一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第二十号] 一橋商法学の形成と米谷博士の企業法論    一橋大学法学部教授  喜多 了祐


   はじめに

 御紹介いただきました菩多でございます。この 「考える会」 では、すでに法学畑から大平先生と吉永先生との御二方がそれぞれ大所高所から全体としての一橋法学というものを回顧し展望する貴重な、いわば総論的なお話をなさったと承っておりますので、いまさら私が蛇足をつけ加えることはないと思ったのでありますが、このたび、新井先輩から、現役の法学部教授も出て話をせよという御要望がございまして、私も、このところ創立百周年記念の大学側学園史編集委員長を仰せつかり、やっと、ただいまお回ししっつあるような『一橋大学学問史』と題する仮印刷本をまとめたばかりでございますので、せめてこの中に自分が執筆を分担した範囲内の各論的なお話ぐらいはお引き受けせねばならぬような若干の義務感を覚えた次第でございます。

 そこで本日のテーマは、「一橋商法学の形成と米谷博士の企業法論」ということに限定させていただきまして、一橋の商法学がどのような源からどのような流れで形成されたかを顧みる中で、私の指導教授であられた米谷隆三先生の学問、特にその企業法論というものを泣置づけてみたいと、かように考えておるわけでございます。なお、今度『一橋論叢』 の四月号が新入生を対象といたしまして、「一橋の学問」と題する特集号を組んでおりまして、今回の 『学問史』 の中から幾つかの論稿をやさしく書き直して再録しておりますが、私の執筆分も収めてありますので、本日はそれをできるだけ卒業生向きに焼き直しましてお話をさせていただきます。


   一橋商法学のルーツ

 はじめに、一橋の商法学のルーツはどこにあるかといいますと、これはやはり本学の起源とされる明治八年創立の
商法講習所にあると一応言わなければならないのでありますが、ただそこに商法と申しますのは広く商業のことでございまして、英語で言えばウェイズ・オブ・トレィドを指すのでありますから、恐らくは、たとえば孫子の兵(
法)といったときの兵(法)と同じく、そもそもはアクセント・オン・ザ・セカンド・シラブルで、商(法)と発音したものでありまして、コマーシャル・ローを意味するアクセント・オン・ザ・ファースト・シラブルの(商)法とは元来発音も違っていたんじゃないかと思われるのでございます。

 有名な福澤諭吉の筆になるという商法講習所設立趣意書を見ますと、「剣をもって戟うの時代には剣術を学ばざれば戦場に向こうべからず。商売をもって戦うの時代には商(法)を研究せざれば外国人に敵対すべからず」と、はなはだ勇ましく書かれてございますが、これを現代風にアレンジすれば、産業の国際競争力をつけるための「学問のすすめ」といたしまして、武力による兵法との対比において商(法)というものがいかに大事であるかを説いているわけでございます。このところ三年連続国際競争力世界一を誇っておりますわが国産業の現状から見ますと、まさに隔世の感があるわけですが、当時福澤諭吉があのように激しい調子で書きましたのも、やはり時代精神のあらわれと見るべきでございまして、明治元年江戸城明け渡しとともに維新政府が城内に、まずもって商(法)をつかさどる商法司というガバンメント・オフィスを設置したあの政治背景と同じく、維新戦争というシビル・ウオーを勝ち抜くための兵(法)から、早くも戦後殖産興業のための商(法)へと発想の転換があったことによるだろうと思います。後に渋沢栄一はこの商法司設置につきまして、「兵革騒乱の際すでにこれを置く」と述べまして、上野の山にまだ砲声が殷々(いんいん)としてとどろいているころ江戸城内に商法司が設置されましたことの先見の明をほめ讃えているのでございますが、この人こそやがて東京商(法)会議所、後の東京商業会議所のリーダーとして、発足間もないわが商法講習所を、資金面でもいろいろと助けてくれたわけでございます。一方、肝心の教育面におきましては先進商業国アメリカから、当時の文書によれば、これまた商(法)学士の肩書きを持つホイットニーが招かれて主役となったのでありますが、当時の授業内容は、商(法9)と申しましても商業をいかにやるかという方法の知識ですから、商業簿記、商業算術など商業実務に必要な一般知識でございまして、学問的な体系をなしておりませんでしたから、法律関係でも大した講義も研究もなされておらなかったと想像されているわけです。

 しかし実は、私ども学園史編集委員会では、ただいまの『学園史』のほかにいまひとつ『学制史』と申しまして、
創立以来の学則、学科目の改正を中心に御覧のような資料集を八分冊にまとめあげているところでございますが、これによりますと、当時商法講習所の授業要領に、商法律書という名称で「タウンセント氏商律」という科目名が掲げられております。これは原書講読という趣旨であろうかと思われますが、この原書がいまも本学図書館に所蔵されている、あのカルビン・タウンゼンド、『ア・コンペンディアム・オブ・コマーシャル・ロー』一八七一年(明治四年)で、セカンド・エディションが現在残っておりまして、それを開きますと生徒用という判が押してありますので、まごうかたなき原本であろうかと思います。ニューヨークで発行されたものでありますから、アメリカ(商)法の教科書でございます。副題がついておりまして、ビジネス・カレッジ・アンド・ユニバーシティズで使用するものであると書いてございますから、要するにアメリカの商科大学で使われていたもので、これを商法講習所の生徒は一心不乱に読まされたということがわかります。

 内容を見ますと、今日アメリカで言うビジネス・ローの教科書とほとんどそっくりという感じでございまして、初
めに契約(コントラクト)、次にネゴーシャブル・ペーパー、第三章にエージェンシーそれからパートナーシップ、
コーポレイションズというような順序で説き進んで、最後の方がマリン・インシュアランスで終わっているわけです
が、そのコーポレイションズというところに、これはアメリカの教科書だということがわかります。カンパニーとは67

書いていないわけでございます。何しろ当時まだ日本商法典そのものができ上がっておらない時代ですから、こういった原書講読もやむを得なかったと言えましょうが、このようにアメリカ(商)法の原書講読が行われたというところに一橋商法学のルーツがあるという事実は、大変注目すべきことだと思います。

 法律の教育が講義の形式をとるようになったのは、八十周年記念座談会の記録を見ますと、明治二十年一橋の高等商業学校になってからであるというふうに述べられておるわけですが、これも私ども調べましたら必ずしも正確ではございませんで、初めは原書講読が行われたようです。商法関係ではイギリスの商法書が使用されたということが公式記録にございまして、それは「スミス氏商法」というふうに授業要領に書いてございます。本学図書館の川崎操さんが丹念にその文字を原本に当たって調べてそれをファイルしているのですが、これはジョン・ウィリアム・スミス、『ア・コンペンディアム・オブ・マーカンタイル・ロー』という書物で、一八八七年、ちょうど明治二十年にニュー・ヨークで発行されたものですけれども、この本はアメリカ(商)法の教科書というよりも、元来イギリス(商)法の教科書でございます。今日わが国の商法教科書をひもときますと、「英米商法学説史」ということを書いたところには、一番最初、スミスの『マーカンタイル・ロー』を挙げているのですが、この本は、『日本商法草案』を起稿したヘルマン・ロエスレルがやはり参酌しておりまして、今日その名残りと思われる条文は商法五〇四条でございますが、匿名代理の原則規定、アンディスクローズド・エージェンシーのルール、これは実にスミスの『マーカンタイル・ロー』から取ってきたということが書かれているわけです。その本を東京商業学校、さらにその次の高等商業学校がテキストに使っていたということで、大変意義深く思うと同時に感心する次第でございます。

 講義方式をとるようになったのはいつからかということは、下野直太郎先生の書き残されたものでわかったのですが、講師陣に東京帝国大学法科大学教授梅謙次郎博士を迎えてからであるということで、梅先生は口述筆記の形で初めて商法を中心にその前置きとして民法の基礎知識などを講義なさったということが語られておるわけでございます。恐らく梅先生は現行商法典、すなわち明治三十二年商法典の起草委員でございますから、大陸法系の考え方でわが法典が起草されるのに直接関与しておられたわけで、一橋がそのルーツにおいて米英商法の原書講読をやっていたそのやり方を改められたんだろうと思います。結局明治二十三年に今日旧商法典と言っているものが制定公布されるわけでありますが、梅先生はそのあたりから一橋に関与されておられるようでございます。しかし、結局法律という一般的な科目名のもとに商法を中心とし、民法の基礎知識を前置きに、これに国際法の大要をつけ足しにした、そういう講義が行われたようで、このことは当時の授業要領に明記されているところでございます。


   高商時代の商法学

 ところが、日清戦争直後の明治二十九年、文部省からやってきました小山健三という校長が学制改革を断行しまして、本学の法律科目を民法、商法、国際法というふうに三等分したのであります。このときに初めて商法がカリキュラム体系上の地泣を得たのでありますが、差し当たりは専任教授を欠いておりまして、非常勤講師として、公式記録によりますと、東京控訴院判事富谷ヌ太郎法律学士という方があてがわれたそうです。そして、あくる三十年に専攻部が設けられたので、スタッフを充実させるため一橋最初の商法専任教授として志田ナ太郎博士を迎えることになったわけでございます。
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 このようにして一橋の教育内容が商(法)から(商)法へと分かれて発展いたしましたのは、国政レベルにおきましても明治二十三年のいわゆる旧商法典の中核部分である会社法や手形法などが明治二十五年すでに実施となりまして、さらに日清戦争後の会社企業の躍進と申しますか、軽工業中心の第一次産業革命が達成されたという事態に合わせまして、
明治三十二年現行商法典制定の下作業がかなり進行していたためであろうと思われます。その下作業を担当した起草委員の一人岡野敬次郎博士(東京帝大教授) の補助委員を務めましたのが、ほかならぬ志田博士でございました。

 志田博士の生家は、奇しくも徳川、一橋家の剣術指南番でありまして、商学の府一橋に迎えられたことによりまして、先ほどの商法講習所設立趣意書をまさに地でいくかのように、「剣術を学ぶ」本家から出て「商法を研究する」大家になったわけでございます。博士は明治三十四年ドイツ留学中、同僚教授七名とともに、いわゆるベルリン宣言をもちまして、一橋の商大昇格運動を起こしておりますが、これは言うまでもなくわが国の商業教育を高度化させるという企てに出たものでありまして、文部省の弾圧をはねのけたあの申酉事件の発端でもあるわけです。この間明治三十六年あたりから、かなり体系化された法学カリキュラムができ上がりまして、本科では法学通論、私法(プリファートレヒト)、破産法、商事行政法、国際法といった諸科目が置かれ、専攻部においては民法、商法、国際法のほかに国法学(シュターツレヒト)、外交史、刑法といった公法関係の諸科目も整備されまして、これらを担当する陣容も整ってまいったわけでございます。このあたり、もはや六法という形で出揃ったわが国の近代諸法典に即しまして、ドイツ法的な体系化されたカリキュラムの特色があらわれ出ておるわけです。

 そこで本科のプリファートレヒト、すなわち私法を担当しました志田博士は、初め民法を中心に講義したようでありますが、明治四十五年、すなわち大正元年には乾正彦教授が民法を講義しました後、志田博士が商法全般を講義するという形で私法が分担されたのであります。なぜそのように分担したかというわけは大局から言いますと、ちょうど日清戦争による工業景気、経済史家はこれを、重工業化へ傾き始めた第二次産業革命の達成であると分析しておりますが、そういう事態に合わせまして現行商法典に初めて加えられた大改正、すなわち明治四十四年の会社法大改正が断行された直後のことで、商法の教育内容が急激に増大したからだと思います。
専攻部の商法は、東京帝大の松波仁一郎博士がすでに明治三十四年から兼任しておりまして、「海法」という名称で講義をしました。これがわが国における海法講義の始まりであるというふうに松波博士は述べておるのでありますが,本学の公式記録では専攻部設置のあくる明治三十一年からすでに志田博士によって、「商法及び海法」の講義が行われております。いずれにしましても、海外と交易するキャプテン・オブ・インダストリーを養成するんだという高商の理念にそれは方向づけられていたと言えます。

 なお、専攻部の商法講義が翌明治三十二年には、修業年限の一年から二年への延長もあってか、「商法並びに比較商法」というふうに名称を改めておりますのは、「比較法」という言葉がまだ世界に公認されていなかったんじゃなかろうかと思われる時代に、「比較商法」という科目名を打ち出したあたり、志田先生の気宇広大な識見をしのばせるものがありますとともに、外書講読から始まった一橋商法学の特色を継受しているところでもございます。

 大正時代に入りまして法学カリキュラムの上で、本科の私法は民法と商法とにはっきり二分されまして、商法は概説風に講義されました一方、専攻部の商法は各論的に、会社法、手形法、運送法、保険法、海商法についてそれぞれ講義されましたほか、商事特別諸法を取り扱う商事法令という科目が新設されまして、いずれも志田博士を中心に国際私法の山口弘一教授が商法の二郡を担当し、また専攻部出身の村上秀三郎助教授が、商学士ながら商法、商事法令を分担したのであります。山口教授はドイツ協会学校出身で内閣翻訳官をしておりましたころ、『日本商法草案』の起稿者ヘルマン・ロェスレルに親しく接した経験があり、また国際私法の総則的部分よりも、準拠法を具体的に決定する方面、特に国際民商法とも言うべき分野に詳しく、したがって今日で言えば比較法に熱心かつ得意でありまして、そのような特徴と素養を生かして商法教育面で志田博士に協力したのでございます。

 一方、村上助教授は、志田博士自身が育てました弟子の一人でありまして、一橋出身商学士の法律学者第二号がか
くして商法専門でありましたことは、創立以来の学問環境の反映として象徴的であると思います。ただ惜しむらくは、村上助教授は間もなく退職して弁護士となり、後に商号の研究で明治大学から法学博士の学位を得ております。

 志田博士も村上助教授と相前後して、大正八年一橋を去りまして、共済(安田)生命の専務取締役になったのでありますが、あくる大正九年、商大昇格のときには講師として再び戻り、実際界の経験も生かして保険学を担当したのであります。保険学者としての志田博士は、初め保険法の研究に集中したようでありますが、欧州留学を転機にして保険経済の研究へと傾斜したようでございます。志田博士には五分冊からなる『日本商法論』という大著がありまして、岡野博士と並んでわが国商法学史上第一期を飾る業績でございます。今日ひもときますと、いわばコンメンタール風でありまして、欧州各国の法令、条文を克明に参照して日本商法の解説をしておるのであります。志田博士の足跡は広く支那に及んでおり、清国の商法典の草案作成にも携わっているはどの発展ぶりであります。また、商学の殿堂一橋転身を置いた経験から、晩年は明治大学の商学部長もやり、さらに総長にもなって、学校行政に腕をふるったのでありますが、博士の学問的な特徴といたしましては、商学、経済学の知識を十分取り入れて、東大の、いわば純粋な法律学に対抗した議論が注目されます。

 たとえば、建設利息や創業費の繰延勘定を損失とせず資産の部に計上して何年かのうちに償却するということは、今日でこそあたりまえでありますが、当時立法論としてかなり激しい反論がありましたのに、博士は正当に主張したわけでございます。これは博士が会計学の成果を利用できる一橋に奉職した関係もあろうと思われますが、田中誠二博士は後にこの点を、商大法学の強みだとして高く評価されたものであります。


     商大法学としての商法学

 商大法学としての本格的な商法学は、大正八年、志田博士の後任に迎えられました弟の青山衆司博士に始まります。しかし、この人事は兄の志田教授とは無関係に、当時佐野善作校長が、商法学の大御所、東大の岡野博士と相談して、商大昇格後の商法講座のために決定したものであると言われております義実、志田・青山の兄弟はあたかも徳富蘇峰と蘆花のごとく気質が合わなかったと言われておりまして、兄が横に広く学問的、社会的進出をすればするほど、弟は縦に深く書斎に閉じこもるといった正反対の行き方をしたようでございます。兄と姓が違うのは、博士が志田家から青山家という旗本の家に養子に入ったからでありまして、叔父の青山輝正氏が西南戦役で戦死されて跡がなくなったので、博士がその跡を継がれたのだということでございます。兄と同じく東京帝大法科出身で、学者としても同じ商法を専門としましたのに、研究はほとんど保険法に集中し、早くからイタリア商法学の大家チェザレ・ビバンテの『保険契約論』に注目して、留学先も主にイタリアとするという特異なコースを歩んで、帰国後一橋就任直前に『保険契約論』で法学博士の学位を受けたのであります。文献収集では、「ほとんど病気」という言葉が今日ございますが、ほとんどマニアに近くて、ゼミナールでも自分が外国で集めたモノグラフィを学生に読ませて、卒業論文として書かせたということでありますが、強制的に全員をこのようにさせたかはやや疑わしくて、私の知るさる古老は、そういうものは書かなかったとおっしゃっておられますから、全部が全部そうではなかったでしょうが、かなり多くの学生にそう迫ったものと思われます。こういった研究指導方法は、その門下から出ました後継者の米谷教授によって踏襲されておりまして、私も学生時代に教授から、ドイツ・フランス・イタリアいずれかの文献を読むように半ば義務づけられたことを想起いたします。

 青山博士の蔵書はいま青山文庫として本学図書館を豊かにしておりますが、十八世紀ドイツ最古の商法教科書を含む博士特別愛蔵の貴重本三冊は、米谷教授が「三種の神器」と名付けて座右に安置し、訪れる学生たちをこれに最敬礼させていたものでありまして(笑)、いまこれらの本は、教授の亡くなられた後、私の貧しい書架を古色蒼然と飾っていることをつけ加えさせていただきます。

 米谷教授は青山博士の学風を、文献学的詮索癖という言葉で評価し、その地味な業績を三点に特緻づけております。

 第一に、商法、ことに保険契約法の分野でわが学界を世界的な水準に引き上げたということであります。博士が、ドイツ、フランス、イタリア、さてはイギリスの立法資料までをも駆使して、近時唱えられる比較法学的な方法を無意識のうちに採用していたということは、米谷教授が昭和十四年に編集しました青山博士の『保険契約法研究』という論集に明らかであります。

 第二に、わが国におけるイタリア法学研究の先駆者となったということであります。博士は、ドイツやフランスに追従していたわが法律学界にあって、独自にイタリア商法学のおもしろみを知り、一橋商法学をイタリア学派として独得に位置づけたのでありまして、米谷教授も博士の命により、イタリアを振り出しに欧州留学に赴いたのであります。
 
 第三に、保険契約法の本格的な開拓を特筆大書すべきでございます。博士は保険契約をもって「当事者の一方が災害の危険による生活利益の欠損補正を約束し、その相手方がこれに対して報酬を支払うことを約束することによって成立する契約である」というふうに定義しまして、精神的利益を生命保険の被保険利益、物質的利益を損害保険の被保険利益だとして、保険契約法を統一的に体系づけたのであります。ただし、その法学方法論は米谷教授のいわゆる旧派に属するのでありまして、主観主義的な契約論に徹底したのでございます。

 ちなみに、昭和六年の青山博士還暦記念論文集『商法及び保険の研究』は、青山博士につながる人々によって立てられた商大法学の金字塔とも言うべきものであります。田中誠二先生は、これに「イタリー司法大臣ロッコ教授の商法自治性説について」という論稿を寄せて、イタリア商法学への高い関心を示されましたが、米谷教授はこの論文集で珍しく会社法プロパーの問題に取り組んでおりまして、「機関としての取締役と個人としての取締役」と題する論稿を寄せておられます。これは青山博士指導の商大卒業論文「取締役責任論」からの発展でございます。後でまた述べますとおり、米谷教授は多くの点で恩師青山博士に反対する学問的立場を打ち出したのでありますが、その出発点においては、いわば「青は藍より出でた」というところがあったようでございます。

 この論文集はまた本間喜一教授の「有価証券の概念について」という論稿を収めております。本間教授は地裁の判事から昇格当時の商大に移りまして、初め予科専門部で民法を担当したのでありますが、後、商法担当に転じました。実務家肌の人でありまして、学校行政に切れ味を見せ、第二代の図書館長として小平分館を建てたのでありますが、白票事件後に一橋を去りました。後年、最高裁事務総長や愛知大学長として活躍しましたが、学者としては書かれたものが極めて少なく、その代表的なものは、ただいまの論文のほか「有価証券の流通性」と題する一編ぐらいのようでありますが、手形法の基礎理論では今日なお引用される、いわば珠玉の論文でございます。

 その要点を申しますと、法的な制度は経済生活の上層建築ではないが、商法制度の多くは正義に制約された範囲内で経済生活の目的に奉仕するものであるから、その目的を観察してその手段たる法律概念構成の基本原理とするのが順序だと述べて、有価証券制度の目的を権利流通と申しますか、今日英米でネゴーシャブル・インストルメントと申しているあの考え方に近い考え方を積極的に提示されたわけです。概念法学優勢の時代にこのような目的論的な解釈を強調したことは先取り的な意味があったと思われますが、こういった考え方を商大法学の方法論であるとしてはっきりさせたのは、田中誠二教授の「商法学の近時の傾向と商大法学の地泣」と題する講演に基づく昭和十三年の論文でございます。

 その要旨を極めて短かく縮めて言いますと、こうであります。「十九世紀の後半の法実証主義から新自然法思想へという法学一般の動向に基づいて商法学でも法典偏重の形式論理を極力避け、社会的、経済的な実質の観察による物の道理の発見、利益地位の比較考量が志向されるようになってきた」というふうに指摘しました後、「このような傾向のもとでは商大法学は法学部法学よりも有利な地位に立つのであって、教授、学生双方にとって、経済学や商業学など、補助科学との結合、協力が得られる利便は他に比べものを見ない。しかも、社会は商事の裁判事件では、むしろ商業学や経済学の知識と商事の実際に通じた法律家を大いぼ要求している」と言われるのでございます。

 事実、商大時代の一橋はその単科大学であるゆえに、ことさら今日で言うインターディシプリナリーな、学際的な協力を語らずとも行っていたのでありまして、先ほどの青山博士還暦記念論文集には、商学畑から藤本幸太郎教授や加藤由作教授がそれぞれ、海上保険法に関する責重な論稿を加えております。加藤教授に至っては、実際に海商法の講義を担当したこともあると言われております。

 一橋保険学の回顧は別に適当な方が商学部にいらっしゃるでありましょうが、このようにして一橋商学の中に一橋法学が育成されていった経緯は、そのまま一橋の商法学問史でございます。当時一橋新聞部が編集しました、商大生必携の『経済学研究の栞』『商学研究の栞』という二大手引書は、素晴しい人材を揃えていた一橋研究陣による内外文献解説でもありまして、そのアカデミックな企画は戦後、東大学生文化指導会が編集しました『法学研究の栞』上下二冊本にそっくり真似されたのでありますが、『商学研究の栞』巻末の一章は、「商業関係法規」と題しまして、昭和十三年改正間もない商法の学習意欲をそそる懇切な文献案内が、ここにいらっしゃる吉永先生によって執筆されておりますほか、戦時下すでに独立の体系をなしつつあった経済法の野心的な総論と文献展望が常盤教授によって執筆されております。

 ここには、元来実用的な見地から漠然と概念されていた商学というものの範囲がますます広がって、従来から重視されていた商法のはか、時代の要請する新興の経済法も含むに至りまして、逆にこれらが法学を一つの独立部門として見直させる契機にもなったようでございます。一橋における法学部門の自己主張はこのころに始まるのでありますが、その急先鋒は、学生時代から一橋独自の法律学科設置論というものを叫んでいた商法担当の米谷教授でございました。


     米谷商法学のなりたち

 米谷教授は、すでに述べましたとおり、青山博士のゼミナールに学び、商工省保険事務官として数年の行政経験の後、青山博士の勧めで昭和五年一橋の教壇に立ち、博士の後継者となったのであります。一橋生え抜き最初の本格的な法律学者であると言うべきです。
一橋は外交畑には明治以来豊かな人材を送り、また送り得る学内機構として専攻部領事科のごときを持っておりましたが、法学部門では学内担当者に、おおむね東大中心に育った研究者を迎えておりまして、商学、経済学部門で一橋自体の生んだ福田徳三博士以下の鐸々(そうそう)たる学者に匹敵する出身者をまだ持たなかったのであります。
外交官試験と異なり、行政科で当時法律中心の高等文官試験を突破していく人材もまだ余り出しておりませんでした。米谷教授のキャリアはそこに出発点を置いたのであります。
 
 教授が社会への第一歩を記した商工省商務局保険課というところは、当時岸信介氏を上司としたのでありますが、伝統的にアカデミックなところでありまして、多くの商法学者を輩出しており、先輩に岡野博士、志田博士を初めとして、野津務博士(後に九州帝大教授)に至るまで多士済々でありました。教授はその関係から学者としての、教授の好きな言葉を借りれば、学問者としての自己形成過程で野津博士に傾倒するようになったようでございます。一橋に商法学者として立った初めの論文「商法一般における保険法の地位」という昭和五年の論文では、早くも保険の社会性と団体性を法律学的に展開して、青山博士の主観主義的立場と対立する客観主義的立場を打ち出しております。教授によれば、恩師が傾倒したチェザーレ・ビバンテすら保険契約の基盤に企業(インプレーサ)を発見した先覚者であるとして客観主義の源流に位置づけられるのであります。したがって、保険契約は付合契約ではないとした青山説とは正反対に、その付合契約性にむしろ畢生のテーマを設定して、保険約款の問題性から大きく「約款法の理論」に挑むことになるのであります。保険法が商法の先駆者的な地位を持つんだという立場は、米谷教授の学問に一貫しておりまして、これにより保険法から商法一般へと研究を発展させたところに、商法一般から保険法へと研究を集中させた青山博士と対照的に異なる行き方がございます。

 米谷教授は学問者としての師弟の関係につきましては、師弟が類似しているということよりも、正反であるという弁証法的な発展性を信条としておりまして、私にもそれを口ぐせのように語られました。それはしかし事ごとに反発せよという教えではなくて、恐らく教授自身が敬慕した牧野英一博士の愛用句「ローマ法たよって、ローマ法の上に」という行き方と同じ行き方を指し示したものではないかと思います。教授の初期学問的な著作に『保険経済の研究』と『保険の研究』という二著がございますが、いずれも青山博士の薫陶を受けて、いわば青色ながら、なお「藍より出でて藍より青し」と見るべきものがございます。たとえば、保険の本質につきまして「保険金融論」という独創的な見解をつとに唱え出したあたり、一橋の学問的な風土に培われた教授の鋭い洞察力(どうさつりょく)を伺わせるものがございます。

 教授が青山博士の命によって、保険中心の商法研究のためにイタリアを振り出しに欧州留学へ旅立ったことは前に一言いたしましたが、その振り出しで客観主義商法学のロレンツォ・モッサに巡り会って、モッサを終生の師と仰ぐほどに、その企業説を生んだ学風に全面的に傾倒するのも、結局教授自身の学問探究の道に従った結果でございます。
当時のイタリアは政治的にファシスタ体制下にありましたが、そのために教授はイタリアへ赴いたのではなくて、保険法から商法一般への足がかりをつかむためでございました。

 モッサの数ある業績の中で特に顕著なものは、第一に商法上、特に手形法上に法外観説を徹底的に展開したこと。第二に、商法一般に企業説を独創的に樹立したことであると言えますが、教授は法外観説の探究を断念しまして、企業説の検討に集中するのでございます。第一のラ・テオリア・デ・ラッパレンツァ・ジュリディカという法外観説の方は、後に私の研究テーマとして与えられましたが、第二の企業説の方はすでに欧州滞在中独自の検討を加えまして再構成し、昭和十年、ドイツの有名な法律雑誌の別冊として、『企業法の体系』(ジュステーム・デス・ウンタ!ネームンクスレヒト)というドイツ文の論作にそれを展開したのであります。この一本は、それまで三年余りの欧州留学の総決算でありまして、ドイツではギーゼケに経済法、ロールペックに保険学を学んだほか、フランスでルナールにカトリック法学を学んだ成果がそこに見事に総合されております。

 教授が訪れたドイツもたまたまナチスの支配下にあったのでありますが、そのために教授はドイツに留学したのではなくて、モッサの学風がドイツに由来するというところから、源を探究するためであったのです。すでに経済法という新興の学問がドイツにはありまして、これを商法発展のかなたに望み見ながらなお慎重であった教授は、商法から経済法へ一直線に進む前に、その中間に企業法という特別な法領域を見定めようとしたのであります。

 この『企業法の体系』という論作は、そういった企てをわが国現行商事特別諸法の総合的な把握に具体化したものでございます。これは日本の商法学者が企業法というものを唱え出した最初であると思うのでありますが、当時としては珍しくドイツ文によりドイツで発表されましたためか、その後日本で再版されたものの、わが企業法論の主流をなすには至りませんでした。とはいえ、ドイツでは商法学界の重鎮ユリウス・フォン・ギールケが、その半世紀近くも商法教科書の定本となった『商法及び航海法』(ハンデルスレヒト・ウント・シファールツレヒト)の中に、ただ一っ日本人の業績ながら、米谷教授のこの論作を、モッサのイタリア学派、イタリエニッシェ・シューレという言葉で引用し、シュライバーによるドイツ最初の企業法説も、モッサのようなイタリア学者の影響を強く受けたのであると論じております。そこにR・MAITANIとありますのは、JAPAN(ヤーパン)の断り書きもないだけに、イタリア人名と申しますか、マルティ二に近いので、それのように読み過ごされそうでありますが、ほかならぬ米谷博士を指すのであります。今日商法の企業法説が第二次大戦前の欧州に起源を有することはだれでも知っておりますが、その草分けに米谷教授が登場することは、わが国ではいざ知らず欧州では公認されていると言っても過言ではございません。この事実は、碩学モッサの死を悼む欧州の学界誌に米谷教授の名前が、その衣鉢を継ぐ企業法論者として挙げられていることからも明らかでございます。

 しかしながら、米谷教授の「企業法」はモッサの企業法説に示唆されつつも、商法の領域を突破し、商法の外郭にある商事特別諸法を総括する概念であります。これを日本の実定法によりドイツ語で論証しましたのは、教授が一橋に奉職以来、商事特別法講座を担当していたからでありまして、この講座こそは、古くから志甲青山両博士が担当してきた商事法令にその後がまとしてもうけられたものであります。米谷博士は、特に保険業法に取り組んだ経験から、「商法の行政法化」「行政法の商法化」という法進化の過程に、商事特別法の名前だけで概念がなかった従来の領域を労働法に追従するものとして社会法の衣でカバーし、その指導概念である企業が権利の主体でも客体でもなく、営利を理念としつつ一般利益へ方向づけられた社会性のある制度、インスティトゥチオンであるとし、この観点から企業法の体系を組織法、行為法、監督法に三分説するのであります。このようにして田中耕太郎博士のいわゆる組織法と行為法との三分説を超えていくとともに、モッサ企業説のいまひとつ源にあるフランスの制度哲学を取り入れているわけであります。制度哲学こそは教授がルナールに学んだカトリック法学の真髄でありまして、ネオ・トミスムとして普遍的に法学方法論を基礎づけたものであります。この理論は経済学の方面では福田徳三、上田辰之助両博士によって一橋の学統に展開されておりますが、法律学の方面ではまだ展開されていないというのが、当時一橋に商法学者として立った教授の着眼でございまして、したがってこの理論をモッサ流に本来の商法に全面的に展開するのは当然でありまして、その成果は帰国後やがて昭和十六年の異色ある商法教科書と言われた、あの『商法概論−営業法』となったのでございます。

 教授はここでも、組織法と行為法との二分説を引用しながら、これを制度としての営業という中心概念に向かって目的論的に展開しております。つまり「商法は営業法である」と論じて、今日普通に「商法は企業法である」とする学説に反対するのでございます。教授の言う企業法は商事特別法でありますから、法発展の系譜としては「営業法から企業法へ」ということになるのであって、さらに「企業法から経済法へ」という発展を教授は考えていたわけですが、統制を拠点とする全経済の制度化現象だと教授自身が認識できる段階に至って、初めて経済法と取り組むのであります。

    
      米谷商法学の戦中と戦後

 すなわち昭和十三年、一橋の法学カリキュラムに画期的な経済法講座を創設させ、翌十四年一橋を本拠として日本経済法学会の設立に活躍したわけでありますが、しかしこのころからの教授の学問活動には、経済法を生成させる契機となった戦時日本の国家総力体制の険しさが刻まれております。とはいえ、この新設された経済法講座が、商法の米谷、吉永両教授、民法の常盤、吾妻両教授のはか、行政法の田上教授によってかわるがわる担当された当時の壮観は一橋法学陣の特色ある自己主張の姿と言えると思います。戦後一橋の法学部が独立しましたのは、もちろん戦後現役で残っておられた諸先生の並々ならぬ御苦労によるものでありますけれども、その下地や実績はすでにこのときにできていると言えるかもしれません。いかにも経済法の性格をめぐって内部では激しい学問的論争もありまして、特に法の三分説から、経済法を公法、私法のほかに独自の法域と見る常盤教授と、それを公法、私法の混在領域にすぎないと見る田上教授との対立は、当時学生であった私にも、学問的な興味を喚起させるに充分でありましたが、主任格の米谷教授が、この新しい学問分野にかける情熱は、むしろ外側に向いていたようでありまして、日本経済法学会専務理事として法学関係最初の全国的な学会の結成と運営の拠点一橋を押し出したのであります。

 すなわち、神田の一橋講堂内に経済法研究所を開設して、学会事務所をそこに置き、年報三冊を公刊しました。常盤教授はこの研究所で編集事務をとりながら、雑誌『統制経済』を刊行したのでありますが、これには経済法関係の論文がしばしば掲載されました。当時私は小樽高商の学生でありましたが、戦争が起きたので徴兵延期のため一橋を受験したんですが、そのときこの『統制経済』が大変参考になりました。ただし、法律の論文よりも経済学の論文が大変参考になりまして、またたく間にいい答案が書けたと記憶しております。

 ところで、米谷教授の経済法理論につきまして一言すれば、これは教授独自の方法論である制度哲学に裏づけられたものでありまして、あたかも民法に対する商法の関係、さらに商法の中でも営業法に対する企業法の関係のように一般法の上に立つ特別法の段階的な関係に立つものとして経済法を位置づけるわけでありますから、経済法の合理的な進出の前には商法の合理的範囲がそれだけ縮小されるけれども、なお独自の性格を持って相対的に存続するものであるというふうに考えるわけであります。このようにして制度理論的な方法を戦時経済法の体系にも展開するとき、米谷教授はそのメソドロジーをカトリシスムの独占から解放して普遍的な世界観としたいと念願する余りに、戦時下流行の大和言葉を若干交えて表現するほどに過熱するに至りまして、戦後受難の原因となった昭和十九年の『企業一家の理論』を生み出すのであります。すでに戦場の学徒兵であった私には知る由もないのでありますが、当時教授はこの本を、経済参謀育成と称する経済人再教育のための、今様に言えばユニバーシティ・エクステンション用のテキストに使ったということであります。これが命取りとなりまして、戦後教職追放を受けました教授は万感を持って一橋と訣別いたしました。常盤教授も同じく追放されたのでありますが、戦時下指導的な諸学者の言動を多少とも知る出陣学徒の一人といたしまして、いまに思えばこれが学問の府にふさわしい措置であったのかと疑わざるを得ません。

 私は復員後自分の一存でイタリアのロレンツォ・モッサ教授あて手紙を書いたのでありますが、かの国では教職追放もなく、意気軒昂(けんこう)たるモッサ教授の返信がピーサからはるばる小樽に届けられたのには驚いたものでございます。これがきっかけで米谷先生とモッサ教授との交信が再開されました。追放後の米谷教授がどのような学問的足跡を残したか。その苦闘の歴史を一橋の学問史に書き加えることには、あるいは異論を唱える向きがあるかもしれません。しかし、ここに教授の親友でもあった山中篤太郎先生が『一橋論叢』に載せられた追悼の言葉を読ませ
ていただきますと、「私は米谷教授の学問上の足跡の中に一橋の学問の歩みをはっきりと見るのである。ほかならぬこの苦難の時期こそ、末川博士を審査員の一人として法学博士米谷隆三を生むとともに、法学部門最初の学士院賞受賞対象となった昭和二十九年の『約款法の理論』に、昭和初頭以来三十年余りの学問の結実を生んだところの、しかし、彼の最後の時期を形成するのである。」とあります。逆境に生まれたこの大作は、米谷博士自身が学士院賞受賞記念講演で語ったとおり、戦前一橋在職中からこつこつ書き続けてきたものでありまして、保険約款に問題発見をした初心を営々として貫き通した成果でございます。博士はその学問上の意義を五点にまとめております。

 第一は、二十世紀の生きた法を取り扱っているという点であります。第二は、経済実務と法律実務との共同合作の所産を押し出しているという点であります。第三は、法哲学や法社会学といった「高い学問」を、法解釈学という「低い学問」に展開しているという点であります。第四は、ドイツ、フランス、イタリアにわたる比較法学的方法をとっているという点であります。第五は、あの有名なサー・へンリー・メインの「身分からの契約へ」という考え方に続けて、「契約から制度へ」という考え方で理論づげをしているという点であり言。まことに雄大な学問的スケールを物語る言葉でございます。

 山中先生は、商法講習所の実学から出発して経済学方法論の左右田哲学まで育成した一橋で、これに肩を並べるべき法律学方法論として米谷博士の制度哲学を位置づけ、哀惜を込めてこう述べております。「米谷法学は左右田哲学に続く一橋の生んだ、同時に日本の生んだ学問であると言える画期性を持っていると言えよう。だが、左右田哲学の場合と異なり一橋は自分の学園の中でこれを生んだことを記念し得ずにこの人の業績の集成とその死を迎えたのである。」

 一橋を熱愛しながら一橋に祝福されなかった米谷博士は、いま祖先墳墓の地香川県高松近くの観音寺町に、牧野博士直筆「企業法」という三文字を刻んだ墓石の下に眠っております。

 生前、博士は欧米からの学問輸入を日本文化の片貿易として慨嘆し、自ら欧文で相当数の論説を海外に発表されましたが、この学士院賞受賞作を自らの手で記念しまして、内外の学者十五名の協力執筆のもとに『欧文企業法論集』(バイトレーゲ・ツム・ウンターネームングスレヒト)という一本を編んだのであります。これにはモッサをはじめ、イタリア、フランス、ドイツの学者が寄稿しておりますが、日本側執筆の分については主に私が欧文への翻訳の筆労を命じられたものでありまして、博士の当時鬼気迫る感じの厳命を懐しく思い起こします。この論集は博士の希望にょって、刊行後大部分が欧州に輸出されましたが、恐らくそのときの過労がもとで博士は亡くなられました。モッサの死後間もなく後を追うかのようでございました。博士の学問活動は保険法の一角から始まって企業法の分野に世界的な広がりを持ったのであります。その栄光に続く死は残念ながら一橋の学問史に刻まれなかったのでありますが、ドイツ、イタリアの学界誌上に深く哀悼されました。学問者としての博士の一生は、モッサの愛用句「風に向かって、風と共に」(コントロ・ベント、コン・ベント) のとおりでございました。

 この言葉は、博士の門下に早くから出入りした祖先同郷の故大平正芳元首相が生前にプレス・インタビューなんかで、政局への姿勢をあらわすのに用いたこともあったようでございますが、実は博士の主著『企業法の体系』巻頭に掲げられたモット(1)でございました。

 遺稿集は、博士のスケールを物語る膨大な『米谷隆三選集』全三巻として、友人、門下生により昭和三十五年から三十七年にかけて刊行されましたが、当時その解説欄を、同門の東京海上高木秀卓君と明治生命木村豊士君両君と共に担当しました私といたしましては、いま恩師の業績を晴れて一橋学問史の中に書き入れるべき立場にあることを、身の引き締まるような思いで受けとめております。このたび創立百周年記念事業の一環として『一橋大学学問史』が
編集されました機会に、恩師の業績を、特に一橋から追放された後の先生の華々しい業績を含めて、一橋の学風と申しますか、アカデミック・クライメットの中に晴々と収めることができまして、学恩の何ほどかにも報いたかと秘かに思っております。


     おわりに

 ここで改めて、本日私の拙いお話を総括させていただきますと、一橋商法学は実学の商法講習所で米英商法の原書講読から始まりまして、高商時代の比較商法といった、横に広く大きい志田ナ太郎博士の大陸法的な発展ぶりを、バネに、商大時代には狭く保険契約法の限られた分野でありますが、イタリア法にまで深く掘り下げました青山衆司博士の集中ぶりを経て、逆に保険法から商法一般へと再び広く発展し、やがて約款法にその成果を結集させた米谷隆三博士の企業法論に見るあのスケールの大きなアプローチの仕方に至るまで、外国法、特に欧州法の比較検討を通して日本商法の理論的再構成を志向するという伝統の中で形成されてきたと言えます。われわれ後進はその流れの中から、将来を展望する視点をつかみとらなければならないと思いますが、それは恐らく大陸法と英米法をあわせたもっとグローパルなビュウポイントだと思います。これは一人ではなかなか処理しかねる大きなテーマでございますから、法学部に籍を置く者はもちろん、法学部出身者もまた協力して、分業することが必要となるのではないかと思っております。

以上で私のお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。


     [質 疑 応 答]

 普川 企業一家の理論のお話しがありましたが、中山先生が昭和十九年に現実に仕事をしている若手を集めて「経済指導者研究室」を設けられ、大変な情熱をもって一橋のみならず各界の先生を講師に迎えて一日置きの夜の講義が行われました。私は三菱銀行から先輩とともに出席し二〇年の三月に卒業証書を戴きましたが、その時に米谷先生が商法について一夜、企業一家の理論をまことに淡々と雄大に語られたことが記憶に残っており、当時を偲んで大変感銘いたしました。

 韮沢 私は米谷ゼミナールで勉強しましたが、先生は学問の話と同時に一橋の発展のためには一橋から役人が出なければならぬと熱心に主張されており、この点での先駆者であり原動力になったのではないかと思われます。

 喜多 米谷ゼミナールのメンバーは昭和五年から二二年までで八二名でありますが、この内国家公務員になった人が十八名で、殆ど1/4の多くを占めております。商法の行政法化を力説された成果であり、教育は学問の反映であるとも言われたことが結実したものと思われます。なお五六年三月の各国立大学法学部卒業者就職状況一覧(判例時報一〇六三号 二六頁)によりますと一橋大学法学部出身者の内、司法修習生1.2%公務員11.7%と極めて低く、特徴的なのは金融・保険・証券の分野が28・1%と京大法学部の28・2%についで大きいことです。尤も公務員は法学部出身のみではありませんので一橋全体では違って参ります。

 吉永 現在上級行政職には法学部だけではなく経済学部からも進んでおり、特に大蔵省のOBを旧制と新制大学学部
別に見ますと法学部は僅か一名で残りは圧倒的に荒教授のゼミナールの人が最も多く、その他もすべて経済学部教授のゼミから出ております。(五八年調)私の 「一橋法学を考える」三一頁 米谷教授のことに触れますと、昭和二五年発行の『我が輩は企業法である』の著書の中で述べられたことが全部当っておりましてこれは素晴らしいことであります。

 現在の一橋の商法の流れを申し上げますと、商法を企業法であると説明しております。これは米谷先生がその先駆者であったからです。(西原寛一先生も企業法であると説明されました) コントロベント、コンペント(Contro vento Con vento)とは「風に逆って風とともに」でありますが、風の向きを変えることで、米谷教授は学界の風向きを変えたのであります。之は商法学界としての輝かしい業績と思っております。

 次に、米谷教授が哲学をもっていることは、例えば独禁法については法令の解説ではなく、この「独禁法は競争経済の哲学を持っている理想主義の法である」とし、条文毎の法令解釈の批判とも受取られます。東大系では専門家が多く、全体の法律を部分々々に分断してその部分のみを専攻させて詳細に研究する傾向が強いのに対し、一橋は偶々人数が少いために一人で民商法典も企業法・経済法もやるしまた勉強せざるを得ない状態で、その結果哲学をもっていないとおさまらないことになり、これが特色でもありました。また英米法系と大陸法系との比較を大事にしております。なお米谷先生はパブリックユーティリティーズについても「我が輩は企業法である」の中では、両法系の比較の必要とその価値を既に強調されておりました。私もこの後を継ぎ、自分の最近の論文「忠実義務の再考」の中で同じ方法を採っております。

 喜多教授のことに触れますと、教授の「外観優越の法理」は英米法と独逸法を比較した大著で、私が一橋大学への最後のご奉公として喜多教授の学位論文の審査に六ケ月かけましたが、米谷先生も冥土で莞爾としてよくやったと賞める程立派な論文であります。米谷博士の約款法をどう持って行くかは悩みですが、企業法は
吉永、久保教授に引継がれ、商法に関する限り米谷シューレは伝統として受継がれていることを申し上げておきます。

 なお戦前米谷先生は労働法はやらぬと言われていましたが、「我が輩は企業法である」では、その中で保険外務員と労働法の関係を論じております。その後この外野的外務員については証券取引法の改正の際証券外務員について大変な議論がありましたが、現在の証取法六二条以下の規定となっております。既に先生は外務員について問題を予想していた先駆者であります。現在企業法における労働関係は喜多君と私が「経営参加」「従業員持株制」としてとらえて研究を進めています。

 茂木 米谷博士は大学昇格前の興奮状態の時に入学し私は翌年入学したが、米谷教授とは学生運動を通じて接触することが多く、特に運営とか教育理念のことではよく議論をした。教授は熱血漢で悲憤慷慨、切歯扼腕は日常茶飯事で特に印象深いが、本日先生の学問上の輝しい業績の話をうかがって敬意を深くする次第です。なお官界に出ろというのは学生時代から主張しており私共もそう思っていた。

 本日の米谷−吉永、喜多教授の師弟の情の美しい話を聞き、教育者というのはこのように弟子がある点では誠に羨しい限りで、我々の社会にはこのような人間関係はできないことを思い切々と胸に迫り感銘いたしました。

田中 今日のお話の中で志田先生のことに触れられ、先生のご薫陶を受けた一人として感動いたしました。私は高田保馬先生が退任されたため志田先生のプロゼミに入れて戴きました。それは保険法の講義を聞き何となく人間的に合うような感じがしたためですが、第一回のゼミの顔合せの時先生は「私はコンモンマンを作るのが念願だからどんなことでもよいからやってくれ。兎に角一所懸命に指導するから」と言われた。そこで従来通り社会政策のテーマに戻って政策学の本質について報告し、終りの方はカントの認識論を勉強して完成させたいと報告したところ先生から
大変に叱られた。先生は「カントはダーウインの進化論を未だ知らない年代でありそのような入間の哲学を神格化して考えるのは迷惑だ」と言われた。先生はカントについて明確な見識を持っておられたわけで、私にとって先生の、一言が一生今に至るまで一つの問題として私の頭の中に残っております。ゼミナールで弟子に一つのことでも一生忘れずに考えさせることができれば指導者の本望ではなかろうかと思う次第でゼミを思い出し大変感激いたしました。

 首藤 米谷教授と同級の者ですが、本日のお話で米谷を委しく知ることができて嬉しく思っております。米谷は在学時代から一橋は高文の試験を受けて実業界以外のところに出て行かねばならないと主張していた。それは大学昇格ということもあったが、自分の考えではそのような雰囲気があったのは、当時左右田哲学があって学生仲間でよく議論になっており三浦先生福田先生等純粋商業学以外のところに大きな力が出ていたことが米谷、常盤等を刺激した原因でなかろうかと思います。そしてそのようなことが伝統として一橋大学の今日においても、ぜひとも残し続けて貰いたいものと念願する次第です。

 新井 なおこの会は皆様のご協力のお陰をもちまして丁度二年経過いたしました。学問を語ると同時に学問の魂が働いており、ひいては日本民族の英知を守っているものと思われますので今後ともよろしくご協力お願いいたします。

                                             (昭和五十八年四月十八日収録)

      
喜多 了祐(りょうゆう)

大正十年北海道小樽市に生まれ、
昭和十九年兵役中に東京商科大学学部卒業、
昭和二十九ー三十年ハーバード・ロー・スクール大学院留学、
昭和三十二―三十四年ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス法学科留学。
現在、一橋大学教授(法学部)、法学博士(一橋大学)。

主 要 著 書
『外観優越の法理』昭和五十一年千倉書房、
『経営参加の法理―イギリスにおける「産業民主制」の新展開―』昭和五十四年勁草書房、
『判例教室・商法』昭和五十三年法学書院、
『コンメンタール商法総則』昭和四十三年勁草書房(共著)、
『コンメンタール商行為法』昭和四十八年勁草書房(共著)、
『現代の商業法規』昭緬三十八年春秋社(編著)はか。

訳 書
「ゴイダー、 第三の企業体制 ― 大企業の社会的責任』昭和三十八年春秋社。