一橋の学問を考える会
[橋問叢書第四十四号]
エコノミーとエコロジー  一橋大学経済学部助教授   室田 武

   エコロジーとは ― その起源と変遷

御紹介いただきました室田です。

 きょうは「エコノミーとエコロジー」というタイトルで何かお話をするようにとうかがって参上いたしました。
エコノミーとエコロジーというのは言葉を見ていただいたらおわかりのように、エコということで共通しているわけです。御承知のとおりエコというのは英語ですけれども、もともとはギリシャ語のオイコスという言葉からきています。
ギリシャ語のオイコスというのは家とか家庭、環境とかそういう意味だそうです。そのオイコスが転じて一方でエコノミーになり、もう一方でエコロジー。そういうふうに言葉がつくられてくるわけで、言葉の歴史から言うとエコノミーの方が古くからあって、節約するとか倹約するというような意味も含めて、かなり古くから英語として定着していたんだと思います。

 それに対してエコロジーという言葉はやや新しくて、意味はもともと両方ともオイコスからきているわけですから似たようなことなのですが、エコロジーという言葉がつくられたのは十九世紀になってからで、いくつか説があります。アメリカにヘンリー・デービッド・ソローという作家がいましたが、その人がそういう言葉を使い出したという説もあるわけです。一番よく知られているのは、ドイツの生物学者エルンスト・へッケルの造語だという説です。従来の生物学者というのは生物をいろいろ分頬する。分類するというのは大事なんですけれども、いろんな異なる種の生物が地球上を見てみると一緒に住んでいるわけです。そういう異なる種頬の動植物がいろいろお互いに関係し合って生活している。そういうふうに異なる動植物の間の共存関係みたいなことを表現したいということで、動植物というのも言ってみれば家族みたいなものではないか。いろんなそれぞれの役割があって共存共栄している。そういう生物の世界を何かうまく表現する言葉ということで、エコノミーのオイコスと同じくオイコスを取ってきてそれでエコロジーという言葉をつくるわけです。これが生態学というふうに日本語では訳されていますけれども、もともとはエコノミーと共通の根っこオイコスから出発してそういう概念がつくられているわけです。

 さらにへッケルという人がそういう言葉をつくって、その後この概念がだんだんアメリカにも伝わっていきました。当時の状況をふりかえってみますと、十九世紀の後半のアメリカというのは、やはりイギリスの産業革命を受け容れいろんな工場ができて産業が活発になるわけですけども、このことは別な側面から言えば汚染がふえていく。特に工場廃水なんかが、今日ではいろんな規制があるわけですけども、当初は余りそういう規制とか考えずに汚水を川に流してしまうとか湖に流してしまうとかいうようなことで、水の汚染が随分アメリカ各地で広がっていったらしいんです。そういう状況を見ていたアメリカの女性の化学者のエレン・スワローという人が、化学者の立場からいろいろ水質の分析などをやっていて、非常に汚染が進んでいるということに気が付くわけです。エレン・スワローという人は女性として初めてMIT(マサチュセッツ・インスティチュート・オブ・テクノロジー)に入学を許された女子学生で、また女性として初めてMITのスタッフになった、そういう人なんですけど、彼女は水の汚染、あるいはもう一つの問題として、やはり新しくどんどん産業ができていくという中で、本当に産業の発展、経済の充実ということを考えていろいろ経済活動を進めていく人ももちろん多かったわけですけれども、一方でそういう波に乗ってポロもうけをしてやろうという人も出てくるわけで、そういう中で典型的にはいわゆるインチキ商品。有名なのは牛乳などで、牛乳の名で売っているものを検査してみたら中身の半分は実は水だったというような問題も含めて、いろいろインチキ商品も多かったようです。今日の言葉で言えば消費者運動ということになりますけれども、エレン・スワローはそ
ぅいう消費者運動を始めました。さらに、汚染の問題に関してある程度規制していかないと、川だとか湖がとんでもないことになるということで、そういう健全な経済活動の展開に向けて、自然科学的な知識も動員しながら物事をみていくことが大事なんじゃないかと彼女は考えたわけです。その場合、へッケルが使い出したエコロジーの概念が丁度そこに適応できるのではないかとみた。へッケルは人間社会のことはそんなに意識しないで、人間以外の生物のことについてエコロジーということを考えたようですけれども、エレン・スワローが人間社会の経済活動も含む形で生物世界全体を見ていこうということで改めてエコロジーという言葉がアメリカで次第に定着してくるということになるわけです。
ところがエレン・スワローという人がいつ頃の人かというと、一八四二年に生まれて一九一一年に亡くなっていますから、大まかに言えば大体一世紀前の人ということになるわけです。こうしてエコロジーの考え方が十九世紀の後半に一たん定着するわけですけれど、一時期エコロジーという概念が余り社会的に広くは使われなくなっていくというのが二十世紀になってからの経過だと思うんです。

 その理由はどういうことかと推測してみるに、二十世紀の自然科学は多くの専門分野に細分化してきます。物理学にしても、化学にしても、生物学にしても、それがある程度高いレベルに達すると、今度どんどん細分化していくわけです。エコロジーの場合も、初期には人間の経済活動だとか、それに伴う水の汚染だとか、あるいはそれによって動植物が受ける影響がどうだとか、そういう非常に広い問題を総合的に追究していくということだったわけですけれども、いろんな学問が細分化していく中で、やはり生物学の人は、ある特定の生物についての非常に詳しい分析をしたり、あるいはもっと後になると分子レベルで生物の問題を考えようとか、いろいろ生物学自身も細分化していきますし、化学の方もそういう傾向があるということで、当初のエレン・スワローが考えたような、いわば総合科学、自
然科学と社会科学をつないで人間の経済をよりよいものにしていく手助けにする、そういうような考え方というのが次第に忘れられていって、エコロジーと言いますと大体生物学の中の生態学といわれる分野を指すような言葉として、非常に狭いものとして理解されるような時期がわりと最近まで、続いてきたというふうに言えるんじゃないかと思います。

 ところが、そういう状況に変化が生じ、世界的に見ますと一九六〇年代に入ってから、またこの言葉がいろんな形で復活してくるということが言えるんじゃないかと思います。一九六〇年代、そして引き続く七〇年代ということで考えてみますと、いわゆる資源問題、それから公害の問題。そういったものが盛んに議論されるようになったわけで、その中で特に経済学の方に引き付けて言いますと、例えばアメリカの有名な経済学者ケネス・ガルブレイスがそういう資源問題、あるいは環境汚染の問題というのを見て、いろんな有用な資源が枯渇するということで、つまり資源の不足によって経済成長が制約を受けるということが一般に言われているけれども、ガルブレイスはそうじゃなくて、むしろ資源不足が問題になるんじゃなくて、いろんな廃棄物が出てきて、その廃棄物がたくさんたまってその廃棄物の捨て場がなくなるということ、すなはち廃棄物の捨て場不足が、むしろ経済成長に制約を与えるんじゃないかという考え方を出してきます。

 それに対してケネス・ポールディングという、この方も著名な経済学者ですから御存じだと思いますけれどもこのボールディングも、そういうことで廃棄物がたくさんこれからたまることを認めた上でどうしたらいいのかを考えます。そして、いわゆるリサイクル、つまり要らなくなったもの、使い途がなくなってしまった物質も再生利用していくということでリサイクルが非常に大事になってくると主張します。リサイクルをやりさえすれば、ガルブレイスが言うような廃棄物の捨て場が足らなくなることによる経済成長の制約というものは取り除けるんじゃないかというような論点を出してくるわけです。

 ボールディングのリサイクルの考え方をもう少し詳しく説明しますと・いろんな使い道のあるもの。使っていけばだんだん鉄が錆たり、あるいはそれ以外金属疲労なんていう言葉が最近日航機の事故なんかを通じて議論されますけれども、いろいろ金属疲労だとか、そうでなくてもいろんなものが錆て朽ちていくということで、初めは有用な金属がだんだん使い道がなくなっていくという事実があります。その場合に・ボ↓ディングが考えたのは、そうであってもエネルギーの方を十分供給してやれば、一たん要らなくなった物質もまた使えるようなものに、もとに戻せるんじゃないか。そういうような考え方だったわけです。

 その議論についてはまた後で触れるとして、いずれにしても資源不足の問題だとか、あるいは資源を使えば結局いっかは廃棄物になるわけですから、その廃棄物をどこに捨てるのか。あるいはそれをどういうふうに処分するのかというようなことをめぐって、また十九世紀の議論とはまた違ったレベルでエコロジーの問題が取り上げられるようになってきたということが言えると思います。

 それで、そのあたりのガルブレイスとかボールディングの議論が一方にある中で、もう一人非常に重要なより根源的な問題提起、エコノミーとエコロジーの問題について非常に重要な問題提起を一九七〇年代に入ってから始めたのが、やはりアメリカの経済学者でニコラス・ジョージェスクレーゲンという人です。ジョージェスクレーゲンは日本では必ずしも余り有名ではないかもしれませんけれども、いわゆる新自由主義の旗手の一人というふうな評価を受けることが多いようで、シカゴ大学のミルトン・フリードマンが一人、ヨーロッパの方でオーストリアのフリードリヒ・ハイエク、それともうー人がジョージェスクレーゲンということで、新自由主義の三巨頭の一人という評価をす人もいます。

 しかしジョージェスクレーゲンの考え方というのは、フリードマンとかハイエクとまた大分違ったところがありま
して、彼の場合はエコノミーとエコロジ-の問題を考えるときに、その一番土台にエントロピーの法則を考えるということで、ほかの経済学者と違った、より深いレベルでの議論を展開してずっと今日に至っているように私自身は見ているわけです。

   エントロピー法則について

 ところで、エントロピー法則というのは何かということなんですけれども、そもそもエントロピーという言葉がど
ういうことかということで簡単に振り返ってみると、やはり十九世紀の後半になりますけれども、特に熱学、熱についての学問が発達してくるわけです。具体的には蒸気機関が非常に一般化する。蒸気機関の一番早いものと言えば十八世紀になるわけですけれども、十八世紀の初期にニューコメンの大気圧機関と言われる蒸気機関が発明されて、それがやがてジェームス・ワットによって改良されます。石炭を掘り出すときに地下水が炭鉱の底にたくさんわいてきますけれども、その地下水をどうやってくみ上げるかということで、当初の蒸気機関というのは炭鉱の地下水排水をするために開発されたのです。つまり、石炭を燃やしてその熱で水を温める。そうするとその水が水蒸気になる。その水蒸気の膨張と冷却による収縮を利用して地下水をくみ上げる。機関そのものの中で燃やす石炭を上回る量の石炭が結果として掘り出せるような機械ということで蒸気機関が発明される。それがワットによって改良されて、炭鉱の地下水をくみ上げるだけじゃなくて、蒸気機関車とか、あるいは蒸気船という形でだんだん世界各国に広まってくることになるわけですけれども、蒸気機関の効率というものはどこまで挙げられるかというのが十九世紀の技術者たちの非常に大きな関心事だったわけです。

 つまり、仮に一トンの石炭を燃やした場合に、その一トンの石炭からどれだけたくさんの仕事ができるのかということです。ですからその機械のつくり方が悪ければ一トンの石炭を燃やしてもほとんど何の仕事もそれはしないといぅ場合もあるでしょうし、非常にたくさんの仕事ができるということもあるでしょうし、いわゆる熱効率と言いますけれども、使った熱に対してそこから取り出せる仕事の比率がどれだけかという熱効率の問題を研究していく中で十九世紀の後半に、ドイツの物理学者でルドルフ・クラウディウスという人がいるんですけれども、その人がエントロピーというそれまでにない言葉を自分で新しくつくり出したわけです。

 このエントロピーという言葉、いろいろ議論があるところですけれども、直感的に言ってしまえば、結局は廃熱とか廃物だとかいうものの総称というふうにとりあえず考えておけば、そんなに当たらずとも遠からずじゃないかと思います。いろんな式の展開をするのがここでの目的ではありませんから、簡単に直感的に言ってしまえばクラディウスが明らかにしたのは、廃熱、廃物と言ってもいいところのエントロピーというのは、これはふえる一方だということです。したがって廃熱、廃物というのは一方的に、別な言葉で言うと不可逆性という言葉がありますけれども、不可逆的にふえる一方であるということで、エントロピー増大の法則というのが打ち立てられるわけです。これを熱力学の第二法則とも言います。熱力学の第一法則というのはエネルギー保存の法則のことです。
 
 エネルギーも人間にとって役に立つエネルギーと役に立たないエネルギーといろいろあるわけですけれども、その役に立たないものも含めてあらゆるエネルギーを引っくるめて考えた場合、一つのシステムを考えて、そのシステムの中では、結局エネルギーは総量としては保存される。つまり一定不変の量にとどまるというのがエネルギー保存の法則でして、これは熱力学の第一法則と言われるわけです。これに対してエントロピー増大の法則のことを熱力学の
第二法則というわけです。これは廃熱とか廃物はふえる一方だということで、特にエネルギーについて言えば初めは役に立つエネルギーも急激にか徐々にかそのスピードはいろいろあり得るわけですが、そのスピードを問わなければ、とにかく初めは使い道のあったエネルギーがいつかは使い道のないエネルギーに変わってしまう。そういうような内容を込めて熱力学の第二法則というのが確立されて、それがエントロピー増大の法則なわけです。そういう法則が、これは物理学の中で最も普遍的な法則の一つだというふうに言われています。例えばニュートンの重力の法則、あるいは万有引力の法則とも言いますけれども、これも非常に基本的な法則ですけれども、万有引力の法則と同じくらいエントロピーの法則というのは普遍的な法則だというふうに物理学の中で理解されているわけです。この法則をいろんな経済問題を考える場合にも抜きにしてはできないというのが、先ほど御紹介したニコラス・ジョージェスクレーゲンの考え方なんです。

 エントロピー法則というのはもともとは純粋な物理学の法則なんですけれども、なぜ経済学者がこういうことを最近になって問題にしだしたかというと、これが先ほどの、例えばガルブレイスなんかの議論、経済成長の問題を考えた場合にその制約というのは、資源が足りないから成長への制約が出てくるというよりも、むしろ廃棄物がふえてその捨て場の方がなくなってしまうから、むしろ捨て場不足によっていろんな困難が出てくるんじゃないかというような視点があったわけですが、そういう見方がなぜ出てくるかというと、これがエントロピー増大の法則です。つまり物事は廃熱とか廃物をふやす方向にしか進まないんだという主張。それに照らしてみると、確かに私たちの身の周りを見ましても、廃棄物が非常にふえているという感じはするし、またそれに対して廃棄物の処理、処分のために相当たくさんのお金が使われて、将来ことによるともっともっとそのために使うお金がかかるようになるんじゃないかという気もするわけです。

 例えば、今日の日本で産業廃棄物と称されるものは一年間に三億トンぐらい発生していると言われます。それから産業廃棄物以外に家庭から出てくる生ごみとか包装紙の要らなくなったもの、そういう一般廃棄物が大体六千万トン。産業廃棄物と一般廃棄物、あわせて一年間に三億六千万。大まかに言えば四億トンの廃棄物が発生しているわけです。人口一人当たりにしても大体四トン近い廃棄物が年々生み出されてきているということで、その中には簡単に処分できるものもありますけれども、なかなかそうはいかないものが多いのです。各地に埋め立て地をもっとふやさなければならないとか、あるいは海岸の埋め立てにそういう廃棄物を使うと、今度その廃棄物置き場からいろんな汚染物が海にしみ出てきて、それが海を汚すというようなこともあって、確かに現在の日本の経済というのを考えてみますと、廃棄物問題というのは無視できない。特に地方自治体なんかの担当の方の御苦労というのもそんなところにあるんじゃないかと思うんですけども、ごみを集めたはいいがどこにそれを持っていったらいいかわからないということです。
一時期ごみ戦争というようなことで地方自治体間でごみの押し付け合いみたいなことで大分いろいろ問題になったこともあると恩うんですけれども、いま、ごみ戦争と言われるほど激しい争いのようなものは表向きないわけですけども、中身をよく考えてみると、やはり戦争という形はとっていないとしても、どこにごみを持っていくかということでいろいろ問題はますます広がっているという感じも受けるわけです。そういう、実際に年間四億トンものごみが出てくるということ自身が、廃熱とか廃物がふえる一方だというエントロピー法則。それとどこかで結び付いているところがあるんじゃないかという感じがするわけです。

 そのエントロピー増大の法則なんですけれども、これをどういうふうに理解するかということです。結局エコノミーとエコロジーの問題がこれからどうなっていくかということと非常に関係すると思うんです。エントロピー増大の法則を考える場合にいろんな見方があって、一つは十九世紀の物理学者とか化学者の何人かの人は、エントロピーが
ふえる一方だという法則が、これは普遍的な法則と言われるわけですけど、それが普遍的ということだったら、例えば太陽系のような大きな空間を考えてもいいわけですけれども、その中で廃熱がたまる一方だということになりますと、結局地球も含めた太陽系全体がいつかは廃熱で、つまり使い道のないエネルギーだけで埋め尽くされた空間になっちゃう可能性がある。そういう状態のことを十九世紀の人たちは、ヒート・デス、すなわち熱的な死という言葉で表現したわけです。要らない、使い道のない熱、それがうんと高い温度になるのか低い温度になるのか、その辺説が分かれるようで、ある人はうんと熱い熱地獄になってしまうという見方をとる人もいますし、別な人は、いや太陽のような熱を出すものから熱が宇宙全体に拡散していって結局熱が熱いところから冷たいところにずっと広がっていって、非常に冷たい空間で埋められてしまうともいいます。冷たいのか熱いのかその辺がはっきりしないわけですけれども、いずれにしろ空間全体の温度がどこをとっても同じ温度になって、全部の温度が一定になってしまうと、熱いところ、冷たいところがなくなってしまうと、何もそこから仕事が取り出せないという状態になるわけで、結局生物も生きられない、何の仕事もできない沈黙の死の世界になるというわけです。

 ところが現実の地球というのを見てみた場合どうかというと、確かに廃熱、廃物というのがふえ、最近のように年間四億トンも日本だけで廃棄物が出てくるわけですが、そういう最近の状況を抜きにして考えた場合、たとえば百年以上も前の地球というのを考えた場合に、確かにエントロピーはふえているのかもしれませんけれども、熱的な死のような状態に事実としてなっていなかったじゃないかという疑問が当然出てくると思うんです。でも経験的な事実として確かにごみはふえているわけだけれども、そのごみが、例えば百年ぐらい前ということで考えてしまいますと、ごみは確かに出るけれども、それを土に返すことでそれが肥料として生きていたというような事実があるわけです。
エントロピーがふえるというのは確かにそのとおりなわけですけれども、これが何らかの形で処理、処分されている
ような、そういう仕組みが自然界の中にはあるんじゃないかということ。これはだれにでも気が付くことだと思うんですけれども、その仕組みを解明しようとする人が日本に出てきたわけです。


   エントロピーに関する開放定常系理論

 それが、最近では「地球の開放定常系理論」という形でまとめられてきているわけです。エントロピーはふえるんだけども、やはり物事は更新的に再生されているという、そういう事実が一方であります。これをどう考えるかといぅことなんです。その場合に大切なのが、エントロピーをシステムの外に捨てるという視点で、これがそこで大事になってくると思うんです。エントロピーはふえる一方なんですけども、ふえてもそれがうまい具合に外に捨てられれば、システム自身はわりと低いエントロピーの状態にとどまることができるということで、エントロピーを捨てることによって自分自身を低いエントロピー状態に保つことができる。そういうシステムのことを開放定常系というふぅに物理学者の一部の人が言うわけで、そういう意味で考えていくと、一番手っとり早い話、人間自身というのも一っの開放定常系だということになるわけです。

 人間というのは昨日と大体同じようなきょうの姿を持って、大体きょうと同じような姿で明日もあるだろうということが言えると思うのですが、だからといって人間個体の中でエントロピーがふえていないのかというと、そんなことはなくてやはりふえているわけです。特に激しい運動なんかすればするはど廃熱とか廃物は体内にたまってくるわけです。ところが人間の場合は、汗をかいたり、あるいは排尿ということもあるし、それから呼吸、そういったことを通じて、結局体内にふえる廃熱を体外に捨てています。それから体内にいろんな毒物がたまってきますけれども、
その毒物というのは主として尿の中に溶け込んで、それで排尿という形で体外に放出しているわけです。ですから、確かに体内で廃熱、廃物はふえているわけですけれども、同時にうまい具合いに外に吐き出す仕組みを人間の場合持っているわけで、そういう意味で人間というのは一つの開放定常系だというふうに言うことができるわけです。

 なぜ人間とか、あるいはそれと似たようなことをしている動植物が地球上にこれまで存続してきたかということを考えますと、結局どうやら地球という一つのシステム自身が何かそういう人間と似たようなエントロピーを捨てるということを実際しているんじゃないかということに思い至ると思うんです。


   
   エントロピーに関する水惑星地球のき重な仕組

 そのことが物理学的にはっきりと定式化されたのは、一九七〇年代半ばになってであり、日本の物理学者である槌田敦さんの貢献です。理化学研究所の物理学者で、初めてそのことを物理学的に解明したんです。結論から言ってしまうと、非常に簡単明瞭なことで、要するに地球がほかの天体と違って水惑星であるということが地球の上にいろんな更新的な現象がずっと続いてきた理由です。水を持たないようなほかの天体というのを幾ら探してみても、そういうところには生物というのは存在しないということで、直感的にはそんなものだろうと思うことが実際に裏付けられたわけですけれども、簡単に言ってしまえば、地球というのは太陽からある熱をいつも受けているわけですけれども、その熱も結局は地球の中で役に立たない熱に変わっていくわけで、地球が水惑星であるためにそういう太陽熱を受け取った水は蒸発するわけです。蒸発すると水蒸気になって、水蒸気というのは空気よりも軽いものですから浮力を待て上空にどんどん昇っていく。上空に行きますと気圧が低いものですから、気体には断熱膨張という性質があって、低圧の状態で水蒸気がバッと急激に膨らんで、そのときに冷えるという冷却現象を起こすわけです。それで冷えるときにどうするかというと、地表から運んできた廃熱を宇宙空間に長波長の輻射という形で捨ててしまうということです。ですから地球の中には絶えず廃熱が出てくるわけですけれども、その廃熱というのは水が吸収して大気圏の上層部の方まで持っていったところで、その廃熱が長波長輻射の形で地球のシステム外に捨てられる。そうやって熱を失った水蒸気は冷えて、細かい氷の粒になって雲をつくって、その雲から雪だとか雨の形でまた液体の水が地上に戻ってくる。その水はやがて温められて水蒸気になります。地球が水惑星でその中で水が絶えず液体から気体になって、一たん固体になって液体に戻ってくるという、そのサイクルがあるわけですけれども、このサイクルが実はエントロピーをシステムの外に処分するという意味で決定的に大事なものだということがわかってくるわけです。

 ところでただ水だけあったんでは困ることがあるわけで、水があると確かに廃熱の処分ができるわけですけれども、じゃ廃物というのはどうなのか。エントロピー法則に従うと、廃熱も廃物も一方方向にふえるわけですけれども、廃物の方はどうなるかというときに大事なのが土です。土壌の役割りということになると思うんです。これは特に御説明するまでもないと思うんですけれども、いろんな動植物起源の廃物、具体的には人間の排泄物も含めていろんな要らないものが出てくるわけですけれども、そういうものが土に接触したときにどうなるかといいますと、土壌というのは非常にたくさんの微生物の集合体なわけです。いろんなバクテリア類、その他いろんな小さな昆虫を含めて非常にたくさんの生物の集まりなわけです。よく言われることですけれども、よく肥えた畑の土ですと、スプーン一杯の中に大体一億個の微生物がすんでいると言われます。わずかスプーン一杯にそれくらいたくさんの生物を含んでいるわけで、そういう微生物の集合体であるところの土に廃物が接触することで、例えば人間だとかその他の動物にとってはすでに不用になったものが土壌微生物にとっては食物であるということで、捕食作用の連鎖によってそういう有
機廃物が食べられて二つのものに分解されるわけです。

 一つは無機物に変わります。無機物は植物が育つ場合の栄養素としてまた植物に吸収されるわけです。他方で分解された廃物のもう一方は廃熱に変わるわけです。堆肥なんかをつくられる方だと一番わかりいいと思うんですけれども、いろんなごみの類を山にして積んで置きますと温度が七十度ぐらいまで熱くなるわけです。結局それは分解作用が進んで熱が出ているということのあらわれなわけで、有機廃物というのは土壌だとか、正確に言えば土壌微生物ということになると思うんですけれども、そういうものの力によって無機物と廃熱に分解されて無機物の方は植物がまた使う。廃熱の方は周囲の水に吸収されて、最終的には先に述べた水の循環のメカニズムに乗って地球の大気圏外に捨てられるということです。水と土があることによって、確かにエントロピーというのはあらゆるところでふえているわけですけれども、それがうまい具合に地球の大気圏外に水と土の作用で処分されて、しかもいったん要らなくなったものが植物を育てるために再利用されて、その植物を今度また動物が食べてと、そういう植物から動物、動物から土壌、そこからまた植物に戻るという生態系の中の循環、これはエコサイクルと言ってもいいと思うんですが、そのエコサイクルというのが地上で成り立っている。土壌を介したエコサイクルと、その外側にある水のサイクル。これによってエントロピー増大の法則にもかかわらず、ふえる分だけうまい具合にシステムの外にふえたエントロピーを捨てるというそういう仕組みが、これはほかの天体には恐らくない、非常に貴重というか、貴重という言葉以上の地球の仕組みだというふうに思われるわけです。


   一橋に於ける物理学者杉田元宣先生の業績

 そのあたりの議論を一橋の学問ということに引き付けて考えますと、一般的に言えば従来の物理学とか化学の歴史の中では、エントロピーというのを捨てることができるとか処分することができる、そういう概念というのが今世紀半ばまでなかったわけです。ところが一番古い例としては、一九四四年に、これはオーストリア出身の物理学者で非常に有名な物理学者、シュレーディンガーという人がいます。この人が一九四四年の頃はアイルランドのダブリンにいたわけですが、そこで物理学者の立場から見て生命とは何かという疑問に取り組んで、それで『生命とは何か』という表題の本を書くわけです。その本の中で、生物というのはエントロピーがふえるにもかかわらずなぜ低いエントロピーの状能にとどまれるのかということをいろいろ自問自答しています。そして彼が最初に考えたことは、生物というのは、特に植物を考えてみますと、太陽から何かを受け取っているわけですけれども、その受け取っているものをエントロピーじゃなくて、エントロピーの、むしろマイナスのもの、それを彼はネガティブ・エントロピーと言っているわけですけれども、負のエントロピーを摂取することによって体内で発生するエントロピーを相殺している。
そういう言い方を最初するわけです。ところがこれはちゃんと数式的な定義に立ち入ればすぐわかることなんですが、エントロピーはもともと一番小さいのがゼロで、要するに負の値はとらないのがエントロピーのもともとの定義にしたがった性質なんです。ですからマイナスのエントロピーを太陽から受け取って、それでふえるプラスのエントロピーと打ち消しあって低いエントロピーの状態でとどまっているという見方は実はおかしいわけです。シュレーディンガー自身はそういうことを一九四四年の初版で書いたわけですけれども、それはおかしいんじゃないかというふうに同僚達に言われて、翌年第二版を出すときに問題の第六章に注を付けて、ごく短い注なんですけれども、マイナスのエントロピーを受け取るんじゃなくてプラスのエントロピーを処分するという概念を初めて提出するわけです。いろんな動植物が食物を摂取するというのは、その目的の一つは、ただ使い道のあるエネルギーを体に取り入れるという
ことだけではなくて、要らなくなった余分なエントロピーを処分するためにも、不可欠なんだという新しい観点をそこで出すわけです。ところがそこのところを注意する人というのがほとんどいなくて、マイナスのエントロピーといぅ概念が何か新しいものですから、みんなそっちに飛びついてしまって、シュレーディンガー自身がその考えがおかしいということに気が付いて訂正しているということを、余り理解しないままなのです。最近でも物理学とか何かの入門書の中で、マイナスのエントロピーという、概念自身が非常に不明確な言葉がよく使われるわけです。唯一の例外が一九五〇年代、一橋で物理学をずっと長い間教えていらっしゃった杉田元宣先生です。東大の物理学科を卒業なさって一橋にいらっしゃった時期が大分長いと思うんですけれども、恐らく世界で杉田先生一人だけがシュレーディンガーのことに正しい解釈を与えたのです。杉田先生は特に熱力学を中心にして、当時恐らく日本の物理学会の中で第一線で活躍されていた方だと思うんですけれども、その杉田先生がシュレーディンガーの『生命とは何か』の再版に重要な訂正があることに注目するわけです。

 例えば、一九五二年の『科学』という雑誌に杉田先生が書かれている文章としてこんなのがあります。
「シュレーディンガーは第六章の注で、生体が放熱することにより正エントロピト つまりプラスのエントロピー
を放出することを負エントロピー、つまりマイナスエントロピーの摂取と見ればよいと訂正した。極言すると、マイナスエントロピーを摂取するところは便所ということになります。しかし正しく言うと、摂取、排泄、放熱と外界とのすべての総決算の上で、正エントロピー、つまりプラスのエントロピーを放出しているのを逆に見ているだけのことである。」プラスのエントロピーを生物というのは放出している。それが本当のところであって、もしマイナスエントロピーを摂取するなんていうことを考えればおかしなことに、そのマイナスのエントロピーを便所で摂取することによって生物は生きているというようなことになってしまう。そんな無理な言い方をしなくてもいいわけで、食物を摂取したり排せつする。それから汗をかいたり呼吸をしたりすることで熱を放熱しているのが事実なわけですから、そういう全体を見た上でプラスのエントロピーを体外に放出しているということを言えばいいわけで、わざわざマイナスのエントロピーなどというわけのわからない概念を導入する必要ないんだということを杉田元宣先生が非常に明確にそこで述べているわけです。

 最近の新しいエントロピー理論の展開にあたって、先に御紹介した槌田敦さんもこの杉田先生の視点は非常に重要であると諸論文の中で繰り返し強調しています。従来、エントロピーを放出するというような視点がなかったためにいろいろ無理な解釈をして、議論が混乱していたわけですけども、杉田先生のような視点に立つと、物事がとてもわかりやすくなります。それで結局水の循環による廃熱の処分と土壌の存在による生態系の循環。結局水と土があって初めて人間、あるいはそれ以外の動植物にとって最も必要な水と、それから食べ物。それらが保障される。水のサイクルがあるから使ってしまった水がまた飲めるわけです。そのことと並んで大切なのは土があるということでそこから植物、動物は育つのです。食物を摂取するということ自身がエントロピーをふやすことになるわけですけれども,それが廃棄物となった場合に土がそれを受け取って分解してくれるということです。そのことによってまた植物が育っていくというところが大事になってくると思うんです。

 筑波の科学万博で大分評判になった水耕栽培のトマト、実がたくさんなるということで非常に面白いのですが、ああいうものの持っている根本的な問題というのは、結局水だけで土がないということです。どういうことかというと一回に限ってトマトがいっぱいなるということはできるわけです。これは水によく溶けるような化学肥料をうんと使って、それから温度とか湿度の管理をうまくやっていけば、確かに一本のトマトの木から何千個というトマトがなることもあるわけですけれども、そういうことは一回限りでできることであって、そのトマトの木が枯れた後どうなる
のか。例えばそういうトマトの水耕栽培を日本じゅうの農家がみんなやった場合、そこから非常にたくさん実をならした後のものがいっぱい出てきます。そういうものは土がないという条件で考えると、ごみがたまる一方で、それを何年も続けていくとトマトの枯れ枝が物すごい量出てきて、それ以上物事が進行しなくなってしまうわけです。さらに、そのトマトの実にしたところで人間が食べるわけですから、人間が食べたものは必ず糞尿になって体の中から出ていくわけです。そのトマトを食べた人が外に出す糞尿だとか、実をならした後のトマトの枯れた木、そういうものはどこへ行っちゃうのかということまで考えると、結局水耕栽培というのは一回だけ何か素晴しい成果を挙げるということで言えば非常に意味があるわけですけれども、もっと長い五年、十年というタームで考えた場合、水だけあってもどうにもならない。水によって確かに廃熱の処分だけはできるわけですけれども、廃物の処分がどうしょうもないということになって必ず行き詰まってしまう。したがって、やはり社会システム、あるいは経済活動全体として見た場合、土を無視したようなことというのは結局どこかで行き詰まってしまうということが言えると思うんです。

   水と土に恵まれた日本経済の環境と今後の問題点

 そんなふうに考えていきますと、結局日本経済全体を見る見方としても、やはり日本の水土と言いますか、日本の地形全体の持っている水と土に恵まれた環境 そのことをどういうふうに評価していくかということが大事な点になるんじゃないかと思います。

 特に日本の高度経済成長なんかについて一つの見方としては、日本人が非常に勤勉だ、あるいは教育水準が高いということでよく説明されるわけです。例えば江戸時代において日本人の識字率というのは世界一高かったとか言われます。恐らく勤勉であり教育水準が高いということは、日本の経済成長の非常に大きな要因でありそのこと自身に全く誤りはないと思うんですけども、もう一方でやはり見なければならないのは、日本というのがこれまでやってこられたというのは、ほかの国にちょっと見られないようないい水の条件と土壌の条件を持っていたということです。そのことを抜きにして日本経済の問題というのは語れないんじゃないかと思います。水と土というのは農林漁業の基本でありますけれども、同時に水がなかったら工業もできないというごくあたりまえの事実を見ておく必要があると思ぅんです。工業活動をするということは、結局冷却水とか洗浄水とかたくさん要る。

 どういうことかというと、工業活動を活発にやろうとすればするほどエントロピーがふえる。つまり廃熱、廃物がふえるわけです。その廃熱、廃物をどうやって処分するのかというと、特に熱の場合は、結局水に吸収してもらって処分するわけで、冷却水がたくさん要るということです。それから、廃物の方について言えば、つまり工業活動が盛んになるということは汚染物がたくさん出るということですから、その汚物を水に溶かし込んでしまうということです。結局洗浄水として水がたくさん要る。単に農林漁業が水と土を土台にしているだけでなくて、工業にしても水を使うし、その水を保障するのは、水をよく含むような土があって、それで初めて川に水が絶えず流れているという状態をつくり出しているわけです。

 ですから、御異論のある方もおられるかもしれませんけれども、日本というのは決して資源小国ではないというのが私なんかのエコロジーを考えた場合の見方になってくるわけです。よく日本は資源小国と言われますけれども、日本に本当に少ないのは、原油は確かに少ないんですけれども、もっとそれ以前の根本的な問題を考える場合に、むしろ日本はそんなに条件が悪いんじゃなくていい条件にあったということが言えると思ううんです。

 典型的な例として中近東諸国を見たらいいと思うんです。中近東諸国の場合原油は確かに掘ればたくさん出てくる
わけですけれども、いかんせん水がないわけです。このため幾ら油があってもどうしようもないわけです。例えば火力発電所。油があるからどんどん火力発電所を動かして電気をつくって、それでいろんな産業を起こしていったらいいんじゃないかという場合に、火力発電所というのは冷却水がないと動かないわけで、油だけ燃やしても水がなかったら機械類がこげて溶けてなくなってしまうだけのことで、結局水が要る。水があって初めて油が生きてくるわけです。ですから、サウジアラビアなんかで火力発電所のプラントを日本から輸入するというような場合によくある話として、海水の淡水化装置を火力発電所のプラントとセットにして輸入するということになるわけです。水の問題をどうするかということを抜きにして発電所の設備とかその他の工場設備を日本からボンと持ってきても何の意味もないわけで、結局水の問題というのが中近東諸国なんかの経済の一番のネックになっているわけです。ですから極端なやり方としては、うんと深いところ、原油の掘さく技術を利用して何千メートルという地下深くにパイプを延ばしていってそこの地下水をくみ上げて利用するというようなこともやっているようです。しかし、地下水もまた原油と同じように有限ですから、地下水のくみ上げをやり過ぎれば枯渇する。そうなってしまえば、せっかくつくった工場だとか、あるいは人工的な都市だとか、そういうものが機能しなくなるという問題があるわけで、地下水があれば何とかなるというものでもないわけです。結局大事なことは水が自然の仕組みの中で保障されるような経済のシステムということをゆっくりとでもいいからつくり上げていくしかないわけです。そういう場合に、基本になるのは結局森林の問題ということになると思うんです。

 中近東なんかでも木を育てる努力をあっちこっちで試験的にやっているようですけど、日本の場合は山が多くてそこが皆森林に覆われているということで、これが非常に大事なことだと思うんです。よく、日本は山国であり、国土の六八%ぐらいが山で平地が少なくてどうしようもないんだということが言われますが、見方をちょっと変えてみると、これは実は素晴しいことなのです。山だからそこを森林にしておくということで山が多くてその山に木がいっぱい生えているということで大切な水が保全されているわけです。つまり木のない山だったら雨が降ればそれが一挙に豪雨になって流れ出して下流に大洪水をひきおこし、逆に雨が降らないときは全く乾いている。そういうことになるわけですけれども、国土の六八%もが山であって、それが森林に覆われているということのお陰で、水が基本的にはいつでも手に入るような地域が大部分だということ。そのことによって農林漁業もかつて盛んだったわけですし、その上に立って工業的な発展というのが今日まであったわけです。
 
 ただ、エントロピー理論、あるいはエコロジーの観点から言えることは、工業的な活動が余りにも水に恵まれてうまくいったために、それが肥大し過ぎちゃったんじゃないか。そのことによって十九世紀の後半にアメリカのエレン・スワローがエコロジーを始めたときに突き当たった水汚染の問題というようなものが二十世紀後半の日本において結局解決されていないという問題がこれからどうなるのか。あるいはどうしていったらいいのかということが出てくると思うんです。ですから、確かに経済の規模が一九五〇年代まで拡大したのはよかったわけですけれども、それがある限界を超えて非常に大きくなったために、結局水と土でうまい具合いに処理処分できないような廃棄物、それが余りにもたくさん増え過ぎている。エントロピーをうまく捨てればそれでいいんだと言いましたけれども、結局どぅやって捨てるのかというと、結局水と土の仕組みを通じて捨てるしかないわけです。したがって一つの大都会があって、そこで余りにもたくさんの廃熱があれば水のサイクルでは処分できないほどそこに廃熱がたまるということになってきますと、そこで異常気象の問題が出てくるわけです。あるいは要らなくなったものを土に返せばいいと言ぅけれども、土壌微生物がもともと分解する力を持っていないようなもの、例えば一番典型的な例で言うと、ポリ塩化ビフェニール(PCB)によるカネミ油症ということで問題になりますけれども、PCBのようなものは土に埋めて
おいても分解されない。それから近年の大きな問題としては、原子力発電所から出てくる放射性の物質、いわゆる放射能も土に埋めて置いたら分解されるということがなくて、時間の経過を待ってだんだん放射線のレベルが低くなるのを待つしかない。そういうものであるわけで、一番根源的に重要な水と土のエントロピー処分能力を超えるようなものがかなり現在の日本経済の中でたくさんつくられるようになってきているわけです。そういう活動、つまり水土(すいど) の力を超えたようなもの、そういったものの生産をできるだけ少なくて済むような、それでなおかつ活発な経済活動ができるような、何かそういう新しい経済のあり方というのがいま求められているんじゃないかと思うんです。

   むすぴ

 一橋の学問ということに必ずしも十分に結び付けてお話しできなかったわけですけれども、そうしたエントロピーの問題を考える場合に、先ほど御紹介させていただきましたように、杉田先生という物理学者が非常に画期的な新しい見方を一九五〇年代の初め頃提起されて、そういう見方が今日のエントロピー問題への視点と、それ以前の議論の重要なつなぎの役割りを果たしているわけです。いま科学技術というのがいろんな形で重要性を帯びて、単に産業の中だけでなくて家庭生活の中にもいろんな科学技術の影響というのが、いい意味でも悪い意味でも入ってきている。
そういうことを考えるときに、一橋の学問の中でもある程度自然科学的な要素を何らかの形で取り入れていくことが不可欠にだんだんなってくるように思うわけです。そういうことを考えるにつけ杉田先生のような物理学者が一橋の中で活躍されていた時期があったことは非常に興味深いんじゃないかというふうに考えるわけです。

 時間になりましたのでこれで終わらせていただきます。御静聴ありがとうございました。

   [質 疑 応 答]

 ― 水と土との問題、それから最近また別な面から、皆さんもお気付きかと思いますが都市経済、都市という問題を取り上げてきているんですけれども、都市は必ず水と土の、率直に言うと直感的にはマイナスの働きをしているかもしれませんね。この水と土というものの調和を考えながらこれから都市の問題を考えなきゃいかんと思いますが。

 室田 非常に大事な問題提起だと思います。同じ都市でも従来の都市というのは― 従来の都市と言ってもちょっと前の話になりますが― 河川水運がその中で非常に重要だったんです。都市の中に船の交通があるから水路が至るところにあって、そういう都市がエコロジーの観点から見ても生きていた時代というのがあったと思うんですけれども、やはり鉄道が出てきて、その後自動車文明に変わっていく中で、そういう船運ということで不可欠だった水路がだんだん隅っこの方に追いやられてきているということで都市の姿というのがかなり変わってきているんじゃないかと思うんです。

 ですから、これから都市の問題を考える場合に、水運をもっと復活するかどうかは別として、もっと開かれた水の空間というのをどれだけ確保できるのかということが非常に大事なんじゃないかと思います。

 それともう一つは、昔は都市でもそんなに舗装が行き届いていなかったわけで、雨水が土に浸透して水が土の中に保水されるということがあったわけですけれども、最近の都市というのは言うまでもなく至るところ舗装されちゃっ
て、小学校の校庭までアスファルトだなんて極端なことも出てきている。そういうことがあるために都市を一つの砂漠だというふうに例える人もいるわけですけれども、最近、それじゃいけないんじゃないかということで、都市に降った雨水をどうやって地下に還元するかということでだんだん物の見方が、少しずつではあるけれども変ってきています。例えば新国技館は屋根に落ちた雨水を全部地下に戻すようにしている。そういう考え方がぼつぼつ都市計画の中でも重要視されてきているように思うんです。高度成長の時代は、とにかく鉄とコンクリートでどんどんやっていくということですから、例えばかつては農業用水としては意味を持っていた都市の中を走っている用水が暗渠になって、昔はきれいな水が流れていたところが下水道になっているとか、あるいは河川水運として非常に大事な川の上を高速遠路が走っている ー 日本橋の上を高速道路が走っているというような、どう見ても、空間的にもグロテスクというふうに私なんか感じちゃうわけですけれども、そういうタイプでない、もっと、水が流れていてそこにふたをしないで、みんなが遊覧船に乗って楽しむでも何でもいいわけですけれども、そういう形で水辺が開かれているということ。それから、雨水をむやみに早く海に流さないことです。舗装道路というのは水がしみ込まないから一挙に側溝に押し込んで、後は下水道につないでそれが川に入って海にすぐ流れてしまうということなんですけども、そうじゃなくて、降った水をじわり、じわりと降った場所に還元していくということも大事になってくると思いますし、そういう意味で都市に対する考え方、一時期かなり行き過ぎがあったと思うのですが、また軌道修正していくような時期にきているんじゃないかと思います。

 ― ちょっと脱線した質問ですが、中国にテレビを輸出とか何とか言ったときに、すぐ電力とか水とかそういうものがひっかかってきまして、在庫が港で山をなしているとか、需要にあった電力がない、水がないといったようなことを聞きますが、向こうではいま先生がお話しされたような基礎的な学問の普及が進んでいないんでございましょうか。

 室田 中国のことちょっとよくわからないんです。一度も行ったことがないので。しかし、実はこの九月二十日から生まれて初めて中国に行くことになっているので、そのあたりで勉強してこようと思っております。砂漠・半砂漠のようなところが中国の場合かなり広いのに対して、確かに燃料から言うと石炭がうなるほどあるわけです。燃料の面では恵まれているわけですが、他方で水のことを考えると、中近東はど大変じゃないですけど、やはり砂漠に近いようなところが多いということで、日本とは水と土すなわち水土の条件がかなり違うと思うんです。中国では一方で現代化ということで工業化を急いでいる反面、やはり木をどうやって育てていくかというようなことも同時に並行的にやっているんじゃないかというふうに思うんです。けれども、その辺の事実関係がもう一つ私にはわからなくて、今度初めて行って少しその辺見てこようと思っているんです。

 ― 中国の土地、昔の漢の時代とか、唐といろいろございますけれども、全体として見るとだんだん土地が荒れていっているように思うんです。砂漠化です。これはどんなことでございますか、自然現象も相当あるんじゃないですか。

 室田 自然現象もあるでしょうね。しかしただそれだけじゃなくて、万里の長城なんかをつくるときは相当木を切ったり、レンガを乾燥するので天日乾燥だけではなくて相当木を切ったりするということもありますし、古代文明と言われるものが発達したところほど気象条件の変化ももちろんあるとして、やはり気象条件だけでどうしても説明できない問題というのがいろいろあるというふうに言われているわけです。

 古代のメソポタミア文明、大きな川のほとりに大きな文明ができるということで、水と文明の関係というのが非常に密接なわけですけれども、有利な条件を過度に利用しすぎて、結局周りの木を切り過ぎてしまったり、あるいは水を浪費するというような形で。

 大体古代文明があったようなところというのは、かつては木が随分生えていたようです。メソポタミアにしても遺跡
の調査でそういうことがわかるそうですし、それから地中海の周辺にいろんな文明があるわけですけれども、そういうところが結局どんどん砂漠化していると言われる。地中海文明なんか、例えばレバノン杉、そういう立派な杉が本当は地中海の沿岸でいっぱいあったわけですけれども、いまレバノン杉が本当に生えているところはほんの一部らしいんです。そんな形で森林を過度に使い過ぎるということがあって砂漠化しちゃったという傾向はあるようです。

 アメリカのカーターという人とデールという人の共著で 『土と文明』 (家の光協会) という本があるんですけれども、その中で文明と土の関係、森林の関係、その辺がいろいろ議論されています。

 ところがいまの日本ですと、むしろ木がなくなって砂漠化というよりも、むしろ、『雑木林の経済学』 (樹心社)の中で私が強調しているように、むしろ日本の場合、燃料革命の時代、別名エネルギー革命とも言いますけれども、その燃料革命ということで石炭と薪炭をやめて石油とガスだけの生活が余りにも普遍化してしまって、逆に木を使わなくなってしまいました。そのことが林業の不振を招き、せっかくこれまでつくってきた山の手入れが経済的に見合わないということで山がかえって放置されている所が多いのです。日本の場合は、砂漠化を心配するよりは手入をしながら山林をもっと活用していくということが大事な状況じゃないかと思います。

 これ非常にびっくりするような例ですけれども、アメリカの場合は農地が砂漠化しているというようなことで、一方で大騒ぎしながら、やっぱり農地の土壌侵食を防がなければならないということで、農家自身が一たん切ってしまった木をまたどんどん植えているというわけです。一九七〇年代になってからそれが盛んになって、もう一度日本の言葉で言えば屋敷林とか屋敷森といいますが、それに対応するようなものが復活しっつあると聞いています。アメリカの農地の場合広いですから屋敷林と言っても相当大きな木がずっと育ってきて、それで薪だとか木炭、特に薪の利用というのが非常に盛んになってきた。結局土壌を保全するためにも木は大事だし、木をたくさん植えておけば薪がとれる。それを活用していこうということで、家庭の中で薪ストーフだとか薪オーブンなんかがさかんに使われるようになってきました。暖房をするのと同時に上で調理ができるようなものもあり、それはみんな薪でやるわけです。それから産業レベルでも工場のボイラーを薪で暖めるというようなことが出てきて、アメリカの場合にカロリーベースで見て、木材が供給する熟が原子力発電の二倍になったというデーターがあります。日本の場合は薪炭のエネルギーというのは原子力の百分の一なるかならないかぐらいで、ほとんどあるかなきかなんですが、アメリカの場合原子力が停滞しているということもあるんですが、薪が原子力の二倍にもなっているというのです一方で山の手入れをし木を植えながら、またそれをうまく使っていく。そういう方向にだんだんアメリカは変わってきていると思うんです。
これに対し、日本の場合かなり、その点立ち後れているんじゃないか。かなり深刻な問題じゃないかなというふうに思っております。

 ― ブナ林の廃頽ということがよく指摘されますが、これはどんなことですか。

 室田 やはり日本の場合燃料革命ということがありまして、いわゆる広葉樹というのは従来は薪炭林としてかなり経済的に重要な意味を持っていたわけですけれども、薪炭がそんなに要らないんだということになって、じゃどうするかとなると、広葉樹はパルプ材として切ってしまえばいい。その後に針葉樹、つまり杉だとかヒノキだとか、あるいは寒冷地だとカラマツ(針葉樹ですが秋に落葉します)は後で建材として使えるというようなことで、要するに広葉樹林の価値というのがうんと低く見積られた時期がしばらく続いて、それでどうしたかというと、そこに針葉樹林がものすごくふえたということです。ブナ林も広葉樹になるわけです。結局それは切ってしまって針葉樹に植えかえるというような過程があって、非常に少なくなってきたんじゃないかと思うんです。
それでいま問題になっている青秋林道というのはブナの原生林そのものが非常に少ないんだから、青森県と秋田県
の境に辛うじて広がっているブナの原生林に本当に必要かどうかわからない林道をつくるのはどうかということで、シンポジウムが開かれて議論になっているわけです。大きな流れから言うと、広葉樹を針葉樹に変えていくという流れがあって、それは拡大造林というふうに言うわけですけれども、単に造林していくのではなくて従来広葉樹だったところを切って、そこも造林していくという、そういうことが盛んだった時代があって、いまそれで広葉樹の価値が逆にまた見直され始めている時期になっていると思うんです。特に北海道の広葉樹なんか高級な家具材として世界一の優良材なんじゃないかというふうに言われて、非常に質がいいらしいんです。ヨーロッパなんかで高級な家具をつくったりするときに、北海道の広葉樹でないとだめだ。それから、楽器のピアノも非常に良質の広葉樹の材を必要とするわけで、それがやはり北海道にいいものがあるらしいんです。ところが北海道もやはり拡大造林の影響で広葉樹を相当減らしてカラマツ中心にずっとしてきた。それで世界的に注目されて慌てて広葉樹をどうやって育てるかといぅことで、普通は植林という針葉樹しかやらないわけですけれども、東大の演習林とか北大の演習林だと広葉樹をどぅやって人工的に育てていくか。そんな研究も始まっています。ですから一時期の、とにかく拡大造林で杉、ヒノキ、ということで、確かに山が一年中いつでも緑なんですけれども、いつでも緑の山があればいいというものでもなくて、その中にやはり秋になったら紅葉するような木も大事だということで、もっとバランスのとれた森林の育成、保全ということが必要かつ大事になってきている時期だと思います。
                                  (昭和六〇年九月六日収録)


室田 武     一九四三年、群馬県高崎市産れ。
           一九六七年、京都大学理学部物理学科卒業、
           一九六九年、大阪大学大学院経済学研究科修
士課程修了
            一九七六年、米国、ミネソタ大学Ph.D.取得、
                   米国イリノイ大学経済学部、国学院大学経済学部専任講師を経て、
           一九七八年、一橋大学
経済学部助教授、現在に至る。

主要著書     『エネルギーとエントロピーの経済学』(東洋経済新報社、一九七九年)、
           『原子力の経済学』日本評論社、一九八一年)
           『水土の経済学』 (紀伊国屋書店、一九八二年)、
           『水車の四季』日本評論社、一九八三年)、
           『技術のエントロピー』(PHP研究所、一九八五年)、
           『雑木林の
経済学』(樹心杜、一九八五年)

共 編 著    『エントロピー』朝倉書店、一九八五年)

共 訳 書
    ニコラス・ジョージェスクレーゲン『経済学の神話』(東洋経済新報社、一九八一年)