日本海大海戦


Tue, 27 May 2003
 みなさん     山崎 坦(S16学後)

戦前、今日は海軍記念日でした。
日本にとって、極めて有意義な日なのです。
日本人 は自分の歴史を知らないのです。
www.sankei.co.jp/news/column.htm でぜひ産経抄をお読みください。
よろしく。
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山崎 坦 様      昭和 32 年社 中路です。
戦後教育の若い日本人は、史実から盲にされる教育しか受けていないのです。
先輩から言われても、新聞さえ読まない戦後生まれの会員もなきにしもあらずですから、
産経抄全文を念の為貼り付けて置きましょう。
             記  
「日本海海戦百周年ビール」というビールが売り出されたそうだ。明治三十八(一九〇五)年の日本海海戦から今年は九十八年になる。対馬沖の運命の一戦は五月二十七日から二十八日にかけて。そうか、あと二年で百年目のその日がくる。  
▼ビールといえば、フィンランドでは前から「アミラーリ(提督)」という名のビールがあり、そのラベルに東郷平八郎提督の肖像が描かれていた。人びとはネルソンとともにトーゴーを名将として敬愛していた。なぜだったのだろう。  
▼日露戦争はロシアという強暴の大国を、小国の日本が打ち負かして独立を確保した戦争だった。近代において有色人種が白色人種に勝った戦争だった。それはアジアをはじめ世界の民族運動を刺激した。軍国主義とも侵略とも何の関係もない。  
▼たかがビール、されどビールで、北欧のビールは日本海海戦の世界史的意義をシラフで語るものだった。岡崎久彦氏も本紙連載『百年の遺産』で、「日本の戦勝は私を熱狂させた」というネールの自伝や、「日本は他のアジアの人たちの国際的地位を向上させたのだ」という孫文の言葉を紹介している。  
▼話題になった『新しい歴史教科書』市販本はこう書いている。「東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた」。それは世界中の抑圧された民族に希望を与えたと。  
▼フィンランドもまたその一国だったのだが、ほとんどの教科書は日本海海戦の意義や評価を記していない。東郷の偉業についても、いやいや?触れているという程度なのだ。教科書の執筆者も出版社も、日本という国が嫌いで嫌いでたまらないのだろう。

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   中路 信 様                          山崎 坦
どうもありがとう。
わたしの叔父はあの大戦203高地で戦死しました。23歳でした。
あの戦争を描いた司馬遼太郎著「坂の上の雲」は何度読んでも感激置くあたわざるも のがあります。
切に読んでいただきたいと思います。よろしく。
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以前に「坂の上の雲」を読みまして から横須賀の記念艦三笠をこれまで3度訪ねましたが、 何度行っても感動を覚えます。
東郷提督は尊敬する人物の 一人ですが、あの時代は国全体に覇気と集中力が漲っており、 そのことが対馬海峡でも示されたのだと思います。
ちなみに三笠で購入したZ旗のタイピンを愛用しておりますが 元気が出るので感謝しています。
やはり尊敬する人物をもつ ことは大切であると痛感します。 日下(S59L)    
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春山@H2社です
山崎さん、中路さん、こんにちは。
日本海海戦は、我々の世代でも、「バルチック艦隊の最期」 (小学館 少年少女世界の名作 ソビエト篇1)で読んだ人は 多いと思いますよ。
小国だった日本が苦労して戦う姿と疲弊 して内戦を抱えた大国ロシアの背景、国同士の駆引きと、 優れた将軍同士の英知の闘いに、子供心に興奮した記憶が あります。
「皇国ノ興廃、之ノ一戦ニ有リ 各員一層奮励努力セヨ」 は有名ですね。
その時の旗艦「三笠」は、私の自宅の近くの三笠公園で 博物館になっています。
中には当時の艦船の模型や、 日本海海戦の映画(20分くらい:三船敏郎が東郷元帥役 だったかな)、そして海戦のシュミレーションモデルもあり ます。  
三笠公園にはよく子供を連れて散歩にいき、売店で 東郷ビール(今はオランダのハイネケンに買収されて しまいましたが、銘柄だけは残っています)を買って、 子供を公園のなだらかな丘陵で遊ばせながら、私は ビールで喉を潤しつつ海に浮かぶ釣り舟を眺めております。
ちなみにフィンランドには、1988年に留学で行きました。
ヘルシンキでお世話になった判事さんのお宅でのパーティで、 あるお爺さんが、「自分の親はその港のむこうに、ロシア海軍 が日本にむけて出ていくのを見たのだよ。
とても沢山 の軍艦を日本が破ったのは大したものだとフィンランド人 は皆思っている」とゆっくり話をしてくれました。
書籍でそう いう話は読んだことがあるのですが、本当に自分で見聞 したのは、けっこう感動的な経験でした。
ちなみに、東郷ビールと日本でよばれるAMIRAALI(提督; Admiral)は、たしか21の古今東西の海軍将校のラベルが あります。日本人では東郷平八郎と山本五十六が、他に マゼランやネルソン等々、かなり幅広く採用されています。
フィンランド海軍では、ネルソン提督と東郷元帥のラベルが 御用達と聞いています。
どちらも「勝ち戦」の将軍だから だそうです(ネルソンはトラファルガーの海戦で戦死するが 戦いは勝っている)。
私は留学中に、17種類まで集めました。レストランで飲んだ ビンをそっと持ちかえって洗面器に漬けてラベルをはがして・・・ と、結構手間をかけてラベル集を作成したのですが、残念 ながらどこにいったかわかりません。また、AMIRAALIは 残念ながらフィンランド海軍と日本御用達のわりに味は イマイチでありました。今は中身はハイネケンなので、まあ 飲める味になっていると思います。
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三笠公園ってよさそうなところですね。皇国の興廃この一戦にありという 東郷元帥の艦上の様子を描いた油絵がありますよね。
あのポスターが あったら是非買いたいなと思っているのですが、どこかにこれを売っていませんか ね。
靖国神社の遊就館には売っていませんでした。あとは原宿の東郷神社か 横須賀の三笠公園になるんですが...
今、堀栄三さんが書いた「大本営参謀の情報戦記」を楽しく読んでいます。 「失敗の本質」に勝るとも劣らない傑作ですね。
2005年といえば日米修好150周年でもあります。アメリカが日本を開国 させてから150年。
たった150年でよくぞココまで来たものだと感心仕切り。
はっきり言って人類史上稀有の大成功物語だと思うのです(途中いろいろ ありましたが)。
そして私の父や義父は77〜75歳ですが、この150年の 半分を生きているんだなあと改めて思い感慨仕切りの今日この頃です。
                                                           昭和58年法@池
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中路信さん;日下太一さん;春山祥一さん;池毅さん
                            山崎 坦(S16学後)
みなさん、どうもありがとう。
ネルソンの銅像はロンドン・トラファルガー広場、円柱の上に、空高く、称えられて います。
東郷元帥の日本海大海戦の100年前のことです。 フランス・ナポレオン軍を破って、イギリスの世界になって行きます。
英語は今や世界共通の言語(特にビジネス)になりました。
どこの国でも、自国の歴史を誇らしく思っています。
わたしどもの大先輩達の誇らしい歴史があることを知って欲しいですね。
日本人は自国の歴史を知らなすぎると思います。                                                                      よろしく。
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Wed, 28 May 2003
春山 さん                       
                     山崎 坦
フィンランドに留学されていた由。 私、フィンランドの方との交流があったことを懐かしく思い出します。
昭和34年(1959年)頃、フィンランド財界ミッションが来訪、Bernerさ ん(ヘルシンキ)ご夫妻をおもてなししたことがありました。 日本座敷をことのほか気に入られて,帰国されてから、純白陶製めおとの白熊を贈って頂きました。(今飾り棚からとりだしてみますと、王冠の商標の下に ARABIAとあり,MADE IN FINLANDとあります。)
当時は各国の通商もグローバルでなくて、日本からフィンランドえ輸出したものの代金をイランえ払ってもらって、イランから原油を日本に輸出してもらうなどと言う三 角貿易、2国間のオープンアカウントを第三國との貿易決済に用いるスウィッチ取引 や、バーター取引など特殊取引を工夫していました。
何時の時代にも工夫が要りますね。 失礼しました。               よろしく
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Wed, 28 May 2003
山崎様
            春山です。
メールをありがとうございます。
ARABIAはフィンランドの有名な陶器メーカーです。
つがいの白熊というのは、おそらく特注品ですね。
フィンランドは、昔から欧州とロシア(アジア)の境、諜報戦の要所で、
日露戦争中は明石元二郎大佐(その後台湾総督)が ロシアの革命勢力を助けて後方攪乱を企てるなど、
いろいろな ドラマの舞台です。
その後のフィンランド独立後の初代駐日大使 ラムステッドは日本語通の言語学者で、かつシベリア鉄道の フィンランドと日本との共同運営の案を持込んだ戦略家でもあり ました。
フィンランドの話になるといくらでも出てきます(笑)。
3年前に金融事情の調査で出張して以来ごぶさたなので 今の会社が株式を上場できたら、家族でゆっくり旅行をして みたいと思っています。
今後とも宜しく御願いします =================================================== ☆新機能プレスリリースしました! URL: http://www.orega.co.jp 株式会社オレガディール 取締役(企画担当) 春山 祥一 〒162-0801 東京都新宿区山吹町337 江戸川橋東誠ビル6F TEL :03-3267-0150 FAX :03-3267-0180
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渡辺(昭43商)です。久しぶりに投稿します。

わたしの少年時代は、東郷、山本元帥とも、まずお目にかかったこと はありません。名前程度は知っていましたが。
戦前、戦中の英雄は一 切ご法度。
代わりに東条大将らが否定的に教科書では扱われていま した(もっともこれは今もそうかも。  
大久保利通の次男、、牧野伸顕(1864-1949)(吉田茂の岳父)の「回顧録」に次のような話が載っていました。 ?
「オーストリア公使(スイス兼任)のころ、日露戦争の勝利の連絡を受け、街 へ出たら、見知らぬトルコ人に握手され、オメデトウといわれた。
彼ら はロシアの敗戦に快哉を叫んでいた」
日本の勝利は、当時のロシア南下政策に悩むトルコなどにとっては 痛快事だった様子が窺えます。                               以上

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Thu, 29 May 2003
高橋治夫48法です
「坂の上の雲」は1996年12月17日から2週間で全て読みました
ペルー大使公邸で人質だったときに、長期戦になるなら大使の蔵書を読もうと決めて読みました
「坂の上の雲」は人質の皆さんが読んでいて、3セットほどありましたが 続けて読もうとすると書庫にないこともありました 。
(山崎) わたしの叔父はあの大戦203高地で戦死しました。23歳でした。
(高橋) 記憶が正しければ、あの戦いは司令官が前線のはるか奥にいて 現場を見ず作戦を立てていたために適切な判断ができなかった、 ではなかったでしょうか?
一方、ペルー大使公邸人質事件の解決は、退役ペルー 海軍提督が人質であったため、現場を見ながら作戦をたて、 司令官として突撃を指示しました。 作戦を立てた提督が現場にいたために犠牲を最小限に抑えることが できたのでしょう
すぐれた作戦は司令官が現場にいて作戦をたて、実行の決断を した後も、司令官自身が現場にいながら次次に指令を出し続ける これが勝ちの法則ではないかと存じます。

高橋治夫様                        
                           山崎 坦
現場を知らなくては---とは、おっしゃる通りと思います。 203高地の場合、ペトントーチカの銃眼から掃射してくる重機関銃になぎ倒され た。 ナポレオン時代の様に横隊で突撃を繰り返せば、屍、山を為すばかりだった。所謂 力攻めは駄目。 ペルーの様にモグラ作戦に早く移り,お台場の重砲ももっと早く持っていかねばなら なかった。 それでもどうにか落としましたね。 太平洋戦争になるともっと悪い。 38式(明治38年式)歩兵銃、将校は重い日本刀を軍刀として腰にぶら下げてい た。皮のブーツを履いて将校でございとえばっていた。戦闘では敵から将校とわかる から被弾が集中した。
0戦は優秀だったけれど、戦艦大和や武蔵は役に立たなかった。
昇進の為に戦闘をする官僚軍人では本気の戦にならなかった。
今や能力の真価を見極めなければいけないということ、「印籠」にひれ伏している時 代ではなくなりましたね。社長が会社を潰し、ひどいのは牢屋に繋がれる。外国人社長にお願いする。など。
話が脱線気味になりました。 産経の204対9の断層--ノーベル賞の風土---- ノーベル受賞者アメリカ204対日本9の記事を読んでいるところです。                         失礼。              

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ニューヨークの鈴木 奏(S54経)です。
高橋さんのコメントで話がペルーに飛ん だ ので、さらに横から失礼させていただきます。
私の知識では、「三笠」はもともとアルゼンチン海軍がイギリスに発注していた船 で、日本はそのOn Order状態の船を譲ってもらったお陰で、日露戦争までに旗艦を 入手出来たと理解しております(間違っているかもしれません)。
このあたりの真相 を ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければと思います。
また、この話からはいろいろなことが想像されます。例えば。。。。
1 当時の日本の外交交渉力は相当なものであっただろう
2 アルゼンチン政府がなぜ、日本にこのような便宜を図ったのだろうか
3 最新鋭の戦艦を注文していた当時のアルゼンチンはかなりの国力だったのだ ろ う
なにやら、アメリカ一人勝ちの現在とはかなり違った世界だったような気がしま > す。。。。


  鈴木 奏 様                      山崎 坦
昭和62年(1987年)八月号文藝春秋の前田正裕氏「軍艦春日」をご紹介します。
「かねてアルゼンチンがイタリアのゼノア造船所に発注建造していた新鋭艦7710 トンの装甲巡洋艦リバダビア(春日)とモレノ(日進)はほとんど完成していた。
そ の頃すでに領土問題で緊張していたアルゼンチンとチリの間に和解が生じ両国はそれ まで行っていた建艦競争を休止することに合意した。
売りオファがあってから僅か三週間後の明治三十七年一月七日夜、
急遽石炭弾薬を積 み込み翌日出港、日本絵え回航の途についた。
配線や砲の電気設備等の仕上げ工事は 航海中に続行された。
当時ドイツ駐在武官だった鈴木貫太郎海軍中佐(後太平洋戦争終戦時の宰相)はゼノ アに駆けつけ、
そのまま春日回航指揮官となった。
両艦は海戦直後第一艦隊に配置された。
国民の待ち焦がれていた両艦は果してその期待にこたえた。」

さらに極めて、感激的な詳細記録に次の書物があります。
「日本海海戦 アルゼンチン観戦武官の記録」 海軍大佐 マヌエル・ドメック・ガルシア著 対馬勝二訳 発行 社団法人 日本アルゼンチン協会 1998年10月20日発行(日・ア修好100年記念)
この本は315頁 同大佐は後に大将に累進、海軍大臣に就任された。 観戦武官として「日進」に乗艦。
日進は日本海海戦で最も甚大な被害を受けた艦とし て知られているのだそうです。
大佐は高度な内容で観察分析をしており、記述は精緻を極めている。当時の日本海軍 に対する評価は高い。
日本人を尊敬し、親日家であった。
訳者は元海上自衛隊二等海佐
全文をご紹介したいところですが今回はここまで。                           失礼。

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Thu, 29 May 2003

昭和 32 年社 中路です。
山崎先輩の日本海海戦に関するメールから、この時代の歴史に若い世代 の関心が高まっているようです。
小・中学校の教科書がどうであれ、少し名の売れた人の話がどうであれ、 一橋を出て世界の情勢を判断しつつ仕事をするからには、自分の国の歴 史については、自分自身で知識と情報を多角的に集め、自分なりの「認 識」を得て置く必要があろうと思います。

「坂の上の雲」は司馬さんがかなり忠実に史料も読んで書いた「歴史小 説」で読んで面白いものではありますが、これだけで当時の歴史が「全 て分かった」とするのはあまりにも軽率だと思います。
何処に住んでい ても、幾つになっても、判断資料に接する機会を逃がさないにしたいと 小生は思っています。

最近、日露戦争に関する下記の二冊の本を著者から頂いて読みましたの で、皆様のご参考に紹介します。
1. 矢吹 晋著、編訳「ポーツマスから消された男」            
ー朝河貫一の日露戦争論ー   著者はアジア経済研究所から横浜市立大学教授となった人で  現代  CHINA Watcher として著名ですが、小生の高校の同窓生として共に同窓の大先輩である歴史学者「朝河貫一」の研究者です。  この本は同教授の下記ホームページからでも読めます。      http://www2.big.or.jp/~yabuki/  
因みに、朝河貫一は日本人として最初に外国の大学の教授(米 Yale  大学)となった人で、日露講和条約の原案を講和仲介の米国の要人に示した人です。また、第二次世界大戦での日米開戦を回避すべく、 米国大統領から日本の天皇宛「親書」(幻に終わったが)の草案を作成した人です。
2. 高原友生 著 「悲しき帝国陸軍」   著者は、陸士卒でビルマ戦線で終戦を迎え戦後大学に入りなおし商社の伊藤忠で活躍した人だが、祖父が日露戦争の旅順攻略戦争の時の連隊長として、最初戦闘を戦い、日清戦争の経験からのみ作戦を立てた陸軍の作戦計画の誤りにより、大半の高知出身の隊員を戦死させてしまい、終生高知の遺族の恨みを買うことになってしまった。この祖父の遺言とも言うべき「参謀の作戦の誤りの記録」を発見し、これを  この本に載せている。著者は陸軍がこの「失敗」の反省がないまま、  正規の戦史を書き換え、第二次大戦にまで突っ走ってしまったことを  「坂の下の淵」と表現している。   又、司馬遼太郎が「海軍びいき」の記述をしていることに対しては日露戦争当時から「陸軍」「海軍」の作戦の齟齬が胚胎していたことを指摘している。    
以上、史料により、歴史の見方は変わる例として挙げました。      
 
 日清戦争の結果、旅順の管理権を得た日本は、露、仏、独の三国干渉 により、旅順など遼東半島を清国に返還したが、三国は清国に迫り租借 地等の権益を獲得、旅順は露国の要塞になっていた。 日本は英国と「日英同盟」を結び三国と対抗することになった。
(朝河貫一の論稿を参照してください) この辺は、百年後のイラク戦争前の国連の駆け引きと似ていませんか。

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Thu, 29 May 2003
中路さん、
こんにちは。S58法@池です。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、そのあまりの大ヒットから、しばしばドグマ化 される傾向があって、それに対する批判というか、
坂の上の雲そのものではなくて 司馬遼太郎に代表される歴史作家が振りまいた「海軍善玉、親英米、非戦、合理主 義」「陸軍悪玉、親独、 好戦、非合理主義」という図式、レッテル張りについては方々から批判というか、見 直しが行なわれて いますね。
代表的なものを知っている範囲で挙げますと、
半藤一利の一連著作
彼は石川信吾や永野修身など反米の主戦論、南進論を説いた艦隊派の流れを汲む一派 が海軍の主流で あって、米内光政・山本五十六・井上成美などは非主流派で影響力がさほど無く海軍 内では浮いた存在だったと言っています。
あと、ロンドン海軍軍縮会議で統帥権干犯を言い出した のは末次信正であり 彼に担がれた加藤寛治であります。
あと東郷元帥も晩年は老害の塊と化し、大鑑巨砲 主義を主張し 航空力の整備に反対し艦隊派を全面サポートし晩節を汚したと
「元帥の晩年」朝日新 聞社(題名不確か)
なんかにも書いてありますね。
相澤淳「海軍の選択」中央公論社
相澤さんは防衛研究所の若手研究員。
彼の指摘で新鮮だったのは、山本五十六は当初 から米国と 一戦構える必要性を認識し、米国を叩く算段を1930年から営々と準備していたと いう視点。
その為に 彼は航空機の重要性を認識し、その整備に心血を注いだというものです。
阿川弘之も最近でこそ、海軍の欠点も認めるようになっていますが、彼も一時期海軍 を美化しすぎて いた面がありますね。
あと陸海軍とは関係ないですが永野護「敗戦の実相」も読ませました。
それにしても中国べったりの矢吹晋さんが「ポーツマスから消された男」なんて本を 書いていたなんて 知りませんでした。
さっそく買って読んでみようと思います。

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山崎様  中路様
私の聞きかじりの「三笠」に関する知識が、24時間もたたないうちに、事実に裏打 ち された情報に置き換わり、インターネットのすばらしさを改めて感じます。フォ ロー アップ、ありがとうございました。
話題が、戦争の技術面とリーダーシップの話に広がっていると思われますが、イラ ク 戦における、アメリカとイラクの戦力の差に関する興味深い記事が、日経ビジネス 5 月26日号に「見えたネットワーク中心型戦争」として掲載されております。もう、 読 まれた向きもあるかと思いますが、ご参考まで。
             鈴木 奏


30 May 2003
鈴木奏 様  ; 中路信 様 ;  池 毅 様                         山崎 坦
「三笠」を検索すると無数に出てきます。
1900年(明治33年)11月8日進水 (英国ビッカース造船所) 15,140t(排水量)
1902年(明治35年)竣工 ETC.
最初に出たURL www.kinenkan-mikasa.or.jp/frameset.html
池さんの書かれていた三笠艦橋の絵画も出てきます。                     よろしく

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Sat, 31 May 2003
春山@H2社です。
山崎先輩が御紹介になられた記念艦三笠のある三笠公園は都心からさほど遠くもなく、眺めのよい場所です。
すぐそばの 船着場から、東京湾唯一の自然島で、幕末、明治初期、昭和と 3度に渡り砲台が築かれてた要塞島でもあった、猿島まで小舟が出ています。
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/sarusima/
そろそろ泳げる季節になりますから、この舟で島に渡って、 横須賀の岸を眺めながらノンビリ海水浴を楽しむというのも、 おすすめです。海もきれいですよ。
さて、実は横須賀は戦艦だけでなく、あの「ゴジラ」が上陸した 場所でもあり、それを記念して巨大なゴジラの滑り台があります。 http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/g2/
今は2代目です。
日本海海戦にかこつけて、つい地元自慢をしてしまいました。

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Sun, 1 Jun 2003
こんにちは、蒲田(S55)です。 遅まきながら投稿します。
私が小さかった昭和40年代までは、夏になると(終戦の日にあわせて)戦争 に関する映画がよく上映されていました。
思いつくままにあげますと 「連合艦隊」 「沖縄決戦」 「日本の一番長い日」 「山本五十六」 「二○三高地」 などです。
山村聡、三橋達也、東野英二郎(漢字が違うかも)などが重々しい、良い感じ の演技をしていました。
もうちょっとあとですが、滝田栄や浅丘ルリ子などが出ていた「戦争と人間」 のシリーズも良かったです。
「東京裁判」もなかなか迫力を感じました。
「終戦50年」の8年前の夏には子供たちを連れて「アンネの日記」を見まし た。
子供とは「ひめゆりの塔」も一緒に見た記憶があります。同じ年だったか な?
最近は観客が入らないせいか、あまり作られてませんね。  「美化しすぎている」とか批判があるから作りづらいのかもしれません。                                    ではでは失礼します。
(三笠公園も昔家族で行きました。NIFTY時代に春山さんとこの件お話し た記憶がよみがえってきました。「アドミラル東郷」のビールを売店で売って いたとかの話で・・・・・・)

(別項)「新論文・随筆」の項に   日露戦争の諸海戦(クリックしてご覧下さい)