一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第三十九号]   一橋の国際経済学     一橋大学名誉教授   小島 清


   開 題

私、ちょうど一年前になるわけですが、昨年の三月に一橋を定年退官になりまして名誉教授をいただきました。近くだというので国際基督教大学(ICU) へ変わったわけであります。

 その一年の経験で申しますと、やはり一橋は素晴しいとつくづく思います。何が素晴しいかと言いますと、私立大学の方はどうしてもティーチングが中心でありまして、ほとんどリサーチの時間と、そういうファシリティがないわけであります。私は一橋で教えられたことは、われわれは研究者である。教師ではないということであったのですが、逆になりまして、どうも教師になり下がっております。

 一橋ではとにかく素晴しい調査の施設があるし、十分な時間的ゆとりがある。やっぱり一橋という国立大学が学問のリーダーになる。そういう雰囲気と責任とを持っているように思います。したがってまた一橋の学問というのが当然伝統的に生まれてきたものと考える次第であります。

 中山伊知郎先生が百周年記念講演で、「貿易立国の将来」というのをなされました。その中で、一橋は日本の貿易を育てるために非常に貢献したと強調されております。事実一橋において商業政策、つまり対外商業政策がずっと古くから一つの中心的な講座であったのであります。その発展を一、二申し上げたいのであります。

 私の話の全体を貫くことといたしましては、一つは、一橋の国際経済学とか、あるいは貿易政策という問題は、輸入経済学ではなく、日本の経済発展に根差した政策理論である、それは追い付きの理論の樹立ということであった。遅れて工業化してきた日本経済の欧米先進国へキャッチアップするための理論である。そういう独白の理論を開拓

展開してきたというふうに思うのであります。

 他方、純粋理論をやっている方は、案外、時局とか国益とかいう問題から中立でありまして、余りリスクを感じられないのでありますが、政策学をやっておられた一橋の先輩教授は、身命を賭してというか、場合によっては監獄へ入れられるというようなリスクも負って日本経済のために発言してこられたという気がいたします。

 その二つのポイントから、以下上田貞次郎先生・それから猪谷善一先生、そして私の直接の師匠であります赤松要先生、それから坂垣与一先生、そして私の仕事という順で、若干申し上げてみたいのであります。一つは理論的な側面であり、もう一つは政策提案であります。これを各先生が死を賭して発言されているという点を申し上げてみたいのであります。

 
   上田貞次郎博士の「新自由貿易主義」

 上田貞次郎先生はその学士論文が『外国貿易論』でした。明治三十五年という古い時代に、素晴しいものを書かれております。その審査をされたのかわが−橋のもう一人の巨峰であります福田徳三博士でありまして、次のように激賞しておられます。

 「この論文は考証該博、而して紛糾せる学理を寸糸乱れず、明快流暢に論断し去りて殆んど遺憾なし。著者の造詣の深きは其学理的思考の鋭と相俟つて、此一篇を成す。独り卒業論文中の白眉たるのみならず亦我邦幾百の経済論中稀に見る所である。」

 いまから考えますと随分古いときにそのような新しい国際経済理論の開拓者的な役割りを上田先生はなさったわけであります。その中核は何かと言いますと、一方ではリカード、その他の比較生産産費説(いまで申しますサプライサイド)に中心を置いた貿易の利益の証明を深く究明されている。もう一つ、J・S・ミルの相互需要論というのがございます。これは、輸出するということは輸入することであって、輸入需要を生み出す。お互いの輸入需要の大きさによって貿易される商品の値段、価格が決まる。輸入品は自国で作るよりも安く手に入るようになる。こうして、リカードとミルの両者からなる古典派の貿易論に立脚して、上田先生は自由貿易を主張されたわけであります。しかし上田先生の考えは、何でも貿易を自由にすれば良いという考え方ではなかったのであります。

 それはどういうことかと言いますと、上田先生は、他方で、ハミルトンとかフリードリッヒ・リストの幼稚産業保
護論を完全にマスターされております。それも取り入れた上での自由貿易主義、つまり「新自由貿易主義」でありました。上田先生は、J・S・ミルの相互需要説、それに基づく自由貿易論には余り賛成できないと言われています。自由に貿易して安い物を輸入すればわれわれの効用、満足、福祉が高まる。貿易の利益というのはそういう福祉、効用の増加だというのがJ・S・ミルの考え方であります。それは余り好かんというのが上田先生の立場であります。

 現在の問題でも、例えばアメリカはどんどん日本の自動車も繊維も鉄鋼も自由に輸入すればいいじゃないか。そうすることが消費者の利益であるという主張があります。これが現在の自由貿易主義の基本になっています。しかし、いやそうではない、やはり大変な失業が出ては困るんだ。自動車産業などはアメリカのキー・インダストリーである。これをなくすわけにはいかない。あるいはIC、その他のハイテクノロジー・インダストリーもどうしても要るんだ。これは明らかにサプライサイドからくる問題なんです。その観点から言うと簡単に自由貿易を歓迎するわけにはいかんということになるのです。

 上田先生の言われているのは、日本にとって望ましい重要な産業は幼稚産業と認めて、それを次々に起こしていく
べきである。日本の遅れた産業、遅れた工業を伸ばしていくという観点をも含めた自由貿易主義であったのです。それ故「新自由貿易主義」と言われているのだと思うのであります。

 では、それにもかかわらず上田先生がなぜ自由貿易主張をなさっているかといいますと、それは次のような文句に明示されているのであります。上田先生は人口問題の権威であり、また中小企業問題の権威でもあるわけで、非常に広範な御活躍をなさっております。それらの研究に基づいておりますが、次のような文章がございます。

 「日本が明治以来の順調な経済的進歩を続けるためには、人口問題に対処せねばならない。それには産児制限、移住並に工業的発展の三つがある。だが最初の二つは大きな積極的解決策にならず、工業化のみが殆んど唯一の人口対策となる。増加する人口が工業化を続けていくには国内の分業のみにては最早不充分であるから、日本の都市は工業の原料を外国に求め、又その販路を外国に開くようになって来た。而して我国が地理的に東洋、南洋の諸国に接近してゐるという事実は、これ等諸国との間に国際分業を発展せしめ、日本自らを工業国たらしめるに適してゐる。」

 つまり、日本は資源のない、したがって原料を輸入し、それに加工を施して輸出して、大きな人口を養っていくよりしょうがないんだ。加工貿易立国という路線を明らかにされているわけです。その原料、その他を安く安全に入手するために、日本としては自由貿易の立場をとらなければならんというのが上田先生の立場であります。つまりわれわれの満足、あるいは効用が高まるからという考え方ではなくて、日本のサプライサイドを調えていく (それが工業化だ)、またそれに必要な原料を入手するために、自由貿易を主張しなければならん。こういう考え方です。

 もう一つの引用を申し上げます。「我国は島国であり、外国との交通が便利であるために、外国産の原料を廉価に運び来ることが出来るから、これによって資源の欠乏を補うことは相当の程度まで可能であるが、問題は実に販路について起る。若しも外国が国際分業の利益を認め日本の製品に対し門戸を開くならば、日本の工業的発展は大いに期
待し得る。‥…相互的自由通商は安全の道である。」そこで上田先生は、行き過ぎの保護主義に対して敢然と闘われましたし、他方外国が日本品をボイコットするとかという行動に対して正々堂々と反論されたわけでございます。

 ところがここで、一体そういう原料とか食糧の一部をいかにして海外から求めるかという問題が重要になってきました。不幸にしてそれが満州事変等々に進展することになったわけです。その点で次に申します猪谷善一教授は、当時盛んになってきました関満支共同体という考え方を支持する方向に行かれた。上田先生はどうもそうではなかったようです。関満支ではだめで、もっと広く南洋、さらにはオーストラリア、あるいはアメリカも含めたもっと大きなオープンなマケットを目当てにして日本のエ業的発展を図る必要があるという考えであったと思われます。


   猪谷善一博士の「低廉能率賃金論」

 そういう経緯があってか猪谷先生は東京商科大学には一九二三年から三九年の間在職されましたが、若くして大阪商業会議所専務理事に転じられた。そして実業界と統制的な商工省との間の調整にいろいろ苦労されたのであります。ここにも、最初に申しましたように政策担当の先輩教授は、国益のために、自らの政策提案を断固として主張されていることを見出すのです。

 猪谷先生の主張も上田先生と理論的に違いがあるわけではありません。猪谷先生の一番素晴しい業績は学位論文であります。「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」という学位論文が昭和十三年に出されています。それは、日本は過剰人口である。これが生きていくためにはどうしたらいいか。それは工業を興していくよりしょうがない。ところが遅れて工業化した国はどうやって先進諸国と競争していけるか、マーケットを拡大していけるか。その基本は
猪谷先生の言葉で言うと「低廉能率賃金」ということになるのであります。

 能率賃金というのはこういうことです。賃金が高くてもそれ以上に二人当たりの生産性が高いならば、労働コストは割安になる。賃金を労働能率で割ったものがここで言う能率賃金です。そういう概念が能率賃金ということでありますが、日本は低廉能率賃金になり得た。それは一方過剰人口のために、また東洋的な禁欲の考え方のために、賃金はそんなに高くならない。他方いろいろな努力によって能率の方が非常に高まってきた。そこで低廉能率賃金ということを武器にして海外市場をどんどん開拓できる。それによって日本の工業化を推進し、そして土地に比べて多いところの人口を何とか養っていくことができる。こういうのが猪谷先生の考え方であります。

 それに相当する文章を一つ申し上げます。日本の過剰人口、それから慢性的な失業が低賃金に押さえた。これは上田先生の人口研究からずっと続いている問題です。「産業発展が必然的に要請せられ外国貿易に依って国内産業を活動させ、今後増大する過剰人口を吸収しなければならぬ。」他方高い産業能率はいかようにして誘導されたか。「第一に日本の国民性がある。古代日本以来外国文明を摂取し消化するに妙を得た日本人は西洋式工業組織に同化して、其天賦の手先の巧妙を生かしたのである。第二に国民初等教育の普及がある。不就学児童をほとんど有せざる我国は先ず一般労働者階級の知的水準を高め、且又労働者の年齢を次第に高め、その工業労働力を能率的ならしめたのである。第三に機械の利用が普及された。我国に於ける機械製造工業の発達は機械の使用を中小経営工業に於ても可能ならしめ、且つ労働者の技術的素養の普及と相俟って綜合的生産力が増加したのである。」

 繰り返しになりますが、結局上田先生も猪谷先生も、遅れて工業化した日本、しかも資源のない日本、そこでは工業を発展させるよりしょうがない。それにはどうしたら良いかという追いつきの理論であります。その追いつきの方法として上田先生は、原料等を安く購入し、製品のマーケットを広げるために自由貿易が要るのだという主張であっ
た。猪谷先生はその中で特に能率賃金を低く押さえていくことが必要であると主張されたわけであります。ところが原料をどうやって安全に確保するか。そこで猪谷先生は関満支広域経済論という方向に行かれた。上田先生はどうもそれに賛成でなかったらしい。これが猪谷先生が一橋を去られる一つの原因ではなかったかと私は思っております。

   
    赤松要博士の「雁行形態的産業発展論」

 猪谷先生の後を私の師匠である赤松要先生が名古屋高商から招かれて商業政策の講座を昭和十四年三月から受け持たれることになったのであります。赤松先生は当然でありますが、関満支広域経済論ではなくて、むしろ上田先生の立場に近かったわけです。

 赤松先生も非常に広いたくさんのお仕事をなさっておりますので、そのすべてを取り上げるわけにいきません。その中で特に一橋の国際経済論と関連しますのは、「雁行形態的産業発展論」というのを提唱されたことであります。輸入経済学ではだめだ。日本人による日本の経済に即したところの新しい学問を自己生産しなければならない。そして自己生産した日本の経済学を輸出するようにしなければいけないというのが赤松先生の持論でした。まさにその考え方を工業の面に適用されたのが雁行形態的産業発展論であります。名古屋高商の産業調査室で一九三五年に着想されております。

 最初の研究は羊毛工業についてであった。名古屋の近くが当時の羊毛工業の中心であったことが契機になっています。羊毛製品はまず輸入から始まります。どんどん輸入される。輸入がある量に達しますと、これは日本でも真似て生産できる。またそれだけの需要があれば工場制による生産でも十分引き合うようになる。その時点で羊毛製品の自
己生産が始まる。その生産の波が、あるところまで行きますとコストダウン等の努力がなされた結果輸出ができるよぅになり、輸出の波を生んでくる。そういうわけで最初輸入から始まる波がおこり、次に自己生産の波が続いておこり、最後に輸出の波にまで伸びていく。これを赤松先生は詩人でもあられましたので、非常にポエティックな名前を付けられた。秋になると雁が列をなして飛んでいく、その格好に似ているというので「雁行形態」というむずかしい詩的な名前を付けられた。これが雁行形態の基本型です。

 羊毛工業と同様に綿製品工業も基本型に従って発展してきた。その次の段階では、生産財であるところの、例えば鉄鋼業が起こる。さらに機械工業が同じような格好で起こっていく。そういうふうにだんだん産業構造が、多様化し、高度化していく。それを雁行形態的発展の副次型と言っております。

 もう一つは、日本が繊維工業で成功した雁行形態的発展が・地域的に波及していく。まず韓国台湾に移っていった。その次には電機製品生産がやはり韓国、台湾に移っていく。繊維製品ですと、韓国・台湾に次いでタイにまで、あるいは最近はスリランカまで移って行くというようになる。こういう雁行形態発展の地域的波及を第三の型として述べられております。これがまさに現在の東アジア、東南アジア経済の、すぼらしい発展の様相にほかなりません。赤松先生は「雁行形態論」を一九三五年に着想され、その後いろいろ展開されてきた。私ども弟子たちも、いかにもっと理論的に説明するかいろいろ苦心してきたところであります。赤松雁行形態論は世界的な反響を生むことになりました。世界的注目を集めることになったについては、米国のレイモンド・バーノン教授が一九六六年にプロダクトサイクル論というのを出したことがきっかけになったと思います。プロダクトサイクル論というのは、アメリカといぅような先進工業国が、例えば自動車を量産できるようにした。米国ではそういう自動車をつくるための技術者とか科学者とか、あるいはそういう大量生産をやる経営者が揃っているから大量消費に向くような自動車がつくられる。
現在のハイテクもそうです。バーノンの理論では、彼らが最初にそういう新しい製品をつくって、最初は輸出に専念する。あるところまで行くと海外に直接投資進出することになる。これがバーノンのプロダクトサイクル論でありまして、日本でも非常に有名になりました。

 赤松先生の雁行形態論も一つのプロダクトサイクル論と言っていいと思います。ただ違うのは、私が名付けたのでありますが、キャッチングアップ・プロダクトサイクルである。つまり先進工業国で創造された製品がまず日本に輸入される。それに追いつくためのプロダクトサイクルであります。赤松先生としてはバーノンのプロダクトサイクル論が余りにも有名になってしまって自分のが忘れられているというので切歯扼腕であったわけでございます。しかし、最近ではバーノンと比較されることによって、世界的にいっそう高く評価されるようになりました。ことに開発途上国の工業化の理論的バックグラウンドは赤松博士の雁行形態論であるというので、広く注目をあびているのであります。それが赤松先生の理論的な主張の中核であります。

 他方、大東亜戟争が進展し、赤松先生は南方に行かれて調査をやられました。身をもって自らの政策的主張の実現に努力されたわけです。それは関満支ではだめだ。そうではなくて、もっと広く南方諸国、さらにはオーストーラリア、アメリカとも密接な貿易関係を持つ形で日本の経済発展を図るべきだという主張です。赤松先生も生命を賭して自分の政策主張を世に問い貫撤されたと評価できるのであります。

 一橋で当時三申と呼んでいました。赤松先生が私の二回り上の申です。これから申します板垣与一教授が赤松先生より一回り下、私に比べると一回り上の申です。私が三人目の申ということになります。三申が経済政策論ないし国際経済論というのを担当したことになるのであります。

 

板垣与一博士の「ナショナリズム論」

 板垣先生の国際経済政策論の中心はナショナリズムの研究であります。インドネシア、その他の東南アジア諸国は確かに植民地的な支配を受けていた。それから脱皮することが非常にむずかしい。しかし激情的な行き過ぎのナショナリズムでは、彼らも発展することができない。そこで激情的なナショナリズムではなくて、啓発されたナショナリズムをとるべきである。あるいは啓発されたナショナリズムということをトランス・ナショナリズムという、むずかしい言葉で表現ておられますが、そういうものに移るべきだと、こういう示唆をなさっているのであります。その文章をちょっと長いですが引用しましょう。

 「われわれがここに言う”新しい地平”とは、この国際協力の理念によって貫かれた、いわば”新しい”インターナショナリズムとも名付けられるべき世界をさすことになろう。これをナショナリズムのほうからながめれば、新しい地平に立つということは、これまでの自国中心の狭いナショナリズムから脱皮して、機能的により広い、より高い視点に立つことを意味するであろう。ナショナリズムそのものを棄てるのではなく、ナショナリズムに内在しながら、国際的志向を生かす意味で、自己を越えることである。このようなナショナリズムの”内在的超越”的自覚を、私は“トランス・ナショナリズム”(tras−nationalismと名付けたい。先進国のナショナリズムにしても、後進国のナショなリズムにしても、このようなトランス・ナショナルな性格変化を遂げることなしには、国際協力という共通の場に立つことはできない。」

 こういうような美文であり、同時にかなり哲学的な表現なのでありますこ低開発国も狭い激情的な自国中心主義で
はやっていかれない。ことに今日の急速な技術進歩の世界においてそういう殻に閉じこもっていてはできない。先進国からの援助だとか直接投資とか、貿易をうまく利用して (それがトランス・ナショナリズム)、彼らの発展を促進すべきである。こういうサゼッションであります。例えば、中国の最近の近代化と解放経済化こそは、まさに一時の狭い自力更生主義からの脱皮の、よい例であります。板垣先生の言うトランス・ナショナリズムに転じたというふうに解釈することができるかと思います。結局、板垣先生の主張も、レイトカマーであるところの遅れた開発途上国の追いつきの理論であるということができるわけであります。

 板垣教授の具体的な政治的な活躍というのは、赤松先生と同行して南方へ行かれ、インドネシアの独立運動を強く支持されたことです。大変な努力をなさったと私は聞いております。

 
   私の「太平洋経済圏構想」と「日本型海外直接投資論」

 さて、私自身のことを言うのはおこがましいのでありますが、私自身の活躍のうち二つの問題を、以上のお話との関連で申し上げることにします。

 一つは、私の政治的な政策主張というのは、PacificEconomicCommunityづくりであります。太平洋経済圏構想という名前になっております。この構想の創唱者であり、今日まで構想の実現に向かって努力しているということが、私の活動の一つの中心であります。

 それから、理論的な面では、「日本型海外直接投資」という理論と実証を展開していることです。それは現在の世界の学会で支配的な考え方とは違った日本的主張になっています。

第一の太平洋経済圏構想を最初に論文の形で出したのは一九六五年であります。そのときになぜそういうことを言い出したかといいますと、当時欧州経済共同市場(EEC)が発足しまして、素晴しい発展を遂げつつあった。そしてロメ・コンベンションという協定によって、アフリカ諸国、カリビアン諸国南太平洋の三ケ国を包摂する拡大ECというのに発展したのです。そうなると一体太平洋諸国はどうなるのか。拡大ECから残されるのは実は太平洋諸国だけということになるわけです。日本やオーストラリアはどうしたらよいか。アメリカはECと、アトランティック・コミュニティという形で連帯を図ろうとしていたけれども、米国の太平洋への関心はどうなるのか。そのほかに、インドネシア初め太平洋地域の開発途上国はロメ協定によって非常に不利な影響を受けることになる。そこで太平洋地域でも何らかの連帯の場を持たなければいくまいという危機感から、私は太平洋自由貿易地域(PacificFreeTra.deArea)の結成を主張したわけであります。

 しかし、これはそのとき(一九六五年に)突然に出てきたアイディアではないのでありまして、実はもっと古い着想に根ざしています。それは赤松先生が南方へ行かれるときに「世界経済と技術」という問題を持っておられました。こういう本を私に書けと命令された。

 それを私は学生時代に書きました。赤松先生と共著の形で出版されました。当時、郷男爵記念論文という懸賞論文の企画がありました。その課題が「世界経済新秩序と日本経済の将来」というのでした。それに応募せよと当時の高瀬学長の勧めがありました。幸いにして一等に当選しました。一九四二年九月に本の形で出ておるのでありますが、当時の金で一万五千円もらいました。大変な額でありまして、私はラッキーでありました。

 その懸賞論文の考え方が、既に申し上げました赤松先生の主張であります。つまり世界経済の発展につれて、また急速に進歩してやまない技術をいかにうまく取り入れていくかを日本経済は追求しなければならない。そうするには広く太平洋の資源と結び付けるような格好で日本の技術進歩を、そして工業化をはかっていくべきだというのです。それが一九六五年の太平洋自由貿易地域提案というのに連らなったわけです。

 その後私の太乎洋経済圏構想提案がどのように発展したか。実は私の主張が当時の三木外相の目にとまり、何とかこの構想を広い国際会議で検討すべきだということから、私に、まず関心国を回って学者の国際会議を開けるかどうかをサウンドアウトしてこいということになりました。その結果、一九六八年一月に東京で第一回の太平洋貿易開発会議(PacificTrade and Development Conference)というのを開きました。会議は一回限りかと思っていたのですが、ずっと続きまして、今年の八月の終わりに第十五回を東京で開くことになっております。実業界のPacific Basin Economic Council (ピーペック)も殆んど同じ一九六七年に誕生しました。われわれの太平洋貿易開発会議はいろんな問題、直接投資問題、エネルギーの問題、通商政策の問題、ASEAN問題、新興工業国問題など、十五回を通じてずっとアカデミックに検討してきています。

 ところがパシフィック・コミュニティ作りの動きが少し方向転換させられました。それは一九八〇年に、P・E・C
(Pacific Economic Cooperation)という会議が別の形で持たれるようになったからです。そのきっかけは、わが一橋の誇りであるところの故大平首相が、環太平洋圏に関する私的諮問機関を持たれて、その報告書に基づいて大平さんと大来佐武郎氏が、オーストラリアを訪問され、セミナーを開いてくれと頼まれた。それが受け入れられて一九八〇年に第一回のP・E・Cの会議がキャンベラで持たれた。これはいままでの会議と違った性格をもつことになった。学問的なリサーチが中心であるところの太平洋貿易開発会議と、実業界の太平洋経済会議が、太平洋地域の連帯をもっと強めなければならないという空気をずっと盛り上げてきたのですが、結局は政府が入ってそのまとめ役にならないと政策は実現されないということから、政府をも入れた形の会議が持たれるようになったのです。

 政府を入れたと言いましたけれども、これは三者構成といって、私的な資格の政府の代表、学会の代表、それと実業界の代表、この三者で構成する会議である。参加国は、日本、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドという太平洋先進五カ国とASEAN五カ国(現在はブルネイを加えて六ヵ国、それに韓国が入りまして十一ヵ国であります。それによって会議が持たれたのです。このP・E・C会議はその後発展していきまして、八二年にバンコックで第二回、八三年十二月にインドネシアのバリ島で第三回が開かれ、今年の四月の末にソウルで第四回の会議が持たれることになっています。

 非常に重要な問題は、結局われわれの学問的な研究、それから、故大平首相その他の研究、そしてそれらをもとにした太平洋経済協力という主張が、ASEANのサスピッションによってちょっと動きがつかなかったことです。サスピッションというのは何かというと、ASEANは、いま一生懸命内部の結束を図ろうとしている。そのときに、日本とかアメリカというような大きな経済が、上からASEANを包み込むような巨大な機構をつくろうというのはむしろ彼らにとってディスタービングである。アメリカ、日本というような大国によるASEANの支配を導くおそれが大きい。ですから、にわかに賛成できないというのがASEAN側の空気でした。しかしそれがだんだん双方の努力によりまして、少しずつ違和感が薄くなりました。バリ島で第三回P・E・C会議が開かれたということはインドネシァが前向きになった証拠です。インドネシアが前進すると言えばほかのASEAN諸国はみんな大体ついていくといぅ格好であります。そういう雰囲気が出てまいりました。そして具体的には、昨年の六月、拡大ASEAN外相会議で具体的な前進がみられました。この拡大外相会議を一つの実施機関としてやろう。まず人づくり協力をやろうといぅことが決まったわけです。ですからだんだん前進していくように思います。

 P.E・C(太平洋経済協力)というものはふんわりしたものであって、スモール・ガットとか、スモール・アンクタットに転じてはいけない。日本をうんとたたこうというような機関であってほならないと私は思います。だがそういう方向に行く懸念が多少あらわれてきました。

 私が最初に太平洋自由貿易地域を提唱したのは、ECがやったような経済統合の利益を実現したいと思つたからです。

 この経済統合の利益というのは二つあります。一つは、域内の関税を撤廃することから生ずるところの若干の貿易の拡大という静態的利益です。

 もう一つは、域内の関税を取り払うことによって大きなマーケットが形成されるのでこの大きなマーケットを目当てにして大規模な産業を各国が分担してやるようにする。規模経済の得られるような最適な生産を各国が違った財についてもつことができる。それらが域内の発展拠点になる。そして全体の経済発展が促進されるわけです。これをダイナミックな大市場の理論といっております。

 こういった経済統合を、太平洋に適用するように太平洋先進五ヵ国が自由貿易地域をつくれと私は提案した。域内貿易の自由化から生まれる利益というのは大したことありません。しかし、太平洋先進諸国が協力して 例えばインドネシアに大きなアルミニウム製錬工場を興すとか、あるいはフィリピンの銅の開発をみんなでやるとか、韓国、台湾というようなところで電気、電子工業をみんなで協力して設立するようにするとか、そういう構想であったわけです。

 ところが何も太平洋地域において自由貿易地域をつくらなくても、その後のガットの働きによってずっと関税率は下がってきたわけですから 自由貿易地域といった制度的統合にこだわる必要はなくなりました。
しかし他方、太平洋地域の貿易と直接投資の拡大、それによる各国経済発展の促進は、大なり小なりマーケットメ
カニズムに沿ってやっていけるように成熟してきました。

 ただ、今でも足りないのはいろんな意味のインフラストラクチャーであります。インフラストラクチャーというの
は灌漑とか道路とかいうような物理的なもの。町づくり 人づくり、教育、健康増進のための医療など、ソーシァルインフラが不備であります。

 もう一つ足りないのは、ビジネスインフラです。つまり商社とか銀行、保険会社とか運輸会社といった流通・金融機構が整っていない。

 ビジネスインフラというのは非常に重要です。生産費は一ですが消費者のところに届く時には三とか四になる。その間をつなぐものはビジネスインフラなんです。いろんな取引コストがかかる。それをいかに合理的に節約してやるか。それがビジネスインフラの役割りです。衛星通信その他も含めていろんなインフラストラクチャーをこの地域にもっと整備しよう。そういうような形の連帯構想が望ましいと私は思う次第です。

 最後に私の言い出した「日本型海外直接投資論」に少し触れておきます。直接投資を考える場合、今日世界的に支配しているのは、多国籍企業の理論です。多国籍企業というのは、例えばコカコーラとかIBMのように、何らかの技術的な優位を持っている。それを企業のインタンジブル・アセットと言います。その技術的優位をもとにして、その企業が大きくなるために、世界各地に直接投資をする、そして世界各地に設けた支店とか関連企業、それらを結び合わせてトランザンクションコストを大いに節約できるようになる。それは例のトランスファープライシングなどの方法も使って、うまくやるわけです。結局直接投資に関する支配的な理論は、ミクロの多国籍企業の利益を擁護するという立場にだけ立っています。

 ところが日本がやってきた直接投資は右の多国籍企業型とは大いに違っていると思われます。一つは、日本に不足
している資源−石油、鉄鉱石、アルミ原料等々−を開発して輸入してくることに向けられた。もう一つは、高度成長時代に労働力不足になり賃金が非常に高くなりましたが、それを克服するための海外企業進出が行われました。労働集約的な製品(繊維など)、あるいは労働集約的な生産プロセス(部品の生産)を賃金の安いアジア諸国でつくって、そして日本へ輸入してくるのです。つまり日本の国民経済を補完し、日本経済の発展とうまくミートするように順次、直接投資進出がなされた。このことはまた韓国・台湾というような国のステップ・バイ・ステップの順序を追った経済発展にちょうどうまく適合し、それを促進することになりました。これが私の日本型直接投資論です。これは比較生産費というマクロ経済指標に基礎を置いた理論であるというので、世界的に注目されているのであります。結局私の理論も、日本経済に地盤を置いたところのキャッチアップの理論であります。

    
   結 び

 ここで問題は、日本経済は欧米にうまくキャッチアップした。だがこれからどうしたらいいかということです。世界経済のリーダーになった。リーダーとしてどうすべきかという理論、あるいは政策主張が生み出されなければならないわけでありますが、それがむずかしいのでございます。

 痛感することは、日本というのは結局いままでのところすべてルック・アメリカーその前はルック・ブリテン
だった。アメリカのやったことはみんな良いことだとして、一生懸命それをみならってきた。ところがアメリカも巨大なる失業、財政赤字、貿易赤字というジレンマ(先進国病)に陥ってしまった。われわれもいつまでもルック・アメリカ、と言っていると、日本経済も同じ運命に陥るのではないか。このことを一番配しております。

 そうでなくて、国際経済のリーダーとして生きながら、しかもそういうジレンマに陥らない理論と政策を是非とも創り出さねばなるまい。これこそいまの一橋の若い私の弟子どもに期待されている課題なのです。


   [質 疑 応 答]

  自由貿易主義の構造によって経済世界の発展を論じ尽くしていただいたわけでありますが、上田先生からスタートした自由貿易主義の理論というものは、もう一つこれに対する当初から付きまとっている批判というのは、資本主義経済における強者の論理でもって、必ずしも赤松先生の言われるような雁行形態によって低開発国に至るまでの経済コミュニティのような形でもって発展させるものじゃないんだという批判がこの問題に常に付きまとっている理論だと思うのでありますが、いまの先生のお話の中にありました第一の問題点は後半でもってそれに対する解決する努力をしていただいているお話はございましたけれども、UNCTAD、二ユーエコノミックエーリア、後続してくる開発国はともかくといたしまして、もっと下の段階の、例えば南米とか中米とかアフリカというような後進低開発国というようなところが・果たしてこの理論でもって救い上げていくことができるのかどうか。すでにいまごろになると見通しをつけていかなくちゃいかん時期になると思いますが、その点がどうなっているかということが第一点。

 第二点は、あれわれ、昔の一橋の教育を受けた者にはメンタリズムが一応ベースになって、一国の事情によって為替相場の変動を起こすというようなことでないスタンダードがあるんだという安心感があった。

 ところがいまの変動相場制というのは、先生の最後にお話しになりました、アメリカがいま当面している三つの大きな弱点があるにかかわらずアメリカのドルがあれだけ強い。これはやっぱり強者の論理が貫徹しているためにこういう形になってきているので、これでは世界の安定した通貨構想というのが危いんじゃないかという懸念が大いに感じられるわけであります。通貨問題については、きょう先生のお触れになった点がございませんけれども、これについての御意見を伺わせていただきたいと思います。

 小島  第一の問題。自由貿易というのは、比較生産費の上でたくさんの商品において比較優位をもつようになった強い国が、海外へ売り込むためにとる方策でないかという御質問であります、しかし日本はいままではそうではなかった。キャッチアップを懸命にやってきた弱者での立場でした。強者(米国)から強制された自由貿易でした。それを原則として受け入れながら次々に、まず鉄鉱を、その次は自動車、それからハイテクをというようにうまく育ててきました。ですから強者の理論に立ってはいなかったわけです。

 ところが最近は、日本の方が強くなったから強者の理論に立っているんじゃないかという声が出ていますが、私はそうは思わないのであります。生産された製品の貿易は自由にやるべきですが、それだけでは不十分です。開発途上国も適した工業をもてるように、援助や直接投資、技術移転などによって、生産面について助け、協力する必要があります。そして多くの国に工業化が普及してくると、工業製品についての国際分業をどうやってうまくやるかという問題につき当ります。その点については私は、合意的国際分業という提案を試みています。赤松先生は「国際合業」と言っておられます。自動車というのは日本も持ちたい。アメリカも重要産業だから持ち続けたい。いまに韓国もそぅなる。それは認めざるを得ない。自動車のように世界的に大きな需要がある商品はみんなが分担してつくるようにすべきだ。そういう国際合業が必要だというのです。

 その中で小型車は日本が優れているから日本が集中的によけいつくり、アメリカが輸入する。逆に大型車はアメリカが集中的につくって世界に輸出する。恐らくもっと安いところの超小型車は韓国でつくるというようになりましょ
う。それが国際合業という赤松先生の立場です。どうやって分担がきめられるのかという、問題が残る。それは最近の言葉では水平分業とか、産業内分業といわれるものです。それをうまくやれる道は、大きな企業が、今度、松下と韓国の三星との間で始めたように、生産する品種をそれぞれ分担するという業務提携や相互資本参加をするという方法がいちばんよいと思います。

 自動車問題について言えば、米国企業は実はその線に沿ってかなりやっています。小型車は日本で生産して、米国企業の名前でアメリカで売るという方法を採っています。恐らく部品についてもそういう形がいろいろ考えられると思います。不幸にして日本とアメリカの関係では、向こうからそういうふうに、日本で生産して向こうへ持っていくという格好の提携ができていますが、日本側はカウンター・オッファーするものを見出しえないでいる。向こうでキャデラックつくってうんと日本へ輸入してくるわけにいきません (道路、その他の事情から)。このことが大幅な貿易不均衡の一原因になっています。だが部品とかICについても、こっちでつくった方がいいものと、向こうがより安くいい品物ができるものがいろいろあるはずです。同じ商品カテゴリーの中で、それぞれ特化してお互いに安くつくって貿易する。そういう形の分業が考えられなければなりません。これが私の言う合意的国際合業であり、赤松先生の言う国際合業です。この方向に進んでいくべきだと考えます。

 第二点は、変動相場制についてであります。私はもともと変動相場制に余り賛成ではありません。貿易収支を調整するには、二つの変数があります。一つは為替相場です。もう一つは、為替相場は固定しておいても、能率賃金水準をうまく調整できればよいわけです。アメリカの能率賃金はどんどん高くなっていった。日本は能率は上がるが賃金はそんなに上がらないというのでわが国の能率賃金は低くなっているわけです。それに相応して為替相場がもっと円高になる必要があります。しかし他方、為替レートの方は固定しておいて両国の能率賃金率を調整するという方法でもよいわけです。ところがアメリカ、あるいはオーストラリアという国ではレーバーユニオンが非常に強くなってそれができない。逆に言うと、変動租場だけで貿易収支を均衡させることはうまくできない。レーバーとの関係、レーバーのディシプリンをアメリカは改善しないといけないということになる。変動相場制でうまくやっていけないもう一つの原因は、日本でも為替市場において実需(貿易)に基いたドルへの需給というのは、いま二割位に少くなっており、あとは資金の移動が支配している。この資金移動はマネーゲームを楽しんでいる。アメリカの高金利政策が悪いのだと思うんですけど、非常に困った問題です。その原因の一半が多国籍銀行を含めた、いわゆる巨大多国籍企業の利益によってのみアメリカ政府の政策が(ロビー活動によって)左右されていることにあるように思われる。そこに経済理論欠除という問題があると思います。

 更に私ども、最近のアメリカの学界の主張を見ていますと、自由貿易の理論も、代りの理論も、何もない。彼らが出しているのはロビイ活動の理論です。ですから巨大企業がうんと金と優秀なロビイストを使ってロビイ活動をすると、かれらの言うことが全部通るのです。しかもそれが最も民主的な政策決定だと言うのです。これは心配な傾向です。国民経済政策というのは、そういう個々の企業のインタレストだけに支配されるものであってはならないわけですが、アメリカでは経済学がどこかへ吹き飛んでしまっている。進んでいるのは経営学だけのように見うけられます。
                                        (昭和六〇年三月一五日収録)


 小島  清   一九二〇年 名古屋市に生まれる。
           一九四三年 東京商科大学卒業、引き続き 一橋大学奉職
            一九六二年 経済学博士
           一九八四年 一橋大学経済学部を停年退官、
同大学名誉教授
              現 在  国際基督教大学教授

 主要著書   『外国貿易』初版一九五〇年、五訂一九八一年、春秋社
           『日本貿易と経済発展』一九五八年、国元書房
          Direct Foreign Investment,Croom,Helm,London,1978
          『太平洋経済圏の生成』一九八〇年、世界経研究協会
          『多国籍企業の直接投資』一九八一年、ダイヤモンド社
           『日本の海外直接投資』一九八五年、文真堂