一橋の学問を考える会(S58・10・12)「橋問叢書 第二十六号」

    
上田学説の現代的意義 名古屋大学名誉教授 末松玄六

    はじめに


 ただいま御紹介いただきました末松でございます。

 きょうの資料といたしまして、皆さんのお手元に、上田貞次郎全集第l巻「経営経済学」の「解説」(新井経済研究所註・本稿末尾に附録として添付)というのを差上げています。きのうちょっと早目に参りまして、新井経済研究所にお願いし、早速つくって頂きました。ありがとうございました。私が例の 「経営経済学」の解説をつけておりますのがこれでありまして、これを抜き刷りにしておったものですから、それを持参いたしまして皆様に大体私の話 ― もうこれを読んでいただくと話をせんでもいいようになっております。まさに新井さんから出された上田経営学の現代的意義という講演の題目に答えたようなものになっております。

 上田先生は非常に健康にも恵まれておりましたけれども、昭和十五年六月八日亡くなられました。いずれにしても、先生は本当に元気な方で、「経営経済学」を基礎にしてこれだけ広くかつ深く勉強された方も少ないんじゃないか。したがって、新井さんが「一橋の学問を考える会」というところで話をせよとおっしゃったのは、私もそんなことを言っていながらもうじきに.この世にさよならしなきゃならんというような年になっておるものですから、新井さんも心配して早く話をさせようと、こういうことになったのではないかと拝察しておるわけです(笑)。

    上田学説の特徴

 まず、この解説に入る前に、上田学説というものはどんなところに特徴があるかということを最初に申し上げてみたいと思います。

まず、先生は経営というものは金もうけのためにあるだけじゃない点を強調されています。金もうけはもちろん必要条件ですけれども、利益を上げることだけを考えた利潤動機よりも、むしろ人間社会に現存する浪費をなくして人間社会に奉仕することが経営の本質であるといわれています。したがってその奉仕動機というものを非常に強調されました。

 それから、方法論といたしましては観念論が嫌いなんです。何もただ文献を読むとか人の学説をただ受売りすることだけが学問じゃない。本当の学問というものは自分で見て、自分でよく調べて、眼前の事実と照らし合わせて、そこから一つのテンデンシーなり、原因と結果との関係を見出さなければならないとされました。そういうことで実証的な考え方が非常に強く、実証的帰納的な方法ですね。こういうものを批判する人は、上田先生の経営学は非常に方法論が弱いとか、欠けておるとかいっています。私から言わせれば批判者の方が観念論であり、文献的であり、全くの誤解なんですね。これは、この「解説」の後の方にもそれを書いておりますけれども、上田先生は眼前の事実ということを非常に重視されました。したがって、ただ読書だけでなしに、会談とか調査とか見学とか、あちらこちら自分で見て回って自分の目で確かめるというやり方です。こういう方法論をとっておられるものですから、それから帰納されたいろいろの法則なり傾向なりは大変確かなものになっておるわけです。

 それから、第三点は、企業の社会化とかいろいろのことを言いながら、独占ですね。いわゆるカルテルとかトラストとか、特にトラスト、これはむしろ過度競争を避けて市場に一つの秩序をもたらす、安定をもたらすものであるというような面をみておられます。この辺が先生のリベラリズムといいますか、非常に潤達な自由な見方でございまして、かたくなにそういう独占はいけないんだということでなしに、非常に客観的に独占は取り締まらなきゃいかんけれども、それはメリットがあるんだという点を「経営経済学総論」のカルテル、トラストを述べられておるときに独占は合理化の手段なりとも言っておられるわけです。私どもが経営学の試験を受けたときに、先生がばっと入ってきて黒坂に「独占は合理化の手段となるか」という問題を与えられたわけです。

 それからもう一つは、、ちょっと方法論に戻りますけれども・先生は経営学と経済学との密着化を推進された。これが実は最近ますます大事になってきております。つまり、たとえば企業といっても自由な経営活動といってもこれは自由体制の中での自由なんですね。企業の行動は自由体制がおかしくなってしまったらやりようがなくなってしまう。
たとえば私もソビエト・ロシアとか、あるいは韓国とかブラジルとか、いろいろ軍事政権なり・社会主義政権なり、ずいぶん色々の・国を回ってみましたが、例えば社会主義国では企業という言葉は使っていますけれども企業の自由はないですね。そこに市場がないですね。そういう点におきましてやっぱり自由体制、つまり国民経済全体と個別経済・つまり企業の行動といったようなものが密着化していないと企業の発展はありえないわけです。いま新井さんに紹介していただきましたが、ロンドン大学教授のベンローズ女史が「会社の成長の理論」というものを書いておりまして、経済学と経営学との結びつきが重要であると強調しています。私は日本パルプの田口球司先輩に頼まれて監訳の形で出しましたが、それがまた一咋昨年に ― また遅いんですね。ペン口ーズ女史は第二版を出したものですから、こんどは私自身の訳で第二版をダイヤモンド社から出版しました。これはむしろ経済学者で経営を発見したんですね。経営の組織、経営というものの重要性を見たんですね。密着化して論じておられるわけでありまして、最近の経済学もそういうところをだんだんと埋めていこうとしています。上田先生はかって経営学は何も独立の学問に、する必要はない。国民経済学の一部門としてなり立つといって人を驚かしたことがあるくらいであります。

 それから、企業というものは一応営利事業と見ておられましたので、経営経済学の研究対象は企業すなわち営利事業だけではなく、公共事業・行政の組織まで経営は必要であるとされた。つまり浪費をなくするために合理的に企画

し、指揮し、調整するところの組織としての経営は非常に必要なものであるという点を強調されました。

 それから、商業学の科学化に非常に努められまして、それで商事経営学の提唱になっております。すでに明治の末期ですけれども「商業大辞書」あるいは「経済大辞書」の中の商業という項目で、これからの経営学は企業の学とならねばならない。単なる売買でなしに企業の中に資本と労働の組織があるから商事経営学はよろしく企業の経営学とならねばならないと主張されておられます。

 それからまた上田先生は、すでに大正九年の社会政策時報の中で「中小工業の将来」という論文を書かれ、中小企業問題の重要性を指摘されました。この問題がむしろ後の人口問題の研究にも発展していくわけです。そして中小企業というのは非常に人間労働を吸収するから自由通商を前提として中小工業を振興することが重要であるとされました。

 ほとんどの経済学者、社会学者、政治家も含めて、日本は資源が貧弱である。人口は過剰である。そして、国土は狭小である。これは日本経済の三大特色であると。だから満州が必要であるというようなことを言っておりましたが、上田先生は人口が過剰じゃないのだ、人口資源が多いのだと言われ、これは簡単に言えば、もしこれが過剰ならば瀬戸内海や太平洋に落ちこぼれるはずであると。国土は狭小じゃない。一坪の生産能力は世界に冠たるものがある。日本の水田耕作をよく見ておられたわけです。資源はだから貧弱ではないんだと言われた。

 また、もう一つ商業の機能の問題もとりあげられました。とくに問屋が排除される傾向があったわけですけれども、こういう中間商人、こういったものも場合によっては問屋の存在は必要なものであるとされました。産地から中央に持ってきて直結するようなことばかりでなしに、いわゆる問屋は存在すべくして存在しておる。もちろん商業には第一次機能と第二次機能があるけれども、そのどちらを見ても問屋というものの存在は非常に必要なものであるという点も強調されておるわけです。

    上田経営学の概要(「解説」にもとづいて)

 以上で上田経営学の特徴を指摘したつもりですが、皆様に差上げた資料「解説」にもとづいて上田経営学の概要をお話しします。

 さて、「経営経済学総論」は明治四十二年に「商工経営」の学科を創設して以来、一橋において講義された内容を公開して、昭和五年に「商工経営」という書名で出版されました。その後昭和十二年にこれをかき改められ、特に第一章、第二章は全く新たにつけ加えられて「経営経済学総論」という形になったわけです。

 第一章においては、経営経済学とは何かということを言っておるわけであります。ここでは社会経済学は主に価格を研究しているが、経営経済学は事業の経営を研究するとされています。先はど申しましたように、企業のかわりに事業の経営を研究するとされ、営利事業に限らないで非営利事業つまりノンプロヒットのビジネスも含むとされています。この点が最近ではますますその必要が感じられておるわけであります。

 ソビエト・ロシアのような社会主義社会においても「物資及び勤労がそこに自然に湧いてくるものでない以上、これを獲得するために最少の費用をもって最大の効果を得るための経済的工夫が必要である」と。だから経営というのは入類水遠の問題でありまして、営利非営利を問わないとされています。

 それから、今度は第二章に入るわけですけれども、第二章は経営、企業、経営経済などの概念を明確に整理するのが目的であります。

 それから、続いて産業革命史に対する深い研究を背景にいたしまして、(「解説」二二頁参照)商業資本主義、工業資本主義、金融資本主義の三段階に分けて企業の発達を論ぜられ、商業中心の時代から工業中心の時代になって、先
ほど言った資本と財務の組織、資本と労働の組織がだんだん発達してきて、それで企業の学問が必要であるというところから、世界に本当に先駆けて、こういった経営学の研究の必要性を説かれるというところに経営経済学の発端になっておるわけであります。

 それから第三章ですが、これは「工業経営」ということになっておりまして、ここではやっぱり製造企業ではビユッヒヤーやシュモーラーの指摘するように、手工業、家内工業の段階を経て、分業と合成の利益を利用する工場工業が発展しておるわけです。しかし、工場工業にみななってしまうかというと、ここでは先はど申しましたように、中小工業がこれでなくなるのではない、中小工業も非常に存在の余地があるということです。

 マルクスの「中小企業衰亡論」について、これは間違いであるという考え方をもう先生はよく見ておられたわけです。マルクスは皆さん御承知のように企業をイコール資本と考えますから、したがって資本の大なるものが中小資本を圧倒するという考え方に当然なっていくわけですね。そして中小企業は衰亡してしまうというマルクスの主張になっていくわけですけれども、これは間違いであるという点を非常に強調されたわけです。

 これは近代経済学の方もついでに、実は近代経済学は企業イコール売上高と考えますから、大きい売上高のものが小さい売上高のものを圧倒するという考え方になっていってしまいますね。だから、近代経済学も、くしくもマル経と同じように中小企業の衰亡の理論に立ってしまうわけです。こういう点で特にまだわりあいに中小企業のことを考えておったのはマーシャルですね。マーシャルは中小企業、とくに若い企業が人材や金を見つけて成長していくのだと。それが有名な「森の比喩」、森の姿の理論となっている。そこには巨木もあれば中小の樹木もある。それでまた栴檀の双葉のようなものもあると指摘しました。その中にだんだんと小さなものは大きくなっていって大きなものはデイケーして本当に自分で朽ち果てて行ってしまうが、全体としては森の姿であると言ったのが、有名なマーシャルの森の姿の理論でございますけれども、マーシャルはさすがに案外事実をよく見ておられまして上田先生と同じところがあると思われます。

 さてその次に、今度は第四章が先はど申しました商業問題ですが、先はど申しましたからこれは時間の関係で省略させていただきます。これは第一次機能と第二次機能に分けておられまして、流通革命やなんかもある程度予想されておるわけですけれども、それにかかわらず問屋の存在なんかも合理的な理由がある点を強調されておるわけです。
それから中小商店と百貨店,あるいは今日の大型店、チェーン・ストア、そういったものの、あるいは商業組合、消費組合等との対決の問題にも触れておりますけれども、こういう場合でも先ほどの独占の考え方がにじみ出ておりまして、中小零細の小売店相互の過度競争こそ考慮すべき問題であって、もうちょっと経営の勉強をしなければだめだという点を、単に政治的に百貨店反対、スーパー反対では間違っておるという点を強調されております。

 第五章は先ほど申しました企業の株式会社経済論の立場から企業の財務問題を取り扱っておりまして、特に原価の分析ですね。これは、これからは原価の分析が非常に大事になってなかなかインフレが収束してきますと値段がとれないものですから、どうしてもローエストコストの実現をしなきゃならないというような点で、こういう点で上田先生はコストの分析については非常に深くやっておられますね。

 それからもう一つ、市価変動の危険ですね。リスクコントロール、変動の危険、これをたとえば在庫の中性化ということを言われました。いつも売っただけ仕入れることにすれば,数量的には在庫はいつも同じということになり、在庫は中性化されてしまって市価の変動の影響がないわけです。これはしかし、上田ゼミの大先輩である井上潔氏の紡績会社での責重な実験でたしかめられたものです。この点は上田先生も、井上潔君の考え方を取り入れたものであるということを言っておられました。

それから、第六章が先生のお得意の会社制度の検討です。これは余り多く解説する必要はないと思いますけれども、しかし株式会社の本質をその当時法律論が多かったのを、株式会社の本質を財産の流動化、証券化、重役制度の成立、家計と企業との分離、この三つに求めております。だから結局大衆資本の動員とプロフェッショナルな専門経営者の出現を可能にした株式会社が企業形態の本流を占めて発展するということを大正二年の「株式会社経済論」においてすでに予言されておるわけです。アダム・スミスですらこの点を間違いましたからね。附録第三章をごらんになりますと、アダム・スミスが「株式会社」ではプロフェッショナルな経営者は資本と所有が分離していってしまって自分たちがそれほど責任を負わなくなる。このために浪費やいろんな怠慢が出てきて、株式会社が将来主流を占めることはないだろうと見ていました。アダム・スミスですらそういう予想をしましたが、これは間違っていたわけですね。

 第七章は・資本主義経済における自由競争の行きつく先として自然的に競争を制限するものとして発生したカルテル、トラス・コンツェルンを問題にされております。けれどもこれは独占も合理的な面がある。しかし弊害もあるからこれは取り締まらなきゃならないという点を強調されて、先生の考え方はやっぱり自由なマーケットメカニズムの存在の必要性ということを非常に痛感されておるわけです。

 それで先はど私が紹介しましたペンローズの「会社の成長論」これはダイヤモンドから出版しておりますが  ― これは大学院の学生が非常によく読むわけでございますけれども、大学院の学位論文を書くのに非常に参考になるんですね。けれども彼女によると、大会社が非常に発展してきますと逆分散が起こってくる。これは必ず大会社が中小企業というものの特徴をもっと入れていかなきゃならない。もっと減量化して規模を小さくしなきゃむちゃくちゃな独占 ― 自分ひとりだけになっちゃって企業を占めるというとそれは国鉄と同じような過りに陥っていきますね。そういう点は会社の無限の成長を言っているわけじゃありません。必ずその限界を言っておるんですね。それらの成長曲線、
つまり会社規模を拡大しますというとどうしても成長コストが発生していくものですから、それで利益がなくなってしまうものですから、自然に限界につき当り逆に再び縮小するようになる。そういう点を強調しておるわけですが、上田先生の考え方もそこははっきりは言ってませんけれどもそういう形を認識されております。

 そして、最後の第八章ですが、「社会改造と企業」「新自由主義」などに見られる先生の卓越した思想から経営は体制のいかんにかかわらず必要な産業の根本的事実であると。こういうわけで企業の経営の必要性を、いや、企業の研究だけでなくノンプロヒットビジネスとしての協同組合、公共事業の経営問題、こういったものを研究し、合理的経営を考えなければだめだ。これが「企業の社会化」 の問題として出てくるわけです。

 そして、この点はサンジカリズムであるとか、フランスの空想的な社会主義とか、いろんな考え方をずうっと跡付けながらサンジカリズム、ギルド・ソーシャリズム、こういったような主張もよく見られながらやはり市場と価格の作用を重視する営利事業というものに広い領域が残されておるんだという点を力説されておるわけです。

 以上が「経営経済学総論」 のポイントみたいなものですけれども、さらに第二部というものを見まして、諸論文の内容や上田経営学に対するあらゆる論評にも私は全部目を通しまして、なお重要と思われる点を若干つけ加えましたのが「解説」二六頁終わりから四行目、一、と出ておるところです。一、二、三、四といったようなふうに私の考え方を申し上げておりますけれども、やっぱり一つは要するに経営経済学のようなものが欧米で考えられないうちに、上田先生は日本にあっていまから言うと八十年前に一橋に在学中から企業経営学を構想されてその体系化に努力されました。ということは、まことに画期的なものであると同時に、先駆者であると同時に創設者であるわけです。いまでも日本経営学会はその点をちゃんと認めておるわけでありまして、特にこの点は三浦新七、平井泰太郎、池内信行、中西寅雄、古川栄一、こういった篤学の先生方によっても明確にちゃんと論文がありまして評価されております。

それから、上田先生にとって「商事経営学」「商工経営」と言われたものの中身はこれもまさに経営経済学であったわけでありまして、それが先はど申しましたように明治三十七年の「商業大辞書」と明治四十四年の「経済大辞書」における「商業」及び「商業学」、明治四十二年の「商事経営学とは何ぞや」、大正十四年の「商業学について」、昭和五年の「我国における商業学及経営学の発達について」、同じ年の「商工経営」などの先生の主張を丹念に跡づけまして全く経営経済学がどのようにして日本で成立するに至ったかという点がよくわかります。

 また、明治三十年代に日本の産業革命は先生の言葉で言うと、「馬車馬のような進行を開始した」わけですけれども、次第に日本でも各都市、特に大阪なんかにも煙突がどんどん出まして、商業中心から工業中心に移ったことは外形からもよくわかるわけです。そこで工企業における資本及び労働の組織が発達した事実を鋭くも観破して、当時非常に不振であった商業通論の体系化を試みたわけです。そして企業経営学の必要を認識したわけです。それから商業だけを研究する商業学にあきたらず工業も入れて広く企業を研究対象とする経営学が必要であるとの考え方からそこでいわゆる「商事経営学」、「商業経営学」じゃなく「商事経営学」という言葉を使われましたが、後に「商事」というのはちょっといかんというので、やっぱり「企業経営学」というような形になっております。

 当時構想された商事経営学の内容は、(一)外部関係 ― そこに書いてありますように(「解説」二七頁終わりから五行目。)これは商業方面ですね。(1)市価の変動及び景気の循環。それから(2)売買の組織。それから(2)の(イ)(ロ)とあります。
それで、(一)に対して(二)内部組織(工業的方面)それで(1)生産組織、生産組織の中ではフォード・テーラーシステムですね。それからフォーディズムですね。これは非常によく研究されました。

 第二章は労働組織です。それから(三)は先はどの資金運用面。ともかくこれを見ますと、商学全集の一巻である「商工経営」もくしくも最後の著作となった「経営経済学総論」の内容もその大要はすでに明治四十二年の当時 ― この明治四十二年というと一九〇九年ですが ― 一九〇九年の当時にすでに今日の「経営経済学」の大綱ができておったわけです。この辺において日本の経営学の発展が欧米と大分あるときには先駆けをしておる。上田先生はバーミンガム大学に学んで、学んでというか在学研究をされましてアッシュレー教授と親交があり、アッシュレー教授の考え方 ― ビジネスエコノミックスの考え方を大部分取り入れて、日本へ帰って早くこういうものもやらなければならんというふうにアッシュレー教授からも刺激を受けたことは確かです。企業形態論においてもリーフマンなんかよりも早く株式会社の研究なんかで先鞭をつけておられることが大変なものだということが言えます。

 それから、第二番目の視点は、国民経済学と経営経済学の関係についてですね。上田先生は広義の経済学の一部門であるという立場を経営経済学が持っておるということを最後まで持っておられたわけです。それからあるときには大正十年の「株式会社経済論」の改訂増補版の序文のように経営経済学を独立の学科とすることは不必要かつ不可能であるというようなことを言われたものですから、みんなびっくりしちゃったわけです。ここまで言わなくても非常に密着化して存在しなきゃならないということでよかったわけですが、先生はなかなかリベラルですから余りそういう形にこだわらない方であるものですからここまで言われたんじゃないかというふうに思いますけれども、決してこれは上田先生が経営経済学あるいは経営学の必要性、存在を否定したものではない。むしろ学問の地位と方法を明確にしようという意図から出たものではなかったかと思うわけです。

 したがって上田先生はそこに書いてありますように、(「解説」二九頁の真ん中)広義の経済学の中で国民経済学または社会経済学、それからもう一つ、広義の経済学の中でこれは(意識的経営の学)として財政学、家政学、経営経済学と、こういうふうにしてそれで、国民経済学は主として価格論 ― 価格現象を研究する。広義の経営学は主として組織を研究するといったようなふうに方法的に分けられるというような形になっております。

 さて、今度は三ですけれども、上田先生の学問に対する態度は常に主張、理論であっても必ずそれが眼前の歴史的事実によって確かめられるという方法をとっておることは先はど一番初めに申し上げたとおりですけれども、これは先生の言葉自身を聞いた方が非常におもしろい。(「解説」三〇頁の真ん中のところです。)

 『ある学問の系統をたつるにあたり、ただ論理の一貫することだけを考えて、その伝統や現状をかえりみざるものは、あたかも空中に立体幾何学の図を描くようなもので、ひっきょう思想上の遊戯に終わるであろう。』容れ物も必要であるが、『容れ物ばかりあって中味がなければ意味をなさない。』

 だから先生は外側をドイツから取ってきて中身をアメリカから取ってくるというようなことを「総論」の中でも非
常に強調されました。そういうものを批判して上田先生の「中身容れ物論」は非常に幼稚であって結局歴史主義、あるいは経験主義のゆえに方法論は非常に弱いものであるといったようなことを言っているものもありますが、私から見れば自然科学の方ではあくまで空理空論をさけて必ず調査、実験、考証、プルフということを非常にやかましく言っておるわけです。それをきわめて科学的サイエンスとこう言っておるわけですけれども、そういう点でまだ社会科学の方がかえってまだ幼稚なところがあるわけですね。

 それから、最後に第四ですが、「経営経済学総論」は古典的名著ではありますけれども、わが国に今日当面する経営の重要問題の解決に一つのガイドポストを提供しておる意味において現代に非常に生きておるんじゃないかと思います。たとえば国鉄、公団、事業団、専売事業、農業団体の経営問題はもとより、にわかに深刻化してきました地方自治体、あるいは中央政府の財政危機の打開を欲するものは上田経営学の主張する合理的経営、浪費をなくするということをもっと真剣に考えるべきではないかと思われます。

 また、独占の弊害だけを糾弾してそれがかえって競争的市場機構の安定に役立つとともに、中小企業との共存を可
能にしている点を見落としている世論も上田経営学はやはり一つの反省材料になるのではないか。また寡占的企業も国の統制を招く前に、社会一般に対する責任を果たしてマーケットメカニズムを守り抜くだけの気合いに徹しなければならないでしょう。やっぱり経済と経営とは密着しておるわけでありますから、自由体制というものを離れたらもはや企業の自由活動はありません。今日のソビエト・ロシア、社会主義と称するところの国々の機構と全く同じになってしまう恐れがあります。日本がなぜ世界一の繁栄をやっておるかということは、これが自由体制を守っておるからですね。

 それから、労働組合の方も政治闘争をやることは一半の理由はわかりますけれども、やっぱり不安定度を増していく労使関係を前にしまして経営の役割というのをもっと労働組合のリーダー、あるいは労働組合員が理解することが必要です。今度びっくりしたけれどもアメリカの景気の上昇の陰には生産性の向上があるのですね。生産性の向上というのは労働組合が社長に申し出てきて、「社長、いままでの態度悪かった。今度は賃下げをしてくれてもいいから、会社が存続するためにはわれわれは協力する」と、こういうふうに申し出てきておるわけですね。これは非常におもしろいですね。それで生産性が上がったことが今度の景気上昇の一つの原因となっています。もちろん強力な自主調整をやりました一つの反動ではあるけれども、非常に労働組合の考え方が変ってきたようです。こういう傾向はアメリカだけではなくドイツでもイギリスでもみられるようになりました。

 いま世界はOECDだけで三千二百万の失業者でうなっておるわけですが、失業の増大を未然に防ぎ恐慌への転落を食いとめるために今こそ上田経営学の真随をわれわれは学んでおらなければいけない。産業自治にはそれを支えるだけの経営能力が伴っておらなければならないのです。

 以上の点はすべて泉下から聞こえてくる上田先生の声であります。こういうところが私の表現のいいとこですね(笑い)。


[質 疑 応 答]

 古賀 上田先生は急に亡くなったわけですが、まだ若く元気でこれから十年や二十年自分のライフワークをつくっていこうというような計画があったと思うのですが、もしありましたら。

 末松 これは小田橋先生に聞いた方が早いですね。

 小田橋 きょうは末松さんが来られるというので、ちょっと行ってみようと出て来たので、何も準備をしていませんが、上田先生が晩年の著作で本当は日本人口論と日本の人口の将来という問題を世界的な広さで完成しようと最後までお考えになっておったようです。しかし先生はもうちょっと前からやはり日本産業革命史というようなこと、産業革命史論を中心に日本の産業革命史をひとつ大成してみたいというお考えは非常にあったようです。

 念のために申しますと、その上日本経済論をやろうというのでいろいろ資料を集めたり、項目を書きかえたりしまして、それを上田先生の長男の正一君が中心になりましてわれわれも協力して先生がこしらえたかったような日本経済論というものをこしらえてみようということで日本経済論という題で小冊子を出しております。しかし、もちろん完成したものではありません。

 新井 私からちょっと感想を述べさしていただきますと、上田先生が長生きされてますといま行われている日本人論、日本経営論の特質というところに行かれたのではないでしょうか。

 私の学生時代の記憶でちょうど昭和四年の世界大不況、昭和六年の満州事変、それから金輸出再禁止、為替ダンピングの問題。その次にソーシャル・ダンピングという言葉があって日本の経済がどんどん輸出する。生活を犠牲にしたソーシャル・ダンピングだと。それに対して上田先生が私どもに教えられたことは、向こうではパンとバターを食べている。こっちはたくわんと握りめしだ。しかし日本は四面海で魚を食べている。その魚とたくわんと米のめしと、パンとバターとどっちがカロリーがよく、どちらがレベルが高いか、これは容易に判定できまい、ということを言われたのがいまもまだ記憶に残っているのですが、そういうところで日本経済というか、日本民族というか、そういう特徴を非常につかもうとして居られた。そして人口問題に突っ込んでいかれた。私の勝手な想像ですけれども、上田先生がもし長く生きていらしたならば日本的経営論のユニークなものを展開されたのではないだろうかというような気がします。

 小田橋 その点、ちょっと追加します。
上田先生はさっき末松さんがおっしゃったように自由通商というのを非常にモットーにし、世界はいまのような関税をもっと撤回するのを忘れておる、もっと自由通商をやるべきだと主張されていたが、小泉信三氏が何処かで書いて居られますが、上田先生が生きている間はついに自由通商はだめだった。上田先生の政策は上田先生が亡くなってから認められてきて自由通商の世界ができてきたんだと。上田先生がなかなか将来を達観した説を出しているがむしろあれは実現しなかったと。

 上田先生が昭和二年ですか、国際経済会議に行って帰って来られて、日本に大阪を中心に自由通商協会をつくられ、それから東京にもつくられ、更に各地に幾つかつくりましたが、自由通商協会というのをつくって盛んに保護政策がいかんという批判をしたのですが、上田先生が生きている間どうしても、ちっとも実現しなかった。だから上田先生の考え方が戦後になってむしろ実際に行われているのだ。ということをはっきりと小泉氏が言っております。先生を思い出しましてちょっとつけ加えさしていただきました。(拍手)

 青葉 私に何か感想を申し上げるようにという新井さんからのお話ですが一言で申しますと、上田先生の思い出という、これは上田ゼミのメンバーの方々で一緒につくったものの中に、上田先生の学問は実学であるということを非常に皆さん感じておられたということが一つ。

 それから、キヤプテン・オブ・インダストリーという一橋の学生が学生といいますか、学園の目標をそういうふう
に言われるようになつたことについて、あれは「如水会報」の第一号に、大阪の如水会の支部ができたときの講演をしておられる中にこういう言葉がありまして、上田先生はキャプテン・オブ・インダストリーという言葉はカーライルが残した言葉だ。それで、事業家のただ利潤だけを追っているならばちょうど昔の町人のように千両箱を抱えて、幾ら抱えておっても社会的な変化によって千両箱を失うであろうと。要するに社会的責任をあわせて考えてやらなければ経営というものは成り立つものではないと、それをやっていくのがキャプテン.オブ.インダストリーだという趣旨のお話をされている記事がありました。それを拝見しまして、上田先生の学問は一橋の学問の主流といいましょうか、特色であるというふうに言いましても過言ではなかろうとそんなふうに私はそれを読んで感じたわけです。                                                                                     (昭和五十八年十月十二日収録)