一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第十三号] 一橋歴史学の流れ  一橋大学名誉教授 増田 四郎
或いは
一橋の学風とその系譜  3 社会・歴史学 上と同じ題名


いま御紹介いただきました昭和七年卒業の増田でございます。皆様お忙しいところを多数お集まりいただいて、余り準備もしていないお話をするのは大変申しわけないと存じます。また大先輩がおられますので、先ほどからこれは困ったことだと思っております。いずれにしましても、先ほどお話がありましたように、新井さんの方から如水会館が新しくできたことでもあり、一橋の歴史、特に新井さんの御気持ちでは、三浦先生の歴史学の話をするようにというような御希望であったのですが、私は、一つは、第一回のときにも露払いみたいなことを中島(俊一)さんと一緒にやっておりますし、如水会館が新築になったときに、晴れがましい、そういう資格は私にはないのでほかの方に替えてくれということをお願いしたんですが、どうしてもやれということで − そこで考えましたのは、題にありますように 「一橋歴史学の流れ」というものをどう考えるかというふうにぼやかしたような題にしたわけであります。

 と申しますのは、何の学問でもそうでしょうけれども、歴史というものは歴史家の数だけ書けるのであって、一人一人大変違った歴史が書けるわけです。もちろん学派というものもあるのですが、それへもって百七年もたった一橋で歴史に関係された先生方のことを一つ一つ挙げて、そういう先覚の業績を一時間足らずでお話しするということはもとより不可能でございまして、私、とてもそんな力はございません。

 それともう一つは、大学というところは、そう言うとあるいは語弊があるかもしれませんが、ある特定の偉い先生だけをとりたてて大学の歴史を考えるべきではなくて、いろいろな先生方が相互に話し合ったり、そういう大勢の中からできてくる一つの学問的な雰囲気というものが大学の学風をつくるわけであって、特定の人の学説だけ ー それは非常に大事なことですけれども ― じゃない。大学というものは何人か非常に優れた人がおられますと、全体としてそういう雰囲気を醸し出してくる協同体じゃないかと思っておりますので、ある特定の偉大な先生、たとえば三浦先生の歴史学というものはどういうものかという御業績につきましては別の機会に何度でもお話しできる機会がある
と思いますので、きょうはそれへのごく序論的な形で一橋の歴史学というものをどう考えているかという、私なりのまとめ方でお話を申し上げたいと存じます。

 この前、中島さんとの講演のときにも申したように、私は、一橋の学問というものについて大体の時代分けを考えているのですが、一橋の歴史学についてそういうものを多少調べてみました。ところが現在一橋大学の中におきましては、学問史をそれぞれのいまの若い人たちが編集しているわけでして、そこにはこうした問題が詳しく述べられていることだろうと思います。ですから、私のきょうのお話はそういう非常に正確な、それから漏らすことなしに歴史関係の人を網羅したお話というのはとてもできませんので、私自身が小一時間ぐらいでまとめられるのにはどういう先学の方々を考えるか。だから、一橋を出られて外で御活躍の人には触れない。同時に、すべての人を網羅するといぅ態度もやめる。こういう形で一橋の歴史学というのは一体どうして育ってきたのだろうかということを申し上げてみたいと存じます。

   一橋の歴史学の基礎を築いた人々

 明治八年に商法講習所ができてからいろいろの経過をたどりましたあと、一橋に歴史学が多少とも学問らしく、また一橋の歴史学であるような形に変わってくるのは、大体明治二十八年、九年から三十年のころであったと思います。当時の校長は小山健三という人でありますが、この人のところには福田徳三先生のドイツからの手紙がいくつか参っておりまして、ドイツの大学でハンデルスホッホシューレ(商科大学)における歴史学というのはどういうものかということが書かれていて、いままでやっていた中学校みたいな歴史とか地理とかいうような名前を、商業史、工業史というふうに変えていくことを奨めています。それは小山先生の卓見というよりも、福田先生からの御手紙も影響し
ているだろうと思いますが、大体二十八、九年からですけれども、なぜそういことになるのかと考えますと、それまで高等商業学校だけであったのが、明治三十年に専攻部というものが設置されます。ここでもうすでにアカデミックな、いまの言葉で言うカリキュラム再編成の必要を感じてくるわけでして、明治三十五年になって東京高等商業学校になり、そこで専攻部を持って実質上の大学になる基礎ができ上がっていく。そして大正九年に東京商科大学が予科、本科、専門部を持つ、いわゆる三位一体の、ほかの大学に見られない学問体制、学校制度ができ上がってくるという歴史を持っているわけです。そして戦後昭和二十四年から一橋大学になった。このような大学成長の年代とこれからお話しすることとが多少関係しているように私には思えるのであります。

 特に商業とか工業とかいう経済生活、社会生活の歴史というもののスター卜する第一期といいますか、そういうものを考えますと、これは普通の学校でやっているような歴史じゃございませんで、いわゆる社会経済史、商業史とか、そういう分野でありますが、商業史、工業史というものでありますけれども、そのときにそれを受け持たれた人、三十年よりも前から来ておられるんですが、そういうことをやっておられた先生が、もう皆様御存じの方が多いと思いますが、非常に優れた人が ー これは一橋図書館の中を調べてみてびっくりしたんですが、ほかにもおられるでしょうけれども、私、三人だけのお名前を挙げておきます。

 その一人は横井時冬先生。横井先生は明治二十一年から高等商業の教授であります。それから菅沼貞風先生。それから、ほとんど皆忘れていますけれども、われわれ日本経済史の方で非常に大きな基礎をつくられたのが沢田吾一という先生であります。

 明治二十一年から三十年にかけておられた上記三人の中の横井先生には、『日本商業史』、『日本工業史』、そのほか『日本不動産史』などの著書があります。また非常に感心するのは、鎌倉時代以後の日本の商売をしたときの商業文
の書き方を集めたものもあります。こんな庶民生活の歴史は帝国大学ではとても教えない学問でして、これは画期的なことと思いますが、非常に実証的に史料を調べられまして、一橋図書館の中に、横井先生が筆で書かれた東寺百合文書とか、高野山文書とかの赤罫紙の写本がまだ残っております。最後のところに、横井時冬が筆写したと書いてありますが、全部を自分で書かれたかどうかそれはわかりません。とにかくそういう日本史の原史料を丹念に集めておられることがわかります。

 菅沼貞風さんは、平戸貿易の研究などを手がけ、『大日本商業史』という大著を出され、南方へ行かれて客死された方であります。

 最後に申しました沢田吾一先生。この人は明治二十九年から大正三年まで高等商業の教授でございまして、ほかにも本があるかもしれませんけれども、私の持っております、しかも日本経済史で画期的だと思われる書物は 『奈良朝時代民政経済の数的研究』。つまり戸籍や税帳などを徹底的に調べた名著であります。

 いまお三方を申しましたけども、帝国大学に見られないような、つまり政治史中心だとか、あるいは皇国史観だとか、国家の制度だとかそういうものじゃなしに、庶民生活に即した商業史、工業史、あるいは商業文の歴史、あるいは奈良朝時代からの統計的な経済史的研究、そういうものをなさったということは、これは一橋の歴史学のスタートの典型として非常に大きな意味を持っているものだと考えます。ところが残念なことに、これは一橋から出た人じゃなくて、みな外から来られた人たちです。

   一橋の黄金時代

 ところがそういう非常に恵まれた背景の中に育った次の第二期でありますが、この第二期に入りますと、ヨーロッ
パの学界から、非常に熱心に、しかも純粋な形で学問、歴史研究の成果を摂取して、そしてこれを日本としてどう受けとめるかという問題を、身をもって考える先輩が本学の卒業生の中から出てくることとなります。そしてこの時期が、高商及び商科大学時代を通じての黄金時代であったとよく言われますように、私もまったくその通りだと思います。私たちは非常に素晴しい先輩を持つこととなったのであります。そしてこの時代の先輩は皆さん御存じの方ばかりであります。私ももちろんみな直接存じ上げている先生ばかりであります。さっきの三人の先学のことを言うときはちょっと気が楽だったのですけども、これからのは気が楽じゃなくなってきました。そして第三期になるとなおのこと気が重苦しくなってしまう。しかし第二期の諸先輩はみな亡くなっておられる方ですので、比較的私も緊張しながらですけれども、歴史学に関する限りで、自分の考えを申し上げることができると思います。

 さて、それはどういう方々かといいますと、まず第一は福田徳三先生、つぎは上田貞次郎先生、それから三浦新七先生。さらに、本学の出身者としては根岸佶先生。それから、同じころの後半に属しますけれども、東大出身ではありますけれども、反官学的な気風を十分持たれた幸田成友先生。私のゼミの先生です。それから、川上多助先生。あるいはごく少数の者しか習わなかったかもしれませんが、日本法制史の滝川政次郎先生。こういう方々であります。

 そこで本学御出身の四人の先生、福田、上田、三浦、根岸というような先生のことを、先生方の伝記なんか見ていまして驚くのは、根岸先生を除いて非常にお若くて亡くなっておられるわけです。私たちはまるで生き残りみたいな感じがいたします。年ばかりとって、ろくな仕事をしておりませんので。

   福田徳三先生

 それはとにかく、福田先生は、正確にはどう数えるのかしれませんけれども、五十六歳で亡くなっています。上田
貞次郎先生は六十一歳、三浦先生はずいぶん神格化された雲の上の人のように思って、またご老人だと思っていましたけれども、七十歳で亡くなっている。何か申しわけないような変な気持になりますが、そういうことは抜きにして、福田先生の場合は経済学の本学における主流をつくられた人ですけれども、ちょうど先生方が留学されていたころは、ドイツは十九世紀のいわゆる歴史学派の最全盛期でございまして、細かいことは申しませんが、そういう向こうで習った歴史学派の影響を受けて、それを、日本史というものをいままでの帝国大学式の歴史学じゃなしに、社会経済に重点を置いて日本史の全体を見たときにどうなるかということを書かれたのが、明治四十年、坂西由蔵先生の翻訳で出されました『日本経済史論』というあの名著であります。これは経済学の人はその後余り言わないようですけど、私は、日本の歴史学の発展、経済史の発展の上においては改めて高く再評価すべき名著であるというふうに考えます。
その意味であの書物は日本における社会経済史の文字どおり先駆的な業績でありました。

 そこでおわかりのように、先生はヨーロッパの学問で体系化された諸概念や方法を持ってきて日本社会経済の発展の全体を見たときに、いったいどういう体系化ができるかという問題をしょっちゅう自分の問題として持っておられたわけであります。しかし、それと同時に先生は非常に幅広い御研究をされて、歴史学よりも、むしろ一橋の経済学の中心人物になられたのであります。

   上田貞次郎先生

 二番目に挙げたいのは上田貞次郎先生であります。率直に申して、一橋がいい意味での実学、あるいはアカデミズムと実学の合体した学風をつくるということを身をもって実行され、またその学風がそれにふさわしいものであった最も素晴しい人は上田先生じゃないかという気がいたします。上田先生はヨーロッパ、特にイギリスの学界から影響を受けられまして、名著『英国産業革命史論』が出たのは大正十二年であります。それから、多少細かい問題を扱った『英国産業革命史研究』。これは大正十三年に同じく同文館からだったと思いますが、われわれはあの本をむさぼるように読んだ思い出があります。そこでの先生の関心は、憶測いたしますと、先進国であるヨーロッパの諸国を見てみて、殊に経済とか企業形態とか、あるいは労働問題とかいうものが近代国家にふさわしい形をとるのにはどういうことがわれわれの課題であり、そのきっかけをなすのはどこからであるかという問題で、つまり日本近代化に対する非常に実践的な意欲に燃えてあの研究をされたと思うのでございます。そのため先生としては当然だったんでしょうが、非常に幅広い研究領域を持たれまして、労働運動、株式会社、あるいは中小企業、人口問題。非常に多彩で現実的な問題への関心を学問的にアプローチするという方法に道を開かれたと存じます。

 中野に住んでおられましたので、たびたびご一緒に電車で帰ることがありましたが、そのときには、先生は私に、ヨーロッパのことを幾ら勉強しても、一番おもしろいということがほんとうにわかるのはやはり日本のことだよ。おれは学校を定年退職したら日本の経済史をやるんだというふうに、六十一歳で亡くなって晩年というのは変ですけれども、われわれ学生に対しては絶えずそういうことをおっしゃっていました。日本を抜きにして外国の学説だけを追いかけ、両足ともどこかへ飛んで凧の糸の切れたような勉強をすることはよせという話をされて、幾ら専門になったって、自然科学ならともかくとして、日本の社会というのはどうだということに糸がつながっていかないような研究はするものじゃないということを、私は、こっぴどく電車の中で教えられました。

 そういう上田先生。だから上田先生こそその意味では一橋の学風の一つのシンボルになるような、非常に幅広い研究者ではなかったかと存じます。みんな同じなんです。福田先生も同じなんですけれども、特に上田先生の場合にはそういう感じが私にはするし、それからそういうことの影響を受けたお弟子さんたちが非常に多かったということで
す。それほどの先生の影響もみな受けて弟子がいるんですけれども、全然専門領域の違う人でも、上田先生というとその判断には一目置いているというような経験が幾たびもありました。

   三浦新七先生

 三番目に申し上げなければならないのは、これこそ本番の三浦新七先生でございますが、三浦先生は初めは商業政策を勉強することを目的に留学された。これはある意味では左右田喜一郎先生も同じであります。要するに実務に関したことを勉強に行かれました。そして十九世紀末から二十世紀にかけてのヨーロッパの、ことにドイツの学問の影響を受けてああいう大きな仕事をされたわけですが、私としましては、すでに学生時代からこの気風をいまの次元でどういうふうにして一橋大学に再生させるかという課題があることを感じていたのですが、当時の高等商業では日本の産業調査を学生にやらしていたのであります。

 三浦先生は、学生時代に両毛地方の機織物の実地調査の報告をされておりまして、学生が各地域の自分の田舎へ帰ったら、田舎でなくてもいいんですが、そこの社会経済調査を夏休みなんかにやって立派なレポートを出した。いま図書館にそれが全部収められているんです。それで、東大をやめました本学の経済史の教授をされたことのある古島敏雄君が、一橋の百年記念にあの中のいいものをピックアップして出版すると一橋の学風のルーツがよくわかるんだということを言ってくれましたが、それはまだ実現化しておりません。しかし、そういう非常に現実というか実践的な問題の調査を三浦先生もされているわけですが、ドイツへいらしていろいろな人の、哲学者や心理学者からいろいろ影響を受けておりますが、一番大きな影響を受けられましたのは、総合的な文化史研究所の所長をしておりましたライプチヒ大学教授のカール・ランブレヒトであります。

 ランブレヒトという人は、それまでの政治史とか法制史というものに対して・文明史、文化史という歴史の新分野を拓いた人ですが、そしてまたこれを契機としまして有名な「文化史論争」というのが起こりますけれども、そういう専門の話はまた三浦先生のことをお話するときにゆずることといたしまして、その文化史的な方法を学ばれた。そしてランブレヒトとは違った形で自分の、いわば東洋をも含めたグローバルなというか、非常に大きなヨーロッパを超える体系ができないかという問題を抱えながら亡くなったというふうに思います。

   根岸佶先生

 ちょっと順序が前後しますけど、もう一人の根岸先生について簡単に申します。根岸先生は中国のことをあれほどよくー中国におられたわけですから、あの実態調査から中国の社会経済というものを非常に実証的に調べて、しかもその方法としてはヨーロッパの学問研究をも取り入れて、支那ギルドの研究とかいろいろの企業形態の研究、その他をなさったわけで・本学における支那学、中国研究の伝統は現在石川滋君がうけつぎ、この前この会で講演しました「一橋の中国・アジア研究をめぐって」というのに詳しく述、へられています。それは支那学の研究の大本山と言われます京都大学などでは見られない非常に実践的意味を持った研究でありまして、石川君が最もよくその伝統を受け継いでいる一人だと存じます。

   幸田成友先生

 以上、本学御出身の四人の方を挙げたわけですが、在野的というか、帝国大学に馴染まないような形を最後まで持っておられたというか、あるいはそういう研究で新しい領域を開かれたのは、私の恩師であります幸田成友先生だと
思います。幸田先生の一番大きなお仕事は何かと申しますと、それはあの全八巻から成る著作集のほかに、むしろ『大阪市史』を挙げなければならないと思います。『大阪市史』は七巻ありますが、あれはほとんど先生一人で書かれたもので、あれを基礎にして日本の社会経済史の徹底的な実証的研究をされました。そして江戸時代を中心とした研究が本学における講義になり、『江戸と大阪』だとか、それから先生の場合にちょっとハイカラなところがあって、西洋史の講義もされたわけですが、南蛮ものといいますか、耶蘇教関係のことに興味を持たれて、その研究の成果が、これも名著だと思います『日欧通交史』という本になって出ていますし、
 それから、先生は書誌学のことを非常にやかましく言われた。書物を非常に大切にされて、私はどこかに随筆に書いてだれかにわらわれたんですが、学生時代に先生の本を、重いからといって講義のときに私がお持ちして大学へ通っていまして、荻窪の駅で降りたら雨が降ってきたので先生の後をついていったら、濡れないかとおっしゃる。僕は大丈夫ですと言ったら、いやおまえじゃない、本が濡れないかということだ。(笑)それにはハッとまいってしまった。先生は自分がずぶ濡れになって、大きな貴重な洋書を抱えて行ったことがあります。とにかく書物を大切にされた先生で、日本における書誌学の分野では絶対に忘れてはならない先生でございます。

 それから、皆さんもお習いになったと思いますが、堂々たる日本史の概説を総合され、特に 『日本古代史の研究』という論文集を持ち、武家時代の研究においては画期的な業績をされた川上多助先生。私は学生のころ― そういうことをここで言ったら叱られるかもしれませんけれども、峯間さんと川上さんが同じ水戸学の伝統だというのでびっくりした思い出があります。お二人は全く両極端と言ったら変だけど、川上先生は非常に重厚着実な方でした。


   全体と結びつけて学問を考える

 以上申し述べました方々が第二期の方だと存じます。そこでこれらの先生方に共通しているところ、違っているところいろいろあるんですが、その問題を抜きにして、私はどの人の著作からも読み取ることのできる共通点から申し述べたいと思います。そのことについては、一番はっきりと、私には非常に好きな表現で、実は三浦先生が講義のときに述べられた文章がございます。ここへ持って参りました小冊子は『中央公論』に私が書いたものを、あとで三浦新七博士生誕百年祭のときに、村松恒一郎先生と増淵竜夫君の文章とともに三人の文章をのせたパンフレットになりまして、先生のポーレートとともに出ましたのがこれであります。そこで三浦先生は ー プライベートな話で恐縮ですが、私は三浦先生の講義は、先生が粛学事件以後来られて講義されたものは、鉛筆十本はど持っていって全部速記しました。全部わら半紙に書いて私の手元にこんなにあるんです。私はときどきその速記録をひもといては自分の戒めにしているんですが、これから申し上げることもその速記録の言葉で、先生が聞かれると叱られるかもしれません。

[この十二月クラブ・ホームページ「後輩の声」2003より]
18 「戦前の講義」
   
三浦新七先生講義録
   中路 信君(S32)提供
Click

 それによりますと、先生は講義の最初の時間に突如として言われるのは、つぎのような言葉であります。
「客観的な講義をする場所で個人的な自分の学問経歴を話すことは不適当だと思うが、それを少し述べておかないと自分の歴史に対する態度か明らかにならないから、まあ諸君雑談のつもりで聞いてもらいたい。昔、自分が高商の留学生としてドイツへ行ったときの目的は商業政策を勉強することであった。そう申すと諸君は私の学問的良心を疑われるかもしれないけれども、その当時私はしごく大真面目でそう考えていた。」
これは何の講義をするときにも一番初めにこうおっしゃった。そう言ってから、当時四百余州の経輪を論じ合っていた日清戦争直後の学生の気風をおもしろくお話しになって、そのときには、よく、たとえば根岸先生のような例をひいて四百余州を論じていた学生時代を回顧され、それに続いて、「こうした空気の中に育ったものであるから、学問をするということは全く治国平天下というプラクティカルな目的を出ていない。だから自分は何と言われようとも、学問のための学問などということはその当時も、また今日いまも全然考えていない。歴史を学ぶといっても、それがどこまでも、自分の歴史が実用を離れないのはここに由来するのである。」こういうことを言われるわけです。私にとってはびっくりした経験でありますが、同じ経験をされた方もあるだろうと思います。

 続いて、先生は、「自分の研究の動機がもともと社会学であるから、多くの専門の歴史家のように−― というのは東大などの歴史家を考えられておられるんでしょうが―個々の現象に対する喜びから学問を始めたのではない。個々のものへの喜びというのは、自分には研究の途中においての喜びであっても研究の出発点ではない。したがって個々のものを研究するときにも、ティピカルと言おうか、つまり全体に引っかけて喜ぶ、ないしは全体に結び付けて見るという態度である。そこが自分の歴史が大分邪道に入った素人の歴史であるゆえんだ。諸君はこのことをよく覚悟しておいてくれ。したがって、どうも理屈っぽくなる傾きがあるから、その点あらかじめ覚悟していただきたい」。

 これは非常にうまいことを具体的に言っておられるわけです。こういうのは、先生ご自分で原稿に絶対書かれていないことです。話というものは非常に大事だということは、速記録を読んで、途中ではさまれる雑談 ―皆さんの中でも、先生の講義なんか忘れたけど雑談だけ覚えている人はたくさんおられるだろうと思います―の中に大切なエッセンスがあるんです。こういう態度でヨーロッパの歴史を講義されたのですが、そのときには、これも御承知のよぅに先生の場合には国民性というものを非常に重視されるわけです。

 余り細かく入っていくと時間が足りませんが、しかし、とにかく先生はヨーロッパ精神というか、ヨーロッパ文明というのは全体としてどういう構造のものであっただろうかということをまず自分の大きな課題とされて、晩年になって、その物指しでは割り切れない非ヨーロッパ世界。とりわけアジアといいますか、私は記憶にあるんですが、先生は、ヨーロッパというものはこういうものだと言われてから後の晩年の御研究は、一番先はエジプトの絵画及び象形文字の研究であります。何か妙な鷹みたいなものや海みたいなものを黒板にどんどん書かれて、そこに含まれている意味を面白く話されました。その速記も私は持っております。

 それから、次は、仏教は余り話されなかったがインドのことも、主として芸術様式の方から講義されました。ついで中国のものには非常に興味を持っておられた。そしてだんだんと遠方から自分の国の方に近づいてきて、さてヨーロッパと日本、アジア世界とをどういうふうに結び付けたらいいんだろうかという方法の確立ができないかという問題をかかえられ、大変スケールの大きなテーマを晩年の課題にしておられたと思います。

   ヨーロッパ文明の源流

そこでまず論文で発表された例の『東西文明史論』に出ております順序で言いますと、ユダヤ文明、ギリシア、ローマ、この三つをヨーロッパの文化をつくる源として浮き彫りにされるわけです。ところが先生はいろいろなものを読んでおられるわけですけれども、いまのわれわれの歴史の勉強のような細々したことをどうと言うんじゃなくて、ユダヤ人というのはどういう考え方を基礎に持っているか、ギリシア人というものをティピカルに見るとこうだ、ローマ人というのはこうだということを出すことに努められ、まさに総合をめざす努力の積み重ねであります。だからいまの歴史家から言わせると、そんなこと言ってもローマ人だっていろんな人もいるだろうし、ギリシア人だっていろんな人がいたろうけれども、それをユダヤ人の宗教観、ローマの場合には法律、ギリシアの場合は哲学という代表的なものを取り上げることによって、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人というものを見て、時代がある時代から次へ移るときの過渡期で困り抜いている人間の姿といったものは先生は余り問題にされていない。

 ところが、妙な言い方ですが、私のようなだめな歴史家は、その困り抜いている人間の群像や過渡期の社会をつかみたいんですけれど、先生の場合非常にコンクリートな形でティピカルなものを追求されるのであります。

 そこでこういうふうにおっしゃる。結論だけ申します。いまヨーロッパをつくっている三つの要素の中で1これ
は私の言葉ですが ― 主知的にして同時に個々の事象の底に潜んでいるユニバーサルなものの本質を観照することのできる目の人がギリシア人だ。それに対して、実践的にして同時に個々の事象を実在と考えて、その底にある普遍的な本質を見抜くことのできない、それ故に多元論的な人、意思の人、それがローマ人であって、ギリシア人とローマ人とは対照的なあり方だと言われる。これの例証は、つまりローマ人というのはしょっちゅう外敵を受ける中で、そして次々と戦争しなくてはいけなかったから、ものの本質とは何かなんて考えているゆとりがない。個人の生活で言えば、子供のころから苦労してきた人は、じっくり目の人なんかにはなれないので、次々に対応している中で生活の技術というか、処世のフィロソフィーを体得できる。非常に実践的である。それはどういう人たちですかと言ったら、たとえば岩波茂雄を見ろなんていう話をされたことがあります。つまり、手ぬぐいで顔をふきながら仕事をして、ハンカチなんか持っていない。ああいうのが真の企業家というものだ。ところがギリシア人はそうじゃなくて、それぞれ地理的に小地区に区切られた海岸に面した非常にクリアな狭い地域の中で、奴隷制をふまえて市民がポリスをつくって、そのポリスの中に住んでいれば、そこの社会生活に当てはまることは世界じゅうどこへでも当てはまるはずだという、非常に恵まれたというか、そういうところにおける貴族的市民のインテレクチャルな生活の粋が哲学的思考になっている。いろいろ異論は私自身もあるのですが、そういうふうに言われるわけです。そしていわゆる両者の中間に、ローマ人と同じく実践的、多元論的でありながらも、個々の実在が自存する力を欠くところから比較を絶したただ一つのものを神と考え、神の意思はこうであろうと推測しながら律法を厳重に守って生活していくのがユダヤ人の生き方だ。自立的にできないから律法というもので、日に何回拝むとかどうするとか、そういう規則を守っていくことが神の意思に合うものだという生き方をしていくところにイスラエル人の生活があると、こういうふうに説かれるわけです。

   「キリスト教的統一文明」

 それからあとがヨーロッパッパ論になるわけです。すなわちこれらの古代文明はユダヤの論理を中心に実践的に統一され、絶大な権威によりその意味的統一を保持しようとするのが、愛の宗教として確立した中世におけるキリスト教の教会文化であった。こう説いて、これを先生は「キリスト教的統一文明」という、これは先生が好んでよく使われた言葉です。つまり三つの源泉があって、中世というのは一つのキリスト教的統一文明だ。そこからして、やがて各国の国民性を持った諸国民文明が出てくる。三つから一つのものになり、その中から各国の国民性が出ると、こう説かれる。キリスト教的統一文明。その間から自我の自覚とともに近世に入って諸国民の文化が細分化せざるを得なかった。
ルネッサンス及び宗教改革をきっかけとして形成される国民的自覚の過程がそれである。イギリス、ドイツ、フランス、イタリアというようなもの。イタリアのことはあまり詳しくは言っておられませんけれども、そういうお話しをされる。

 そこでそれについてこう言われるわけです。ヨーロッパの十二、三世紀については、実におもしろいたとえを引かれるんですね。先生は山形弁を使われて、おたまじゃくしのことを「げーるこ」なんておっしゃって、げーるこが一ちょ前のげーるこになるときはといった調子で、はじめ何のことを言っておられるのかと思つて聞いた覚えがあります。こんなわけで、十二、三世紀は、たとえば四、五歳の、カエルで言えばげーるこが未成年者で、この未成年者が巨万の富(キリスト教文明) を共同に相続した場合、その後見人(教会が後見人であると考えておられる)が、一時その全遺産を宝の蔵の中に保管し、その中からおのおのがそれを維持する力量の発揮に応ずるだけの物資を小出しに渡して活動せしめ、おもむろに青年期の来るのを待つというのが、十二、三世紀から近世へかけての状況である。つまり古代的文明の宝庫の中から、青年になって個性ある文化をつくっていく、その力量に応じて教会がそれを与えてやる。非常に素晴しい表現だと思います。具体的的にこの内容を肉付けするだけでも一生かかってしまいますが、そういう状態であるから、力量に応ずるだけの物質を小出しに教会が渡して活動せしめ、おもむろに青年期の来るのを待つという状況であるから、その維持、すなわちイギリス、フランス、ドイツ、イタリア等の国民の青年期以降におけるその活動振りを見んとするわれわれは、単に未成年期に実現された文明のみならず、宝庫の中に埋蔵されて利用せらるる時期を待ちつつある遺産全体の財産目録に目を通さなければヨーロッパはわからない。こう言われるわけです。

 これはまさに歴史家です。つまり、イギリスの歴史、おれはドイツの歴史なんていう専門家ではなくて、それが出てくるためにはキリスト教的統一文明という宝の蔵の中にどういうものが入っていて、そのどれを引っ張り出すことによってイギリス国民性ができ、どれを自力でおれのものとするという力がフランスにでき、ドイツにできるか。その過程を調べる。こういうお考えであります。

 「このようにしてキリスト教的統一文明の時代である中世の中から、だんだんに多元論的経験主義的なイギリス国民性、二元論的なフランス国民性、そしてその中間にあって多元論と一元論とを動的な論理で結び付けようとするドイツ国民性などが分化するが」そういうふうに分けまして、特に先生はランブレヒトの影響を受けているわけですから、ドイツの国民性に最も関心があったのは当然でありますけれども、ドイツの国民性というようなものを「全体から個体を説明せんとする総体主義と、個体から全体を説明せんとする個別主義との中間にあるもの」と言ってみたり、あるいは「ギリシア文明とローマ文明とを融合せんとするもの」と言ってみたり、ゲーテの『イタリア紀行』だとか、エッカーマンの『ゲーテとの対話』とか、ああいったものを引きながら論証されるのですが、そうした詳しいことはまたいつかの機会に申し上げることといたしましょう。

   ∃ーロッパ世界と日本

 先生の場合はそういうふうにしてヨーロッパというものの文化要素というか、あるいはそれを国民性という問題でとらえられている。そこまでやられたあと、今度、自分のいるところは日本だと。自分は日本人だということになりまして、それで晩年は、先ほど申し上げたように自分の雲のことを、つまり非常に個別的なものの中にどんな意味があるかを、ヨーロッパを片方で考えながら、非ヨーロッパ世界をどうしたらいいかということを考えるわけです。これがまた徹底して個別的なものに興味を示される。

 たとえば山形の地名研究。いま、われわれ盛んに地名学研究所なんてつくってやっていますが、地名はどんな由来かということの研究をする。それから出羽の柵の発掘をやる。とにかく個別的なものに対する瞬間的感動というか、愛着は非常に強いんです。それでいてそれをどう意味付けるかということになると、非常に大き自分の世界観的なところで考察しようとする。これはまさに巨匠の業であります。初め、両毛の機織物の研究から出発されて、ヨーロツパの学問というものを見て、そして帰ってきて、象形文字から中国の芸術や歴史まで、それから何よりも日本、「橋叢」に出された「西洋文明と日本精神」という大論文。あれが先生の印刷されたものとしての最後のものであります。

これは余談ですが、「一橋論叢」という雑誌は、確か原稿枚数が大体決まっていまして、原稿料はそれ以上いくら長く書こうがたしか五十円ぐらいしか出せなかったと思います。そのとき先生はあの長い論文を書いて下さったが、規則によって五十円しか差し上げられませんでした。あれが最後にまとまったもので、まだ発表されない遺稿がたくさんあるので残念でなりません。

 なぜこんなことを申すかといいますと、私はいまちょっと詳しく述べ過ぎました三浦先生のお言葉の中にもありますように、さきに挙げた福田・上田・幸田など話先生、つまり一橋の黄金時代における話先生の御研究には共通している面もあるし、もちろん違った面がありますが、大切なのは共通している面でして、これを俗っぽく申しますと、いわゆる帝国大学文学部史学科では、西洋史、日本史、東洋史、考古学というふうに分かれているわけでありますが、そういうものとは違って、何度も申しますように、社会や経済、商工業、農業、そういうものに重点を置くと同時に、いわば在野的精神といいますか、庶民生活に重点を置くと同時に在野的な精神を持っておられた。したがって三浦先生の一番好きな言葉は ″素人の歴史″だということでした。その素人というのは非常に自由なんで、そう狭いきめられた領域にとらわれないで自分の問題意識を勝手に提起できて、そこで自分で苦労することのできるという領域だから素人がいいんだと。その意味の素人であります。それが一つ、在野精神。これは幸田先生が根底に持っておられた姿勢であったと思います。

 もう一つは、西洋の学会を非常に正しく知りながら、問題関心の中心はあくまでも実践的であって、日本社会の学問的位置づけ。その意味で大変高い次元での実学というものの実例を身をもって示されたんじゃないかと思います。

 だからそういうところからいろいろ今日に残っている問題が出てくるのでありますが、その違った点を結論的に申しますと、全体を総合しようというような、そういう総合的把握の意欲、歴史観をつくりたいという三浦先生に代表されるような人と、幸田先生に代表されるような徹底的な実証主義であります。なぜこういうことが言えるのかという問題。これは後でちょっと触れるかもしれませんが、私ども三浦先生のお弟子の村松恒一郎先生だとか、上原専禄先生だとかがつかれたアルフォンス・ドプシュというウィーンの先生がいますが、ドプシュはゼミナールのときの報告を聞いて、何度となく学生に質問することばは、「そうであるかもしれないが、そうでなければならんという理由は何だ」ということばでした。つまりその理由を史料に即して説明せよと言われるわけです。これはいわゆる実証によるよりしょうがない。しかし、実証と言ったってあらゆる史料で実証できるわけがありませんから、何がインポータントだということをどうして考えるか。その練習をゼミナールでやったわけです。幸田先生の場合には書かれたものを見ましても、何もすべてのものが史料的に書いてあるんじゃないんですけれども、ちゃんと根拠として、なぜこういうふうでなければならんかということの実証性においてあれほど優れた研究はありません。いまでも、たとえば米相場の変動についての数字なんていうものはあれほど正確なものはないのであります。

 そういうふうな、私ども、いわゆる帝大文学部のようなやり方にとらわれないで、日本のこと、東洋のこと、西洋のこと、そういうようなものを垣根を取り払った中で、日本の現状、日本の社会経済、庶民生活というようなものをどう学問的に位置づけて、そして外国人にわかるようにするか。日本は独特だなんていうことを言っていたって、それはだめなんです。独特さかげんが外国人に学問的にわからなければ困る。そういう問題を提起されたのが第二期の立派な先生方の御業績だと思います。三浦史学についての細かい話はいつかまたさせていただく機会があろうかと思います。

   四学部体制と専門化、細分化

 
それに続く第三期。これはいろいろありますけれども、わかりやすく言えば、一橋大学が四学部を持つということと関連しまして、日本の学問が、人文、社会科学の研究領域でもいたずらに分化し専門化してしまったことと関係があります。しかし、そこへ移り行く過程においては、たくさんの弟子たちが前述の先生方の影響の中から出てきたわけであります。

 たとえば、これもいろんな関心を持っておられますけれども、日本経済史について言えば、猪谷善一先生。これも上田先生の流れを組んでいる先生です。それからイギリスの経済思想、社会思想でいえば・金子鷹之助先生。それから、またその兄弟弟子になりますが、亡くなった小原敬士さん。それから上田先生の後をつがれた山中篤太郎先生の労働運動史や中小企業論。いまその跡を継いでいるのが外池君でございます。三浦先生からは村松(恒)先生だとか、亡くなった上原先生。法制史における町田実秀先生。根岸先生からは亡くなった村松祐次君とか前述の石川滋君。あるいはいろんな影響を受けて三浦先生の晩年のお仕事と関係深いかたちで、中国古代史で業績をしめしている増淵龍夫君。それから後の若い人のことはもう話しませんが、いっぱい歴史関係の若い人がおります。しかし、そのいっぱいいるということが、それじゃ歴史科学、歴史学が興ることになっているかというと、そこに問題があると私は思います。すなわち専門家がそれぞれの領域にはたくさん出ているんです。ちょっと数えてみましたら、昔はほんの五、六人の先生しか商大時代にはいなかったのに、いま四学部全体を見まわしますと、西洋経済史は西洋経済史の専門家。
それも中世史もあればビサンチン史もあれば・近世史もある。それから、日本経済史の専門家。それも中世社会の専門家、江戸時代の専門家、明治以後の専門家。また東洋史の各時代の専門家。そういうふうに分かれて、さらに社会思想史・経済思想史とか、あるいは商学部における経営史とか、法学部の法制史、社会学部の社会史とか四学部が分かれたことと関連しまして専門化が起こりまして、正確な数え方がむずかしいんですけれども、そういう歴史関係の講義を持っている人は、現在の一橋大学だけで二十人近くもいるのではないかと思います。

 その点、私は哲学の伝統というものは大変さびしくなってしまったと思います。それから、文学の方の伝統もさびしくなった。それはしかしいろいろな理由があるんでしょうけども、とにかく歴史関係の部分が非常に大きいということは否定できません。


   総合化の必要

 そこで問題は、学問はそういうふうに分化し専門化するということ自体非常に大事なことであるんですが、三浦先生の先ほどのお話について申せば、国民性とかいうときに、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアというようなものでとらえるという見方で、果たしてグローパルな世界史観ができるんだろうかという問題。このことにつきましては私自身が疑問を持っています。中国の国民性と言ったときに、何を一体考えるのか。あの広い中国のどこの国民性なのか。中国では、この間私は十五日間はど旅行して感じたのですが、かつての満州すなわち今の東北地域と、それから北京を中心とした揚子江以北と揚子江以南の地域、それからチベットなどの遊牧の民のいるところと、中国のというときにどこのことを言ったら中国か。中国人が歴史を考えるときの考え方の中国的なものはわかります。それは中国の史書を読めばわかる。『史記』を初めとしていろんな史書が出ていますから、中国人というものはこういう歴史の考え方だということはわかりますけれども、生活の実態は全くそれとはかけ離れている。そういうことを考えるものですから、二十名いたってそれは構わないんですが、大事なことは、こういう先輩が黄金時代に四人ないし五、六
人おられた。そこにつらぬいておる実証的な考え方と総合的な考え方の融合というようなものを、いまの学問の専門化した段階では、とても一人でできるものじゃない。三浦先生のような人でも、東洋も含めて全体の構想というものは出されずに亡くなっている。だから、ましてわれわれのような非常に細かいことをやっている者が、一体その問題意識をいまに受け継ぐときにはどうしたらいいかというと、それは専門の違ったところをやっている人が集まって、問題意識を通じていろんなところから自分の意見を出し合うという場をつくっていくことが大学として非常に大事である。例えば長期的なシンポジウムをやってもいいし、少し継続的にそういう共同の研究をやってもいい。自分はこれだけの専門家でほかのことは知らんと言わさないような学問的雰囲気を、一橋大学としては中期黄金時代の伝統にそれこそ結び付けて再構成する時期がいまきている。幸い如水会館が新しくなったわけですし、学校でこういう場を利用して、われわれも入って中期黄金時代の問題を、より大せいの人によって日本に実践的な学問的な位置づげをするような場をつくるというのが、私の歴史学の領域から言っても非常に大きな課題である。こんなふうに考えるわけでございます。

 大変粗雑なお話でしたけれども、これをもってひとまず私の講演を終ることにいたします。ご清聴どうもありがとうございました。


   補 足

 私から補足的に説明させていただきます。別に話す機会があるんですけれども、十八、九世紀の学問をやった人というのは、国民というような考え方が既定の事実のように、国民性とか国家というものを考えられるわけです。しかし、長い歴史を見ていったときに、そんなに国民というものがまとまっていたかというと、全然まとまっていないわけです。だからそこのところで、ことに庶民生活との関係ということになりますと、われわれ社会学的な方法が必要になるんでしょうけれども、各種の社会集団とか地域集団があるわけです。そこで、まず地域集団の歴史というものをやってーフランスの歴史学界がそうなんですが、地域史から積み重ねてフランス史学というのはできている。ドイツもそれに似たかたちをとっていまして、特にこのごろ各州や各地方の地域史研究が盛んですけれども、日本の歴史学界というのは地域史研究の積み重ねによる日本史というものじゃなかったんです。明治以来からの伝統として中央史壇中心であった。ようやく最近にな三て地方史とか郷土史とかのはかに、学問的な地域史ができてきた。こんなわけで、日本の歴史学の発展の仕方はヨーロッパから受け入れたものですから成立過程がいわば逆になってしまっている。その前、徳川時代までの新井白石であれだれであれ、そういうのはむしろ幕府とか時の権力というような、治める側からの歴史学であったんですけれども、いま具体的な人間集団の多様なあり方をそれとして、非常に総合的に理解する方法というのはどうしたらできるのか。

 それから、それを積み重ねてより広い地域に、どうしてこれが国民となるのか、あるいは国家となるのかという問題があるわけです。英、仏、独とわれわれすぐ言いますのは、これは十九世紀的な考え方であって、オランダやベルギーもあればルクセンブルグもスイスのような国もある。また一時はオーストリアハンガリーなんていう妙な国家もあり、もっとさかのぼればハブスブルグ家なんていうのは、スペインも治めている、ネーデルランドも治めている、もちろんオーストリアが中心である。この全体が一つの国家であるというのはどういうことか。国家、国家と言うけれども、何らスタビリティを持ったものではなくて、非常に流動的である。一番流動的でなくて落ち着いているのは何かというと、山や川に区切られた地域とか、あるいは細かく言えばコミュニティとか、あるいはもっと基本的に言えばファミリーあって、そこのところをしっかりおさえて置かなくてはならない。そういう問題になってきまして、
いまの歴史学では余り国単位の歴史の勉強というのは、それは大事ではあるけれども、基礎の、大小さまざまな社会集団の重層的なあり方を調べるのはどうしたらいいかという、そういう研究になっているんです。しかし、学界がそうだからといって何もそれに従わなければならん理由は毛頭ないわけで、私どもとしましては、福田、上田、三浦、根岸、幸田というような先生方のやられた仕事の意味を自分の力量に応じてではありますが、きょうお話ししたようなことを共通に胸に抱いている者が相集まって、それぞれの専門家、そしてその問題を議論するというような気風をどうしてつくるかということが四学部を持った―経済研究所もあります、産業研究所もありますから、そこでは歴史研究の部門が大部ありますが、もう少しみんなでそういう問題を考えようじゃないかという必要を痛感する次第であります。みんな一人、一人ばらばらな研究で、一人、一人は立派な学者であっても実践的な時代の課題というものが、大学全体として特色を発揮するように自覚してほしい。その意味で、私は何と言いましても、高商の末から商大時代というのはとにかく素晴しいルネッサンスだったと思います。

 しかし、いまだめじゃないかと言われたって、学問がそういうふうに分化したのですから、下手に総合的なことを言うとジャーナリズムになってしまう。ジャーナリスティックな発言はだれでもしますけれども、学問的にじっと考えた一つの建築物をつくる。これがむずかしいんです。私が学生のころに、三浦先生が兼松講堂を御覧になって、建築家というのは素晴らしいな。ああいうものをつくるのかなと言ってしばし感嘆されて立っておられたけれども、そのすぐあとで「なーに、学問だって世界征服だから、いまにあのぐらいのものは、学問の分野でできるよ」とおっしゃった。これはすごい人だなと思って恐れをなしたことを覚えています。しかし、あれくらい、個別的な私どものやっていることにも興味を持ち、全体の構想に対して関心を抱いた歴史家というのは珍しいと思います。そのかわり私どもは叱られてばかりいましたけれども。


   [質 疑 応 答]

 中島 どうもありがとうございました。
 先ほどの三浦先生のお話の中で、三つのそれぞれの民族の文化というか、考え方の違った民族が、キリスト教文明、キリスト教社会ということで統一されて、それからまた現在のヨーロッパ社会のそれぞれの文明のあり方というものに展開してきたというお話がありましたが、これまことに平明に筋書きを述べればそのとおりだし、非常にわかりやすい話ですけれども、三浦先生が果たして、そのほかにヨーロッパの、当時はローマ世界に対していわばバーバリアンと言われた北欧のオーディンを中心とした神々の体系といったものを考えて、特異な自分の生活体系と結び付いたような神話体系を持っている種族がかなりいたということ、あるいはイシスを中心としたエジプトあたりのハム族の考え方の体系というものがあった。

 そういう連中が、三浦先生がいうように簡単にキリスト教文明の中に、自分の昔からの考え方、あるいは祖先からの考え方というものを捨てて溶け込むことができたものかどうか。これは増田先生が自身の問題とされている、そういう国民の歴史とか国家の歴史と言うよりも、個々のそれぞれの地域に住むレギオンのものの考え方というのが、本当の実態して大切なんじゃないかと言われる増田先生自身のお考えとも結び付いていくわけですが、その辺キリスト教的な考え方にみんな統一されて、自分の古来からの考え方というものを捨ててしまったというふうにナイーブに考えていいのかどうか、その辺についてひとつ伺いたいと思います。

 増田 
大変大きなむずかしい問題ですけども、私の考えを述べるんじゃなくて…・。

 中島 
三浦先生と増田先生をご一緒されて……(笑

 増田 
それはごちゃごちゃになってしまいまして、ちょっとむずかしいんですが。
いま、イシスだとか、あるいはエジプトの研究というようなことについては、ギリシア神話なんかとの関係で、エ
ジプトのことに非常に興味を持っておられたことは事実です。しかし、先生はどういうわけか、いま学界で重視されている「エッダ」とか「ベオルフ」だとか「サガ」にあるようなゲルマン人の特色というものに対しては、ほとんど関心を示されなかった。講義でもそのお話はなかったですね。

 しかし、そういうときにキリスト教的統一文明と言うと、何かきちっと箱ができているようだけど、そんなこと言
ったって、たとえばスウェーデン、ノルウェー・デンマークにキリスト教が入るのは責族の中から入っていく。ローマにキリスト教が入るのは、虐げられた者、あるいは貧しき者からキリスト教が起こってくるんですが、北欧へ行きますと、ドイツでもそうですが、北へ行けば行くはど貴族の側からキリスト教が利用されて、そして十世紀ころからスカンジナビアがキリスト教化される。民衆の生活というのは全く異教徒の生活が残っているわけです。

 私どもの専門にやっている八、九世紀の史料を調べますと、カール大帝、あれをみんな偉い偉いと言いますけれども、あの人の出した勅令、法令を見ますと、日曜日には休め、日曜日に仕事をするやつがまだ絶えない、絶えないということが毎年出てくるんです。ちょうど徳川時代の貨幣亜鋳を戒めると同じように。それから、大きな樹木を拝んじゃいけない。石や山を拝んではいけない。ゲルマン的な信仰に対する否定、禁止令というものが、九世紀、十世紀になっても出てきます。そうしますと十世紀ごろにスカンジナビアがキリスト教化されると、民衆が本当に日常生活にキリスト教的になるのは、あの間にペストもありますから、十四、五世紀ぐらいになってくる。そうするとルッターが起こって宗教改革が起こるのは、北の方が適合関係にあるということは、カトリックにならない地盤がずっと昔からそこにあるんですね。もちろんルッターとゲルマン宗教とは違いますけれども、南とまるで違った生活感情が残っていたということは否定できません。

 それと地域の問題ですが、これはまた別のときに。

 中島 その問題が本当にキリスト教文明に、三浦先生がおっしゃったように、自分自身の各民族の持ち続けた考え方を捨てて入り込むことが本当にできたのか。三浦先生はそう信じていたのかということと、それから、増田先生自身はまた違うと思いますが。

 増田 もちろん、その当時三浦先生のとおりに考えませんが、それはなぜそういうことになるかというと、先生の使われている史料というのは、知識人の、いわゆる「記述家」といいますか、僧侶や蛮族の家の書いたもの、あるいはエリートの書いたものを使われるわけです。つまり庶民生活のじかの史料などは使われない。
ですから、このことはやっぱり三浦先生の生い立ちとか、そういうものと関係があるわけで、私のような惣ともに貧しいものとの違いが関係していますね。豪族と言ったら変ですけど、一族の長というか、とにかくでーんと構えておられるんですよ、歴史を学ばれるときの姿勢にも。(笑) 私なんか百姓の枠ですから、とにかく何もかもおもしろいんですが、その中から自分の問題を探っていこうとするんですけども、そんな有象無象の書いたものなんかなくたっていいじゃないかというお考えでしょうね。これはわれわれの生き方でもあると思うんです。いまはそうしたエリー卜意識がだんだん少なくなって庶民性が強くなっていますから、私としては結構なことだと思いますけれども。やはりわれわれの習った先生方の生活様式は、いまの大学教授なんかとはまるで違って、どこかでーんと構えていました。経済状態から見ましても。つまりいろんな意味でエリートだったんですね。

だから、美術を語る時でも、一流のものを重視された。ところが私などは彫刻のことはわかりませんけれども、絵を見るときでも、全然名の知らん人でも好きな絵の前には長く立ちますけれども、有名な人だからという考えは私にはまるでありません。そこが昔のエリートと違うところなんだなあ。

 増山 昭和八年の増山でございます。   
 ちょっと本題を離れるかもしれませんが、第二期の福田先生が『日本経済史論』を書かれて、坂西先生がそれを訳された。ところで坂西先生は晩年に神戸大学で日本経済史の講義をしておられましたけれども、一体その講義はどんなふうな内容のものであったか、あるいは坂西先生はどんな歴史観を持っておられたかということに興味を深く感じるのですが、その資料が全くありませんので、もし何かヒントでも結構ですからありましたらお教え願いたいんですが。                             

 増田 坂西先生と最も近かったのは宮下孝吉さんですね。私は坂西先生の歴史観というのは、やはり歴史学派の発 展段階説を前提にした講義じゃなかったかと想像していますが、それは調べておきましょう。何かあるかもしれません。
ああいうのを経済史の古典学説としてザーツと風靡した時期があったわけですが、私どもが習い出した時代は、たとえば、先ほどの村松、上原両先生の先生であったウィーン大学のドプシュに見られますように、これまた非常に実証主義です。その限りでは、幸田先生と非常に似ているんです。そういうふうに僕ら教わって、例えば学長になられる以前の上原先生の歴史家としてのお仕事を考えているわけですけれども、それ以後になるともう思想家的になられてちょっとついていけないこととなりました。ところで、ドプシュの実証主義と一般にいうのですが、ドプシュという人が、果たして本当に幸田先生流の実証主義であったかどうかということになりますと私は若干疑問に感じています。というのは、それは日本とドイツとの違うところで、幸田先生の場合には歴史学派におけるポレミークというか、論争ということを余り気にされない。ドプシュという人の場合は、何でもいままでの学説を全部やっつけてしまうことに重点が置かれて、それを史料的に、これはだめだ、これはだめだという行き方が基本的にあります。少くとも叙述の表面ではそうなんです。
幸田先生に論争めいた論文というのはありますか。

 増山 あまりないでしょうが、東大のなんとかいう先生のもの・・・・。

 増田 それは気にはなっておられたし、本庄栄治郎さんの書物をこっびどくやられたことは覚えておりますけれども、しかし学問の姿勢としての論争ということではないんですね。ところがドプシュという人の場合には歴史観の問題からの論争なんですね。

 増山 あるいは石井良助さんですね。

 増田 石井さんはまだご健在ですからよしましょう。(笑)
 しかし、いままで申したように、−橋というのは東大や京大に見られないような気風のルーツがあるんです。
私が一番心配するのは、今日のように東大と同じょうなかっこうに学問が余り専門化したために、たくさん専門家の先生がいるけど、それを総合してそのルーツとのかかわり合いにおける学風を育てようという気風が起こってこないことを非常に残念に思います。そういうことの工夫が大学として大事なことではないでしょうか。それだけの力量を持ちながら共通して、共同の、それこそ建学精神じゃないか、学風というものを育てようじゃないかということをもう少し自覚すべきじゃないかと思います。

 それから残念なことに、これは私も責任があるんですが、日本経済史の伝統というものは、一時絶えまして、そこで高島敏雄君とか、豊田武君、あるいは永原慶二君、佐々木潤之介君などという東大出身の方々に講義をお願いして来
たのですか、最近になりまして  最近と言ったってもうだいぶ以前ですが、中村政則君というのか出て日本史をやり出し、日本経済史をやる人がどんどん出てきだしたものですから、一橋の中から日本社会経済史をはじめ、西洋や東洋の社会経済史を専攻する非常に優れた人がいまの三、四十代の人たちの中にたくさんいることは大変力強いことだと思います。ほかの歴史部門でも大ぜい若い人がいますから、決して東大や京都大学に負けない学風の素材はあると確信しています。現職の人たちの業績を述べることは、現役の先生の講演にゆずりたいと思います。
                                      (昭和五十七年十月七日収録)