一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第三十一号] 内池廉吉先生の人となりと学風 元東京商科橋大学附属商学専門部教授 安藤春夫



   はじめに

 私、仙台の近くにおりますが、そこへ先日田さんがわざわざおいでくださいまして、内地先生のことについて何かまとめてくれよというような御依額がありました。しかし私は現役を退いてもう五、六年になりますので、資料などもほとんど手元にございませんし、それに御出席者が日本のビジネスのリーダーである方、かつてあった方、そういう方々のお集まりのところでものを申すだけの能力も、ございませんので固く御辞退申し上げましたけれども、御承知のとおり田さんはかなり強引な頼み方をする方でございまして、とうとうとっ捕ってしまいました。後でしまったと思いましたけれども、考えてみますと事は内地先生のことであるし、これは何としてもできませんというだけでは学問に対して申し訳ないことになりますので、何とかやってみましょうということで御返事を申し上げたのであります。それが今日のこういうことになってしまったので、御出席者に対してはこれから申し上げることは極めて貪弱で簡単で申し訳ないと思いますけれども、なるべく純粋な学問的な考察というところから離れて、先生の御遺徳を偲ぶためのお話の方へ向けていきたいと存じます。


   内池先生の商業学

先生は商業学と財政学を研究されたことは皆様も御承知のとおりだと思いますが、まず商業学についてお話ししたいと思います。

 当時と申しましても明治の終わりから大正にかけて、あるいは中には昭和に入ってまでも、東京高等商業というところは商業実践、あるいは商業実務、そういうものを勉強しておる学校だと。下宿屋のおかみさんの如きは、あなた
は商科ですか、と言ってちょっと見下げた話がありました。下宿屋はほとんどが東大生。法学部、医学部、経済学部、文学部と、そういう連中が二十七、八人いた下宿でございますが、そこのおかみさんがすでにそういうような様相を示しておりました。

 というのは、高等商業は商業実践をやるんだ。実務をやるんだ、技術をやるんだ、理論がないんだ、学問がないんだ。こういうことが初めからしみ込んでしまっていたらしいんです。顧みますと、実際的に銀座で商法講習所が始まって以来、長年商業技術をやった、読み、書き、そろばんをやってきたということは紛れもない事実のようでございます。さらに高等商業学校につきましても、御承知のように商業概論というものを中心にしまして、その周辺にいまの大学の教養部よりはもっと下の、下のというのは、知識程度の足らない経済学、あるいは経済学原論というものをポッッと置いてみたり、あるいは商業簿記、銀行簿記を置いて見たり、あるいは商業作文、商業算術、中には、各高等商業で違いますけれども、商業実践という、売店をつくって売ったり仕入れたりする、帳面をつけるというようなことをやっておりました。高等商業から、後で大学になりますと高等商業の実質的な後釜であるところの商学専門部 ― 私はそこへ入ったのでございますけれども、そこでは全く実践的な科目ばかり多くて、高等学校のような、何か人間らしい神がかり的な、哲学とか、倫理学とか、そういうものは影が薄かったようであります。哲学はありませんでした。ただ倫理学がありました。倫理学でもどういうわけか私どもは、五、六人で休み時間に駆け足で本郷へ行って、本郷の東京帝国大学と称せられた、あそこの文学郡の倫理を聴講にたびたび参ったのですが、向こうの倫理と大分違う倫理がわれわれ専門郡には、一つ商業実践じゃなしにあったわけです。これはちょっと商業という臭みがなくて、何か高等学校らしい臭みがあるはずのものであった。

 ところが実際はどうかというと、皆さんの中にも相当御年配の方がいらっしゃるようですけれども御経験あったでしょぅが、寛克彦という先生がいらして、フロックコートを着て教壇にあらわれました。そうして白墨の各種類のカラーを全部集めて両方の手にいっぱい持って、そしてそれを、来るといきな。おじぎも何もしませんで、テーブルの上に置いて黒板の方を向いて拍手を二度やって、懇切丁寧な最敬礼、天皇陛下の前に行ってやる最敬礼がこれかと思うぐらいに丁重な最敬礼をして、やおらわれわれの方を向いて二時間。百分でしたが、大学の授業は大体四十五分が一時間で、二時間続けて九〇分で先生方帰ります、但し九十分やる先生というのは、国立大学はむろんですが、私立大学においてさえ少ないんです。正味五十分やれば熱心な先生だと言われるのが現状でございますが、その先生は当時五十分が一時間でしたが、百分きちんとやって帰られました。何をやられたかというと、伊邪那岐、伊邪那美の神様が出てきて、例の白墨を持ってここが日本だと書いた。ちょんとはずれたのが沖縄であった。当時は沖縄と言わんで琉球列島であった。‥と行ってちょっと大きいのがいまの沖縄本島なんです。これはしまったというわけで左の方へ筆を上げたそうです。また‥とついてタッタッタッとついたのが点々が北海道本島で、タッタッタッと行ったのがカムチャッカに至るまでの千島列島だと、こういうお話を一年間されまして、これが倫理だというのであったので、全く煙に巻かれたのです。

 したがってわれわれは倫理の講義からも、何か人間らしいような哲学的なものを身にしみ込ませるということができなかったわけであります。

 ただ一つ経済史というのがございまして、洋行帰りの本科の方の助教授であった金子鷹之助先生という先生が大変な評判でございまして、令名さくさくとしていたということになりましょうか、その先生が、洋服の着方からしていかにもイギリス二ヵ年留学して、イギリスタイプの紳士のようなふうして来られましたが、この方は最初の時間から最後に至るまで経済史という言葉をとうとう使わないでしまいました。何を言ったかというとカントでした。これは
弁舌さわやかにしてとうとうとカントを講ぜられたのです。先生が教壇から降りて帰られると、専門部二百人以上おりましたが、教員養成所を含めますから二百人は突破しているんです。それが皆立ち上がって拍手をして先生を送り出す。非常に感激したわけです。

 ことほどさように哲学的なものを講義なさるというと、その講義は拍手でもって先生を送り返すというふうに、自然とだれが言うとなしに専門部ではなっていた。他はほとんど実践的なものでした。簿記の如きは帳面をつけます。その帳面の種類が不思議なことに、終戦後マッカーサーの命令によって帳面つけろということになって、正直にそれをつけて青色申告というところまで発展したわけです。皆さんの中には会計士をなさった方が、きょう一人お見えになりましたが、会計士の方でも最初のうちは青色申告のお手伝いをしたはずでございます。私も実はしたものですから多分そうじゃないかと思うのですが。青色申告の帳面の種類とほとんど同じものを専門部で実際にやらしたんです。

 青色と赤色のインクスタンドをぶら下げて丸定木、まん丸い棒みたいなものを持って、ここから神保町を通ってワィヮィ言いながら水道橋まで向かうわけですが、明大の学生が向こうの方からぞろぞろ来ていろんなことを言ってやじったものです。何だかそれが恥ずかしくてたまらなかった気がします。いまにして思えば何にも恥ずかしいことないはずなのですが、何か向こうの方が私立のくせに偉く見えたりしまして、実践的な実務的なことをやるというのは、当時背中に商科大学という大学を背負っているから一層そうだったのかもしれませんが、引け目を感じたものです。

 結局外人が二人来て、商業算術とか外国為替を英語でベラベラしゃべられて、それをノートとって、試験のときに英語で答えるというのがありましたが、それを日本語に翻訳してみると、まことに簡単な取引であり、インボイスの書き方とか読み方とかそんなことで、大した内容のものではないんですけれども、これも全く実践でした。

 要するに日本の全国に散らばっていた普通商業学校、その上の高等商業、これは併せて、ほとんどが九分は実践的なものをやって、理論的なものというのはほとんどなかった。そういう実情で、わが高等商業でも何も違いませんで実践高等商業であったのですが。こう申しますと、何かしら一橋は銀座に生まれた商業講習所以来、実践的なものばかりやる。したがって何年たっても大学に昇格できなかった。明治三十四年ころから猛然と東大にくっついて文部省をたたいて大学昇格を運動し、あるいは総退職、退学まで学生がやって、それでもできなかった。

 というのは、実践だけで理論がない、学問がない。学問がなければ大学にはなれないんだと。大学令には、大学とは学問の蘊奥を極めとか尽くしとかいう言葉があるのですが−ついでですけれども、終戟後大学院が五カ年制度になりまして、マスターコースは、学問の蘊奥を極めるじゃないです。学問とはどういうものかを知ればいいんです。その上のドクターコース三年。これは何かというと、論文を書く力を養成するのが目的で、いずれ二つ併わせて五年になりますが、学問の蘊奥を極めるんじゃないです。ですから、もとの三カ年の大学と五年の大学院と同じ程度になってしまったと言っても過言ではないかと思うのであります。

 とにかくそこに何かしら理論があるとか、あるいは学問的な臭いがあれば学生は非常に喜んだものですけれども、高等商業までの間はそれがなかった。したがって大学に昇格させてはいけないなどという風評が盛んに立って、かなり長い間下積み的な気分で、このマーキュリーが輝きを十分に発揮できないでいたわけであります。ところが決してそれは正しい見方でないと思うんです。とんでもない、隠れたところに理論が蓄積されて、学問がどんどん啓発されて、そしてあっとびっくりしたときには、だれがあっとびっくりしたかというと、文部省と東大ですが、著書になってそれが実証された。本になったんです。そういうことがあったわけです。それが例の専攻部ですが、三十年に創設されまして専攻部二カ年。この専攻部は高等商業一カ年の予科と本科三年併せて四年。その上に篤志家だけ、本当に学問に燃える人、文部省の大学令の、学問の蘊奥を極める希望を持った人だけが集まって、それに英俊な先生方が集
結して、そしてあそこで人知れずといった方がいいんじゃないかと思いますが、学問の研究を猛然とやっていた。実はその中にこれから申し上げようとする内池先生も一人として入っていたわけであります。

 内池先生はその専攻部を三十二年に卒業されました。かなり古い卒業生。三十年にできたのを三十二年に卒業ですから、第一回の卒業じゃないかという気がします。そこははっきりしませんけれども。とにかく三十二年に御卒業されて、三十九年には自費留学をなさいました。

 当時は同じ官立大学でも東大というところに金をうんと文部省が使って、高等商業には余り金を使わなかった。敷地もこのとおり、いまでも隣に女子大学ができてから一層狭くなったようですが、狭いところにごちゃごちゃと高等商業四カ年、専攻部二年置いて、そのほかにいろいろな施設を置いたわけですが、高等商業には金を使ってくれなかったわけです。冷遇されたというわけです。実践学問だということのほかに、泥棒学をやっているでそんなの要らないと、こう言われたわけです。

 なぜ泥棒学といわれたかというと、これも皆さん御承知のように、農業でも工業でもみんな物をつくるんです。何かしら生産する。ところが商業だけは生産しなかった。ちょっと皮層的に表面的に考えるとそうかなと思うような議論ですが、何にもつくらない。生産者がつくって需要者の間へ配分してやるだけが商人である。商人は人の生産物を配分してそこで利益を取っているんだ。自分では何も生産しない。だから泥棒だというわけで、泥棒学という言葉がはやったわけです。商業は泥棒である。その泥棒学を勉強するのは東京高等商業であるというようなことで、非常に悪名さくさくとして、これは宣伝した方もあるわけですが、とにかくそういうことを言われて、非常にくやしい思いをしたことがあります。

 ところがそのとき専攻郡では、秘かにであったのか公であったのかわかりませんが・泥棒学でない商業学、これの研究に多数の先生方が、大体お若い先生ですけれども、身を捧げていた。それから、なるべく大学をつくらせたくないという本郷でも、それに気が付かなかったらしい。

 それまで留学というのは東大に限ったものであったそうです。高等商業から留学というのは非常に少なかった。福田先生が最初に、商業学の研究のために二カ年欧米に留学を命ずると、こういう命令が文部省から出されたのは三十一年ですが、初めて福田先生が原論を研究でなしに商業学を研究で欧米に留学された。東大の方はそのころは、学部も多いせいもありますけれども、続々として外国に留学していたそうです。三十九年に内地先生は自費留学をなさいました。

 この自費留学について若干余談めいたことを申し上げたいのですが、実際に自費留学されたのは三十九年日露戦争直後です。そのころは自分の金でヨーロッパへ留学するというのは極めて奇現象であった。留学ということは文部省から金を出してもらう。一橋は一流商社を持っているのでその方から留学費が出て、少ない文部省の留学費なんか全く当てにしなくてもよろしいんだというふうな風評がありましたが、果たして実際かどうか私は存じませんけれども。とにかく日露戦争後は若干一橋の先生方も留学できるようになりました。それも専攻部で講義している人に限ったようです。

 ですが内池先生は文部省から留学を命ぜられませんので自費留学をなさる。これは御親族やら御家族が集まって、いいか悪いか、なかなか決定しなかったそうです。内池先生の御生家は福島県の福島市なんですが、そこの醤油の醸造業を家業とされた福島市ではトップの素封家の生まれでございました。ですから御親戚も多くてなかなかやかましい親族会議があったそうですが、結局相続財産一文も要らない。ただ二カ年の留学費だけ出してもらえばいいということで、ようやく、それじゃ行ってこいというわけで自費留学なさったそうです。そして四十年にはそうそうとして帰って来
られた。日露戦争直後に自分の家から金を出して留学するなんていうことは奇現象であったそうです。

 助手になってすぐのころ、先生はその当時のことをつくづくと回想されて、私は自費留学してよかった。いつまで待っていても文部省はわれわれの方には留学費くれなかったのだから自分の金で行ってよかったということを述懐されていました。そして、こういう先生についた、あるいはこういう先生についたと。主に英国におられたようです。そして本なども大分買って送られたんです。古本屋を歩いて古本を買った。各留学生は内池先生のみならず、ドイツへ行ったり、フランスへ行ったりして、古本屋をあさって、そこから大学の図書館宛てによく送ってよこされたものでした。内地先生もそれをやって、やがて帰朝してからじっくり読んだようです。

 このようなわけで、専攻部は旗上げしないで城の中で大いに学問をやったというような格好で、すでに商業を学問として形づくっていたわけです。しかし大正九年に商科大学になりますと、今度は、いよいよ大学になったというわけで、先生方を一層督励しまして、しかも大学になったものですから、佐野善作学長が文部省と折衝しやすくなったようでした。そして留学生をどしどし送ってやると。それに、先ほど申し上げた商社が大分応援したらしいんです。それで悠々と福田先生のように、二カ年の文部省命令が三年もいってくるということができるようになり、古本屋あさりも相当金を使いながら探せるということになって、文献もどしどし図書館に入るようになりました。

 先生は四十年に帰ってこられて、当時神戸高等商業の教授でしたが、商科大学の教授と、専門部の兼任教授と、予科の兼任教授と、これだけ一遍にやっていたわけです。神戸ではもっぱら商業学をやっておられたようです。それから東京の商科大学は、従来高等商業時代からやっていた財政学と商業学を担当される。大学になってからは特に財政学を熱心に研究されたと御自分で申しておられます。

 大正四年に文部省は、今度はアメリカへ留学を命ずるんです。但し商業学研究のためという条件をくっつけて辞令が出てきました。アメリカへ行って例のセリーグマン、ドイツにもセリーグマンがおり、アメリカにも同じ財政学者としてセリーグマンという同じ読み方の先生がおるのですが、ドイツの方のセリーグマンはおしまいのNが二つです。アメリカのセリーグマン先生はおしまいの方がNが一つと、それで区別しているわけですが、そのN一つのハーバードのセリーグマン先生に、どういうわけか事情はよくわかりませんけれども、非常に信任された。内地先生のことをかばってくれて勉強しやすくしていろいろ便宜を図ってくだされた。知遇を得たということになるのでしょうか。それで先生もセリーグマンの学説を、向こうにおるときも帰ってきてからも勉強なされました。

 なかんずくセリーグマンで有名なのは「租税転嫁論」(シフティング・エンド・インシィディンス)。あれを先生は
全部翻訳して持っておられました。実は私も先生に翻訳を命ぜられて、助手時代に全編翻訳したのですが、先生の方の翻訳はリタラリ翻訳。私は勝手にそんなことを言っているんですが、文字に忠実に翻訳しましたが、私の方の翻訳は意訳で言葉からはずれたような意訳もあって、逆に先生からほめられたのですが、その「租税転嫁論」、これを相当先生は努力してまとめられました。但し雑誌に論文を出すほかは、本とかパンフレットというのはとうとう出さないでしまいました。それはまだ研究不足なところがあるとおっしゃっておりますが、何が研究不足であったのかとうとう引っ張り出すことができませんでした。どこか研究不足があるとおっしゃって、それを出されないでしまいました。そしてやがて商業学に入っていくのですが、転嫁論は経済学原論でもやりますし、財政学でもやるんですが、後で財政学を申し述べるときにもう一遍そこへ触れるんじゃないかと思います。
 明治から大正にかけて日本の学問は非常な転換を果たすわけであります。ちょうど私どもはその辺に―そのころ商業教員養成所というのがありまして、そこへ入ったわけです。それが大正十一年でした。十四年に卒業しました。三年間です。そして語学と体操以外は専門部と全く同じ講義を受けて三カ年過ごしたわけです。

 そのころ大学本科に左右田先生やら福田先生がまだおられまして、よく五、六人の悪ずれした専門部学生がわれわれと一緒に本科の講義を盗み聞きでしょうな。後ろの方に座わって知らんぶりして聞いていた。ところがむずかしくてなかなかわからない。その同じ先生が専門部へ来て同じ科目の講義をするとやさしいんです。それでわれわれは、大威張りしちゃいかん。今度は本科、専攻部両方の講義を聞こうじゃないか。また五、六人で結託して専攻部へ行って講義を聞きました。福田先生の原論などは原論の原論の原論だとよく言われましたが、東大の先生さえそう言っておられたです。学内の学生はむろんでした。原論の原論のまたその原論である。わからないものでした。左右田先生の講義は全然わからない。

 専門部の方へは、経済学の勉強に来て福田先生の研究室にいた東大出身で、貨幣論で、しまいにはうちの若い先生と大論争をやったという社会学の高田保馬先生。経済学の勉強にちょうどそのころ来ていたんです。福田先生に叱られ叱られして研究室で小さくなって勉強していました。よくそこへ行って高田先生を引っ張り出してよく議論をふっかけたりしまして、学生も先生もそのころ、大正の中期あたりは学問熱に燃え盛っていたと思うんです。そのころ黄金時代などと呼ぶ方もございます。

 ところで、先生は当時すでに方法論というものに頭を向けていらっしゃいました。しばらくの間存じ上げなかったのですけれども、助手を経て専門部の教授になったときに一晩、先生がきょうは家で飯食えと言われてゆっくりおしゃべりしていたときに、方法論を真っ正面から言い出したのには驚きました。若い先生、助手連中は皆そのころ方法論、方法論で明ても覚めてもメトーデン・レーレなんて言って方法論やっていたんですが。哲学認識論です。内地先生、相当年配だったんですけれども、方法論に興味を持って、いろんな本が開いたままになっていたのを見せられまして、ここはどうだ、そこはどうだ、御説明もありました。とにかくあの先生は、私をたたいて、たたいて鍛えようとなさった形跡があるので、よく夕方お伺いして、御飯を一緒に食べようという晩は危ないんです。そういうときにこてんこてんにやっつけられたものです。特にアンシャウリッヒ・テオリーというのが大学の助手、若い助教授の問にはやったことがあるんです。方法論ですが。これに非常な反発を先生がなさるんです。あんなのだめだ。そしてかなり長い反論を書いていらっしゃいましたが、ついにそれは発表しないでしまいましたが、それを全部読ましていただきました。アンシャウリッヒ・テオリーがかってきた安藤助手をたたきつけておこう、訓練しておこうというお考えのためであったかもしれません。どなたもほかの先生方、内池先生と御親交のある先生方は、内地先生が方法論やっているなんていうこと御存知なかったです。吉田良三先生、堀光亀先生、あの辺は非常に御親交がありましたが、そういう先生方にちょっとかまを向けてみたんです。だれも知りませんで、そんなことないだろう、わかるわけないよ。ということは御自分たちは全然手を付けていない。内池も手を付けるはずがないと思われたのでしょうが。それも不思議と思うほど深いところまで入っておられました。
 
 先生は晩年になりまするというとだんだん衰えまして、厳しいメトーデン・レーレなどはだんだん手放されたようでございますが、辞められたのは二十四年ですけれども、戦争が激しくなったころにはもうやめておられます。そして主に市場諭、倉庫論の方へ手を伸ばされました。

 市場諭、倉庫論は何かぼんやり読んでいると商業概論の各論だなと思われるのですが、ところがあれを別な観点からよく読んでみますと、商業学ですでにでき上がりかかった一橋流の商業学、それが基礎になってその上に市場論、倉庫論が成り立っているということがはっきりわかるのですが、商科大学の中ぐらいの年配の先生方は、そいつを御承知なかったようです。したがって先生の研究室へ来ていろんな話をなさる場合に無理解ということがちょいちょいあらわれて、先生が憤激することがありました。いや、商業学ってそういうものじゃないよと、こういう調子です。
どういうものかということはおっしゃらない。かなり研究室というのは露骨にけんかみたいな議論をするところでして、そこにずっと小さくなって助手が隅っこの方におるのですが、黙って聞いていると、大変刺激になったり、参考になったり、教訓になったりしまして、まことにいい制度ではないかと思っておりました。

 この倉庫論は地方の高等商業に歓迎されたと申しますか、受け入れられた。それで地方の高等商業の先生というのは、主なる高等商業には、大体一橋の専攻部の卒業生の方、しかも優秀な方が行っていたわけです。まず北は小樽を初め、福島高商というのはずっと後でできたんですが、しかも帝大で固めたところで、校長さんは専攻部出身ですけれどもボイコットされてやめて、東大の先生が来て、松山の高等商業の校長が来て福島高商をやったところで、あそこには専攻部出が極めて少なかったです。簿記の先生が一人ぐらいだったと思います。あとは横浜、名古屋、優秀でした、神戸も優秀でした、長崎というふうに各地に高等商業ができた。

 高等商業は御承知でしょうが、大正六年の原内閣、あの人の総理大臣の下に中橋徳五郎文部大臣のときに、高等商業大拡張ということを強引にやってのけて、大正七年には高等商業が各県にできたわけです。その一番親玉が東京高等商業学校。それが二年ばかりすると大正九年に商科大学という単科大学になったわけです。高等商業をたくさんつくっておいて、その上にたった一つのしかも商科大学という大学をつくったわけです。そこで今度は大っぴらに専攻部でやっているだけでなしに、大学として大学院を設置して、そこで先生養成のために高度の商業学を、経済学を勉強していまして、商科大学になったころには一橋経済学という名前さえでき上がっていたわけです。これは慶應の先生が主として言い出した言葉です。東大の先生はなかなかそういうことを言いたがらないんです。それから神戸高等商業あたりからも一橋経済学という名前が生まれて、『中央公論』にもそういう言葉が出たことがあるんです。それは福田先生を中心に左右田哲学を基本に置いてでき上がった経済学だそうでございます。

 内池先生は非常に孤独な方でして、学問的にも孤独で共同研究ということをなさらなかったようです。したがって方法論の学者群の中には表立って入らなかったようです。随分注意して見ていましたけれども、お宅に訪ねられる先生方との間には激しい議論をしましたけれども、さてそいつを共同的に発表しようという場合には先生のお名前が出たことがないんです。孤独な学者というわけかもしれません。しかし、とにかく市場論と倉庫論は、新たにすでに生まれつつあった一橋の商業学を基礎にして、その上に実践を交えてでき上がっておりますので、高等商業で非常に喜んで大分はやった科目でした。文部省の科目表にはないんです。ないけれども、各高等商業では商業学各論というような名前をくっつけて講義の中に入れたそうでございます。

 戦争近くなって先生もお疲れになったころには、主に諸官庁の材料をもらって、そして倉庫諭、市場論の論文を随分書かれました。大蔵省、農林省、商工省、中小企業組合―東京にあるんです。そこから頼まれたりして小さな論文を主として米穀問題です。米の問題を書かれまして、それが巻頭論文としてそれぞれの機関雑誌−各省には機関雑誌がありますから、その機関雑誌を飾ったものです。材料は頼むと官庁が郵送してくれるか、先生が自ら出向いて集められるか、晩年にはよく私にどこどこへ行ってこういう種頬のものを探してこいというので、農林省、大蔵省、商工省、あるいは中小企業組合、そういうところへ行って頼みましたが、名刺一枚、お手紙の簡単なのを持っていくと、局長あたりに会いに行くのですが、局長はわれわれ学生臭の抜けない若僧を懇切丁寧に昼飯なども出していただいて、御案内願って、課長あたりにこういうものを出してあげろと、命令を出される。というようなわけで先生は官庁へ行くというと偉いものだなと私は思っておりました。先生からすると、この未熟な助手を早く一人前にするために、実際の資料の収集の仕方、その利用の仕方を教え込んでおこうという気持ちであったのではないかと思われます。

 商業学関係ではこれぐらいにしておしまいにしますが、商業関係の最後にぜひ申し上げたいのは、それでは高等商
業が大学に昇格するための表面的な目標である商業学の泥棒学でない証明を当時の先生方がやったのかやらないのかと、その問題を取り上げてみたいと思います。やったんです。

 というのは、どんどん留学していってほとんど今度はドイツへ行ったんです。イギリス、フランスへ行く人は非常にあのころ少なかったです。明治の終わりから一九一七年というと、大正六、七年のころでしょうが、ほとんどドイッへいらした。ドイツで方法論が花咲いたんですが、そこで方法論的な吟味をして、こういうことになったんです。

 商業でないんです。「商」だ。これはどこの大学で発明したんじゃないんです。わが一橋の先生方が発見したといぅか、発明したというか。商業という業じゃないんだ。「商」が本質概念だ。それで御承知のように機関誌が『経済学研究』と『商学研究』と長年三つあるわけですが・それに商業学研究となっていないんです。『商学研究』。あれが出た場合に早稲田でびっくりしたそうです。早稲田は商業学科というのがあり商業は早かったのですが、そこで『商学研究』「業」がなくなったのでびっくりしたという話を聞きましたが、とにかく「商」ということが商業でやっている学問の中心概念なんだ。それを発見し、それの理論を構造を付けるために随分御苦労なさったらしい。

 さっきちょっと申しましたが、カントの講義をなさった先生は金子鷹之助先生ですが、この先生なども一生懸命で方法論づけようとなさった。私、西荻なのですが、そのそばに先生の御家庭があって、ちょこちょこ遊びに参上しましたが、それを盛んにやっておりました。あのぐらいの年配の先生方、まだ助教授でしたけれども、一生懸命で「商」という基本概念、同じことですが中心概念、同じことですが本質概念。それを発見するために、そしてそれを論理づけて構造づけるために努力されて、とうとう商概念というものを一橋流につかまえてしまったわけです。経営学でないんです。どこまでも商学なんです。やがてそれは各高等商業で、ここの専攻部、大学、大学院を出た人が高等商業の先生になりますから当然でございますけれども、一橋流の商概念、それが日本全国はびこったわけであります。

 これだけ考えてみても、かつては普通商業、高等商業を全部東京高等商業が押さえて、東京高等商業でやることは地方普通商業は当然の如くにやる。ところが今度はそれのまた一段上の商科大学になって、長年沈積していたのが「商」という概念をつかまえて大学になったわけですけれども、それが高等商業と普通商業に全国的に瀰漫していった。学問上はむろんのこと、学校の制度の上から言っても、大変な功績じゃないでしょうか。わが一橋という存在は。余り大きいのでお互いにその偉大さに気がつかないでいることもありますけれども、後世の人が歴史として眺めたらば、その時期に立って、明治の終わりから大正の初めにかけての一橋という学壇の成し遂げた功績というものは大したものだということに評価されるんじゃないかと思うんです。それは先生だけが優秀なんじゃないんです。学生が優秀で、しかもある時期まで、昭和十一、二年の時期に至るまで学生騒動が起こったことがない。申酉事件というのがありますけれども、あれは特定の官庁に対する反抗でしたが。しかもヨーロッパからアメリカに至るまでの外国に多数の商館を設けて日本の商業経済の発展に非常に尽力したという学園です。大いに誇ってよろしいんじゃないかと思うんです。

     内池先生の財政学

 次に、簡単に内池先生の財政学に移りたいと思います。

 内池先生は財政学の著書としては二冊しかないんです。元来日本で最初に財政学書を書いたのは東大ですけれども、これかなり分厚いものでした。その後私立大学と京都大学で財政学の学者があらわれて本を書きましたけれども、これは膨大なものでした。片方の手に持てないぐらい重い本で、内池先生の本は決して厚くなかったんです。コンパクトに中身を集めたものですが。確かに一つは、当時のヨーロッパにおける財政学、なかんずくドイツ語で書かれた財
政学の翻訳部分、横文字を縦文字に直した部分があったんです。どなたでも気がつくほどありました。これは従来東大の先生が書いた財政学書は全くの翻訳でしたから。東大で初めて社会学的な、そして経済学的な、そしてちょっぴり方法論的な本を書いた先生が、大正十二年有斐閣から本を出された先生で、それは土方成美先生です。あの方は日本で初めて、ちょっぴり方法論的な本でした。ぼんやりして読むと方法論的なところは何もないと言いたくなる本ですが、ちょっぴりありました。しかもそれが井藤半弥先生に共通の強制性に本質を求めた点、求め方が方法論的に求めた。それから、経済学的な見方。それからもっと大事なのは、基本に社会学的な見方をとったと。これは名著だろうと思います。

 その次に、世界をアッと言わせた本は、日本の、しかも一橋の先生が成し遂げた、それが井藤半弥先生でございますが、この二人は日本の財政学を新しい財政学、しかも方法論的な基礎の上に立った財政学を初めてつくった。何せドイツの大学の先生が井藤先生の本を引用する。ドイツ人、特にイギリスの学者が他人の本を引用するということはほとんどしないんです。アメリカ人もそうなんですけども、アメリカ人はドイツ人の書いた本は絶対に引用しないです。そういうくせがあるんです。民族的な対抗じゃないんですか。それがドイツ人が井藤先生の財政学書を引用しているんです。ドクター・イトウ・イン・トウキョウと書いて、そこの何ペー∴シから引用したんだ、まことに言うとおりだと。あれ、奇現象だと思うんです。

 内池先生は二冊の著書を書かれたと申しましたが、『財政学概論』。これは本当の単行本です。
もう一つは教科書なんです。商業学校、それから高等商業で使いたくなるような教科書を書かれました。その教科書は、教科書じゃないかと言って馬鹿にしちゃいけないものだと思うんです。教科書ほどむずかしいものはないと思うんです。これは私も書きましたけれども、全く手こずりました。もっとも今日のように文部省から、ああだこうだという文句は全然ないんです。自由勝手に自分の考えを入れて、本屋が自由に出せばいい。検定なんかなかった時代です。私は教科書は八冊ばかり書きました先生は一種類書いたのですが、これが実によくできているんです。その中味は批判主義の方法論的な考えを下において、その上に中庸な理論を書いたんではないんです。中庸ではなく、自分の考えを入れた意見を書いているんです。そこはちょっとほかの教科書と違うんです。教科書というと、中庸、あるいは中立的な説明をするわけです。これ差し障りありませんから。例えば、資本主義と社会主義比べてどっちがいいとか悪いとか、そういうことを言っちゃいけないんです。中庸でどっちつかずにノー批判でいかなければうまくないんです。例えば、資本主義的な商業学校、高等商業で、社会主義的なことに肩を持ち過ぎているから使わないなんてなると売れ行きが悪くなりますから。ところが先生のは正直なんです。自分の意見をスポッスポッと入れて書いている。その基礎には方法的なものがある。そういう特徴のある教科書を書かれました。これは先生がかなり有名になった後で書かれたものですから、思想が非常によく練れているんです。

 これを私に改訂せいと言われました。助手になつたその年に。どうも言葉が難詰だからこいつをいまの言葉に直してくれ。その他気がついたことどこでも直して同文館へ持っていってくれと言われました。拝見しますると、なるほど文章がきつくて、あの御性格そのままです。きつい先生でしたから。それから漢字が多くて、難詰というのはそこでしょう。

 私は大正十四年に商業教員養成所を出ましてから、当時の事務官、それから養成所主事などが、どうしても大学本科受験願いを受け入れてくれないんです。もっとも要領よくやって事務官を通さずに学生課だけ通して受験願いを出した人は、知らないうちに大学で受理しまして、そいつはスポッと入りましたが、私の場合は、四、五年も商業学校の先生をしてこいなんて言われて、とうとう本科へ入れませんでした。そこで大正十一年に入学して十四年に卒業し
て、昭和五年に大学本科に入ったわけです。ですから入ったときには、計算してみたこともありませんけれども、もう二十七、八になっていたんじゃないかと思います。それで商業学校の先生をしている間に教科書を一冊書いています。ですから、先生の本を拝見しても少しわかるような気がしまして、「先生、これ直しようがありませんよ。全部書き直さなければ。内容を書き直すんじゃなくて言葉を書き直さなければ。」と言った処、書き直してくれと言われまして、ほとんどその書き直しまで完成しましたが、たった一つどうしても先生と意見の合わないところがあったんです。これは増地庸治郎先生の教科書にもあって、増地庸治郎先生と僕はとうとう意見が合わないでしまいましたが、まだ増地先生は助教授で学位論文を書いている最中でした。

 こういう問題です。通貨の概念のときに、「通貨(カレンシー)とは現に流通しっつある貨幣を言う」と言うんです。私は、これは二重に間違っていると思います。内池先生にも申し1げたのですけれども、どうしてもわかっていただけなかった。僕も頑固だと見えまして、今日でも僕の説の方が正しいと思っているんですが。増地先生からもうんと言われなかった。そのうちに増地先生は三月十日の晩でしたか、本所の空爆で下敷きになって亡くなられまして、それっき。になってしまった。いまでも増地庸治郎先生の商業学の教科書。これは名著ですね。実によく書いてあります。それを直して、そして全国の商業学校へ売っているわけですけれども、直っていないのはそこだけです。「現に流通しっつある貨幣を言う」。サラッと見たところまことに結構な概念規定に見えますけれども二重の誤ちを犯している。今日でも思っているわけですが、先生の場合は、ほとんど難詰なところを直してあと内容を見ようなんて思っているうちに、先生突如として、あれやめたとなった。

 その原因がおもしろいんです。ほかの先生方、専門部、大学の先生方が続々として私のことを呼んで、おれの商事要綱の教科書を改訂してくれ。商事要綱だけならいいけれども簿記まで改訂してくれと頼まれまして、十何人の先生からどうっと頼まれまして、先生に相談しましたら、「よしおれが一番先にやめるから、おれが頼んだからみんな頼むようになったんだから、おれが一応やめる。」やめるということを集会所か何かで皆さんにしゃべったらしい。かろうじてみんなにやめてもらって、約一年ぐらいそれで勉強の邪魔になったのですが、あとはのうのうと勉強できました。それで先生が市電で骨を折らなければ、とにかく入院して一カ月余りなさらなければあの年うんと勉強できたんですけれども、あの年一年間はまるでだめで助手の勉強というのはほとんどできませんでした。

 財政概論は当時みな分厚いものを書かれたんですけれども、先生は不要なところをみんな削除したんです。そして薄い本当にコンパクトなものをつくられました。収入論、経費論、それから公債論。もう決まりきっているんです。それから租税転嫁論。そんなのを盛り込んで、東大の先生の書いた最初の財政学。もっとも慶應の先生も出しましたし、日本大学、明治大学の先生も出しましたし、京都からも出てきました。ほとんど皆大きくてこんな厚い本ばかりでした。でも先生は、国家論というのが当時はやって、盛んに国家論をやったものですけれども、国家論を簡単に済ませただけでも相当薄くなったんではないですか。ただ租税転嫁論は詳しいんです。さっき申しましたようにセリーグマンと親交を厚くして勉強したと見えまして、かなり確信のあるところの転嫁論でした。転嫁論というのは国家の経済学なんです。あれは財政学じゃなく純粋なる経済学なんです。だけども当時の人はあれだけ方法的なものを考えながら、何でアンチ方法的な経済学へ走ったかというのは経済学が学者の発展の影響なんです。当時経済学者が猛然と勉強して一橋経済学をつくったほどですから、それの影響を受けたんじゃなかろうかと思います。ところが一橋だげその影響を受けて、財政学が経済学的財政学と悪名をこうむったほど経済学的になったのは一橋だけなら仕方がないとしてもほかの大学までその影響を及ぼした。実に不思議な傾向だと思います。

 先生の財政学はまとめてみると、第一に国家観が変わったことで、つまり封建主義的な国家観から自由主義を基本
とする福祉国家に変わっていった。つまり今日の福祉国家です。あれから何十年もたちますけれども、戦争のお陰もあって非常な福祉国家になっておりますけれども、とにかく封建主義から福祉国家に見方が変わっていった。

 第二には、官房学的なよオーストリーの王様が自分の富を増すために学者を集めて勉強させたあの官房学から財政学が最後に飛び出していくんです。財政学というのはもともと雑学なんです。行政論でもあり、政治論でもあり、そうかと思うと経済論でもあり、法律論でもあるんです。そういういろんなものの入った、そういうものが先に飛び出して独立してしまうんです。残ったのは財政学。雑学として残っちゃった。その雑学である国家財政学を雑学でないものに引き返そうとして日本とドイツの学者が大いに努力したわけで日本の学者がとうとう成功した。それでしかも井藤先生が成功したんだと、こう明言してはばかっていないんですが、それが第二の内池先生の特徴です。

 第三に、内池財政学は方法的基礎の上に立ってなされている。無方法じゃなく・ちゃんと方法を確立しておいてその上に立っているんだ。少しむずかしいんですけれども、学問というものはその辺にころがっているものじゃないです。人間様がつくるものなんです。神様がつくるものじゃない。人間のうちの学者がつくるわけです。つくるには方法がなくちゃいかん。財政学をつくるにもふさわしい方法が必要なわけであります。

 例えば、井藤先生のように強制獲得経済。これは世界じゅうの問題になった。特に東大の大内先生などは躍起となって反論したんですが、反論しきれずに途中でやめてしまったようですけれど、これの中心概念、あるいは中枢概念は何か。何か決まればいいんです。勝手に決めちゃいけないんです。おかしいじゃないかと言われますが、皆さんがなるほどと見るような、承認するような、このものしかない特徴を発見すればいいわけです。商業では「商」というものがそうだという特徴になって商学という学問ができたわけです。学部も商学部となったわけです。『商学研究』は『商業学研究』でなしに『商業研究』となっている。方法論の問題を申し上げげるといろいろむずかしいし、皆さんの御質問も多数あると思いますから進めません。

 要するに、内池先生の財政学は、学問の転換期のときにちょうど勉強されて、そして、現在新しい学問の時期に入っているわけですが、その学問を踏まえた財政学、商業学を成し得た。時期としては内池先生にも大いに幸いしたんじゃなかろうかと、こんなことで財政学を終わりたいと思います。


   晩年の先生と私

 先生の亡くなられるときは非常に孤独でお気の毒でしたが、私自身が年をどんどんとっていくにしたがって、内池先生は余りものを言わない方です、東北人ですから黙っている人ですが、私は非常な深い学恩をこうむって、何とか勉強して飯を食うという身になれたことをしょっちゅう感謝しております。福島に疎開して一人で寂しく、相当年配の家系を継いだ娘さんのところで暮らしていらっしゃいましたが、電話や電報で呼ばれていってはお相手していましたが、晩年は奥さんを亡くされて寂しい生涯を送られたのであります。

 皆さん御清聴ありがとうございました。


   [質疑応答]

 新井 円熟された内池先生の人柄と学風を、また本当の愛弟子であられた円熟された安藤先生のお話、感銘をもって拝聴させていただきました。

 特に、商業ではなく、「商」だと。「商」が中心概念というようなお話。いまさらながら納得というふうに伺わせて
いただきました。

 庭野(昭和十一年) 私は内池ゼミナールの出身でございまして、大先輩に出光計助さんとか川又さんとか皆さんおられまして、きょうは大先輩の方々御欠席なものですから、十一年という古い方だから安藤先生のそばに座われということで、大変高いところに座わらせていただきまして大変に恐縮しております。お陰さまで学生時代から二時間の講義をまともに聞いた例が余りございません。途中で必ずちょっと休みぐせがついておりまして、きょうは全部講義を始めから終わりまでよく聞くことができました。内池先生の学問のことは卒業して四十八年ですが、五十年近くなって初めてよくわかりました。安藤先生に本当に心から御礼を申し上げたいと思っております。私は内池先生のところで卒業論文を無事に出して、まあいいよと言われてほっとしたことはよく覚えておりますが、講義の方はうろ覚えでございます。卒業しますときにゼミナールの立木さんなんか一緒に御招待を受けましたのが、YWCAで奥さんと一緒に卸招待を受けました。そのときの先生のお話だけはずっと忘れないで覚えておりますので、ちょうど安藤先生がお見えですからそのときの話を報告いたしておきます。

 内池先生が、私どもゼミナール卒業生に最初にお話しになった文句は、『古今集』の百人一首にあります「みちのくのしのぶ文字摺誰ゆへに乱れそめにし我ならなくに」という和歌をおっしゃいまして、同級生に、亡くなりました泉信夫君というのがおりました。信夫というのが信夫郡の信夫に合っているので、「泉君、君の名前は大変いい名前だ。この歌に出ている文句だ。」こういうようなお話で、私ども何をお話しになるつもりかと思って聞いておりましたら、自分は福島県で―信夫郡になるのでしょうかどうでしょうか、忍ぶという言葉が大変好きで、学校を出て胸を悪くして、そのまま家へ引っ込んだ。そこで百姓をして暮らそうと思っておりましたら、ちょうどそのころ恋をして奥さんを獲得した。忍ぶというのは恋愛をするという意味があるので、そういうことで忍ぶというのは大変いい。

 もう一つは、これでお百姓して過ごそうと思っていたら、バイブルを読んでいたらマタイ伝に「終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」という名文句にぶつかったので、改めて元気を出して上京して学生生活、勉強を始めたというようなことをおっしゃいまして、そしてわれわれに忍耐というか、忍ぶというようなことについて頭へ刻み込むようにうまく話していただいたのでございます。

 そのほかに、忍ぶというのは堪忍するという意味もあるとか、人を許してやるという意味もあるとかいうようなことで、幾つかの徳目を御説明いただきました。

 最後に、いま安藤先生から話がありました内池先生は大変孤独な方というか、孤独な感じを与える。私もそのころ全く怖いような気がして近寄りがたい何かがあると同時に、孤独な感じがしたのでありますけれども、その先生がわれわれに意外なことを言ったんです。人間はやっぱり朗かでなくちゃいかん。社会に出たら社交性を持たなければいかん。きょうで言いますと、新井研究所がやっているようなこういう会合には積極的に出て、世間の人の話をよく聞きなさいとかいうような意味で、自分と真反対のようなことを、社交性を持てというようなことをおっしゃったので、これは大変よく頭に入りました。

 そんなことで大学を出ましてから兵隊で中国へ行っておりましたときに、漢口時代でありましたが、暇なものですから手紙を書いて先生に出しましたら、大変長文な手紙が参りまして、先生独自な闊達な文章で何枚も手紙が来たのでありますが、それはマタイ伝のところを「終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」というその文句の前後をバイブルの文句を書かれまして、重ねて卒業のときの言葉について敷衍をして説教していただいたといいますか、激励をしていただいたということがございます。その手紙はいまになってみますと将校行李の中に入れてどこでなくなりましたか、紛失しましたが、大変残念なことをしたと思っているわけです。

 大変優れた教育者であられたんじゃないかと、安藤先生がきょうその全貌、先生の人となりをお話しいただいて、学生時代に戻ったような大変懐かしい気がいたしたわけで・内池ゼミの皆さんも多分同感であろうと思います。厚く御礼を申し上げます。

                                   (昭和五十九年四月十一日収録)

(追記)
 安藤先生より頂いた原稿の中で「井藤博士の誕生」と題する項を講演の中では時間の関係1割愛されたと思われますので、茲に掲載させて頂きます。

     井藤博士の誕生

 井藤半弥先生が学位をもらった当時のことを申しあげます。これは私の生涯的感銘の物語りといったものであります。

 当時福田先生のゼミナールには極めて優秀な人材が集まり、母校はもちろんのこと地方高商でも立派な労作を発表した著名な教授が輩出しました。このことは皆様ご承知の通りであります。内池先生は福田先生を先輩として尊敬するとともに親交の間柄でありました。その門下生の中に井藤先生が居り、かねがね井藤先生に着目していた内池先生は強引に財政学研究の門下生として割愛を頼みこみ、遂に社会学を中心に研究していた井藤先生をもらい受けたのであります。これは私が助手になった頃に内池先生から直接承わりました。その頃両先生は交替で財政学の講義を担当しておられましたので私は両先生の財政学を聴講いたしました。ですから井藤先生は私の先生であったと同時に兄弟子であったということになります。

 井藤先生は昭和六年に経済学博士の請求論文を提出され、東京商科大学教授会はこれを受理して内池先生を審査委員長として審査することになりました。その直後先生は市電の事故で東大病院の整形外科に入院されましたが、重症でありました。主治医の話しでは、長期入院治療を要するというので、私は入院室前の廊下で見舞客の接待や記帳するための机と椅子を貸してくれるよう再三願い出たのですが、前例がないというので断られました。そこで医局に行って婦長をしつこく拝み倒し遂に成功しました。そして見舞客を素手と見舞品持参とに分け氏名と住所を記入し、四丁綴り大学ノート二冊を殆んど全部を埋めつくし、一千数百名に達しました。中には何回も見舞された方々も多数おいででしたから、この数字は延べ人数となりますが、それにしても先生の著名度と学者としての人と成りに感動いたしました。

 先生は度々危篤に陥いられましたが、生来の強気で辛うじてこれを乗り切り、一ケ月余にして始めて私を室に呼びこまれました。室は個室で奥様一人で看護され、終始面会謝絶でありました。私はその後も度々呼ばれましたが、話しは専ら井藤先生の学位論文のことで、その度に奥様は座をはずすようにいわれ、その厳粛さに心をうたれました。奥様のお話しでは前々から井藤先生の論文を一日も早く読んで、審査論文を提出しなければならないと大層気をもんでおられたそうです。辛うじて退院され早々に二階のベットの上で論文を手にとられましたが、何分にも長い病後であり、それに論文は原稿用紙にペン書きのたしか四冊に分冊され、各巻をそれぞれ西洋とじに製本したもので、各巻とも分厚く相当重いものでありました。そのためすぐ疲れて休眠をとりつつ読むといふ具合でありました。時には私がゆっくり読んでさしあげましたが、或る朝お訪ねしましたところ、全く久しぶりでお目にかかる晴れ晴れしたお顔
で、「安藤君とうとう出来上ったよ。」と申され百二十枚位の審査論文を見せられました。そして「遅れに遅れてしまったけれども、これで何んとか重大な責任も果せる。」といわれ、安堵と嬉しさがこみあげたお顔色でありました。
それから一日位してお訪ねしましたところ、「あれを八〇枚に縮めた、これなら大丈夫一時間で報告できるであろう。」と大張切りでした。報告の当日は奥様の介添いで国立駅までお出でになり、たしか和服に袴姿で奥様と私の介添えで木造三階の教授会室まで辿りつき、一時間はおろか二時間近くも立ったまヽで細をうがつ報告であったそうで、あとで某教授のお話では途中しばしばフラフラとなり、見るに忍びなかったということでありました。

 かくして国内の財政学界はもとより、世界の財政学者をもアッといわせた歴史的批判主義に基く強制獲得経済を本質概念とする井藤半弥博士がわが一橋に誕生したのであります。

                                                          以 上




 安藤 春夫  明治三十三年生(宮城県)
          昭和八年東京商科大学卒業、同年専門部教授。
          昭和十二年病気休職次いで退職、
          以後東京市財政史の編纂指導主事、
          東北機械工業協議会理事事務局長等を歴任、
          昭和二十六年東北学院大学教授、
          昭和三十六年経済学博士、
          昭和四十一年千葉敬愛経済大学経済学部長、
          昭和五十年同学副学長、
          昭和五十三年退職、すべ
ての公私職を辞して故郷に帰る。

  主要著書  国家経済と公債経済 公債論
           座の研究   取引税の研究
           財政本質学説
             ― 分析と批判 ―