[橋問叢書 第二十九号]一橋の学問を考える会
上田辰之助教授の戦後 一橋大学社会学部教授 都筑 忠七
は じ め に
御紹介いただきましたように、私は、上田ゼミナールの出身ではございません。大塚金之助先生のゼミに所属しておりまして、本日は上田ゼミの諸先輩も御出席のようで、お叱りを頂戴することを覚悟でやってきております。いずれにしても私は上田先生について報告いたしますにはまことに不適当な人物でございます。上田先生の講義に出ましたのも上田ゼミの方には叱られますけれども、後にも先にもただ一回だけでございまして、学部の最初の年の四月、先生方の顔見せの講義のときに二十一番教室にあふれる学生の後の方に座りましたところ、先生が大きく黒板に「社会連帯主義」とお書きになりました。社会連帯主義は戦前から先生が好んでお使いになった言葉ですが、当時戦後二年目だったでしょうか、戦争中の悪夢とつながるように思われまして、それ以来足が遠のいてしまったというような事情がございまして、それがいまでは大変残念に思われてなりません。また上田、大塚両教授の間の極めて友情細やかな間柄につきましても、当時私など何も知らず、何年も後になってようやく承知したような次第で、これまた上田先生に対しては大変済まなく思っております。
ただ何となく一筋の細い糸が、先生と私をつないでくださったような気がしてなりません。私は大学を出ました後しばらくしてガリオアの最後、フルブライトの最初の留学生としてアメリカへ参りましたが、そのあと大西洋を越えてイギリスへ渡りました。しかし当時のイギリス、完全雇用のイギリスでしたけれども、外国からやって参りました貧乏書生には糊口を潤すようなアルバイトもなく、全くお手挙げの状態で思い悩んでおりましたとき、オックスフォードのブリティッシュ・カウンシルから半年間のバーサリーといいます奨学金がいただけることになりました。なぜそうなったのか詳しい事情はよくわかりませんが、当時東京のブリティッシュ・カウンシルに関係しておられた上田先生の御好意があったものと、いまでは確信しております。イギリスでの私の勉強がそれなりに続けられたのも、そしてまた今日私が学問の道を歩かせていただいておりますのも、三十年まえに東京とオックスフォードをつないだ一本の細い糸のお陰であると考えております。私がオックスフォードでの仕事を終えまして帰国いたしましたときは、上田先生はすでに不帰の客となられ、お会いすることができませんでした。そういうわけで、ある意味では悔恨に満ちたお話ということになりますし、また以上のような経緯からも到底上田論のインサイドストーリーを試みるわけにはまいりません。何となく問題の表面をなで回すだけのお話になることをあらかじめおわびしておきます。
上田教授の戦前から戦後へ
戦前の上田先生につきましては、拙いものではありますけれども大学の方で編集を進めております創立百年記念の大学の学問史の中で、大変荒削りなデッサンを試みさせていただきました。これは諸先輩の方があるいはよく御存じのことだろうと思いますけれども、上田先生は戦前、言ってみれば社会改良主義から社会連帯主義へと、あるいはクエーカー教徒となられたそのクエーカーリズムからカトリシズムへ、そしてまたロントリーのようなイギリスのクエーカーの実業家との親交などから、またそういう研究から、聖トマスの研究へと向かわれた。そして戦争中には確か二宮尊徳まで手がけられた。そういう上田先生の思想の遍歴は、まさに大正デモクラシー以後の日本の思想史の展開そのものを写し出す鏡であるように私には思われます。
これに対して戦後の上田先生の御活躍、これは大塚金之助先生の言葉によりますと、不自由の時代に閉じ込められていた先生の天分が自由を得て本来の生気を取り戻された。そういうように私にも思われるわけですが、戦後、先生は五十六年にお亡くなりになるまで、わずか十一年の短かい歳月ではありましたけれども、驚くほど豊かな学問を実らせていかれました。しかも戦後上田先生が主として手がけられたテーマは「十八世紀初めのイギリスのミドルクラスのリベラリズムの世界」でありまして、それは戟後の復興期の日本の社会と何となく二重写しになるような感じがいたします。かえすがえすも悔やまれますのは、本学で一番国際色豊かな先生が、戦後の日本の真の国際化の時代を迎えずに、この世を去られたことでございます。
上田教授の人間像 ― 二人の上田辰之助 ―
上田先生の戦後の代表的著作は、いうまでもなく画期的なマンドヴィル研究『蜂の寓話』であります。ところで、上田先生以後のマンドヴィル研究の一つ、『アンビバレンス・オブ・バーナード・マンドヴィル』 の著者モンローは、二人のマンドヴィルがいるといいます。一方では敬虔なクリスチャンのマンドヴィル、他方ではイージーゴーイングな世俗の人、皮肉屋のマンドヴィルがいる。この一見両立しがたい人物、要素が入り交じって精彩ある好人物、天才が生まれたのでしょう。同じことが上田先生についても言えるように思われます。
二人の上田辰之助論 ― これは戦前から言えることでして、上田先生は一九一八年から二年間ペンシルベニア大学に留学され、ちょうど第一次大戦の末期でしたが、そこでクエーカーの反戦運動に興味をお持ちになり、その後イギリスに回られて一九二一年にロンドンでクエーカーの信徒になられております。このクエーカ1教徒としての上田辰之助と、それからもう一人は、日本橋小網町の回漕店の次男にお生まれになった上田先生、前垂れ大学の商大の教授になって、経済人、経済的人間、ホモ・エコノミックスの研究に精進された上田辰之助と、この二人の上田辰之助をそこに見出すことができるように思われます。
クエーカー教徒として、戦後上田先生は、戸山ハイツの礼拝堂の創立に尽力され、そこでいろいろとスピーチをなさっておられますが、その中で「クエーカー教徒の良心的反対」を取り上げておられます。これが先生の戦後の社会思想史的な関心の柱になったように私には思われます。
しかしもう一人の上田辰之助がきょうの私のテーマです。日本橋小網町の上田辰之助です。上田先生は西鶴を扱われて、『サイカクズ・エコノミックマン』というタイトルで英文の論文をお書きになったことがございます。それに西鶴の 『日本永代蔵』 の中の最初の話が紹介されています。
これは和泉の国の水間寺で観音の貸し銭という金貸しを寺がやっている話です。この寺へ、江戸小網町の網屋という回漕店のおやじが参りまして寺にもうで、一貫(一〇〇〇文) の借金をして江戸に帰り、漁師を相手に貸し銭を始めた。そして寺の貸し銭の条件と同じ、一年で倍の高率で利息を取るわけですが、観音様のお金だということで信仰の厚い漁師たちは間違えずに借金を返す。十三年目には元の一貫が八千百九十二貫という巨額の金になりまして、これを東海道を通し馬に付けて送り寺に返した。寺は非常に喜び宝塔を建て、江戸の網屋も栄えたというお話でございます。
これが見事な英文で紹介されております。この小網町の網屋が何となく上田先生の御先祖様ではなかったかと、ふと想像してみるのも楽しいように思います。
上田教授と『蜂の寓話』
先生は網屋の中の経済人に興味をもたれたわけですが、経済人の研究は先生が戦前から持っておられたテーマでありますけれども、それが戦後はさまざまな視点から検討されるようになった。そのお仕事の一番まとまったものが『蜂の寓話』 でございます。この本は一九五〇年、昭和二十五年四月に新紀元社から発行され、一冊三百八十円という定価が付いております。今日では古本屋の店頭でも見ることのまれな書物で、最近復刻の準備が進められているとか灰聞しています。
これが出版された翌月、一橋大学『講座月報』の第二号が出て、これに上田先生が、「『蜂の寓話』こぼれ話」をお書きになっています。
「河上博士なども〔本書の〕一部を引用しておられるが、全面的に研究された様子はない。大概の珍しいものを逃がさなかった福田徳三先生も流石にマンドヴィル ― 先生はマンデヴヰーユと呼んでおられた ― までは手が伸びなかった。……『寓話』を理解するためには若干の道具立てが必要だ。経済思想史のほか、イギリスの哲学や歴史や政治も心得ていなければならないが、とりわけ英語、英文学には普通以上の造詣がないとマンドヴィルの正しい評価はむつかしい。本当を言うと彼の文章に朱を入れるくらいの見識が望ましいものである。」
上田先生ならではの抱負、あるいは自負までがそこに読みとれて大変おもしろく思われます。
『寓話』は、経済学と文学との「一種の境界的な文献」である。だから「私のような変わり者に残された仕事」であるとも書いておられる。この境界的文献の研究というのは、学際的な研究のことでありまして、変わり者の上田先生は、今日では珍しくない学際的研究のまさに先駆者でもあったわけであります。
また『寓話』の風刺は、資本主義弁護論ではないから、碩学、鴻儒、金言居士と並んで「資本主義の熱心党」もこの本は御遠慮願いたい。何よりも本書は「青年の書である。年齢の青年ではなく精神の若者を対象として書かれた本である」ともおっしゃっておられます。
この本はレイン・W・ランカスターという人に捧げられております。この人は上田先生と同じ一八九二年の生まれの方で、アメリカの政治学者だと思われます。また政治思想史も扱っておられまして、『へーゲルからデューイへ』という本もお書きになっておられるようです。先生との交友についてどなたかから御教示いただければ幸いです。
またこの本の副題は「自由主義経済の根底にあるもの」となっており、それは個人創意及びこれと関連を持つ生産能率の問題であるとされております。それが、二〇世紀半ばにおいて、「ソ連を含む世界諸国が取り組んでいる現代社会の課題である」とも書いておられます。その後三十年、この課題と取り組むのに、日本が優秀な成績を挙げたと言えそうでありますけれども、この問題の世界史的な意味を取り上げた先生の『蜂の寓話』は、戦後日本経済再建期のクラシック、古典だと私には思われます。
『蜂の寓話』― その内容について
今日は戦前の諸先輩が多うございますので少し詳しく書物の内容を申し上げてみたいと思います。
この書物の書き出しは、まことに上田先生らしく名文が綴られております。
「故あってか名を秘めた一作者の筆になる四ツ折版二十六ページ、売価半ペンスのドッガレル〔野暮な詩〕『ブンブン不平を鳴らす蜂の巣』またの名「悪漢化して正直者となる」がロンドンで発売されたのは一七〇五年春のこと、たちまち人気を呼んで、半ペンス四ページ綴りの偽版さえあらわれ、当時の習慣に従って都の町々に読売りされた。」
そしてマンドヴィルのいまの野暮な詩について申し上げますと、一七一四年にはこれに著者の註解などが加わりまして本の体裁をとり、このとき初めて『蜂の寓話』というタイトルが付けられ、そして『私人の悪徳、公共の利得』という有名な書名が与えられた。そして著者名が明らかにされたのは一七二三年版でした。それとともにロンドンで開業しておりますオランダ生まれの医者、バーナード・マンドヴィルは一躍イギリス文壇の名物男になる。「そんなわけでマンドヴィルはイギリス社会の周辺に根拠地を持つ一種の遊撃隊であった。否、論敵に言わせれば便衣隊であったかもしれない。とにかくリスベクタビリティに煩わされることなく― オランダ人の医者ということもあるわけですが ― 思うことことを思うままに表現できる自由で気楽な立場にあったのである」。何となく上田先生御自身が日本の論壇の便衣隊のようにさえ思われてまいります。
『蜂の巣』 のテーマは、原著者の序文に示されています。それは悪徳の奨励ではなく、また一般道徳への風刺でもない。そうではなく個人の悪徳が巧みな管理、あるいは政治的な英知によって全体の壮麗さ、そして現世的な幸福に貢献する、奉仕させられるということであります。そして人類が貪欲、あるいは利己心というその先天的な弱点を取り除かれてしまったなら、強力で文化の誇り高い社会を築くことは望めないとも言っております。
寓話の詩の部分のストーリーを少したどってみたいと思います。
蜂の巣は当時のイギリス社会、名誉革命以後の、王権が法律によって骨抜きにされたイギリス社会であります。多産の蜂の巣は人口稠密。それが繁栄のもとである。幾百万が欲と見栄を満たし合う、悪知恵を絞り欺き合う。職業とは一体そうしたものである。弁護士も医者も坊主も軍人も大臣も裁判官もみな同じである。部分は悪徳に満ち、しかも全体が揃えば一つの天国になる。まさにこれは今日流に言えば経済大国並の蜂の巣でありますけれども、そういう蜂の巣は平時はこびられ、戦時には恐れられる。治国の道とはこうしたもの。部分は不平を鳴らしても全体は立派に治まっていく。貪欲、これが乱費に仕え、奢侈が百万の貧民に職を与え、倣慢がもう百万を雇うとき、ねたみも虚栄心もみな産業の奉仕者である。蜂ども ― これは人間どもでありますが ― 自分のペテンを隠して他人のペテンを糾弾するようになる。積もる不正で国が滅びると口々に叫ぶ。そこでジュピターが蜂の巣を清め正直な巣とする。役得もなくなって幾千の管理者が姿を消す。まさに行政改革でございます。商売と正直が一致するとき、ごろうじろ。芝居はおしまい、まるで火の消えたよう。そこで土地や家屋の値段が下がり、職人には仕事がなく酒場も火の消えたようになる。工芸技術も顧みられない。節制の美徳を積んだ蜂どもは、乱費を避ける目的で蜂の巣はやめて空になった、うつろな樹木に飛び込み、蜂の巣は毒の終わりである。そこで、「さらば不平はやめよ。ばか者だけが蜂の巣を正直にしようとする。」これが寓話の教訓です。
マンドヴィルの『蜂の寓話』はさておき、上田先生の『蜂の寓話』の魅力は、詩の翻訳がいかにも名訳であるといぅことだけではなくして、本文に展開されたこの詩の社会的、文化的背景の描写にあります。そこにはマンドヴィルが啓蒙期の世界市民的な気質を体現していることが指摘されておりますし、またマンドヴィルが住んだその時代のイギリスが、繁栄と享楽のイギリスであり、そして平和を謳歌し、同時に政治的には腐敗していたイギリスであるといぅ指摘もありまして、これまた何となく戦後日本と結び付けて考えられるような材料でございます。
マンドヴィルは経済的自由主義の先駆者と言われております。と同時に重商主義者としての側面もあります。事実富国強兵なども、初期自由主義が重商主義から受け継いだ遺産であると上田先生も指摘されております。また『蜂の寓話』では政治に対する期待も大きく、要するに政治家の政策のよろしさを得て私人の悪徳が公共の利益をもたらす、貿易均衡の重視もその一例であるとされております。
ところで寓話の経済思想は、基本的には個人解放の、したがって伝統的な抑圧からの個人の欲望の解放の経済思想ですから、そこには移り気だとか著移、ぜいたくの勧めがありますし、勤勉の礼賛はもとより、満足を戒める満足亡国論まで読みとれるわけです。
先生は、営利経済、あるいは欲望経済というものを中世の職分経済と対照され、したがってこれは先生の戦前の聖トマス研究との対比ということにもなりますけれども、同時に、新教と近世資本主義との関係について上田先生らしい指摘がなされています。それはマックス・ウェーバー批判という形もとっております。この点もう少し多くの研究者に注目されてよろしいようにも思われます。先生は職業というものを、ウェーバー流に神に召されたという意味で理解するよりも、つまり宗教そのもののコンテクストで見るよりも、『蜂の寓話』におけるような非宗教的な、あるいは非倫理的な関係で考える方が妥当であるといわれる。
いいかえれば、キリスト教の世俗化と経済的合理主義の問題として理解すべきでしょう。プロテスタンティズムと資本主義精神との関係についてウェーバーが指摘していることも重要かもしれないが、それ以上に、むしろ近世経済の発展が、プロテスタンティズムに及ぼした影響、経済が宗教に及ぼした影響の深さを考えることが大事であると指摘されております。
『蜂の寓話』の思想史的な背景についてもかなり突っ込んだ分析がございます。マンドヴィルを利己心の哲学の伝統に位置づけ、マキャベリ、ホップズにつながる系列の中に置く。これと対置されるのが利他の哲学ですが、それは道徳心、社会感情を強調するものでありまして、シャフツベリや、あるいはスミスの先生でしたハチスン、あるいはスミス自身へつながるものでありますが、アダム・スミス自身は利己と利他の両方の伝統にまたがっているという御指摘もあります。つまりスミスの「国富論」の中に出てくる経済人、ホモ・エコノミックスは「倫理性を持った経済人」である。これに対してマンドヴィルの経済人は「徹底した経済人」だったのです。さらに思想史的な問題を尋ねてみますと、スミスと同じように利己心と利他心の両方をつなぐ思想の系列にベンサムの功利の原則、功利主義が位置づけられる。そして十九世紀産業社会が発展してまいります中で、功利主義の功利の思想は個人主義から、さらに一種の社会主義へと変化していく。上田先生がここで一種の社会主義といわれるのはフェビアン協会の社会主義のことを言っておられまして、ケインズもまたある意味でマンドヴィルとつながるという御指摘もございます。思想史的な検討はさらに時間を今日に引き寄せまして、ちょうどこれが書かれました一九五〇年、五〇年はアトリー労働党政権の最後の年でもありまして、先生はこの書物の中で「イギリスはもはや不平を鳴らす蜂の巣ではない。闇行為も不思議なくらい少ないといわれている。寓話のイギリスはどこにも見られない」。と、いかにも残念そうでありますが、しかしイギリスの産業国営化政策続行だとか、あるいは経済の官僚化だとかいう事態には自ら限界がある。労働党の支持がようやく減退し始めているなどと指摘されて、「マンドヴィルいまだ死せず」という言葉でこの書物を締めくくっておられます。
二つの「経済人」の分析とその展開
ところで、先ほど申しました倫理性を持った経済人と、徹底した経済人というように、経済人に二つのタイプがあるようですが、先生はこれを適当に使い分けておられます。ただ体系的な説明はなさっておられない。普通スミスの予定調和の世界では個人の経済的な利益が自然的、自発的に調和するというふうに言われますが、その場合その個人的利益がすでに道徳感情といいますか、社会性、社会意識に媒介されている。だからそれは倫理性を持った経済人だと言えるわけですが、他方、マンドヴィルに見られる赤裸々なむき出しの個人的な利益は、予定調和には至らず、やはり政治の知恵によって人為的、人工的に調和させられなければならない。これが徹底した経済人の社会であります。
他方上田先生は、こうした使い分けをなさっておられる一方で、経済人というものは洋の東西を問わず同じである、日本でもイギリスでも同じだ、ただそれが若干異なる特徴を持つとすれば、それは経済人が違うのではなくして、異なる社会環境のせいであるという説明もなさっておられます。当然その場合の経済人は、純粋な、徹底した経済人でありましょう。こうした問題の検討が『蜂の寓話』以後同じように経済と文学との境界領域を扱う諸研究の中でさらに展開されてまいります。
その一つが、十八世紀初め、アディスン、スティールが編集しました 『スペクテイクー』(一七一一年〜一七一四年)という雑誌を扱う論文の中に出ております。これは「ミスター・スペクティター・アズ・アン・エコノミスト」という表題で大学の、『アナルズ』と当時呼ばれました英文雑誌(一九五二年一〇月号)の中に収められています。
十八世紀の初め、ロンドンに二千店を超えるコーヒーショップがありまして、そうしたコーヒー店文化、市民社会文化を背景として登場する 『スペクテイター』紙を擬人化し、ミスター・スペクティターが商業と商人の友であり、政治的にはウィッグであり、そして自由な王制、そして穏健な宗教、宗教寛容を支持する、というような特色を描き出しておられます。国の富、国富は無条件でこれを賛美するが、個人の富になると中庸を説く。貧民には貧困の福音を説く。慈善学校、チャリティスクールを支持するけれども、それは貧乏人の子供を教育することによってより大きな経済的効率が期待されるからである。
他方、富への道については、節約、勤勉、規律、才覚などが強調され、実業道徳が推奨され、分業論の萌芽も見られる。したがって同時代のディフォーやマンドヴィルと多くの共通点があると言っておられます。こうした共通点の指摘は、結局その背後にある経済人の普遍性という考え方によるように思われます。しかしスペクティターとマンドヴィルの間には実は大きな相違がございまして、これがまた上田先生の問題に戻ってくるように思われます。
マンドヴィルはオランダ生まれの医者ですが一六九〇年代にイギリスにやってきます。イギリスにやってきたマンドヴィルを驚かせたものは、風習改革教会の展開した大変活発な運動でした。彼らは酔っぱらいを摘発する等々のこともしたようですが、実はマンドヴィルはこうした動きを批判したわけです。しかもこれには道徳的かつ政治的な問題がからんでいました。名誉革命の前、当時の国王ジェームズ二世はフランス及びカトリシズムに傾いておりまして、これに対する国民的な抵抗運動が起り、国教会、非国教のチャペルともにイギリスの教会を中心に一種の宗教復興運動に発展しました。それが名誉革命とともにさらに強化され、名誉革命は政治革命であっただけでなくて道徳革命でもあったわけです。こうした態度、要するにフランスとカトリシズムと、そして道徳的な退廃とを攻撃するという態度が、政治的にはウイッグと結び付く。アディスンやスティールがほめたたえた慈善学校運動も同じように個人の不道徳、悪徳を抑制することが社会的に必要だという考え方から生まれたものです。マンドヴィルは、このような道徳改革運動を攻撃するため、一七一四年版の 『蜂の寓話』 の中に、「道徳の起源に関する研究」というエッセイを書きます。そこで、遺徳というものは追従(フラタリー)が誇り(プライド)に生ませた政治的な子孫であるなどと述べていますが、同時に名指しで、スティールを攻撃しております。マンドヴィルは、人間が動物と共有する自然的なエゴイズム、赤裸々なエゴイズムに着目し、そうしたエゴイズムを前提とした社会をつくるには、スティールが言うような道徳話や、あるいは社会性とか道徳感情とかを強調するシャフツベリーの理論とは違った理論を考えざるを得なかった。それは個人の悪徳、商人の悪徳を前提とし、それプラス政治的な知恵が公共の利益を導き出すという、先ほど来の彼の主張であります。
さらにマンドヴィルは、悪徳を攻撃するような道徳は結局他人を支配しようとする野心的な政治家から出てくる、ウイッグの政治家が国民を操っていると考え、このような道徳復興の偽善、欺瞞を指摘暴露しようとしたわけであります。ですから『スペクティター』とマンドヴィルの間にも、少なくとも経済人について言えば、上田先生自身がすでに問題にされておられます二つのタイプがそこに読みとれるわけであります。『スペクティター』の場合には、やはり道徳観というものを問題にするような、そういう経済人であったわけです。
ところで一橋社会学部ができましたときに上原専禄先生が編集された『社会と文化の諸相』(一九五三年)という論文集の中で上田先生は、「市民社会文学の一形態」と題されまして、英文学におけるファンタスティック・リアリズムの作品を扱っておられます。これは三つの作品、マンドヴィルの『蜂の寓話』と、ダニエル・ディフォーの 『ロビンソン・クルーソー』、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の比較研究ですが、文学における経済と経済人、ホモ・エコノミックスの分析が中心テーマです。特に 『ロビンソン・クルーソー』はイギリス・ミドルクラスの手堅い経営者の標本である。その点でマンドヴィルの経済人、普遍性がより強くより徹底した経済人とは性格が違うと言っておられます。
スウィフトのところは略させていただきます。
次のテーマは、「経済人の西・東」でありまして、西鶴とダニエル・ディフォーをテーマにしておられます。そう
いう書き物が二つ英文でございます。
一つは『ライジィング・ゼネレーション(英語青年)』という雑誌(一九五四年特別号)に発表された『日本永代蔵』とダニエル・ディフォーの 『完全なるイギリス商人』との比較であります。
もう一つは、大学の『アナルズ』(一九五六年一〇月号)に発表されました「西鶴の経済人」という論文です。
西鶴とディフォーの比較は年代的にもなかなかおもしろく、名誉革命の年一六八八年は元禄元年ですが、この年に西鶴が最初の町人物『日本永代蔵』を出版しております。他方ディフォーの『完全なるイギリス商人』はもう少しおくれて、一七二五年〜二七年に一巻、二巻という形で出ております。西鶴とディフォーを結び付ける大胆な試みでありますけれども、それなりに面白い問題がございます。まずこの二人の作者はともに奔放なパッションに身を任せるような人生をテーマにした作品、西鶴の好色物や、ディフォーの場合には『モール・フランダース』とか『ロクサーナ』などありますけれども、そういう作品を書いた後、人生のたそがれの時期に真面目な商人を扱う町人物を書いております。そして両者に共通のテーマは富への道です。違いは、西鶴では家族が実業の単位ですが、ディフォ−では個人です。しかしディフォーの個人主義には社会的な関心が大変強く読み取れる。ところが西鶴の町人の家族のプリンシプルは極めて排他的、非社会的である。これは日本とイギリスの社会構造の違いによる。一方では世界貿易に支えられた、動的進歩的な階級社会イギリスがあり、他方には閉鎖的な国民経済に依存する静的な身分社会がある。そうした中でディフォーの商人は階級としての自らの社会的可能性に確信を持ち、自らの職業に社会的な誇りを持つ。これに対して元禄の町人小説にはそれらが欠如している。
さらに両者の比較がいろいろとなされていますが、富に至る道につきましては、西鶴は『日本永代蔵』の中で長者になる秘訣について、長者丸という薬の成分を言っている。アーリー・ライジング(早起き)五両。(薬は四匁が一両です。)ワーク・アット・ワンズコーリング(家職)二十両。ナイト・ワーク(夜話)八両。スリフト(始末)十両。グッド・ヘルス (達者)七両という金持ちになる薬の成分が示されております。
上田先生によりますと、ディフォーにおきましても富への道は、西鶴のそれとほとんど同じである。ただ一つ違う点は、ディフォーにあっては、商人が自分の神である店(ショップ)に仕える完全な禁欲者であるという点である。
遊び事につきましては、ディフォーは、商人が古典、ホレスやバージルを読むことを戒める。同じように西鶴も、芸事にふけることは戒めている、等々。
西鶴とディフォーの比較。この論文には実はまとめがありませんが、そのまとめがもう一つの論文「西鶴のエコノミックマン(経済人)」の中で示されています。それは経済人の基本的な同一性およびそれが歴史と環境とによって違ってくるという点の指摘であります。それが再び西鶴との比較で出てまいりまして、イギリス人の市民文学で拓かれる、成功したブルジョアは、娘を上流社会の紳士と結婚させることができたが、これに対して元禄時代の金持ちの町人の娘は身分社会のとりこである。また「西鶴の経済人」、これは花魁の世界で気晴しすることができる。ところがそうしたことは「ディフォーの経済人」には想像だにできないことである。ディフォーの場合には非国教の伝統もありますけれども、上田先生によりますと、イギリスのブルジョアジーが娘を貴族に嫁入らせるというようなことも含めて、貴族に加わることが比較的容易であって、社会的なはけ口を持っている。あるいは爵位を買う。議席を買い取るというようなこともあります。ところが日本ではそうしたことは夢にも考えることができなかったというわけです。
ちなみに当時のイギリスの腐敗選挙区についていえば、十七世紀の終わりごろには一議席、一議会につき四百ポンドぐらいで売られていたようです。十八世紀に入りますと、それが中ごろまでに千四百ポンドにはね上がり、十九世紀の初め、議会改革の前には一議席、一議会当たり六千ポンドにはね上がっていたようです。
要するに経済人は洋の東西を問わず、その基本的な性格は変わらないが、ただそれぞれの置かれた社会的な環境によって以上のような違いが出てくるとおっしゃっておられます。これまた結びとしてはいささか不満の残る結びでありますけれども、上田先生は一九五六年十月、突然お亡くなりになられます。先生の経済人研究もこれまた未完のまま残されてしまったのです。
先はど来申しておりました二人の上田辰之助。一方が現状に異議申し立てをするクエーカーの上田辰之助。もう一人が、現状肯定の経済人に傾く上田辰之助。この二人のうち経済人の方を扱ってまいったわけですけれども、その結論ということになりますと、先生の 『蜂の寓話』の結論と同じく、マンドヴィルいまだ死せずという以外には言葉がないように思われます。
もう一つ繰りかえLになりますが、経済人、ホモ・エコノミックスにマンドヴィル型の徹底した普遍的な経済人と、イギリス的な良識を取り入れた経済人とがあります。アダム・スミスの場合が後者ですし、あるいはディフォーの場
合も、イギリスのミドルクラスの社会性、あるいは社会的な抱負を反映した経済人です。『スペクティター』でも道徳性を強調します。この二つの経済人のタイプが、先生の展開されたホモ・エコノミックス論の問題点として残るように思われます。マンドヴィルの利己心は、動物と同列に置かれるような、まさにそういう意味ではエコノミック・アニマルの利己心とでも言えるものでありまして、これを巧みに操縦する政治の知恵が問題にされた。そういう意味で自由主義とマーカンティリズムとの巧みな結合がマンドヴィルの世界として提示された。それがまた戦後焼土から立ち上がろうとした日本経済復興の筋道として示されたようにも思われます。
『蜂の寓話』の経済人、それは徹底した純粋な普遍的な経済人であったが故に洋の東西を越え、二世紀半の歴史も飛び越えることができたというふうに思われるわけです。そして蜂の巣と同じ精神が経済大国日本に脈打っているというようにも言えそうです。
しかしもう一つ先生が『蜂の寓話』の中で、ハチスンやスミス、ベンサムを経て、フェビアン社会主義にまで自らの社会性を広げていく経済人に注目されている点を忘れてはなりません。事実先生は、宗教的人間と市民社会との間の相関関係について指摘されたわけですけれども、同じように、経済的人間と市民社会との問の相互影響関係というようなものを考えることができるのではないかと思われます。要するに経済人が赤裸々な経済人から、やはり市民社会の影響を受けて、市民社会の生々発展、変容とともに、その社会性の度合いを深め、社会性、道徳性を持つホモ・エコノミックスが出現してくるという先生の御指摘は、いま十分にこれをかみしめることのできる御指摘だというように思われます。ホモ・エコノミックス、経済人、この普遍的なものの世界史的なメタモルフォーゼ、これが戦後の上田先生の隠された中心テーマだったというように私には思われます。
以上でございます。
○
一橋が生んだ文人宰相大平正芳氏がその 『私の履歴書』の中で恩師上田辰之助教授について述べて居られる一文を次に掲載いたします。
上田先生は、経済学者というよりも、むしろ社会学者であり、社会学者である前に実のところ言語学者であられた。したがって、先生のトマス・アクィナスの研究その他のお仕事も、その言語学的な素養を抜きにしては考えられないものであった。
ゼミナールは、たいては吉祥寺のお宅で行われた。R・H・卜ー二ーの 「獲得社会」をテキストとして、彼の経済思想をというよりは、卜ーニーの英文自体の言語社会学的な解明を教わった。名古屋大学の北川教授も、たまたま内地留学の形で上田先生に師事しておられ、われわれのゼミナールに参加されていた。私は先生から、きびしいしごきを通して言葉を大切にすることを教えられた。一ツ橋の図書館に、わが国における商業英語の鼻祖ブロックホイス先生の胸像があるが、その下に刻まれた献辞が、上田先生のものされた英文であることを知る人は意外に少ない。この文章は、ブロックホイス先生の貢献と、一ッ橋の学校としての使命を簡潔に記したものである。
”His was a mighty workshop in which he devoted his life to the training
and equipment of the men who won for Japan autonomy and distinction in
her commerce with the world"
(昭和五九年二月二十三日収録)
都築 忠七 一九二六年愛知県に生れる
一九五〇年東京商科大学卒
現在一橋大学社会学部教授
この間プリンストン大、ウィスコンシン大(MA)オックスフォード大(Ph.D)に学ぶ
@St.Antony'sCollege:Oxford,
ASheffield Univ.,
BSt.John's College:Cambridge,
CCentre of Japanese studies (Nissan Institute):
Oxford,にFellowまた客員教授で勤務
著 書 @H.M.Hyndman and British Socialism(Oxford u.p.1961)
AThe Life of Eleanor Marx,A Socialist Tragedy(Oxford u.p.1967)
この本は独及び伊訳で発行され、またBBC「TV」ドラマ3時間放映、一九七七年もある
BEdward Carpenter,Prophet of Human Fellowship
(Cambridge u.p.1980))
訳 書 ヒユー・トマス「スペイン市民戦争」上下みすゞ書房一九六三年
A・J・P・テイラー「イギリス現代史」上下みすゞ書房一九六八年
ヒユー・トマス「ゴヤ一八〇八年五月三日」みすゞ書房一九七八年
編 書 「資料イギリス初期社会主義」平凡社一九七五年
大塚金之助著作集全一〇巻岩波書店一九八〇年(共同編集)