重用され、原敬より早く総理になったかもしれないと、空想する。森の家庭は両親親戚もあって両親の看護や財政も苦しく、常は大層苦労した。常の妹の福と結婚した磯野計(明治屋創業者)は妊娠中の妻を懸命に慰めたが、福は懊悩し菊を生んだ後亡くなったが、計は菊を養育し再婚もせず早く亡くなった。磯野家は計の死後、長蔵(東京高商出身)を娘婿に迎えて繁栄した。計の碑に「積善の家に余慶あり」とは親友増島の言。