一橋の学問を考える会
 [橋問叢書第三十四号]

   一橋と昭和戦前・戦後の文学      文芸評論家 桶谷秀昭



   はじめに

 一橋の学問と文学の関係というのは、直接関係があるかどうかわからないんですけれども、学問というものをもっとルーズに考えまして、歴史的につくられた雰囲気とか気質というふうに考えて、そういう雰囲気からどういう文学が出てきたかというふうなところで考えていきたいと思います。

 「一橋と昭和戦前・戦後の文学」というふうに課題設定いたしましたが、文学というのは主としてこの場合文芸という意味に私は考えております。文学といいますと文芸だけでなくて、例えばアダム・スミスの 『国富論』というのも文学だと思うんです。そういうところまで範囲を広げていきますととてつもないことになりますので、いま文学というのは文芸というのが中心概念だというふうに御了解いただきたいと思います。

 ただ、文芸というふうにまた限定いたしますと、文芸は詩、小説、それから文芸批評などがジャンルとしてはそれに当てはまりますが、また文学研究というのがございます。これは大学とかそういうところでやっているものです。文学研究というものもまるで排除するわけにいきませんので、そういう文学研究というものも含めます。これは文芸批評と一部重なり、一部重ならないというふうな関係があります。批評と研究というのはなかなかややこしいところがありまして、重なるようでいて違うのでありますけれども。

 私は批評、つまり文芸批評の仕事をしてきた人間で、現在東洋大学の教養課程の 「文学」という課目を教える教師もやっておりますが、本職は、著述業であります。文壇で仕事をしてまいりました。私の経歴を簡単に申しますと、一橋の新制大学の第二回目昭和二十五年に入学いたしまして、学部は商学部に入りました。

 ところが、当時杉本栄一先生が経済原論を講義なさっておりました。まだ小平で教養課程のときです。ある日、君たちを見ていると若い身空で早速入ってきたら経済学の本を読んでいる者がいると言うんです。そういうのは将来大した者にならない。まずやるべきことは、文学と哲学と語学と数学だ。それをやりなさいという。もともと文学は好きだったんですけども、好きということとそれを職業にするというのは別問題です。それに父親が文学や芸術にうつつをぬかす人間を嫌いで、文学なんかやるんだったら、例えば東大の文科三類なんかへ入るんだったら学校はやらないということがありましたものですから、文学部のない一橋へ入ったのですけれども、入学早々、杉本先生がそういうことをおっしゃった。それに便乗しまして、それは大いにいいことだと思って、数学は勉強しませんでしたけれども、文学書とか哲学書を読み、二年のときに藤井義夫先生の哲学のゼミに入りました。
 
 三年から商学部の専門課程に入りますが、一年、二年でそういう哲学だの文学にのめり込んでしまったので、三年になって原価計算だとかああいうのを聞いていても何だかよくわからないんです。(笑)わからないなりに、これは弱ったことになったと思いまして、山城先生の経営学ゼミナールに入れてもらったのですが、これもよくわからないんです。そしていろいろ考え悩んだあげく、ある晩、当時阿佐ヶ谷の蚕糸試験場の裏にお住まいになっていた山城先生のお宅を訪ねて、かくかくしかじかでどうも志望を誤まった。私、やめると言ったんです。そうしたら、そうか君は確かに志望を誤まったな、じゃおやめなさいということで (笑)非常に気持よくやめることを許してくださいました。ではどうするか。当時入学試験が経、商、社、法、四学部制をとっておりましたが、あの年度は一番から四百何十番までスパッと成績順に切ってそれで配分したらしいです。そうしますと経済学部と商学部は定員をややオーバ1しておりますが、社会学部と法学部は結果として定員に満たなかったわけです。それで転部が可能だったので、一年おくれまして転部試験を受けて社会学部へ移ったわけです。したがって一橋に五年間いました。

社会学部では、いまは亡くなりましたけれども、海老池俊治という先生がおりまして、この方は英文学をやっていたんです。私がゼミナリストになったころには比較文学の方に進んでおりまして、つまり「明治文学と十九世紀英文学」というふうなテーマの研究をなさっていた方です。海老池さんは昭和の初めごろ小説家でもあったんです。横光利一の弟子だったそうです。小説家といっても卵という程度で、そういう人のところへ行って、私はたった一人のゼミナリストだったと思います。それから卒業して、しばらく浪人してみたり、どうせ文学なんかやっている人間ですから就職ありませんので、一時、出版社に勤めたりしながら文芸批評の仕事をやるようになりました。

 瀬沼茂樹氏が二十二回のこの会でお話しになっていて、瀬沼さんは私たちの大先輩で、そして批評家でもあるわけですが、明治の初めの硯友社の丸岡九華という人あたりから始めて、大正、昭和まできて伊藤整、瀬沼さん、瀬沼さんご自身のことは照れ臭いのかほとんどお話しになっていらっしゃらない。きょう私は、そのお話のあとを受けて、瀬沼さんのことも含めまして、昭和戦前、戦後という時期、戦前というのはむしろ戦中、だいたい対米英戦争が始まるころからの戦前という意味で、そこから話をしたいと思います。

   一橋出身の文学者に共通の体質

 一橋というのは、御承知のように二葉亭四迷という作家が明治におりました。あの人は外国語学校のロシア語科中退と普通言われておりますが、厳密に言いますと東京商業学校第三部露語科中退というのが正確なんです。明治十九年一月に退学届けを出したのですが、明治十八年の、いわゆる太政官制から内閣制に改革になりましたときに、森有礼の学制改革がございまして、東京商業学校が木挽町からこの一橋へ移って、ここに外国語学校の校舎があった、そこにひさしを借りて母屋を取ったというふうな感じで外国語学校を合併吸収するわけです。外国語学校は英、独、仏語科が第一高等中学の方へ行きまして、露、清、韓の語学科が一橋に吸収される。これを第三部と言ったわけです。二葉亭は矢野二郎という当時の校長と、どうも気が合わなかったらしいんです。いま私は、雑誌『文学界』に「二葉亭四迷と明治日本」という連載を書いていて、やや詳しくその辺のことを調べてそういうことがわかったんですけれども。ですから二葉亭は一橋の中退なんです。

 そういうことを言いますと、永井荷風も明治三十年に高等商業付属外国語学校の清語科に入ったわけです。そしてろくすっぽ授業に出ないで除籍になりました。外国語学校はそれからすぐ後、高等商業から独立しますが、そうすると荷風も一応一橋の中退者というふうなことになるだろうと思います。

 なぜそんな古い話を持ち出したかといいますと、ずっと見てきまして、一橋出身の文学をやっている人間の、いわば体質というのは何かということを考えましたら、二葉亭四迷も永井荷風も作家というふうに一応言われておりますけれども、しかし本質は批評家だと思うんです。二葉亭は、『浮雲』という作品と 『其面影』と『平凡』と三つしかありません。あとはロシア文学の翻訳とエッセイ。自分は小説が嫌いでしょうがなかった人です。荷風はたくさん小説を書いていますが、荷風の小説というのは、やはりエッセイなので、むしろ文明批評を本質とするエッセイストだと私は思います。本質は批評家なんです。そしてきょう話題になります伊藤整という小説家も、これも本質は批評家だと思います。

 そういうわけで、作家であれ、それから私のような文芸批評をやっている人間であれ、どうも批評意識というのが強いということが一橋の出身の文学者には言えるんではなかろうかと思います。それで瀬沼さんの場合は、これは金子鷹之助教授の文明史のゼミナールを出られて、卒業論文が確かノヴァーリスの研究だったと思います。ドイツロマ
ン派の研究です。瀬沼さんの場合は、一番これは、或る意味で一橋の学問と密着しているんじゃないかと思うんです。
後ほど瀬沼さんの文芸批評の性格ということについて私の感想を申します。

   伊藤整 その作風と業績

 まず順序から言いまして、昭和戦中の伊藤整から始めます。昭和戦中と言いますと、これは瀬沼さんもお話しになっておられましたけれども、伊藤整の小説で言いますと、『得能五郎の生活と意見』とか、『得能物語』というのがあります。得能五郎というのはだいたいイコール当時の伊藤整というふうに考えていいと思うんですが、郊外に小住宅を買いまして、そこで食糧不足を補うために畑をやったりしているインテリゲンチャを主人公にしています。その人の時局に対する文明批評的な発言を散りばめた小説なんですけど、これはイギリスの十八世紀のスターンの 『トリストラム・シャンディの生活と意見』、ああいう小説の方法を伊藤整なりに生かした書き方だと思います。伊藤整は昭和の初めに小樽高商を出まして、東京商科大学に入りまして、中退したわけです。文壇に出てきた出方というのは、これは何か面白いというか、衆目を惹くような小説を書いて出てきたというんじゃなくて、非常に方法意識の旺盛な、新しい方法をひっさげて出てきた人という印象だったと思うんです。『感情細胞の断面』なんていう、あれはジェームス・ジョイスなんかの、ああいう意識の流れの方法を適用して書いたものです。ジョパスという作家を「ユリシイズ』なんかを翻訳して日本に紹介したのが伊藤整です。その前に土居光知などの紹介がありますが、非常に本格的にやったのが伊藤整なんです。そういう方法意識をもって、それも新しい二十世紀のヨーロッパのアバンギャルドの方法を日本文学の場で実験しようとした。そういうことで文壇に出てきた作家だと思います。

 ところが、どうも伊藤整の小説というのは昭和戦前に関しては方法意識は非常にはっきりして旺盛なんですけど,いかにも小説がやせているんです。小説にボディがないというか肉体がとぼしいんです。だいたい方法意識の盛んな作家は芥川竜之介にしてもそうなんですが、みんな小説がやせているという感じがありまして、計算し尽くして書くんですが、どうも芸術というのは作家の無意識のところで豊かな花が開くという面があります。余りにも意識的であるために何となくやせているという感じがいたします。これはやっていることは小説書いているんですが、本質は批評家の仕事を小説という形でやっていると言ってもいいだろうと思います。『待能五郎の生活と意見』というのはそういうふうな作品です。

 ところが戦局がああいうふうに逼迫してまいりまして、昭和十六年の、いわゆる大東亜戦争期になりますと言論統制が非常にやかましくなってまいります。ちょうどそのころに伊藤整に『感動の再建』という評論集があるんですが、その内客は、いままで主としてアングロサクソン系の二十世紀文学の非常に前衛的な方法を日本に移植しようとした、そういうモダニストの伊藤整からもう少し日本の精神土壌というものを見直すということを『感動の再建』ではやっていると思います。日本の精神土壌というものを近代文学の面で申しますと、これは私小説ということになります。
だいたい私小説というのは明治四十年代の自然主義文学の後者受けまして大正期に定着した、ヨーロッパ小説の概念で言いますとイッヒ・ロマンということになるんですが、日本の場合には作家イコール主人公が出てきまして、そういう作家の私生活の記録なんです。女をよそへつくって破滅するという型の、葛西善蔵とか、それから嘉村礒多とか太宰治。ああいう系列と、志賀直哉のようにそういう危機を克服して芸術家と家庭生活に調和にもたらすという型と二つあります。尤もこういうふうな分類をしたのも伊藤整なんですが、そういう私小説という伝統が日本に強い。どうしてそれが日本で強いのかという問題です。日本文学における体質遺伝ということを伊藤整は分析しているわけです。それをヨーロッパの方法とどういうふうに接合するかというふうなことが伊藤整の戟争中から戦後への課題だったと思います。それが戦後の伊藤整の、いわば作家としての円熟とか成功ということに結び付いたんじゃないかと思います。やっぱり日本の文学伝統というのを無視して海の外の方法だけ持ってきても、何か浮き上がる感じを免がれない。そういう伝統の問題と二十世紀の海外の前衛的手法とをどういうふうに結び付けるかという苦心惨憺の努力が実ったのが伊藤整の戦後ではなかろうかと思います。

 瀬沼さんもちょっとお話しになっておりましたが、伊藤整は戦後、批評と小説を並行して書いておりまして、小説では『鳴海仙吉』というのから、亡くなる最後の 『変容』という作品に至るわけですけれども、『変容』という一番最後の作品は、さっき私は、伊藤整はボディが非常にやせていると言いましたが、これは豊かな、作家伊藤整と言っていいものなんです。しかし戦後昭和二十年後から大体三十年前後までは、やっぱり方法意識の方が優先しているという感じです。私などは当時学生のころから伊藤整を読んでおりましたけど、伊藤整の何に一番惹かれたかといいますと、批評家としての伊藤整に惹かれました。とりわけ『小説の方法』という、瀬沼さんもこの前の会で採りあげておられた、いま読んでも面白いし、当時非常に画期的な文芸批評の本でした。

 『小説の方法』というのはどういうことを言っているかといいますと、いまも言いました、日本の私小説というのは一体どういうふうな構造を持っているのかという分析をしたわけです。その分析の仕方が、例えば一橋出身ということとの関係で考えますと、何と言っても一橋の出身者というのは文壇では絶対少数派でありますから、文壇で多数を占めているのは、東京大学とか早稲田、あるいは三田です。文壇という世界は、文学というのは一人一人が孤立してやる仕事なんですが、やっぱり浮き世の一つの世界にほかならないわけで閥というものがあります。早稲田閥とか三田閥とか赤門とか。特に早稲田の閥というのは強いんですけれども。大体私小説というのは早稲田系の人が多いん
です。そうすると伊藤整というのは文壇のいわば徒党の外にいる、常に文壇の傍流におります。傍流におりますと逆に内側にいる人には見えない姿が見えるわけです。海外に出てみると日本がはっきり見えると同じように、文壇の傍流にいて、ハハァ文壇というのはこういうところか、私小説というのは文壇のこういうところからこういう発想法で出てくるのかということが測定できます。また測定できるような、伊藤整というのは頭のいい人ですから、そういうふぅにして私小説というものを、あるいは日本の文壇文学というものが見えたわけです。コロンブスの卵みたいなものです。言われてみるともっともなんですが、だれもそれまで伊藤整のようにはっきりと分析した人がいなかったわけです。

 結局日本の私小説が発生する文壇というのはどういうところかというと、伊藤整の言葉で申しますと、現世放棄、つまり浮き世を放棄した人間の集まりである。だからこの世界では、例えば家庭を破壊したりすることは黙認される。
むしろ人間が世の中の秩序を無視して裸になって生きるということが奨励され容認される場だというふうに見えます。
これを日本のずっと、例えば『徒然草』の吉田兼好とか鴨長明の『方丈記』あたりまでさかのぼって考えれば、ああいう中世の隠者の文学の伝統が時代的な変容を幾つも経まして、日本の近代文学の場合に私小説になってきたのではないかというのが伊藤整の仮説であります。そのことが一っの発見なんです。

 もう一つは、いまいいましたように、私小説というのはそういう作家が裸の自我というものをむきだしにしてそれを描くということ。ちょっと普通の生活人では耐えられないことをやったわけです。嘉村礒多という私小説家がいまして、当時『中央公論』というのが文壇の檜舞台だったので、嘉村礒多が『中央公論』に小説が初めて載ったときに、日本一になったとか言って電報を受け取って叫んで気絶して倒れた。そういう人間の公には言いにくい、自分の滑稽というか、醜いといいますか、あるいは悲しいといいますか、そういう姿をそこに描き出すわけです。

 そうすると、もう一つマルクス主義文学というのがありまして、それがプロレタリア文学運動というかたちで文壇を席捲しました。これは革命運動のために家も捨て何も捨てて非合法の地下運動をやる。文士もそういう要請を受けまして犠牲者を出すようになります。その一番典型が昭和八年に殺された小林多喜二ですけれど、小林多喜二と伊藤整は小樽高商で、小林多喜二の方が少し上ですが、例えば同じ教室で大熊信行の経済原論を聞いた仲なんです。小樽高商の自分の同窓が革命運動に進んでいくというのを見ております。いろいろ複雑な気持ちがあったでしょうが、その場合のマルクス主義運動に自分を放棄して進んで行く放棄の構造と、私小説の自己放棄の構造は同じではないかということを言ったわけです。これも伊藤整の非常に新しい発見だと思います。

 第三番目には、ヨーロッパの文学というのは、作家の自我と言いますか、自我というものの発する声というものを音楽の音階に喩えますと、例えば最高の音階だとそれは神々というものに非常に近づくところで声を発するわけです。
最低の音階だと、さっきの日本の私小説家のように自分を裸のむき出しの姿で描く。例えばボードレールの 『赤裸々な心』なんていうのがありますけど、ああいうふうな、そういう自我の最低音階と最高音階という幅があるわけです。
日本の小説の感動というのは、ヨーロッパと比較しますと、そういう自己表現の最低音階のところでこの二つは結び付くのではないか。そこに、つまり普通の生活人ができないような境地に進んでいくという、そこで感動を呼び起こすわけです。具体的な例を挙げるといいんですけど。ロシア文学なんかにしばしばそういう二つの最高と最低の音階が極限のかたちであらわれます。トルストイとかドストエフスキーなんかがそうです。イギリス文学というのは最高と最低というところが余り表現されませんで、世界で一番市民社会を早く発展させた国で、ちょうどその中間のところで平衡を保って生きている。市民の生活意識がそのまま文学の発想方に接続していると考えられます。それでイギリス文学というのはなかなか日本人にわかりにくいというところがありますけれども、そういう分析をやったわけで
す。日本の、つまり伝統的な体質を持った私小説を中心にする文学の発想とヨーロッパの発想がどう違ってどこが重なるかということを非常に緻密に自分の実作体験から分析したわけです。

 ちょうどそのころ、中村光夫という批評家がいまして、この人は小林秀雄の系統の人なんですけど、『風俗小説論』という、これも大変評判を呼んだ本を書いたわけです。『風俗小説論』は何を言っているかと言いますと,これはヨーロッパ十九世紀の文学を御手本にしまして、一つの鏡にして、その鏡に日本近代文学を照らしてそのゆがみをあげつらうという方法です。

 例えば、日本の私小説というのはヨーロッパ十九世紀の文学を誤読、つまり誤解したからああいうものができたんだ。作家と作品の距離の測定を誤ったとか、あくまで御手本はヨーロッパ文学で、日本文学はそれの誤解だというのが、大ざっばに申しますとその趣旨です。ヨーロッパの十九世紀文学が絶対で、日本文学はそれを御手本にそれに追いつこうとしていつも誤解をして奇形になっているという、いわばこれは日本の明治以降のヨーロッパを一つの到達すべき理念目標とした近代化の過程分析と似ているような論理です。

 それと比べると伊藤整の立てた論理は、必ずしもヨーロッパの文学は到達すべき絶対の目標であるというふうに言っていないわけで、それぞれを相対的に眺めております。例えば、ドストエフスキーの一ページと志賀直哉の一ページを比べてみればどっちが文学の密度が高いか。これは日本人の感性から言ったらドストエフスキーは通俗作家であり、志賀直哉は純文学作家であると言ってもいい。ですから、それは日本人の非常に繊細鋭敏な感受性がヨーロッパ人から見ると異常なくらいの描写の細かさ、繊細というものを代償にして、そのかわりヨーロッパ的な造形という面では非常に弱いというふうな彼我の相対的な認識ということをそこで行ったわけです。これは中村光夫の『風俗小説論』と比べましても、昭和二十三年ごろの仕事として、いま読んでも新しい仕事だと思います。そういうふうなもの
がありまして、伊藤整はやがて批評をやめますが、亡くなってもう大分になりますが、伊藤整の仕事としてはいくつかの小説と並んで批評というのがほぼ同じ比重で残るだろうと思います。

   瀬沼茂樹について

 次に、伊藤整とはぼ同級の瀬沼茂樹の仕事でありますけれども、戦前の仕事としましては『現代文学』(昭和八年)という本がございます。これは戦後に 『昭和の文学』というふうに題名を変えまして一部補筆して出されております。
瀬沼さんは金子鷹之助の文明史のゼミナールにおりましたことは先にも申しましたが、瀬沼さんの文芸批評の性格というのは初めから思想史的な関心が強いことであります。そして思想史と文学史。そういうふうな問題意識で仕事をしてこられたわけで、『昭和の文学』というのが、大体当時のモダニズムと言われております新感覚派。横光利一とか川端康成、龍謄寺雄とか、東京の銀座などの新しい風俗を取り入れて、第一次大戦後のフランス辺りを中心にしたヨーロッパの新しい前衛的な手法で ― いまから見ますとそう大したことありませんが、横光利一の非常に、鬼面人を驚かすような文章です。急行列車の描写で、「沿線の小駅は黙殺された」、という式の。ああいう文体実験を行ったわけです。それから、プロレタリア文学があり、それからまた伊藤整の心理主義の文学があり、それから、その後でアンドレ・マルローなんかの影響を受けた行動主義文学というものが出てくるわけですが、そういうものを批評対象にしまして、一口で言いますと、これらはみんな明治・大正の日本の近代文学の解体現象にはかならないというふうに言います。

 明治と言いますと、例えば夏目漱石だの森鴎外だのという作家がおり、その後で白樺派の文学者が来るわけですが、
そこで形づくられた日本人の自我といいますか、人格といいますか、自我と人格は違いますが、とにかくそういう統一的な内面性が崩れてきた。関東大震災、それから昭和初年のパニックという社会経済現象とちょうど並行する形でああいうものが出てきた。瀬沼さんの『昭和の文学』というのを読んでいますと、或る奇妙な印象を受けるんですが、モダニズム文学に対してかなり手厳しい批評なんです。そしてここで批判対象から免かれている唯一のものはマルクス主義文学なんです。だいたい瀬沼さんの方法というのはマルクス主義文学の立場にたいへん近いんです。近いんですが、ではマルクス主義の文学について何か言っているかというと、ほとんど一言も言っていないという非常に奇妙な印象を受けます。これは一つには瀬沼さんがプロレタリア文学の陣営になかったということがあると思います。外にいまして全体を俯瞰するというふうにして見ております。

 ただ、プロレタリア文学の中にいますと、当時のプロレタリア文学は蔵原惟人の『芸術論』というのが指導理論でありまして、これは階級芸術論です。つまり文学というのはプロレタリア階級の利害のために奉仕しなければならないという、そういうテーゼがありますから、それには瀬沼さんは賛成はしていなかったと思います。結局プロレタリア文学というものを、新しい価値を持った人間像を描く可能性を担い得る文学というふうに、一つの希望的な見方なんですけども、そういうふうに見ているんだろうと思います。これは例えば、亡くなりましたけれども唐木順三なんかの一種思想史的な見方とやや重なるところがあると思います。

 瀬沼さんは大正時代の教養で育った方だと思いますが、大正期というのは、教養主義といいますか、和辻哲郎なんかに代表される、ヨーロッパ、それから日本のあれもこれも、あらゆる教養、文化価値というものを全部さらえて自分の身に理解し吸収するという。ところが人間というのは、あらゆるものは理解してもそれを生きるのは一つの価値しか生きられないわけですから、そういう大正の教養主義に対する一つの瀬沼さんの自己批判というものがあったの
ではなかろうかと思うんです。それが 『昭和の文学』という戦前の御仕事なんですけれども、瀬沼さんはその後、戦争がだんだんと激しくなるにしたがいまして沈黙して一時職業転換をいたします。そして病気もされたようですが、戦後にされた仕事は、いわば戦前のモダニズムの文学が明治、大正文学の解体現象としてあったという、では解体から新しい日本文学の再建の可能性はどこにあるかということを考えて、解体をもたらしたそれ以前の明治、大正の文学のいわば構造というのはどういうものかというふうに問題意識がいったと思います。それで戦後は瀬沼さんの御仕事はだいたい明治文学が主になっております。例えば『島崎藤村論』とか『夏目漱石』。そういう明治の日本の近代文学の構造を非常に実証的にー−瀬沼さんの仕事で定評があるのは実証です。正確なんです。事実に正確で、もう一つは、一橋時代の思想史的な関心で文学を見ていく。これが最近の、百歳を迎えました『野上弥生子の文学』、岩波書店から五月に出されました、そこに至る仕事のアウトラインだと思います。

   田中西二郎という人

 もう一人、瀬沼さんが触れなかった方で、田中西二郎という方がおられます。昭和五年に東京商大を卒業しました。父親が正岡子規門下の俳人です。非常に見識のある人なんですが、書かないんです。戦後にグレアム・グリーンとかスタインベックなどの翻訳で有名なんですが、一方で日本文学の批評、幸田露伴に関するものなど優れたものがあります。韜晦癖が強いんでしょうか。昭和十七年に杉山平助の 『文芸五十年史』というかなり売れた本があるんですが、これは明治の初めから昭和にかけての、通史としては非常に大がかりなものです。これは著者が杉山平助なんですけれども、その序文の一番最後に、「本書の完成に当たって田中西二郎君の熱心な協力を得たことを記して深謝する」という一行があります。実際に書いたのは田中西二郎らしいんです。自分の名前を出さずにこういう仕事をしている。そういうことをちょっと申し上げたいと思います。戦後われわれも、グレアム・グリーンのいい翻訳を田中さんの訳で読んで大変恩恵をこうむっています。

   夭折の詩人榊都美夫とその作品

 次に、戦中。戦争末期に入りまして、対世間的には無名の人ですけれども、きょうちようどそのころの方も何人かいらっしゃると思いますが、榊都美夫、本名小林繁太という方がおりました。この人は昭和十二年に大阪の住吉中学を四年終了で商科大学予科に入りまして、予科に昭和十八年九月まで、裏表六年間いまして、結核でたびたび血を吐いてからだが弱かった。そして当時の『一橋』とか、ああいう学内の雑誌に非常にいい詩や小説を書いた人です。
住吉中学といいますと「コギト」、「日本浪曼派」の詩人伊東静雄が国語の教師として教鞭をとっていたわけです。
榊都美夫の詩を見ていますと、やっぱり伊東静雄に教わった人だなという感じがいたします。だいたいその作風はカロッサとかリルケとかカフカなどの影響が感じられるものです。昭和十八年に本科に進みまして、上原専禄教授のゼミナールに入り、ヨーロッパ中世思想史の研究に入っていきます。卒業論文は昭和二十二年に英文で「Feudal Monarch in Magna Carta―Some Problems about Military Service」という題ですが、その翌日郷里の大阪で病いが改まりまして二十九歳で死んでしまった人です。榊都美夫は自分で書きためた詩集を出す準備をしていたようです。しかしそれができなくて亡くなりました。
入学年度は榊都美夫の一年後になりますが村上一郎、これも亡くなりました。村上一郎が榊都美夫の詩のノートを持っておりまして、私は村上一郎と昭和三十一年に初めて会うわけですけれども、私にそのノートを見せてくれまして、感動しました。それで村上一郎と相談して『榊都美夫詩集』というのを同窓の何人かの方から寄付を集めまして上原専禄先生の抜文を付けて百五十部限定出版をしました。

 どういう詩を書いたかちょっと読んでみます。これは全部戦前の作です。大体昭和十三、四年から昭和十五、六年ごろ。日本が不自由な時代に入っていったときの詩です。

 まず短いのでは
「かかる日も」というわずか六行の詩があります。

  
不毛の砂丘のかなた

  白くとほき雲はたたずみて

  とこしへに消ゆる時をまつ

  我はいまこの強き風にむかひて立つに

  我が涙よ その時をあざむくなかれ

  わがかなしみよ その時にへつらふなかれ



 
少し長い詩では「オロールの歌」というのがございます。これも大変いい詩で、ちょっと読んで見ます。
 
 
 リリエン・クローンの詩を読んでから ぼくの部屋をでると 深くやはらかに雪がつんでゐた 

  百合のいぶきのやうに とはじろく淡く 雪は熄んでゐた 

  真夜中のぼくたちだけが聞える大きい道を静かに歩いてゆく 

  君はふと暖かさうな星の宿りを仰いで 
 
  スカンディナヴィアの空はどんなにあこがれをもってゐるだらうといふ 

  暴々しい自然のなかでどのやうに人々は愛の光を知るだらうといふ 

  ぼくは雪原の虚無に幻影の城が聳えるのを想ってゐた 

  とほいゆきつけない天露歴程のことを想ってゐた

  命ぜられた彷徨のはてに

  ほの白い影のやうに ぼくたちは凍えてしまふのだらうか 

  なぜ? 問ふことだけがある 

  立ちどまって君の明るい眼はぼくの重さの底で光ってゐる 

  なぜ? ぼくは黙ってとほくをみつめる

  あそこがいつまでも明るいのは岡があるのだ 

  ぼくたちは別れる 

  またいつか会ふために 

  ぼくたちの手の暖かさと冷たさが光の中で告げあふだらう 

  ぼくたちは別れる 

  こんどは ぼくが岡をこえてゆくだらう

  ― だがいまは君がむかふへこえ 黙って足をはやめるだらう 

  ぼくはまたながい道をかへってゆく 

  傷ついた獣がのこしたやうに よろめいた足跡がきえないだらう 

  ぼくの行手にはっきりと そしてぼくは雪原の死を想ってゐるだらう ― 

  君はそんなぼくに明るい笑ひではなしかける 

  白い虚無の世界にぼくと君とめいめいの時間を支へあって立ってゐると 

  君の微笑はそのやうに明るく暖かい



 
戦争中の、皆学徒動員で引っ張られていく、そして全体としては自分の信じていない道を歩かざるを得ないという不如意な生活の中で幾つもの小さな真実に非常に敏感に反応するナイーブな感性がある。ここには伊東静雄の『夏花』や『春のいそぎ』の抒情に通じる雰囲気があって、それが出合いと別れという形でうたわれているとてもいい詩だと思います。榊都美夫は小説も書いていて、戦後三島由紀夫が『花ざかりの森』とか『仮面の告白』を引っさげて登場してきたときに、村上一郎は言っておりましたが、あれは榊都美夫の別のペンネームではないかと思ったそうです。
私がその話をよく覚えているのはそれはそういうことがあったとしても不思議ではないと当時感じたからです。榊都美夫という人はもし生きていたとしたら何事かをなしていた人ではないかと思います。そういう意味でここで御紹介いたしました。

   村上一郎の生涯と未完の長編三部作

 榊都美夫と非常に親しくしていたのが村上一郎で、村上一郎は昭和十三年に商大予科に宇都宮中学から入りまして、高島善哉先生のゼミナールで、卒業論文は「近代国民国家論成立史序論」というので、これは三つの部分に分かれておりまして、第一部が十八世紀に残された問題としてのロックを扱っております。第二部が、ジャン・ジャック・ルソー。第三部が 「理論と運用」ということで、これは未完成だったようです。そういう英仏のネイションステイトの成立史をやったわけです。昭和十八年に卒業して海軍経理学校に入り、海軍士官として終戦をむかえます。戦後に日本評論社に入りまして、「日本評論」 の編集者として「時の動き」という、当時「日本評論」 の目玉と言ってもいいような記事を毎月書いていたわけです。ところが占領下なものですから、占領軍のプレスコード違反に問われまして会社を首になります。そしてその後、アメリカ占領軍ににらまれますと自分の名前で仕事ができないので幾つも幾つも偽の判こをつくりまして、岩波書店をはじめ多くの出版社の嘱託をやったりしていたんですけれども、結核になって倒れて長い療養生活を送りまして、ようやくそれが小康を得たころ、昭和三十一年春に、私は初めて村上一郎に会いまして、数人の人と私は昭和三十年に卒業したものですから卒業直後で、「典型」という同人雑誌を始め、その後吉本隆明たちと「試行」という雑誌をやり、その後また別れて村上一郎と私で「無名鬼」という ― 無名鬼というのは寒山詩の 「生きては有限の身となり死にては無名の鬼となる」という詩から取った題で、村上一郎が付けたんです。それを昭和三十九年から五十年までやったわけです。村上一郎は五十年に自殺しまして、この雑誌は消滅しました。

 村上一郎の仕事について。まず『東国の人々』という長編小説があります。これは私が昭和三十一年に会ったころ書き始めておりまして、死ぬまで完成しなかったものです。全体が三部に分かれておりまして、第一部が「阿武隈郷士」、第二郡が「天地幽明」、第三部が「冬至る」、という構成です。第一部と第二部ははやく完成して理論社から本になりましたが、第三部がなかなか書けなくて苦労しておりまして、とうとう未完で亡くなってしまいました。明治維新の戊辰戦争のころから時期をとりまして、幸徳秋水の大逆事件のころまでの日本の近代精神史を小説の形で書こうという非常に壮大な意図のものです。場所は福島の三春藩。三春藩の二人ぐらいの郷土の主人公を設定しまして、やがて明治十年代に入りまして自由民権運動、加波山事件を頂天とする知識人の生き方が描かれ、それからキリスト教の洗礼を受ける。村上一郎の父親がホーリネス教会の非常に熱烈な信徒だったそうでありまして、そういう自分の家の家系のことなんかもあるんだろうと思います。そしてやがて明治の社会主義が入ってくるまでのインテリゲンチャの精神過程を小説の形でやろうとしたわけです。

 この書き方は、何しろ昭和三十一年ごろから書いて五十年まで十九年間かかっておりますので方法上に変化があります。第二部を書いたときには、村上一郎が師事していた『火山灰地』という有名な劇を書いた久保栄という劇作家がおりました。久保栄の方法を忠実に守って書こうとした。久保栄がだいたい戦前のプロレタリア芸術運動にかかわっておりましたので、マルクスの下部構造と上部構造、あれを文学の造形の方に適用して、つまり生産部門を基底にしまして、その上に綜合的な社会像を比重正しく描くというふうな方法です。『のぼり窯』という小説が、久保栄のそれなんですが、その方法で第一部は書いております。ところが二部からは、どうもそれは確かに社会科学的な理論としては正しいのかもしれないけど、文学はやはり人間を書かなきゃいけませんので、生産部門が幾ら緻密に書けても、それからその上の社会的な諸関係が幾ら分析できても、そこで人間というのがどういう意志を持って行為しど
んな結果を招くかという人間の運命 ― それが書けなければ小説としてはだめじゃないか。ですから生産部門とその上の、いわば人間を含めてのさまざまなイデオロギー的な世界というのは相対的に切り離して考えなければいけない。
それで二部以降は人間の精神過程というものの方に相対的な独立性を持たせて、いわば精神史的な方法の方に進んでいったと思います。それは残念ながら自殺をしてしまいましたので未完成で終わりました。

 村上一郎は批評家でもありましたから、いまのような仕事の、いわば批評的な展開として大変有名なものとしては、『北一輝論』というのがございます。これはあの当時の学生なんかに非常に影響を与えたもので、たくさん売れもしましたし、よく読まれたものです。それから『明治維新の精神過程』というふうなものとか、それから『幕末』という題の、幕末のいわば志士を論じたものがあります。それから吉田松陰を主として論じた『草莽論』、それから一番最後の仕事、これも未完成で終わったのですが 『萩原朔太郎ノート』という、ちょうど郷里が上州なものですから朔太郎という詩人、非常に影響を受けた詩人を論じたものです。

 それから、これは大変一橋と関係あるんですが、自叙伝を書いておりました。『振りさけみれば』という題名のものです。 ― 「君よ知れりや、ひむがしの」 ― という寮歌がありますが、あの中に 「振りさけみれば碧万里…」という一節があって、そこから採ったものです。これを書いて死んだんです。ここには一橋の、昭和十三年からの予科の寮生活が実によく描かれていまして、同世代の方はきっと懐かしく思われると思います。死後、而立書房という本屋から出ました。

 そのはかに短歌は学生のときからつくっておりまして、『撃攘』 (角川書店)という歌集があります。

 村上一郎が死にまして、私はとにかくずっと一緒に文学をやっていた人間なんですが、いまになりますと、いろいろああもできたのに、こうもできたのにという後悔がありますが、とにかく亡くなった後、国文社というところから
全十一巻の著作集を出すことを考えまして出し始めたのですけども、昨今の出版事情が大変悪くて、硬いものが売れなくなりまして、全十一巻のうち現在五巻まで出しましたが、ちょっとここのところ間を置いております。これが完結しますと村上一郎の仕事の大体の姿が明らかになるので、早く完結したいと思っております。
大体村上一郎と仕事をしてきまして、私は文芸批評の方ですから、日本の近代文学が主な仕事で、もっともジョイスとかのドストエフスキーを論じたこともありますが、主として日本の近代文学の仕事で、瀬沼さんのおやりになっていることと対象がしばしば重なることがございます。例えば夏目漱石などがそうなんです。そして、文芸批評をやっていますと、どうしても現在のことにもかかずらわるわけで、明治から今日までの日本の文学を視野に、そういった仕事をしてきているわけです。

   折原脩三について

 村上一郎と同期で折原脩三(本名伊東庫之助)がいます。昭和四十年代のはじめから仕事を始めて、倉田百三、親鸞、最近では中里介山『大菩薩峠』を論じた本を出しています。戦中派の自己体験に固執した人生論風、あるいは思想論風の傾斜のつよい仕事です。横浜正金銀行につとめていましたが、昭和四十八年に退職して、「思想の科学」を主な発表場所としています。


   戦后に於ける二人の著名作家

    (1) 石原慎太郎

 石原慎太郎、これは皆さん御存じの作家です。石原氏は私と卒業年度は同じで昭和三十年、確か法学部です。『太陽の季節』で芥川賞を取ったわけですが、あのころちょうど芥川賞というものが、石原慎太郎が出てくるまでは、芥川賞をだれが取ったかということは文壇内でのそれだけの話なんですけれども、これがある社会的な事件のようになったのは石原慎太郎からだろうと思います。『太陽の季節』というのは当時非常に毀誉褒貶激しく相半ばする作品だったんですが、いま読み返すと意外にストイックな小説なんです。その後『完全な遊戯』。話だけから言いますと、精神病院から出てきた若い女を、その辺のフラフラと歩いているあんちゃん風の若い者がみんなでもてあそんで、崖から落としたというような話です。どうにもこうにもならんような話なんですが、それをヘミングウェイ張りの非常に乾いた文体で書いています。何でああいうことを書いているのか当時はわからなかったのですが、いま読み返して考えてみますと、こういう空虚な、そして何か無意味な、そういう青年像を非常に乾いた文体で書いている作者自身の本心というのは何かということを考えてみますと、結局作者の現実に対する嫌悪感だと思います。あるいは他者という者に対する嫌悪感がこういう形であらわれたんだと思います。まだ学校卒業したばかりで、そういう自分でも処理しきれない嫌悪感というものを、アンモラルというんでしょうか、そういう形で書いて出発するわけですが、それがやがて今度はモラリスト風な風貌を石原慎太郎がとるようになります。『化石の森』 (昭和四十五年)という長編小説なんですが、これなんか読みますと、この小説の話の筋は、一種の完全犯罪、殺人の話なんです。一人の医学生
が自分の恋人と共謀してある男を殺すという、話としてはそれだけなんですけれども、結局この小説でそういう完全犯罪を描きながらこの主人公が最後に自分を捨てて再婚した母親と和解する。この母親との和解というのが単にそれだけのことではなくて、これが一つの象徴的な意味を持っていて、何か世の中の人間の営み、あるいは世の中の秩序というものをもう一遍成熟した目で眺めよう。石原慎太郎はこの後がきに、自分にとって一つの鎮魂歌であるというふうに言っているんですが、いわばそういう非常にアンモラルな小説から出発した石原氏がだんだん自分の青春から遠ざかってくるにしたがってモラリストの風貌を持って、それまで嫌悪していた他者との間に一つの倫理的な関係の道を見出そうとしたのが歩んできた文学的コースだと思います。つい最近、『暗殺の壁画』という、去年暗殺されたフィリピンのアキノ氏の事件です。その一家と作者は非常に親しく付き合っていたそうで、これは小説というよりもノンフィクションですが、アキノという人の人間像と、フィリピンの政治、社会情勢を背景にして書いたものです。これを読んで非常に印象探かったのは日本ではちょっとそういうタイプが、明治以降なくなりますが、例えば西郷隆盛とか、あるいは宮崎滔天とかいう、ああいうアジア人のエイトスを身に付けた政治家です。自分一身の利害に対しては驚くべき無防備で、そして自分の祖国に対する熱烈な愛情を持っている。そういうタイプの政治家の人間像を書いたものです。これは面白く読みました。石原氏は、現在政治家でもありますけど、片方でそういう仕事をやっているわけです。

   2 城山三郎

 城山三郎は、本名杉浦英一です。名古屋高等商業から一橋の本科へ入りまして、理論経済学を専攻して、卒業してから愛知学芸大学の経済学の講師をしておられたのですが、昭和三十二年に 『輸出』という小説で「文学界」新人賞
を受けられまして、その後に『総会屋錦城』という総会屋の話を書いて直木賞を受けて文壇にデビューしました。城山さんの仕事というのは、『輸出』にしても『総会屋錦城』にしても、商社マンの話、それから貿易会社の内幕とか、株主総会の内幕を書く、経済小説というんでしょうか、これはもともとは自分の本職であったそういう知識を活用していると思います。

 一方で世代が戦中派ですから、戦中派の自己体験が軸になったものがあります。初期では『浮上』という、駆逐艦とか日本の海軍の軍艦、輸送船が南海の藻屑になっているわけです。あれを引っ張り上げるサルベージ会社に勤めている男を主人公にしまして、そこの潜水夫で船を引き上げるんですが、その駆逐艦の中に遺骨があるはずだ。その遺骨を一本でも二本でも拾いたいという男の執念を書いたものがあります。こういう戦争体験を軸にした系統のものがありまして、これが後に、杉本五郎という軍人のことを書いた『大義の末』とか、比較的新しいんですが、広田弘毅のことを書いた『落日燃ゆ』これは戦後の日本の、戦前にやったことは全部悪だというふうな通念がいまもありますけれども、そんなばかなことはないので、そういうふうに言われていたものをもう一遍冷静に洗い直してみたらどうなのか。いわば負の思想と言われているものは一体何だったのかということを最近方々で言われておりますが、そういうふうなことをおやりになっています。その二つの系譜が城山さんにはありまして、その二つがしばしば交わったり離れたりというふうなことで御仕事をされていると思います。よく読まれている作家です。

   芸術選奨の新人賞を受けた詩人 平出隆

 それから、大分年代が下がりまして、昭和五十一年に社会学部を卒業した平出隆君が今年芸術選奨の新人賞を受けました。この人は詩人です。『胡桃の戦意のために』という詩集で賞を受けたわけです。これはどういう詩集かといいますと、全体が百十一のスタンザからできております。そして長い詩なんですが、これは叙事詩ではありませんので、抒情詩です。抒情詩と言いましても、例えば萩原朔太郎とか三好達治、あるいは中原中也といったふうな、ああいう抒情詩はいま成立しませんので、現代詩は難解になっております。平出君の仕事は例えば、さっき紹介しました榊都美夫のああいうふうな抒情詩とは違いますけど、違っていながら、ここに使われているイメージが純粋で、いま抒情詩が書きにくい時代に、大変知的な操作をしながら自分の抒情性を表現していると思います。

 胡桃というのは一体何なのかということは、いろいろ解釈があるんでしょうけども、これは比喩というよりは暗喩、メタファーです。私の勝手な解釈ですが、外側の殻の固いなかなか割れない、ああいう固い殻にくるまれて、そして中にもろい、非常に繊細な肉を秘めているわけです。そういう生きにくい内面性を持った人間の、いわば社会に対しては外側に固い殻をまとい、内側に傷付きやすい心を抱いて生きている、そういう一人の人間の生き方の原型質みたいなものです。そういうものだろうと思います。

 その中の
短いスタンザを読んで見ます。例えば四十二節

   観念の発生をゼロへ、おしっめていくと白い爆発がある。
   それを、それだけを詩と、呼びたい気持ちにぼくは傾く。
   日射しにまぎれるほどの不幸を、崖下の円屋根の下で幾度か浴びた。
   あいあいと頭に、雨の実の生るあいだに。


 一読難解な印象かもしれませんが、この詩人の発想法とイメイジの選び方にあらわれる資質がわかります。

   「何となくクリスタル」 田中康夫

 そして一番最後に、田中康夫の 『何となくクリスタル』という小説がありますが、これは実は、私は当時東京新聞の文芸時評を書いておりまして、余りほめなかったんです。ほめるもほめないも何か新しい感受性というか、そういう人が出てきたという感じで、これは河出書房の 『文芸』という雑誌の賞、『文芸』新人賞をもらった作品です。時代は一九八〇年六月、東京、青山、六本木辺りでふわふわと遊び歩いている女子学生を主人公にした小説で、モデルかなんかやって月収四十万入る、そういう若者の現代風俗を、その女子学生の目を通してというか、作者がその女子学生とほとんど一体化して書いている部分が本文であります。その本文に非常に膨大な注が付いておりまして、何と五十ページもあるんです。その注が、つまりいまのいろんなブランドとか、地名とか流行風俗に対する注で、これを積極的に推薦したのが江藤惇です。この注に作者の現代日本社会に対する文明批評意識を読んでいるようですが、さあ、それはどうなんでしょうか。そこのところはいろいろ意見のあるところだと思います。何しろ私のような旧世代の人間にはなかなかわかりにくいけれども、これはひょっとしたら、いまから十年もたって振り返ってみると、一九八〇年という時代はどういう時代だったかという風俗現象にたいする関心からすれば案外面白いんじゃないかという気もしないではありません。まだ若いですし、これから未知数です。一応そういうふうなのが今日一番若い一橋卒業の世代の文学者です。

   文学研究者の人々

 最後に文学研究ではいろいろおりましょうが、例えば、私と同期のロシア文学の研究家で、プーシキンやゴーコリやべリンスキイの年期の入った研究やゴーゴリの 『死せる魂』のいい翻訳を出している川崎隆司とか、それから、私よりも大分後輩ですが、一橋の法学部の英文学の助教授である井上義夫君。いまケムブリッジに留学しております。この人の 『ロレンス』は小澤書店から去年の秋に出た、非常にいいものです。日本におけるロレンス研究だけじゃなくて、外国のロレンス研究の水準からみても創見があります。これは文芸批評というよりはむしろ文学研究の方です。

 もちろん他にもいろいろな方がいると思いますが、私の親しくしている人ではそういう人がいるということで、大変大ざっぱな話になって申し訳ありません。一応これで終わらせていただきます。
                                           (昭和五十九年九月十二日収録)




桶谷 秀昭 昭和七年東京生。昭和三十年一橋大学社会学部卒。
         文芸評諭家、東洋大学文学部教授。

主要 著書 『土着と情況』 (昭和四十二年南北社) 
         『近代の奈落』 (同四十三年国文社) 
         『仮構の冥暗』 (同四十四年冬樹社) 
         『凝視と彷徨』 (同四十六年冬樹社) 
         『夏目漱石論』(同四十七年河出書房)
         『文学と歴史の影』 (同四十七年北洋社) 
         『批評の運命』 (同四十九年河出書房)
         『天心 鑑三 荷風』(同五十一年小澤書店) 
         『危機と転生』 (同五十一年泰流社) 
         『永遠と亡びゆくもの』 (同五十一年北洋社) 
         『中世のこころ』 (同五十二年小澤書店) 
         『ドストエフスキイ』(同五十三年河出書房)
         平林たい子文学賞受賞『昭和精神側面』 (同五十五年小澤書店) 

          『中野重治』 (同五十六年文芸春秋社) 
         『北村透谷』 (同五十六年筑摩書房) 
         『正岡子規』 (同五十八年小澤書店) 
         『保田與重郎』(同五十八年新漸社)芸術選奨文部大臣賞受賞


随筆・対談 
『他者への架橋』 (昭和四十九年国文社) 
        『風景と記憶』 (同五十五年弥生書房)

翻   訳  岡倉天心『茶の本』 (昭和五十八年平凡社)