一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第四十三号]社会史とはどういう学問か 一橋大学社会学部教授 阿部 謹也

   はじめに

 本日は大変名誉ある会に御招待をいただきましてありがとうございました。

 いまお話しがありましたように社会史という学問は、戦前から名前としてはございますが、例えば、三木清、本多謙三、林達夫氏らの「社会史的思想史』あるいは喜田貞吉さんなどが社会史という言葉を使っておられますけれども、いまわれわれが考えている社会史という学問はごく最近、せいぜいこの二十年ぐらいの間に起こってきたものと言って差し支えないかと思います。

 歴史をさかのぼれば戦前までいくのですけれども、日本では比較的新しい学問です。そして社会史について語るとなると大変むずかしい問題があるわけです。

 例えば、増田四郎先生もごく最近岩波書店から『ヨーロッパ中世の社会史』という本を書かれております。そのほかに社会史と名を付けられた書物は非常に多いわけです。にもかかわらず社会史という学問は日本の歴史学の伝統の中ではまだ定着しておりませんで、常に議論の的になっています。

 私の口から言うのはおかしいのですけれども―私自身はそう考えていないのですが、歴史学の雑誌、あるいは専門誌の回顧編、一年を展望するという欄では必ず社会史に言及されまして、社会史のブームということがいわれ、社会史の「流行」は危険ではないかという、ちょっと頭の固い先生方の反論もあったりします。ブームという言葉を使われるのは心外なのですが、それは社会史関係の書物が比較的よく読まれるということがあったんだろうと思うんです。私の経験ではそれほどでもないのですけれども。たまたまいまから何年か前に「朝日新聞」 の夕刊に百回「中世
の窓から」という題で新聞に連載をしたことがありました。ヨーロッパ中世の歴史が新聞に連載されるなんていうことは前代未聞だったわけで、そういうふうなことを言われたんだと思いますけれども、社会史の内容は、全く人によって様々なんです。増田先生は『社会史』という本を書かれていますが、いわゆる社会史ブームには大変批判的な方です。そして日本ではまだこれからなんだと申し上げましたが、フランスではアナール学派という学派がありまして非常に盛んで、そのフランスの研究が日本に輸入されている面もあるわけですが、私がきょうお話し申し上げるのはそういうものではありませんで、私自身が個人的にやっている学問、それをたまたま社会史と二十年ほど前から自分で名付けているわけですけれど、その話をいたします。したがって、いわゆる社会史という学問はこれからなんだというふうに御理解いただきたいと思います。

 
  一橋の学風と私の社会史研究

 私がどうして社会史という学問をやるようになったかということをお話ししょぅとすれば、ごく自然に一橋大学における私の先生との関係、そこでの勉強というものにかかわらざるを得ないんです。

 この五月に大阪市立大学で西洋史学会がありまして、特別部会で中世賎民の成立についての話をしました。そのときにもやはり一橋大学に籍をおいていたためにこういう学問の方法を切り開かざるを得なかったという面があるんだという話をしました。質問に立つた人も納得してくれた面があるんです。

 私は経済学部の学生でしたが、最初は歴史をやろうなんて思っていたわけではなかったんです。経済学を勉強しようと思っていた。あるときから歴史に関心を持って、それで経済学部の学生でありながらドイツの中世史などに入っていったわけです。大学院に進み学界に出ていく頃に、自分の育ってきた環境がほかの専門家たちの環境といかに違うかということを思い知らされるわけです。

 それはどういうことかといいますと、東京大学、京都大学といった旧制帝国大学には文学部がございまして、文学部では西洋史、東洋史、国史というような区分けがされております。これをもう少し具体的に言いますと、明治の頃から、例えば東京大学文学部の史学科の古代史に入りますと、そこに入った以上一生の間日本の国家から保障されている。おまえは古代史をやっていてよろしいということです。古代史から逸脱しますと、そしていろんなことをやり出すと、これは放逐されるでしょうけれども、古代史の研究をやっている限りでは、従来の学問の方法にのっとってやっている限りで一切何にも言われることがないわけです。おまえの古代史にはどんな意義があるのかなんてだれにも聞かれないわけです。中世史でも近代史でもそうでして、史学科に入っている限りで、外から、そんなことにどんな意義があるのかということを、つまりわれわれの生活にどんな意味があるのかということは問われないわけです。

 けれども一橋大学の場合は歴史学はいわゆるキャプテン・オブ・インダストリーをつくり出す上で必須の学問とはされておりませんでしたから、その意味では実学の中ではちょっと位置が違っていたということもありまして、一橋大学で歴史を勉強するということには常に大変な緊張を伴ったわけです。だれも口では言いませんけれども、友人たちがそれを陰に陽に突きつけてくるわけです。

 私のゼミナールの学生の中で大学院進学者は一割には達しないのです。私のところは比較的大学院進学者が多いんです。一学年八人ぐらいのゼミナリステンがいますけれども、せいぜい二年に一人ぐらいの割合です。それでも多いくらいです。あとはみんな商事会社とか、あるいはちょっと変わったところで新聞社とか出版社に行きますけれども、大体ほかの人たちと同じところに就職します。

 それと同様なことが私の場合も言えるわけでして、私の場合も卒業してからもう大分になりますが、十年ごとにここで会合をやります。十年のときにも大変たくさん集まって、二十年、二十五年と三回、大変盛大な会をやりましたけれども、そういう同級生との接触の中で社会史という学問が出てきた。こういうふうに言うとちょっとこの場に応じて言っているように聞こえるかもしれませんが、そういうところがあるわけです。

 どういうことかといいますと、大学に残るということは学問をつづけることを許されるということなんですけれど
も、しかしながら同級の友達に久し振りに会う。そのときに同じゼミナールのメンバーから、おまえいま何をやって
いるんだと聞かれます。そのときに、おれはこうこうこういうことをやっているということを言うわけですが、それ
が自分の同級生にとって全く無縁なことであってほならないというふうな意識が常にあるわけです。そしてそれは同時に私の友人関係だけでなくて、日本での付き合い、あるいはドイツでの付き合い。そういう付き合いの中で、自分がやっている学問が現実の社会の中で学問をやることを許されているわけではない人たちに向かってこういう意味があるんだということを常に言いたいという気持ちがあるわけです。口に出してこういう意味があるんだという必要はないのです。ただ、私が書いたものや、あるいは私の言動が、そういう人たちにとって何か意味があると感じられればいいという気持ちが常にある。こういうことは、断言はできませんが、帝国大学の史学科ではあり得ないのではないかと思います。つまり帝国大学の史学科の人たちは、経済学部や法学部の卒業生たちから陰に陽に、おまえの学問はどんな意味があるのかということを常に突きつけられてはいないと思うんです。

 いま大学でいろんな問題が議論されています。そのときに、一橋大学にもいろんな大学出身の教官がおられまして、その人たちは大学のあり方にも疑問を投げかけられます。

 例えば、一橋大学では学部の学生はほかの学部から何単位か講義を取らなければいけないという規則があるんです。
それを非常に理不尽だと考えられる先生もおられます。それはわれわれのころはもうちょっと厳しかったんですけれども、いまでは徐々に緩む方向にきている。

 例えば、経済学部の学生は法学部、社会学部の科目は取らなくていいという方向に行きつつある。私はそれは大変残念だと思いますけれども、学問が専門分化していくといた仕方ない面がありまして、そういう傾向が出てきている。

   上原専禄先生の指導と私の社会史研究の原点

 私自身は、学部では上原専禄先生のところでドイツの中世史の勉強を始めたわけです。ドイツの中世史と言っても漠然としておりますが、東ドイツのダーツヘルシャフトという農業体制があるんですけれども、これは日本の地主制なんかと対比されて戦前から研究されているわけです。そのダーツヘルシャフト・大農場経営というものを勉強しよぅと思ったわけです。そういうテーマを卒業論文に選ぶに当たっては、やはり上原先生の発言が非常に大きな影響を与えているわけでして、先生はこういうことを言われたんです。

 どういうテーマを選んでいいかわからなくて大変困っていたときに、「大きなテーマを立てなさい、そして小さなことからやりなさい」。これは理解できるのでそういうふうにしたいと思っていましたし、非常に大きなテーマを立てて、実際の研究手続きとしては小さなことから始めようと思っていました。ところがそれだけではないんでして、「それをやらなければ生きていけないというようなテーマを発見しなさい」と言われたわけです。

 これには大変困りまして、学部の三年生で、しかもあのころはまだ食糧事情が大変悪い時期です。その当時若かったせいもあって生きていくということを余り深く考えていませんでした。とにかく食べていくことぐらいにしか考え
ていなかったので、それをやらなければ生きていけないようなテーマを発見しろと言われてもピンとこないわけです。
つまり、何をやらなくてもとにかく生きていけるんじゃないかというふうに考えてしまいがちです。そこで、それを
やらなければ生きていけないテーマというものを一生懸命思い浮かべたわけです。

 当時は大塚史学 − 御存じの方もおられると思いますが、東京大学の大塚久雄先生の学派が形成されていて、その学派の学問が日本中に大きな力を持っていた時期です。その中で大塚史学の関門をくぐらなければ学会に出ていけないくらいの大きな力を持っていましたが、私にはどうも大塚史学の語彙、概念というものが身近に感じられなかった。

 例えば、農民層分解とか前期的資本とかいう言葉がいろいろ使われるわけですけれども、その概念を使ってグーツヘルシャフトの問題をやろうと思ったわけですけれども、しかしどうも農民の顔が見えないという気持ちが非常に強いんです。日本の中世であれば、太良庄であろうがどこの庄であっても、われわれの周辺の人間の頭にちょっとちょんまげをつけてみる。あるいは江戸時代というフィルターを通してではあってもある程度中世をかいま見ることができます。それからまた、日本の農村であれば森だとか川のたたずまいもある程度想像がつくわけです。けれどもヨーロッパ中世の、しかもドイツのケーニヒスベルグとか、あの辺りの農村で農民がどんな暮らしをしていたか。どんな顔つきをしていたか。例えばどういう悩みを持っていたかということは皆目見当がつかない。経済史では週に三日の賦役があった。これは大変重いと言うんです。それは事実重いと思うんです。週三日税金分の働きをしなければならないわけですから大変重いと思いますけれども、その重さというものが実感されないんです。

 そういうふうなことで思い悩んでいた時期がありました。そのときに先生から、それをやらなければ生きていけないテーマを選べと言われたために非常に困ったわけです。十代の後半でしたが、そのときに私は一歩引き下がりまして、それをやらなければ生きていけないテーマは多分ない。つまりダーツヘルシャフトをやらなければ生きていけなないということはないんです。とにかく何とか食べてはいける。しかしながらものを全然考えずに一切本を読まずに生きていけるかと言われたらどうかというところまで後退しまして、そしてそれはできないということがはっきりわかったわけです。そんなあたりまえのことを二カ月も考えて結論を出したのはばかげているように聞こえるかもしれませんけれども、そういうごく当然のこと、だれもが知っていることを自分で骨身にしみて納得するというところから多分研究というものは始まるんだと思うので、私はそれを私の原点だというふうに考えています、つまり、一切本を読まずにものを考えずに暮らすことはできないということは確信がもてた。それではその次に何をやるかというところから始まったわけで、そこが私の社会史の原点と言ってもよかろうかと思います。

 農民の顔が見えないという話をしたわけですけれども、それには大変悩まされておりまして、ヨーロッパの中世の研究が一体何の役に立つのか。われわれにとってどういう意味があるのかということを大学院の五年間ずっと考え続けていました。でもなかなか答えが出ない。ですから私自身は自分のやりたいように自分の学問を組みたてまして勝手なことをしていたのですが、増田四郎先生は大変寛大に見守ってくれました。当時私は大学院を出てからろくな論文も書かずに自分の好き勝手なことをやって、学界には適用しないようなものを書いていたわけですけれども、小樽商科大学に拾ってもらいまして、そこで週に一コマ講義をするという大変恵まれた環境で十二年間過ごしたわけです。

 その中でやはり随分勉強することがありました。週に一コマだけ歴史学を講義すればよろしいのですが、この歴史学という講義が問題なんです。どうしてかといいますと、実は当時一橋大学の社会学部には歴史学という講義が一つあるのみだったんです。上原先生がつくられた科目なんですが、これは東京大学なんかでは多分一般教育に属するものなんです。歴史学という科目は専門科目としてはいまでも一橋大学の社会学部にしかないんです。その講座を担当されたのは上原先生の次は増淵龍夫先生で、その後が私ということになっているのですけれども、それは当時として
はやはり大きな試みだったと思います。

 日本では歴史学は大体三つに分けられるわけです。日本史。これを国史といまでも東京大学では言っております。それから西洋史、東洋史です。上原先生はそれをどういうふうに理解したかといいますと・こういう三つの分け方は間違っていると言うんです。こういう分け方は学問の内的必然性から生まれたのではなくて、いわば国の政策上要請されてできたものだと言うんです。

 どういうことかというと、西洋は学ぶべき対象であるというふうに明治以降日本人は考えてきた。そこで西洋から何を学び取るか。その学び取り方。そしてまた西洋とはどういう世界かということを、いわば学び取るという仕方で研究対象にしていくのが西洋史であり、そしてそれを学びながら、わが国をどういうふうにとらえていくかということを、日本の歴史を踏まえながらとらえていくのが国史である。そして同時にその両方をあわせて、つまり西洋から学び日本を組織していく中でどのようにして支配の対象としていくのかという枠が東洋史であり、いわば東洋史はそういう支配体制の学として成立してきた面がある。各学問のすべてがそうであったわけではありませんが、そういう面を持っていた。こういう分け方には必然性がない。

 例えば人名辞典を見ますと、いまでもインドは西洋人名辞典に入っていたりするんです。オーストラリアは西洋であったりする。一体西洋と東洋はどこで分かれるのか中近東なんて言いますが・決して近いとは言えないところを近東というのはヨーロッパの尺度でわれわれがものを見ているからなんですけれども、そういう中で歴史学という科目を一つだけボンと置きまして、そこで世界史として歴史研究を営むべきだと先生は考えられたんだと思うんです。

    私の社会史研究とドイツ留学 ― ドイツで考えた事ども

 一九六九年から七一年にかけて初めて私にドイツに留学する機会が訪れたわけです。日本の大学は、いまはもう違うと思いますが、若い者にはなるたけチャンスを与えないというところがありまして、(笑)若い者は外国の奨学金で年長者は文部省の金で行けというところがありまして、三十代の人間は外国の奨学金を取れというところがあったわけです。私ももうそろそろ行かなければならないと思っていたわけです。もちろん学部の学生のころからドイツの学者とは文通をしておりまして、ときどき来いと言われていたんですけれども、まだ日本での勉強が不十分だったものですから行くというふうには言っていなかったわけです。三十四、五になって、日本ではこれ以上研究ができない。
あとは古文書を読むという作業をどうしてもやりたいと思っていましたので、そこでその教授の申し出を受けてフンボルト財団から奨学金をもらいました。これはある意味でカルチャーショックだったわけです。

 どうしてかと言いますと、フンボルト財団というのは大変な財団でして、御存じの方も多いかと思いますがトヨタ財団の林雄二郎さんが『日本の財団』 (中公新書)という本を書かれていますが、林さんの研究会でヨーロッパの財団の歴史的起原について話をしたことがありますけれども、財団というものがヨーロッパで持っている大きな意味は日本の財団とはかなり違っていていろんな問題とかかわってくるところがあると思うんです。

 フンボルト財団は自然科学者のアレキサンダー・フォン・フンボルトを記念してつくった財団ですが、実は外務省の管轄で世界中の若手研究者に奨学金を与えているわけです。

 卑俗な話をいたしますと、日本の当時の、いまはかなり違っておりますが、学者の生活がどういうものであったか
ということを知っていただく上でお話しするのですが、当時私が助教授でしたけれども、給料は多分六万ぐらいだったと思いますが、フンボルト財団は講師としてというか・助教授待遇してくれて、当時ドイツでもらった金が十九万だったのです。びっくりいたしました。何の義務もなく、そしてそれ以後も現在に至るまで、例えば大統領が来ると京都まで招待して、会合をもつ。あるいはフンボルト財団の奨学生は年に一度大統領官邸に招ばれますが、当時はハイネマンという大統領で、彼は、ドイツへ来てすべて見て帰ってください。そしていいこと悪いこと全部見て帰って報告してください。と自信たっぷりだったわけです。

 そこで二年間ゲッチンゲンという町の小さな文書館でずっと古文書を読んでいたわけです。その中で何を感じたかといいますと、私は学問の内容については自分で問題を設定しておりましたので自己流にやっていたわけですけれども、具体的な日常生活の中でのドイツの人間の生き方にある意味でカルチャーショックというとオーバーですけれども、大きな問題を発見したわけです。日本に暮らしているときには余り疑問に思わないで過していた事柄があるわけですけれども、それが通用しない世界に行っちゃったわけです。

 例えば、日本人の常としてドイツに行くときにもお世話になる筈の教授たちにお土産をもってゆくことを考えていたわけです。大したことはできませんからちょっとした京都風のものとか絵葉書や、あるいは人形などを用意して行きました。友人のドイツ人は父親が歴史学者だったからおまえに歴史の本をやろうと言って、段ボール二箱ぐらい古書をくれたんです。御礼をどうしたらいいかということを日本人はすぐ考えますから、そこで日本から持っていったちょっと珍しい物を差し上げたんです。そうしたら彼はちょっと困った顔をして、怒ったというほどではないんですが、「これはクリスマスに欲しかったな」というふうに言ったのでギクッとしました。つまり日本人は贈与慣行の世界に生きておりますから、今では消えつつあるとは言ってもまだ厳然として強く残っておりますから、ごく常識的
にそういう慣習が通用すると思っているわけですが、ヨーロッパはちょっと違うなという感じがしたわけです。例えば招待をされても必ず持っていくのは花であって、そのために日曜日でも生花の自動販売機があるくらいです。世話になったから御礼をする。物で御礼をするということは、特に北ヨーロッパでは余り一般化されていないということに気付いたんです。そんなことはいまだったらだれでも知っていることかもしれませんがなかなかそこが最初はわかりにくかったわけです。

 その中で、一体こういう人間関係はどうして成立するのかということを考えたのです。私はいまでも二年に一ペんぐらいはドイツに参りますが、そうするとたまたまスペインに帰っている友人は、二カ月部屋を使ってくれと言うんです。大きな家でして、植木に水だけやってくれればいいというのです。二カ月間電気も使い水道も使って暮らすわけですから御礼をしたいと思っても一切受け取ってくれません。仕方がないから最後にその家を出るときに、被らが帰ってくる前に家中を花で飾るとか、あるいは家具の欠けたものを補充するとかして帰ってくるわけです。友人だから一切御礼は要らないという。われわれにはちょっと居ごこちが悪いわけですけれども、だんだん慣れてきてそれはそれでいいんだと思うようになります。そのかわり彼らが日本に来ればわれわれも同じことをしなければならないわけです。そうするとわが家の狭さにちょっと困ったなという感じもするわけです。(笑)そういう世界に接したわけです。

 日常生活の中での人間の関係のあり方が違うんだなと思ったわけです。息子がドイツの小学校へ入ってから学校のPTAでもそうでしたし、近所のスーパーのおばさんたち、あるいは郵便配達夫などと接する中で、人間の関係といぅものがどうしてこう日本と違うのか。気付かざるをえないのです。一人一人をとると私たち日本人と全然変わるところがないわけです。つまり、これは私の友達のだれだれに当たるというふうな人間は幾らでもいるわけで、日本人
には一切いないタイプだと思う人には、私は少なくともヨーロッパで二年暮らし、いまもしょっちゅう行っておりますが、これは日本人には絶対いないという人間類型にはまだ会っていないんです。その程度の違いなら日本人のなかにもあるわけです。一人一人を見れば日本人と全然違っているとは言えないのになぜこれだけ大きな人間関係の違いが出てくるのかということを明らかにしてみたいという思いで日本に帰ってきました。

 そういう意味で日常生活の中での人間関係のあり方を長い歴史の夕1ムのなかで考えていく必要があると思うのです。現在の断面図を切り取ることは容易なことなんです。そういう意味では、例えば『ヨーロッパにおける暮らし方』なんていう本を書こうと思えば書けるでしょう。付き合いの仕方とか、招待されたときの応待の仕方とかこれはハウ・トゥものとしてはできると思いますが、なぜヨーロッパに独自な人間関係が出てきたのかをさかのぼって、長い歴史のタームの中で考えていくことが大事だ。それをしないと横断面を切り取ってくるだけになってしまう。しかも目先の利益にとらわれずに良い視野の中でヨーロッパにおける人間と人間の関係がどう結ばれているのかということを考えていく必要があるというふうに痛切に感じたわけです。財団からお金をもらっていたために、私としては日本人的に考えてどうしてもお返しをして帰りたいという気持ちがあったんです。

 それはどういうことかというと、いまではそういうことはないんですが、財団の事務長から「日本政府の留学生としてドイツ人が日本に行くときに幾らもらっていると思いますか」と言われて、私はわからなかったんです。「五万円ですよ。しょうがないからわれわれがあと十万円プラスしているんです。それが日本政府留学生になっているんですよ」と言われたとき大変恥ずかしい思いをしました。いまはそういうことはないと思いますけれども当時はそうだったんです。そういう意味で、国立大学の教官でありながら向こうのお金で来ているということにちょっとした抵抗があって、何とかして返してやろうと思ったものですから、随分頑張って、あんなに勉強したことはもうないと思うくらい勉強したわけです。そこで私は処女作を、ドイツ語で書いて出版しまして、これで一応の義理を果たした。二年間で本を出すということは大変なことですが、いまの話の脈絡の上で、返さなければいけないという意識を持ったということを説明するためにお話ししたわけです。

 そこでさっきの話に戻るわけですけれどもそういう人間の関係のあり方が違うということはどこからくるのかといぅことを考えていく上でいろんな問題点が出てきました。その問題点が出てくる途中で、偶然ですけれども、御存じの方もおられるかと思いますが、「ハーメルンの笛吹き男」伝説にぶつかったということがあります。ゲッチンゲンから八十キロ北の方にハーメルンという町がありまして、その町にパイドパイパ1の、つまり子供たちがさらわれた事件の伝説があるのです。あの話を子供のころから絵本で知っていたわけですが、それが一体どういう話かということは全く考えたこともなかったんです。ところが、たまたま私が調べていた地域がプロシアなんです。プロシアのある地域にハーメルンの子供たちが入植をした土地であるという伝承が残っているんです。これにはびっくりしまして、入植というのは植民者としてやってきたということです。するとあの子供たちは笛吹き男にさらわれたのではなかったということになりますから、これはどういうことかと思って、午前中には文書館で仕事をしまして、午後は図書館へ行ったり、あっちこっちの資料を調べたりして、その子供たちがどこへ行ってどうなったかということを調べ回ったわけです。

 それを帰ってきてから平凡社から『ハーメルンの笛吹き男』という本にして出版しました。そのうち子供たちが行方不明になった理由なんかは、ある意味で私の主たる目的ではなくなってしまったわけです。これには三つほど説があって、きょうはお話しいたしませんが、いろんな解釈がなされるわけです。いまでも最終的には答えが出ておりません。ただ一二八四年の六月二十六日に子供たちが百三十人行方不明になったということは歴史的な事実なんです。ど
うして行方不明になったかということについてはいまだに最終的な答えが出ていないわけです。

 それを調べる中でハーメルンの町へ行ったり、それが貧民街の子供たち百三十人だったという説があったために、貧民街における生活がどのようなものであったか。さらにまた八−メルンの笛吹き男というのは一体どういう存在かということを考えざるを得なくなってきて、そこで初めて被差別民にふれることになったのです。私は東京生まれの東京育ちですから、いわゆる被差別民というものを全く知らなかったんです。それが初めて賤民とは何かという問題にぶつかった。そういう意味で六九年から七一年の留学の間にいろんな問題を抱え込んでしまった。

  
   ∃ーロッパに於ける人間関係形成の社会史的考察
      ― 特に中世ヨーロッパ社会を変えたキリスト教について―

 一つは、ヨーロッパにおける人間関係がどうしてこういう形になったのか。こういう形というのは、簡単に申しますと、いま言った贈り物とか贈与の関係です。なぜ贈与慣行というものが日本のような形で存続していないのか。陰にもぐっている面があります。

 ヨーロッパだって汚職はあるわけです。そしてまた日本の場合ですと、ロッキード事件に典型的に示されているように、お金をばらまくということが政治家にとって大事なことでして、そのためにはお金を集めるということが必要になってくる。そういう点は『中世の窓から』という朝日新聞社で出した本に書いてありますけれども、ヨーロッパでも十一世紀以前はほとんど同じだったわけです。つまり、どんな国王も皇帝も皇帝であるためには、あるいは国王であるためにはたくさんの財産を持っていなければいけない。財産は戦って勝ち取るものです。したがって戦利品をたくさん持っていなければいけない。けれどもただ持っているだけでは王ではあり得ない。それを配らなければいけないわけです。たくさん配った者、物惜しみなく配る者こそ王なんです。ですからある王妃は、私の家は王家なのになぜこんなに貧乏なんだと嘆いたところ、王様が、われわれは貧しいから王でいられるんだ。われわれが戦利品をもしたくさん持っていたら王ではいられなくなるんだぞということを言ったという話が残っておりますが、こういう関係が支配者と臣下の間にあったわけです。それがある時期から、そういう物を集めて配るだけではない別な観点が入ってくる。それがキリスト教なんですけれども、そこでキリスト教が入ってから物のやりとり、つまり人間関係を定める基本的な姿だったものが変わっていくわけです。これが非常に大きな変化を生んだわけです。

 例えば、キリスト教が入ってきて何が変わったかと言いますと、いろんな面が変わりましたが、根本的なところは死後の世界についての見方が変ったということなんです。つまり、キリスト教が入る以前には、人間は死んでも現世と同じ地位をもち、同じものを着て、同じものを食べて、同じような物を持って暮らすというふうに信じられていましたから、お墓にたくさんの副葬品を埋めたわけです。カール大帝ですらたくさん財産を埋めさせました。そしてノルマン人、スカンジナビア半島の諸民族は、自分が一番大事だと思うような財産、これはわが家に伝わるというふうなものです。人にあげたらわが家の運命が、あるいは自分の運命が変わってしまうというくらい重要な財産は、例えば宝石類、こういうものはこっそりとだれにもわからないようにして海に沈めてしまう。つまり、永久に自分のものにするためには自分の手元におかないのが一番いいということになるわけです。

 地中海の話ですが、ある王様がそういう宝石を持っていて、この宝石はいつか失われるだろう。この宝石が失われたらわが国はおしまいだというふうに考えて、地中海に船を漕ぎ出して海の中へ捨てて帰ってきた。ところがある日漁師が立派な魚がとれたと言って宮殿に献上に来たわけです。そこで料理人が王様に食べてもらおうと思って魚を割
ったところお腹から立派な宝石が出てきたので王様に献上した。王様はそれを見て、わが国の運命も尽きたということを知った。つまり捨てた宝石が戻ってきてしまったわけです。そういうこともお話としてあるわけですが、エツダやサガにも類似の話が数多くあります。          

 また人間は死後、蝶々とか蜂とか動物に変わるという信仰もあったし、眠っている間に人間の魂はロから出て虫になって、あるいは蜂等になって飛び回って戻ってきてから目が覚める。したがって夢というのは眠っている間に蜂等になって体験したものだという伝承があったわけですが、キリスト教はそれらを切り捨てたわけです。つまり死後の世界は天国か地獄か、十三世紀以降は煉獄しかないのであって、現世における人間の善行いかんで天国に行くか地獄に行くか決まるんだということを教えたわけです。ですから、地中に財産を埋めることを禁じたのです。これはある意味で成功したわけです。かつて地中に埋められていた財産を教会に寄付させたわけです。これが成功するのが十世紀、十一世紀ごろでして、この十世紀、十一世紀ごろに 私に言わせればヨーロッパにおける死生観が転換したんだと思うんです。つまり、死んだ後、現世のような形で生きているのではなくて霊となって天国に行く。天国のイメージは中世の段階ではただ現世にあると考えていましたから、ダンテの『地獄編』なんか御覧になるとわかるように、地図上では海の真ん中当たりにパラダイスがあったりするわけです。そして現世を歩いているといつか地獄に行き当たる。天国に行き当たる。こういう考え方があったわけです。キリスト教もそういう考え方をまだ残しておりますが、いずれにしても死後の生活について決定的な転換をキリスト教がもたらした。そのために財産は教会に寄付する。教会はそれを貧民に寄付する。貧民に寄付することによってその人間は天国での救いを得るという、こういう構図ができ上がったんです。これは非常に大きな変化を生みました。

 これは先ぼど申し上げた財団という考え方のもとになるんですが、財団という言葉はドイツ語ですとシュティフト
ゥンクと言うんです。シュティフトゥンクというのは名詞ですが動詞にシュティフテンという言葉がありまして、これは寄進・喜捨するという意味なんです。見返りを求めないで喜捨するという意味です。見返りは天国でもらうといぅことなんです。ですから財団の根底にはそういう考え方があったということをはっきりさせなければいけないと思ぅのですが、見送りを期待した財団というのはヨーロッパではあり得なかった。もちろん広い意味での見返りはありますが。

 例えば、アレキサンダ!フォン・フンボルト財団は世界各国の若い学者に勉学の機会を与えています。十年後にはもう−度招んでくれるとか、後までも大変きめ細かなサービスをいたしますが、それは直接的に何らかの見返りを期待しているのではなくて、非常に視野が広い遠大な見逸りを期待していると思います。それはドイツという国の評判なんです。直接的な見返りでないものを期待している。これはある意味で冒に見えない見返りです。

 キリスト教は天国での目に見えない見返りを約束した。ルカ伝にあるのですが、イエスは人々にこういうふうに伝ぇているんです。食事に招待するならば金持ちの親戚を呼んではいけない。彼らは必ずお返しにあなた方を招待し返すだろうから、せっかく招待してもそれは元へ戻ってしまう。招待するのなら目の見えない人、足の悪い人、あるいは貧乏人を招待しなさい。彼らはお返しができないから被らのお返し分は貴方のために天国に積み上げられるでしょぅ。こういうふうに言っております。

 こういう考え方が現世の問題になったのは贈与慣行の転換によってだろうと思うんです。それを私は贈与慣行の転換と言っているんです。それ以前には目に見えないお返しはなかった。

 極端な形としてはポトラッチという慣習があります。アメリカのインディアンなどは物のやりっこをするんです。
最初はこれこれのものをあげる。相手はそれ以上のものをくれる。またそれ以上のものとだんだんとポトラッチ合戦
になりまして、最後は女房も子供も家も全部相手に上げてしまう。そして向こうから自分があげたものより価値のあるものが来たら負けなんです。そうなると奴隷になるしかない。ですからポトラッチに勝つ方法は自分の家や財産を燃してしまう。これでは相手はお返しできません。そういう慣習はこれ程極端な形ではないが世界じゅうどこでもあったと私は考えています。

 つまり贈与慣行というものは私の考えでは人類に普遍的なものだと思います。アメリカのパーカーという万年筆の会社が日本に、あるいは東南アジアに販売路線を広げるときに、日本や東南アジアは贈与慣行の世界だ。われわれには全くわからない世界だから贈与の勉強をしようといってパンフレットをつくりました。これは大変面白いパンフなんです。例えば、カゴメケチャップなどがどうやって農家に食い込んでいるかということを調べていけば、これはまさに贈与慣行を利用した販売政策なんですけれども、そういう世界が日本ではいまでも非常に強く残っている。

   社会史の目で見た日本

 ところが日本という国は大変面白い国で、明治以降ヨーロッパ文化の粋みたいなところはほとんど取り入れてしまった。そしていまではハイテク時代なんです。そういうハイテクノロジーみたいなものがどんどん進んできて、いまではヨーロッパに行って日本に持って帰るお土産なんかほとんどないくらいです。これは単に西欧の技術の移入がうまくいったというだけでなくて日本史の中に原因があると考えざるを得ない。ヨーロッパの学問や、技術を受け入れただけではなくて、例えば、これは私の専門外ですけれども、日本では官位勲等というものがずっと一、二、三、四という数字で古来示されています。あるいは京都の場合も、町の区画も一、二、三、四、と非常に古い時代からそう
いう数字であらわすということに得意な国民です。外国へ行けばすぐおわかりのようにどこでもおつりの計算にみんな苦労していますが、算数が日本ほど得意な国民はいないと思うのです。九九がヨーロッパにはないのです。九九は日本ではすでに万葉の時代からあります。九九計算ができるかできないか大変大きなことなんですが、それだけでなくて勲賞も位階も一位、二位というふうな形で、非常に古い時代から数字であらわすことになっているのはなぜか。まだ解明されていないのです。というよりも、日本史の研究者たちがまだそういう関心を持っていないのですが、これは大変大事な問題だというふうに私は考えています。

 少し話が広がってしまったのですが、いずれにしても明治以降日本はいろんなヨーロッパの諸制度を受けとめまして、われわれの服装も住居もかなり西欧化されている。大学の制度も西欧の産物です。しかしながら中でちょっと苦労しますと実質的な大学内の人間関係はヨーロッパの大学とは全然違うということがわかってきます。さらにまた、工業のことは私はよくわからませんけれども、そういう面がやはり残っているだろうというふうに思います。

 つまり、ヨーロッパ以上に非常に合理化されている面と、その合理化ではどうしてもうまくいかないから日本的な人間関係を大事にしてやっていくというところがあると思うんです。そういう意味では日本の場合は伝統的な人間関係というものが、ある意味で大きなエネルギーになっているところがあって、ヨーロッパの場合とは少し違うような気がいたします。ヨーロッパの場合もそれがないわけではないのですが、人間関係の間にある客観的なものができてしまう。

 例えば日本の場合は公的なものが現在ではなかなかできにくいところがあります。これはどういうことかといいますと、厳然として「官」はあるんです。「公」ではなくて「官」というものが。それから、プライベートの私もある
わけです。「官」と「私」は否定すべくもなくあるわけですが、それを媒介する「公」といいますか、こういうもの
が日本の場合は十分な形ででき上がっていないところがあって、これはヨーロッパの尺度で計るからそうなんだと言われればそれまでですが、日本の中世なんかを見ていきますと、そういう公的なものができていたような感じがする面もあります。江戸時代ですらそういうふうに思える面があるので、明治以降ヨーロッパの影響のもとで、どうも「官」が強くなり過ぎたんじゃないか。そして「私」が、そういう意味では、戦後から最近にかけて自己主張するようになってきていますが・両者を媒介するものはまだ十分な形ではないのではないかということも、ヨーロッパで勉強する中で感じたわけです。こうして帰国してからどういう勉強をしていくかということが自から、ヨーロッパでの生活体験と日本に帰ってからの体験の中で固まってきたと思うんです。

 ちょうど私がドイツへ行ったときは学園紛争の最中だったんです。六九年の末ですから、紛争がほとんど終わりかけてはいるが、まだ余じんがくすぶっている時期です。帰ってきましたら、もう全く人間関係が変わっていたんです。大学の中の事務官との関係も教官同士の関係も。人間と人間の関係がこんなに激変してしまうということはどういうことかということが非常に大きな問題としてあったわけですが、そういう人間関係を見ていく上で、先ほど申しました、日本人同士の間では暗黙の了解というものができ上がっていてそれが通ずるつもりになっていながらヨーロッパでは全く通じないということがありますので、ヨーロッパにおける人間関係が、先ほど言った贈与、互酬、そして教会、あの世での救いというものを介して変わってくるということも含めて、人間と人間の関係がどういうふうに変化してきたのか調べてゆきたいというふうに考えたわけです。この頃から社会史とは人間と人間の関係の変化を明らかにする学問だというふうに私は定義しているんです。

 社会史という学問に関するこうした定義について私は直接的な批判は一切受けていないんですけれども、つまり名指しで批判されてはいないのですけれども、社会史という学問が新しいものですからどういう学問かわからないとい
うこともあって、いろんな疑問が呈されています。

 たまたまいま回していただいている本が『歴史と叙述』という題ですが副題が、社会史への道となっていて、これは私が二十年間に書いた論文を集めたもので、しかも方法に関する論文なので読みにくいかと思いますが、そこでは私自身の中で徐々に醸成されていったものとして社会史という学問を位置づけているわけです。それを一言で言えば、人間と人間の関係の変化を明らかにする学問だということになりますが、もう少し砕いて言わなければおわかりいただけないかと思います。但しこれは私自身の個人的な関心でありまして、日本に社会史を標榜する先生はたくさんおられますけれども、みんなそれぞれ違うと思います。私はそれでいいんだと思っております。

                       
   社会史の目で見た「人間とものの関わり合い」について

 もう少し内容を申し上げますと、人間と人間の関係の変化を明らかにするというと非常に漠然としていますが、まず人間と人間の関係は物を媒介とする関係であるというふうに私は考えるわけです。物という場合、対象になるのは目に見える物です。ですから土地とか家とか肉体も含めたものです。物を媒介とする関係を明らかにしようと思うとこれも大変なことですが、土地は一体人間にとってどういうものかということがまず問題になります。

   (1)人と土地との関係(土地所有権)について

 例えば大塚史学ですと土地所有権ということがすぐ問題になり、共同体は土地をどうやって占有し、どうやって配分したかということが問題になります。共同体的所有に関しては共同体の内部での私的所有関係の違いが近代社会を
つくっていく上で非常に大きいというふうに大塚さんは考えているわけです。つまりゲルマン的共同体という型がありまして、その中で私的所有はどういう位置を占めているかということが関心の的なんです。

 私の関心に立ち戻って考えるならば、土地と人間との関係。それは共同体的所有というふうに言いかえてもよろしいのですが、中世の場合はもっと大きな問題がある。その重要な問題が落とされているというふうに考えます。

 例えば共同体的な所有という場合にキリスト教徒たちが ― 大塚さんはクリスチャンなんですけれども ― アメリカへ植民して土地を囲い込んでしまって、インディアンを全部排除するという形で土地を占有した場合、共同体的所有というものは非常に明瞭に大塚さん風に解釈できると思うんです。けれども中世の人間はそういうわけにはいかなかったんです。

 どういうことかといいますと、共同体が土地を占有するということはそう単純なことではなかった。つまりわれわれが土地をどこかに買うことはお金さえあれば簡単なことです。売る人がいれば土地は買えるわけです。但しわれわれはヨーロッパ人ではないから、そこに家を建てるときはそう簡単ではありません。まず地鎮祭をやらなければならない。そして、例えキリスト教会を日本に建てる場合でも、日本人の大工を使えば、必らず四方固めの行事をやる。
笹をめぐらして地鎮祭をやると思うんです。職人が最もそういう古い行事を残しているからですけれども。つまり四方の神に対してこの土地に建物を建てさせてくださいと頼み、大地の神に対してお願いする。いまでもどんな建物の場合であろうと地鎮祭をやります。神主が立って、そして砂を盛って榊を立てたり笹を立てたりする。中世のヨーロッパでも全く同様に行われていたわけでして、まず土地の神に対して占有を許可してもらう行事を営むということがある。ということは、荒蕪地を開墾した場合は、その土地に開墾した人間が命を与えたことになりますから、その土地と人間との間には目に見えない関係が結ばれます。そして目に見えない関係が結ばれるということが大事なので、
それで先ほどの問題と並んでもうひとつの問題が浮び上ってくるのです。
 つまり、物を媒介とする関係と同時に、その関係と重なり合う形で目に見えない絆で結ばれた関係があるというふうに考えるのですが、その目に見えないきずなというのは、いまの土地の例で言いますと、土地とその開墾した人間との間に目に見えない関係ができる。現在所有権は、排他的で、二人の人間が同一の土地を所有することはできない。
必ず一人です。共同所有はできますけれども、上級所有権、下級所有権という考え方は現代の社会ではあり得ないと思いますが、中世においては所有権というものは土地との関係の問題だったわけで、重層した所有権がありえたのです。

 したがって、例えば最初に土地を耕して家を建てます。そして息子と代々続いて、三代目、四代目が例えば借金か何かで身をもち崩してその土地をだれかに売ったとします。そしてどこかへ親子が逃げて行った。その土地は別の人間のものになっている。ところがそれから十年後、二十年後に逃げて行った子供がどこかで財産を成して富を携えて戻ってきて、この土地を返してくれと言った場合、もちろんお金を払ってですけれども現在の持主は本主に返さなければならない。


   (2)  「悔返し」について

 悔返しというのは折口信夫さんが注目した言葉で、非常に古い万葉の話なんですが、男女がある関係になった。そのとき男の方が、女に飽きてしまって別れたいと女に言ったわけです。そのときに女に ― つまりその当時はある関係になるときには下着を交換したんだそうですけど、その下着を返してくれと男が言ったそうなんです。つまり人間の関係というものは目に見えないきずなで結ばれ得るわけです。つまり愛もそういうものですけれども、目に見えないきずなで結ばれ得るんですけれども、同時にそれは男と女という肉体で結ばれている面もあり、下着という贈り物
の交換にシンボライズされることがある。

 つまり、そのばあいのものはここでは下着ですが、ただのものではないのであって、人間と人間の関係の間にそのものがあるときに、それにはある意味がある。ごく当たりまえのことなんですけれども。そこで男女の間にある関係が成立したときに下着を交換する。その下着を返してくれと男が言うということは、二人の関係を解消しようということなんです。そのときに女のせりふとして、天皇が悔返しの宣言を出したらば返しましょうと言ったとあるんです。

 これはどういうことかというと、悔返しというのはいったん処分・譲渡した所領を取戻すことを意味していますから、天皇がその宣言をしたら下着を返しましょうということでそのようなモノのやりとりの関係が中世を通じてあったのです。この点はいま学会で議論されていまして、これも日本の中世社会史の研究成果なんですが。最返、特に日本中世史とヨーロッパ中世史の研究者の間で交流が非常に盛んで、日本中世史の専門家と私も何回か対談をしております。

 つまり永代売買という考え方は比較的新しいのであって売ってしまったら永久に自分のものでなくなるという考え方はかなり新しい考え方であって、かっては売買は必ず期限付きだった。そして借りるということと貸すという言葉も同じ意味だった。元をただしていきますと中世においては借りるも買うも、そして売るも買うも同じ言葉だった。
例えば、土地には本主の思いが込められていて、そこにある目に見えないきずなが成立しているからそれは時間がたったのちでも返さなければいけないものだという考え方があったんです。それが近代になると消えていくわけです。
近代になってヨーロッパの法意識が入ってきて、ローマ法の影響の下で現代の所有権が成立してくるということも含めて、人間と人間の関係は特に商品を媒介にして結ばれている関係になってきて、人間関係が大きく変っていったのです。

 これはあらゆるもの、何でもいいんです。たとえばヨーロッパではパンは日本の米と同じくらいの意味を持っていまます。例えば息子が一人立ちするときは、ヨーロッパではパンを二つに割りまして、そして一つを息子に持たせます。
それを持って家をつくるわけです。パン種を分けるということなんですけれども、それだけでなくてあらゆるもの・靴でもよろしいんです。どんなものも必ず人間と人間の関係を媒介にしている。しかもその人間と人間の関係というものは目に見えないきずなによって結ばれている。この両方が重なっているときが一番幸せなんですけれども。つまり相覆う関係が幸せなんですが、時代によってずれてしまうんです。


   (3) 寄附行為に関する考え方について

 つまり中世においてはものを媒介とした関係というものは同時に目に見えないきずなによって媒介された関係でもあった。ですからキリスト教が入ってきてヨーロッパに大きな変革をもたらしたときに、死後の救いを確信したいと考えた人は一生懸命教会に寄附しました。寄附するといいうことは、いやだなと思ってするのではないんです。つまりわれわれだったらば、かってはベトナム難民のために。いまだったらエチオピアのかわいそうな子供のために寄附しましょう。気の毒な人のために寄附しましょうという形で寄附させられるというか、するわけですが、そういう考え方は本来の寄附ではないんです。寄附というのは自分のためにするんだ。自分が救われるためにするんだ。あるいは自分の社会的地位を上げていくためにするんだという考え方が西欧にはあったのです。ですからもらう方も何にも卑屈にならない。もらって当然という感じなんです。

 東南アジアとかイスラーム圏へ行った人たちが、乞食にたくさんねだられて不愉快な思いをして帰ってくるケースがあるんですが、これは勉強不足なんです。当然もらう権利があると彼らは思っています。豊かな者は貧しい者に与
える義務があるわけです。そうでなければあの世で救われないから。これは普遍的にどこにでもある考え方ですが、ヨーロッパはそれを転換してしまった。つまり教会が寄附行為を一手に引き受けたわけです。そこでヨーロッパでは教会が公共事業にそれを使いまして、まずはゴシック大聖堂のような大伽藍をつくりました。
中世のあの貧困のさ中にあれだけの大きな建物をつくったということは大変なことなんです。その費用のほとんどを寄附で賄ったわけです。そういう大きな公的な事業の成立に人間の死生観の転換が大きな意味を持っていたのです。

 つまり人間のエネルギーは、やはり最終的には死生観からくるわけで、死後の世界を見通しうるところに国家や都市があった。都市行政もそうです。孤児院とか捨て子養育院とか養老院、年金、社会保障、保険。これは全部中世のギルドから生まれています。

 これは「朝日新聞」の連載でも書きましたけれども、非常にノミナルなものです。つまり実質的なものではないんです。実質的ではないというのはどういうことかと言いますと、中世のキリスト教は貧者を救おうとはしたけれども貧者をなくそうとは思わなかった。

 貧民の救済をノミナルにやろうとしたにすぎなかった。貧しい人を一切なくそうとは全く思っていなかった。金持ちが救われるためには貧民が必要ですから。与える対象がなければなりませんから。そこで乞食の存在を前提とする。
ですけれども乞食を救う施設はつくる。したがって、例えば養老院も十二名が定員になっています。しかしニュールンベルクにはそういう養老院に入るべき人はもっとたくさんいたのです。

 クリユーニー修道院の院長は週に一遍修道院の外に群がる貧民たちを、それも定員七十八人招き入れて御馳走して、そのうちの十数名は院長自ら足を洗って泊めてやってあくる日送り返した。そこで修道士らは、天国に行けると思って心安らかに眠ったわけですが、しかしながら院の外には数百名の飢えた人々がひしめいていたわけです。矛盾して
いるわけですけれども、しかしながら矛盾しているとはいえ、そこには貧民救済などの公的な考え方を生んでいく芽があったわけです。そういうものが近代ヨーロッパをつくっていく一つの大きな変化であったと言えると思います。

 もう一つ大事な点は、キリスト教がそういう世界に普遍的な贈与、互酬関係(もらったらお返しをする。そうしなければ義理が立たないという関係)に二つの大きな転換をもたらし、教会へ寄附するという形になったということと同時に、空間と時間についての意識が変わったということなんです。


   (4) 空間と時間の意識(宇宙観)について

 われわれは近代人ですから、空間も時間もわかっていると思っセいるわけです。空間というのは三次元の意味のない場所であり、時間というものは均質に流れていくと考えています。したがって外国に行くときでもお金をその国の通貨にかえ、時計を現地時間に合わせさえすれば何の支障もなしにわれわれは暮らせるわけです。どこの国でも何とか暮らせます。

 けれども中世の人間はそうは考えていなかった。中世の人間は、自分たちが住んでいる世界以外は全く異質な世界であると思っていました。これは日本でもそうだと思いますが。全く異質な世界でそこには何があるかわからないというふうに考えていたわけです。それをもう少しわかりやすく言いますと、中世人というのは一つの宇宙観のもとで生きていたのではないということなんです。二つの宇宙のもとで生きていたというふうに私は考えているわけです。

 一つは、人間がかろうじて支配できるように、制御できるようになった空間。これは大体家を中心としています。家の中は人間が支配できなければ困りますから。しかしながら家の中にもかまどというものがあります。かまどの火というのは人間が完全に支配できないものなんです。ですから火の用心といまでも言いますけれども、火というもの
はやはり恐ろしいわけで、その恐ろしさのゆえんはどこからくるかというと、これは中世人のイメージの中では大宇宙からくるのです。
                                           
 つまり中世人は大宇宙マクロコスモスと小宇宙ミクロコスモスという二つの宇宙の中で暮らしていたんです。マクロコスモスとはどういうものかというと、そこは死者の世界であり、野獣や動物の世界である。悪霊や病気の巣である。戦争とか不幸の源泉である、こういう世界。神々もそこに住んでいる。いずれにしても人間はそこでは何の力もない。そういうものに日常的な世界は取り巻かれているというふうに考えていたわけです。これがわれわれの周りをきっしり取り巻いている。その中で十世紀までは家を中心として人間は小宇宙ミクロコスモスをつくったんです。これは北欧の言葉ではミズガルドと言います。家を中心とする世界から十一世紀以後は都市共同体、村落共同体ができていきますと数十戸の家が構成する空間ができて、これも小宇宙ミクロコスモスになっていきます。村にも垣根を張りめぐらしてその中では何とか人間が制御できる。しかしながら農業はもちろんマクロコスモスの影響を受けます。雨が降らなければだめだし、野獣に襲われれば被害をうけるし、日照りが続いても雨が多過ぎてもだめだし、こうしてマクロコスモス、大宇宙との関係が常に問題となっていたのです。病気は星回りで決まるというふうに考えられていました。当時の医術は大変未熟ですから瀉血と言って血を抜くのですけども、これもどの星が現在支配的か。七つの惑星の動きというものに応じて処法が定められていたのです。

 これが二つの宇宙ということなんですけども、その二つの宇宙の中に共同体があるわけですから、当然共同体は大塚さん流に言う、土地を占取すれば成立するというようなものではなくて、マクロコスモス、大宇宙との折り合いの中で存続が可能となったのです。

 したがって日本人が家を建てるときに地鎮祭をやるように、共同体は常に周囲のマクロコスモスとの問で互酬関係
を結んでいます。それはマクロコスモスを支配する神々に捧げものをするということです。
ローマにはたくさんの神々がいたわけですが、軍神とか農業の神。それぞれの神に捧げものをしてその分野を守ってもらう。神と人間との間も互酬関係・贈与関係で結ばれていないのです。中世の場合は互酬関係は徐々に消えていくわけで、キリスト教がそれを否定してゆく。しかしながら感覚の上では、キリスト教がどんなに否定したって死後の世界について人間の希望は消えていきません。ヨーロッパはキリスト教世界ですけれども、いまだに死後に生まれ変わると考えている人がたくさんいます。ミュンヘン市の調査では、大体市民の七割は死後の生まれ変わりを信じています。皆カトリック教徒なんです。これは大変矛盾しているんですが、そういうものだと思うんです。ヨーロッパの中世の人々はキリスト教の教義によれば死後の世界は天国か地獄か煉獄だということはみんな知っていますけども、しかしながら感覚の次元ではやはり生まれ変わると考えていた。と同様に大宇宙に対してもやはり怖れを抱いていたわけです。

 キリスト教は創世神話、天地創造から最後の審判へという神話の中で人々に教義を一生懸命教えますけれども、一般の人々はやはり病気は怖い。そしてまた死も恐ろしい。そしてまた様々な運、不運。こういうものも怖いわけでそこで大宇宙との関係というものが問題になります。

 話がいろいろ前後しますけれども、このころにヨーロッパの絵画などに怪異なるもの、奇妙なものがいっぱい生まれてくるのです。御覧になった方もおられるかと思いますが、ブリューゲルとか、ヒエロニムス・ボスという画家がいまして奇妙な絵を描いています。頭だけの人間とか、トカゲのような人間とか、こういう人間のイメージがこのころにいっぱい出てくるわけです。それ以前からあるんですけれども、十五世紀を境にしてほとんど消えていきますけれども、そういうイメージは全部人間があの世に行ったときにとるであろう姿なんです。そのようなイメージが中世
以後も残っていました。その背後には二つの宇宙の構図があったのですがキリスト教の教義は、それを否定し、宇宙は一つだということを一生懸命教えようとします。つまり、おまえたちが恐れているのはおかしいので恐れる必要はないんだ。そういう悪霊はいないんだというふうに説くわけですけれども一般の感覚の次元ではとても恐くて仕方がない。何も悪霊だとか病気だけではありません。ペストがはやったりしますと、やはり古い宇宙観がまた頭をもたげてきますが、するとキリスト教徒は、ユダヤ人が毒を投げ込んだからだというふうに転化して、そこでいろんな騒ぎが巻き起こるわけです。

 さらにまた音の世界の問題があるわけです。つまり悪魔の音とか悪霊の音といいますか、森の音の世界があります。
夜中に森の梢を渡る風の音。これは中世の人間には大変恐しいわけです。中世の人間はそういう恐さに取り巻かれていたというふうに思うんです。その恐さというものを彼らは常に意識していました。

 けれどもキリスト教会は、その恐さというものを何とかして消し去ろうとする。そこでいろんな問題が生じてきます。

 例えば水車小屋の番人がいます。粉ひきですが、これは中世には賎民とされています。なぜ賎民とされているかということの説明がこれまでできなかったのです。死刑執行人、首切り役人ですが、これも賎民です。これもなぜかということはわからなかったのです。

 従来はこれらの人びとが卑しい仕事をするからだというふうに理解されていたんです。けれども歴史をさかのぼって調べていきますと、首切り役人は中世の初期においては高貴な人がやったんです。司祭が処刑を司った。あるいは身分の高い者が首を切るということになっていた。それがなぜ十三世紀以降賎民の仕事になったかということの説明はなされていなかった。『刑吏の社会史』 (中公新書)でその問題を書きました。もう十年も前ですがいまは少し変
えつつあるんですけども。これもある時期に死というものの形が変わったからだというふうに思ういます。つまり死というものがかつては消滅ではなかった。天国、地獄へ行くのではなくて、姿を変えて生き続けるということだったわけですから、あの世へ、別の世界へ死者を送る行事、これが葬式であり死を意味したわけです。

 そのはかに、例えば道路清掃人が賎民なんですけれども、これもわれわれは何となく理解しているつもりになっているわけです。なぜ道路清掃人が賎民なのか。汚いものを扱うからだ。ヤーコブ、グリムや他の研究者もみんなそう言うわけです。そうするとわれわれも理解したつもりになってしまうのですが、それが間違いのもとだと思うんです。

 つまり、近代人は均質的な時間と空間の中に住んでいて、貨幣を媒介とした暮らしに慣れている。貨幣が十一、二世紀からヨーロッパでは基本的な通貨になるわけですけれども、それ以前は貨幣はあまり大きな意味を持たなかったわけで、物のやりとりで暮らしていた。私たちは均質的な時間、空間の中で生きているわけですから、ごみはごみでしかないのです。ところが中世人にとってみると、ごみというのはどういうものかといいますと、こういう場でお話しするのは申し訳ないのですが、人体には穴が九つ〜十ある。この人体そのものがミクロコスモス、小宇宙でして、そこから排泄されたもの。これは汗でもふん尿でも全部自分が口から食べたものが尿やふんとして出てくるわけです。それがなぜ汚いのかということはまともに考えて見なければいけないことなんでして、汚いとわれわれは思っている。
そして家から出るごみ − 家もミクロコスモスですが、そこから排出されたごみも汚いと思っている。ただ、われわれは汚いとだけ思っているけれども中世人はそうは思っていなかった。勿論きれいとは思っていなかったと思います。
けれどもわれわれとは違う次元で受けとめていたと思います。つまり怖れていたということです。消化の機能もわかっていなかったし、腐敗の理論もわかっていませんでしたから、食べたものがああいう形になるということも理解できない。


  例えば、ネパールなんかではいまでも病気になった人の病室に牛の尿を持っていってパッとまくわけです。ジャージャーまくのではなくてパチパチと少し散水するわけです。これは牛が聖なる動物であるということもありますけれども、私の考えで言えば、これは大宇宙のものなんです。日本でもかつて一遍上人などの尿を飲んで病人を治すなんていう話があります。つまり、人体から排出された瞬間にそのものは大宇宙のものになり、何がしか神泌的なある意味を持ち始めるわけですから、そういうものを扱う人間は、やはり普通の人間にはできないことをしている異能者であるという考えがあります。

 例えばきこりとか山人です。あるいは川で魚を漁る人々。こういう人々も普通の人間にはできないこと。つまり森の中に二人で入っていくとか、あるいは水車小屋の番人ですと水位の調節をする。日本の水車と違ってヨーロッパの水車は下がけと言いまして、水面に水車を下ろすわけですから、水位が上がったり下がったりしたらもう動かないんです。そこでダムをつくって必ず水量の調節をしますから、そういう水量調節をやることができるということは大宇宙をある程度制御できる。そういう異能者とみなされます。これらの異能者集団というものがありまして、これが古代から中世まで非常に大きな意味を持っていた。シャーマンもそうですし、魔女もそうです。

 ところがキリスト教が入ってきてそれを全部排除しようとした。二元的な世界観のもとでその人々の存在は意味を持たないということを主張し始めたわけです。こうしてヨーロッパでは大体十三世紀から十四、五世紀の間に賎民層が成立します。二つの宇宙の狭間にいる人間が賎民として位置づけられていく。本来国王も司祭も狭間にいるはずなんです。国王は物を配ることができなければいけないわけですけれども、それだけではだめなので、あるカリスマを持たなければいけない。日照りのときに雨を降らせる力がなければならない。もし雨を降らせることができなければ国王が殺されてしまうケースも北ヨーロッパには一例だけあります。アフリカではしばしばですが。つまり国王もミクロ
コスモクとマクロコスモスの狭間にいなければならない。そういう意味で異能者でなければいけないんですけども、ヨーロッパの場合は国王は賎民にならなかった。これは当たりまえなんで、キリスト教をまず国王が受け入れて、国王が塗油の儀式によって油を塗られて、イエスを継ぐ者として登場したから国王は賎民になるはずがないわけなんですけれども、その他の異能集団はみんな賎民視されたのです。


   (5) 音の世界について

 また音に戻りますが、大宇宙の音はやはり恐しいわけです。大宇宙の音は悪魔的なものだとキリスト教は考えていました。だから音楽も異教的なものだと考えて最初は禁止したんです。けれども音を禁止するということができないと同様に、音楽を禁止することができずに、キリスト教はそれを取り込まなければならなくなりました。そこでまず九世紀から十一、二世紀にかけて教会音楽が成立するわけです。この特徴はポリフォニーになりますが、ポリフォニーというのは多声音楽といって、いろいろな声が合わさって一つのハーモニーをつくるという意味での、極端に言えば交響楽的なものの基盤がその頃に成立するわけです。そういう発想はヨーロッパだけなんで、ヨーロッパ以外ではポリフォニックなものはみられないんです。

 そこには二つの宇宙の問題が絡んでくるわけで、大宇宙には様々な音があるわけです。そこには様々なキリスト教以前の宗教の影響があると言っていいわけですが、それをキリスト教会は否定しようとしたのですが、否定しきれなくなって取り込んだ。取り込むときに大宇宙の様々な音をそのものとして認めながら、それにキリスト教的な論理である体系を与えようとしたんだと思うんです。それがポリフォニーの原型であろうと私は考えています。これは私の全くの憶測で素人考えなのですが、この前『音楽の友』という雑誌で対談をしまして、ある音楽評論家にその話をし
ましたら、それは大賛成と言ってくれましたので、そういうことも可能かなというふうに考えています。


   むすぴ

 社会史とは何かという話しをしたわけですが、それはこのように非常に広がってゆく学問なんです。私たちは『社会史研究』という雑誌を出しております。

 これには人類学の人に加わっていただいているのですが、一橋大学の良知力さん (社会思想史) と、東京外国語大学の二宮宏之さん (フランス史)もう一人川田順造さんという人頬学の人。そのほかに将来はどんどん文学や自然科学の人にも入っていただいて、社会科学は当然ですけども、やっていこうと思っています。

 いままでお話ししたように、日常生活の中での生き方を考えていくときに日本古来のもの、われわれの中にずっと持っているものを探ってゆく必要があります。

 相撲という古代の競技がいまだに国技として大きな人気を集めています。和歌とか短歌。こういうものも古代的表現様式です。にもかかわらずいまでも非常に盛んだという国はほかにはほとんどないのではないかと思うんです。少なくとも近代文明化された社会ではこういう国はないと思います。つまりわれわれの中にずっと保っているものを意識し、そういうもめをきちんと位置づけながら、同時にわれわれが受けとめてきたヨーロッパ文化、文明というものも同時にそれなりに評価し、そしてヨーロッパ文明の原型にまでさかのぼるときに、われわれと全く同じ基盤に行き着くわけです つまり十世紀以前のヨーロッパは一九世紀のアフリカと同じだし、日本ともほとんど変わらない状態であったと思うんです。それがなぜ近代ヨーロッパ文化をつくるようになったかということを、少なくとも西洋社会
史という分野で私は考えているわけです。

 大風呂敷を広げましたけれども、その大風呂敷というのは一橋大学の中で、私が卒業してから友人たちと接触している中で、そしてまたヨーロッパでの日常生活の中で発見した問題をとらえ直していく中でつくってきた学問なんです。ですから全くこれからであって、確立した理論や学説があるわけでもありませんが、私自身は大変面白い学問であるというふうに考えているわけです。

 お約束した時間がきましたので一応これで終わらせていただきます。

   [質 疑 応 答]

 ― 増田先生の中世社会史の中で考えて居られる社会史ときょうの先生のお話とのニュアンスの違いについてご説明下さい。

 阿部 増田先生は精神史としての経済史ということをおっしゃっておられるんです。経済史を精神史としてやることもできる。それは昔からおっしゃっておられるわけで一そこでは国家論を扱わなければだめだ。それからまた体制論を持ってこなければだめだということをおっしゃっておられて、例えば私がいまのような話をしますと、(これは出発点ですからまだ国家論とか体制論にはいきませんけれども)先生は、もし批判してくださいというふうに申し上げれば、おまえの学問には国家論がないじゃないか。あるいは体制論がないじゃないかというふうに言われるだろうと思います。直接名指しではないんですけれども、そういう批判は学会からもしばしばあります。つまり日常生活と

か身辺雑事なんか追っていても歴史学にならないじゃないかという批判があるわけです。

 私は、身辺雑事はとても大事なものだぞというふうにお答えしているわけです。そして身辺雑事の中からこそ本当の意味での国家とか社会が見えてくるのであって、そこで最後に申し上げましたような宇宙論というところから、つまり日本の場合ですと天皇の問題になるわけですけども、けがれとは何かとか、日本のけがれのあり方というものはヨーロッパの場合と非常に違いますので、そういうところから国家論に必ず行くと私は考えています。社会史はそういう意味では国家論を非常に身近かなところからとらえ直す学問だといってもよいと思います。

 ― 非常にユニークな話を頂戴して、発想の転換になったようです。

 ― 本当にユニーク電お話で、ここにいらっしゃる方はほとんどが同感でいらっしゃると思います。実はわれわれ、歴史、川上先生にしても村松先生にしてもこういう話は全く歴史では伺えませんでした。

 日本に非常にそういう古いものが残っている。いまひょっと思いついたのですが、みそぎというようなこと、汚れというような。日本論にも非常に ― 先生はヨーロッパ中世史で社会史のとっかかりをおつくりになりましたけれども、当然そういう問題にもくるわけですか。

 阿部 ですからB本史への関心が深うございまして、日本史の人との共同の研究会みたいなものがしばしばあります。中央公論から『中世の風景』という上下二冊の本が出ていますが、日本史の研究者との座談会を四人でやりまして、それからもう一つ、平凡社から『中世の再発見』という網野善彦さんという中世史家と対談をしております。これも二十時間ぐらいやりまして、日本の中世史がヨーロッパの中世史と見合うところが非常に多いんです。日本の中世の話を聞いていますと、ヨーロッパの中世と同じだなと思うことがしばしばありまして。しかしながら非常に違う
一例を挙げますと、ごく最近書いたことなのですが、例えば日本の場合中世と言うとすぐ武士ということが頭に浮かぶわけですが、武士というものが存在したのは日本とヨーロッパぐらいなんです。

 ヨーロッパには騎士がいたわけです。どこが違うかといいますと、例えば熊谷直実と敦盛の有名な話があります。あの話は最後に、かわいそうだと言いながら直美は敦盛の首を切らなければいけないわけです。ところがヨーロッパの場合ですと、騎士は重い甲宵を身に付けまして馬に乗ってパッとすれ違って相手を落とすわけです。相手は長槍で落とされたら、甲宵が重いから起き上がれないわけです。そこで勝った騎士が取るって返して馬から降りまして、そばへ行って、ミゼリコルドという短剣で首を刺すわけですが、ミゼリコルドというのは憐れみという意味なんです。このミゼリコルドで刺す前に、いいかと聞くわけです。相手が命請いをしたらば助けるんです。それはもう取引なんです。
その取引が成立すれば相手を殺さないわけです。殺したら損なんです。殺さずに捕虜にして大量の身代金を取る。捕虜にして帰ってくる。そこで必ず敗者と勝者の間に最後に対話、取引が成立する。ですから中世のヨニッパの戦闘では死者は大変少ないのです。時に数名ということもあります。殺戮が行われるのはイスラム教徒相手の十字軍以後です。つまり全く別世界の人間とやるときにはそれが通じませんから。日本の場合は親子を含めて鎌倉時代には大変な殺戮が行われますけれども、ヨーロッパの場合はある意味で合理化されちゃっているところがある。その辺は非常に似ているようでいてかなり違う。その違いと類似性。これがちょっと興味を引く点だろうと思います。

 もう一つは婦人に対する考え方です。つまり日本の武士は婦人を余り大事にいたしませんけども、というか婦人がむしろある意味で力を持っていたからかもしれませんが、ヨーロッパの場合、疑似変愛なんですけども、ある騎士の奥方に恋をする形で、そこにトルパドール、吟遊詩人なんか成立して、騎士道というのは婦人を大切にしなければいけないということになるわけです。

 いまでもヨーロッパでは一応会合では必ず御婦人同伴で、婦人に最初にオ−バーを着せたり脱がせたりするわけです。われわれはなかなか慣れないんですけれども。けれどもそれは中世の礼儀からきている。クルトワジーと言いまして、宮廷の礼儀なんです。けれどもそれは実際は、ある主君が自分の女房をおとりに使ってたくさん若者を集めておく手段なんです。つまり恋愛ゲームなんです。ですから本当の意味での恋愛が成立してはまずいわけですが、若い武士をたくさん集めるために美人妻を正面に出しておく。そういうからくりが後ろにあるわけで、その中で成立する騎士道の婦人崇拝。フェミニズム。だから実際は家に帰れば女房をぶん殴ってもいたわけです。(笑)

 ― フリーメーソンの話を二、三日前に聞いているんです。フリーメーソンというのは中世のヨーロッパ、石工の組合。包丁一本で渡り歩く板前がおりますが、それと同じように西洋の文明には石というものが大事で、城を築く教会を築く。そういうところに自分の腕を頼りにしてあっちこっちに行った。

 話が飛びまして、日本の場合に『太平記』に楠正成が情報をつかむのに散所民を使った。それが全国渡り歩いて、したがって情報がある。そこへ楠正成が出かけていって情報を取ってゲリラ戦術を展開した。ちょっと似ていますねというような話があったのですが、いま同じような日本とヨーロッパと、中世でございますね。何かそういうところでほかにまた。

 阿部 フリーメーソンに関しては前に書いたことがありますけども、石工はやはりヨーロッパも同じでして、大体イタリアのコモ湖の辺りに原点があって、そこからあっちこっち出かけていくわけです。

 教会をつくるのに大体百年、二百年もかかります。極端なのはケルンの教会なんかは千年もかかっているわけですけど、あれも政治的な妥協の産物でして、中世には塔が完成しませんで、ケルンの大きな尖塔が完成するのは十九世紀です。プロシアがラインを制圧したときに、プロシアはプロテスタントの地域でケルンの辺りはカトリックなんで
す。宗教の対立が非常に激しいものですから、併合するに当たってケルンのドームを完成させるということを約束したわけです。

 そういう石工の集団がコモ湖の辺りからあっちこっち集まってくるわけですが、彼らの間の身分証明が面白いです。
どういうことかというと、いまですと証明書を持っています。文字がありませんし、文字があっても実際は普通の人はよめませんから、日本のヤクザと同じ仁義を切るわけです。これも日本の場合と違って踊りを踊るわけですけども、物すごく厳しいステップです。細かいステップを間違いなく全部踊り切ることができれば、石工の人間だということがわかるんです。あるメロディーに合わせて独白を言いながら、新米の職人がやってきて集団の中に入ってきたときに入り口に入った瞬間からその儀式が始まっているわけでして、それが完全に踊り終わって全員が踊り終わったときに石工の人間としての証明がされるという、これはヨーロッパの場合は十九世紀に至るまでそうで、例えば社交界なんかでは、トーマス・マンなんかが書いておりますが、踊りが踊れないと社交界に出られないので小さいときから一生懸命踊りを習わせた。それが貴族の習俗ですが、それと似たようなことが下層民の世界でもあったろうと思います。

                          (昭和六〇年七月一一日収録)