一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第四十七号]『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として
                                                    一橋大学名誉教授 南  博

   わが父、南胃腸病院院長・南 大曹

 最初にちょっと私の経歴の中で、皆さん御存じの方もあると思いますが、私の父は南大曹と言いまして、京橋で南胃腸病院というのをやっておりまして、その話をしますと大抵の方が、御親頬、御兄弟、その他私の父の手にかかって―手にかかってというのはおかしいんですが、あるいは手にかかってお治りになった方もあるし。それから、文芸春秋の社長の上(かん)林君は私の父のところへ長い間入院をしていた。上林君は京都一と言われる上林呉服店の次男で、長男が跡を継いでいますが、私の家で母や姉がいつでも御世話になっておりました。昔からそういう個人的なつながりがございますので、私が学者的自叙伝(『学者渡世(1)心理学とわたくし』、一九八四年)というので、いろんな出版社もありますが、上林君のところでしてもらって非常に喜んでおります。

 父が医者でしたので医者にしたかったらしいのですが、私はわりと親孝行で父親の生年を知っていて明治十一年生まれです。父が五黄の寅で、私の母が寅で、私が五黄の寅で、タイガースじゃございませんが (笑)最強の寅だと子供のときから言われて、言い出したらきかない。医者の勉強をやりかけたのですが、どうも父の生活を見ていると、いまの言葉でびびっちゃう、恐れをなして。一日三時間くらいしか睡眠をとらないんです。夏は七時から病院、冬は八時から晩の四時、五時まで。日本で一日に一番多数の患者さんを診ただろうと言われて百人ぐらい。私が得た教訓の一つは何かといいますと、つまり、余り好きで自分が一人でやってしまうと、いいお弟子さんがなかなか育たないのです。好きですから自分がどんどん診てしまう。それで、おれの指はレントゲンよりも正確だというような自信があって、顔色を診ただけでもわかるとか、それから縁起でもない話ですが、患者さんの亡くなる日時、ほとんどあと
何日で、場合によっては時間もかなり正確に、そのころまでと言うと大体当たっているというようなことで。

 もう一つ、父は別に経営学を勉強したわけではないのですが、病院の経営ということを、これは皆さん方の御参考になるかどうかわかりませんが、患者さんが非常に多いので急診券というのを発明したんです。急診券というのは急行券と同じで、割り増しを出しますと患者さんの列を三人とか五人とか飛ばすわけ。非常に非難された面もあるんです。これが有名になりまして、いまのことばならがめついとか言われたんですが、ただ、私がよく知っているのは、父の名誉のために申しますが、急診と言っても、父は非常に診断が早いのでそう長い間お待たせするわけではない。お金のある方からできるだけいただいて、そのかわり百人のうち二割ぐらいは―ドイツ語でフライという言葉がございますが、つまり無料なんです。無料で診察してあげる。それは患者さんの経済状態をちゃんと伺って、私はいまでも覚えているんですが、母が全部経理のことをやっていて、そうするとフライの略字でFというのがかなりあった。
自分は絶対人には言はない。言えばまたそれで何か言われるので言わないけれど、おれは取るところから取って、そのかわり恵まれない人のためにはただでも診る。自分としてはやましいところはないという信念です。

 父が亡くなって大分たちますから、いまごろ名誉回復じゃ遅いんですが、ちょっとその急診券のことを申しました。病院経営というのは非常にむずかしいので、父なんかは一番合理的にやりました。そのかわり病院と運命を共にするということで、関東大震災のときは京橋の木挽町、いま中央公会堂、あそこだったんですが、焼け落ちる、もう危い瞬間まで自分だけ残って、患者さん、お医者さん、看護婦さん、全部上野の公園に避難させて、自分が最後に病院を出て、いまは自動車道になっていますがそのころは川があって、橋を渡った途端に橋が落ちたということで、やはりリーダーシップをとる人間は、それは船だと船長さんがそうでしょうが、自分の生命よりあずかっている方と部下の生命を大事にするのです。

   わが心の師 福沢諭吉

 私はそのころちょうど小学校二年ですが、私の小学校は慶応義塾の幼稚舎というところで、いまでも福沢先生から、もちろん直接教えていただいたわけじゃないんですが、福沢先生の感化というのが小学生でも一生残るものだろうと思います。その当時から独立自尊がモットーで、「独立自尊はわれらの教え」という歌があって、余り意味はわからなかったんですが、福沢先生が明治の初年に、一身の独立がなければ国の独立もあり得ないということで、つまり日本の国民の意識が変わらなければ国全体もよくならない。いま私は日本人研究、「日本人学」というのを専門でやっておりますが、明治維新の後、御一新というもので日本人は変わったか変わらないかという論争がありまして、当時の代表的な学者の一人西周のような人が日本人は変わったという考え方だったんですが、福沢先生は、いや日本人は御一新でも変わらない。幕府という看板から天朝という看板が変わっただけで、中身は変わらない。が変わるためには教育。一橋とも関係がございますが、教育以外に国をちゃんと近代国家として発足させることはできない。

 したがって福沢先生は生涯新政府に仕えることをしない。位階勲等を受けない。全く民間の学者、教育者として終始された方で、私は覚えておりますが、小学校の講堂に福沢先生の大きな肖像がありましたが、着流しで腕を組んで立っている。われわれ子供のころ、勲章を付けてUげを生やしているのが偉い人だと思っていましたから非常に不思議な感じがしたんです。いま思うと、やはり御自分の個人的な生活自体そういう独立自尊という気持ちがあったと思うんです。

 「私が学問をやる理由になったのは、一つは独立自尊ということをどうしたら日本人の心の中に植え付けることができるかということで、もう一つは、やはり人間は出処進退ということが大事だ」と先生は言われた。福沢先生の自伝の中で、いよいよ官軍の江戸城総攻めという可能性が出てきた。江戸のお城の中で福沢先生は非常に低い位置だったわけですが、徳川家の家臣の人たちがいろいろ議論をしている。おまえはどうすると言われたら、「私は戦争になったら、ほかにすることがあるので戦わないで一散に逃げ出します」と言われたのです。ところが、幕末に出世して幕府の重臣になった勝海舟先生は、明治になって、今度は新政府に仕え重く用いられて伯爵にまでなる。

 それはどういうことなのか、おかしいと先生は書かれた。しかし先生は礼儀を知っている方ですから、勝海舟先生のところへ前もって、自分はこういうものを書いたけれどもこれを活字にしてもよろしいでしょうかと聞かれると、勝海舟は、福沢というのは自分が使節でアメリカへ行ったときに船の下にいたというようなことで、勝海舟も大人物ですから、それは書きたいことがあれば書きなさいというのでそれが出たということがあるのです。

   わがゼミナールの気風とゼミナリステン群像

 話が飛びますが、大学で私が評議員を二期務めておりましたが、ちょうどそのときに、いわゆる大学紛争というのが起きまして、私のゼミというのは非常に変わり種が出るところで、石原慎太郎君も私のゼミですが、それから映画とかテレビ関係、いろんな人がおりますが、紛争のときにバリケードと言って本部を占拠したんです。これは左の方ですが。私のゼミは左右を問わず人間として自分の主義主張に忠実であれ。それから、友を裏切るなということだけを教えたので。右側の空手郡の副将が私のゼミにいて、左の方のリーダーとが両方で私のところへいろいろ言いに来るわけですが、僕はそれは思想の自由があるから右でも左でも、ただ自分の信念を曲げないようにすることと友を裏切るなということだけをアドバイスしました。最終的には幸いほかの大学と違って警察の力を借りずに解決した。
これは私は一橋大学の伝統として誇るべきことではないか。教師と学生の間で最終的に意思が通じたというのは、ほかの大学にはあまり見ないことで、私はそのことだけでも一橋大学の誇りだと今でも思っております。
 その空手の副将が私のところに来て、これからバリケードをぶっ壊す。中にいるやつを追い出すんだ。この間もやりかけたら中から出てきて向かってくるやつがいるので、こっちは空手だからやれば勝てるけれど、向こうもとにかく負けずに出てくるので敵ながら人間としては認めてやってもいいので、回し蹴りだけはやめておいたとか言っていました。彼は今、パリ一の空手道場をひらいています。

 卒業してから見ていますと、それぞれいろんな立場がありますが、みな社会人としてちゃんとやっている。私のゼミの第一期生、辰濃和男君というのがいま七、八年来『朝日』の「天声人語」を書いていますが、この人なんか「一橋新聞」 の編集長をやっておりました。

 それからいま成城大教授で―私を成城に呼んでくれたのは石川弘義君ですが。かなりいろんな人が出て、石原君と石川君が同期生ですが。イデオロギーとか主義主張は違っても人間としてとにかく認め合うこと、友情と思想は別だということだけは、私は常に教えているので、ときどき集まるときにはいろんな立場の若い人が―若い人と言っても人間というのは、皆さんそうかもしれませんが、自分の年というのは意識しないものです。それで辰濃君とか、マスコミ関係ですと、テレビだと皆局長クラスの人です。マスコミは定年が大体五十五歳くらいです。そうすると今年、来年ぐらいになりますと私のゼミの一期生あたりが定年なんです。そうすると、君はもう定年か、そんな年かなんて。考えてみたら自分の弟子がその年なら自分の年に驚くはずなんですが、それは非常によくしたもので自分はいつまでも年を取らないと、そう思っていた方がよろしいので。

  恩師 橋田邦彦先生の生きざま

 私がこの本を書きましたのは、私が学問の上で恩を受けた先生。それは、私は最初東大医学部というところにいまして、一番尊敬していたのは生理学者の橋田邦彦先生。この方が後に文部大臣になられて、戦後に、自分は戦争中文部大臣として若い人を学徒出陣とか、いろいろそういうことがあったのにそれを阻止するだけの力と勇気がなかった。それを恥じるということで自殺されたのです。私は必ずしも橋田先生と同じ立場ではありませんが、やはり人間として責任をとる。若い人を誤らせたと反省されたことと、橋田先生は生理学者、自然科学者ですが、仏教に非常に造詣が深くて道元の研究、いまでも先生の書かれたものが残っておりますが、『正法眼蔵』の解説、解釈をされたものなども。私は学生時代医学の勉強をしているころ一番影響を受けたのは橋田先生であり、橋田先生が自殺されたことを、私は戦前から戦後までアメリカにいましたので知りませんでしたが、橋田先生ならそういうことがあるだろうと。橋田先生は御自分にふさわしい死を選ばれたということで、悲しみもありますが、同時に先生の生き方、それから先生の死において人間としてそこに一貫したものがあったということで心が安まります。

   親子関係並びに登校拒否について

 アメリカへ行く前に京都大学に移るときいろいろ青年時代の煩悶がありまして、それはどう考えても、父親の跡を継げば親の威光で何とかやっている。どんなに頑張っても、父親ですが客観的に見てあれだけの名医になれるはずがない。うまくいっても親のお陰。うまくいかなければどうしようもないということですので大分、父も五黄の寅、私も五黄の寅ですからいろいろ意見が違うことがあり、二年ぐらい休学しました。― いまの小学生、皆さん方のお子さん、あるいはお孫さんたちにもそういうことがあり得ると思いますが、登校拒否で学校に行きたくない子は行かせなきゃいいんです。

 お手元に私が主催しております日本心理センターというところの御案内を差し上げましたが 私のところは心理相談専門家が七、八人いまして、児童問題、家族関係、職場の人間関係、ノイローゼまで皆、私が一橋や日本女子大などで教えた人たちにお願いしているのですが、登校拒否、あるいは家庭内暴力でもそうですが、一番目立つのは、お母さん方に共通している点は何かと言うと、世間体を考え過ぎる。自分の子供のことよりPTA、隣近所とかいろんなところで、いわゆる一層身が狭いと思う。極端になりますと、そういう人が思い余って子供は自分のところに置かない。
戸塚先生のスクールだと厳しくしつけてくれるというのでそうなりがちなんです。登校拒否、あるいは家庭内暴力は結局親の問題であって、私のところへ相談に見える方、もちろんその子供たちではなくて御両親、特にお母様方ですが、やはりお母様方の方で自覚がないと、これは解決しない。

 それを、無理やりでも、引っ張ってでも引きずってでも学校へ連れていくというようなのが一番よくない。行きたくなかったら行かないでいい。なぜ行きたくないのかということを少しずつ子供に聞く。それは漠然と行きたくないということはあり得ないのです。いまいじめっ子ということが問題になっておりますが、単純な場合には、いじめられるのが恐いから行かない。これは比較的解決が簡単というわけではありませんが、学校側でいじめっ子をなくすことは可能なんです。一番困るのは学校には行きたいんだけれども、それより家にいたいということなんです。

 この本にもちょっと触れておきましたが、これは現に立派に社会人としてやっている人のことですから構わないの
ですが、一橋の学生で、私が定年で辞めるちょっと前ですが、ある学部の学生でもう四年生になっている。お母様が私の所へ相談に来られて、うちの息子が大学へ行きたがらない。だんだん就職の時期になってくるんですが、私が押し出すようにして学校にやると、一応行くんですが、お昼ごろばなると飛んで帰ってくるというんです。登校拒否というのはもう大学レベルまでいま出てきていますから。もっともいまの大学は、一橋はかなり厳しいのですが、のんきな大学ですと、学校というのはレジャーランドみたいなもので、学校へ遊びに来てたまたま友達に会えなきゃどこかの教室に入って居眠りしているというのもいて、それを余り気にすると教育者としてはノイローゼになることもあります。それでその場合聞いてみると、いや、自分でも卒業近い、単位取らなきゃいけない。就職試験もある。その問題について、わざわざ見えたんですけれども、そのお母様に、じゃ家で何しているんですかと聞くと、私の後を付いて歩いています。私がお台所で何かやっていると、何つくっているの、今晩のおかずは何。この行動は大体幼稚園クラスです。心理学で退行現象と言って退いていく。精神年齢が下がっていく。しかし一面学校へ出なきゃならない。そのお兄さんの方はやはり一橋ですが、卒業して立派にやっている。私は、それはお母さんから離れられない、このごろマザコンなんていう言葉がありますが、何かのことでマザコン的なものがぶり返してきたので、よく話をし合って、それで無理に行かなくても必要に迫られれば、別にそれはノイローゼとか、あるいはもっと重い病気とは違いますからだんだん考えるに違いないので、余り気にしないで家でできる勉強は家でやるようにするというようなことで、あなたが心配すると、そういう息子さんの場合は、それがまた敏感に響いて、これはどうしても行かなければならない、しかし行きたくないという葛藤状態が続くとなおさらよくないので知らん顔していなさいと言っているうちに、それはやはり友達からも言われるようになって、結局ちゃんと卒業して立派にやれるようになったのです。


   我慢とやせ我慢

 私、一橋に三十年以上勤めさせていただきましたが、いまずっと見ていますと、やはり会社に入って順当に行くのは、一つはスポーツでいろんな部に入っていて、特に合宿で集団生活をした学生は大体いいようです。それは合宿生活というものは集団生活で、つまり会社の集団生活は規律を守ることが身に付くのと、それからスポーツ合宿の場合にはいろんな学部の学生がいて年齢も違うことがあり、自分と違った人間に会って、その交流が自分を知るのにも非常にいいのです。さらに体力と忍耐力が養われることです。

 石原慎太郎君は柔道と、それからフットボールをやっていたんですが、学生時代から非常に行儀のいい礼儀正しい学生で、合宿とか練習試合のときは必ずゼミに、こういうことで出られませんと私どもへ断ってきている。もちろん成績はよかったのですが、実はあの人は法学部にいて、法学部の先生が留学なさるので私がちょうど二年間あずかったのです。その先生が私を信用してあずけていらしたのですから、なおさら私としては責任を感じていたのですが、四年になったとき、例の『太陽の季節』で一挙に名をあげたのです。一橋大学の学生にかぎらず、作家として、このごろはたくさん若い人が早くから作家として立てるようになりましたが、石原君なんかが一番最初でしょう。私の教育方針が、自分に誠実であること、友達を裏切らないこと。それから、何をしても構わない、ドゥ・ホワット・ユー・ウイルと言って、したいことは何をしてもいい。それは青春の特権であって、スポーツも、おとなから見ると危険なスポーツでも、それは自分の責任においてやればいいので、例えば登山して遭難すれば人に迷惑をかける。自分で処理できる、自分で責任を持てるなら何をしても構わないということです。それから私が俳優座の養成所というとこ
ろで心理学をずっと教えていたんですが、あそこの三期生か四期生ぐらいで愛川欽也君という人がいて、いまテレビでいろいろやっておりますが、あるときNHKのテレビで対談をしたときに彼が、先生は覚えていないでしょうけど、教室でなくて廊下で先生が僕に一言言ったことがあるんです。人間は我慢はしなければいけない。しかしやせ我慢はしてはだめだ。我慢とやせ我慢はちがう。これから先はやせ我慢になると思ったらやめなさい。やせ我慢というのは自分が無理をする、他人にも無理を強制することになりがちなので、我慢とやせ我慢の区別をしなさい。それを覚えていて自分は非常に忙しくテレビなんかの仕事をしていますが、ここまでは我慢でここからはやせ我慢というときはどんどん仕事を断っちゃうと言っていましたが、そんなことです。
和泉雅子さんという人が探険に行った。私あの人と一緒に講演をやったことがございますが、私が感心したのはあそこまで行ったということよりも別のことです。それは準備をしていくことはできると思う。お金と体力があれば。ただ、もうちょっとで目的地に着く前に、これ以上やるのは無謀であると判断して、思いきりよく引き返したごとです。人間にとってギブアップすることは貫き通すことと並んで、あるいはそれ以上に意志力を要することですから。


   一橋大学との縁結び役 高木貞二先生

 先ほど橋田先生のお話をいたしましたが、一橋でいろいろな先生方に教えていただき、また同僚、あるいは後輩の先生方からもいろいろ学ぶことがあったわけですが、やはり一番印象に残っているのは、社会学部というものを創設されるのに当たって一番苦労なさった上原専禄先生です。御承知の方もあると思いますが、私は昭和二十二年に八年ぶりにアメリカから帰っ参りましたが、そのときに予科の講師は、大抵、東大の心理学の教室から助手の人が行っていたんですが、東大の心理学主任の教授高木貞二先生―お父様は高木貞衛と言って大阪で広告業の先駆である萬年社の社長をしていらした方です ― がとにかく遠いところだし、なかなか行き手がない。遠いだけではなくて、いまはそうじゃないと思うんですが報酬が驚くほど、天文学的に少ないということはないのですが (笑) ― 少ないんです。それで、おまえは食うに困らんからと勝手に言われちゃって。私が日本へ帰ってきたのは昭和二十二年で父親は敗戦の年の二月二十六日になくなりました。父親の命日を覚えているのは親孝行の一つなんですが、実は非常に具合いいことに二月二十六日で、二・二六ですから覚えやすいと言ったらどこかで怒っているかもしれませんが。
不思議なもので、皆さんもそういう御経験があると思いますが、私の父親は六十九で亡くなったんです。私はそれより二歳上になったわけ。何となく父親と感じなくて弟のような気がしてきて、これは一体親孝行なのかどうかわかりませんが、自分の年齢が父親の没年を超えると何となく…‥・そういうことがありますが。

 高木先生は、後に東京女子大の学長にもなられましたが、非常に立派なクリスチャンで温厚な先生で、東大でも学生諸君がいろいろ騒いだとき、高木先生だけは苦手だとよくみんな言っていた。なぜかというと、高木先生のところに押しかけると、一番いい椅子にみんなを座わらせて、何時間でも幾ら騒いでも、ワアワア言っても、先生は顔色ひとつ変えないで、ああそうですかと話を聞かれるので、何か先生が反論とか、怒鳴ったりするとやりいいけど高木先生じゃというようなことがあった。私の母の実家は祖母の時代から大阪で、祖父が明治初年、実業家の五代友厚さんと一緒に鹿児島から出てきまして、大阪のいまの商工会議所を一緒につくったのです。高木先生と母なんかは近所の幼友達だったんですが、そういうこともあって高木先生が、私をアメリカのコーネル大学へ推薦してくださった。いろいろ高木先生から教えていただいたし、また高木先生の人格というものにも影響を受けておりましたので、とにかく非常勤で時間給で、驚くほど少ないんですよと念押しされました。私、当時鎌倉にいまして片道二時間ぐらいかか13


るんです。そのころ非常勤のほかの先生に聞くと、うちからはどうしても途中タクシーでないと来られないのでタクシー代の方が非常勤の手当より高くなってしまって毎回赤字で足が出るという話も聞きました。いまはそうじゃないんじゃないでしょうが。


   アメリカ留学の思い出

 高木先生が留学されたのがコーネル大学で、高木先生と大学院で一緒だったダレンバックという先生がコーネル大学で主任教授になっておられて、その先生のところへ私が行ったわけです。『学者渡世』にも詳しく書きましたが、私にとってアメリカは第二の祖国であり、その先生は私の第二の父のようなもので、戦争が始まったときにその先生が私を呼んで、とにかく勉強をやりかけているんだからこちらに残りなさい。きょうから自分がおまえのファーザーのつもりで、戦争になっても勉強を必ず続けさせる、中断したりさせないといわれた。それから大戦の始まる一カ月前に、私の小学校の同級生の父上というのが野村大使で、ワシントンの大使のところへうかがったんです。そのときに野村さんも、戦争になってもせっかく来たのだから帰らないで勉強しなさいといわれた。それで私は残る決心をしたわけです。

 学者では、後に国際キリスト教大学の総長になられましたが、クリスチャンの湯浅先生も残っておられたのです。コーネル大学はニューヨーク州の北で非常に寒いところ、大体樺太くらいの気候ですが、無事にそこの大学院を終わって、その後大学に残っておりましたが、私はもう一刻も早く日本に帰りたいと思っていたのです。しかし、なかなか、アメリカ政府は出国のビザはすぐ出してくれましたが、マッカーサーの方からなかなか入国のビザが出ないので
結局二年近くアメリカに残っていた。

   社会科学の総合大学としての一橋

 そして帰ってきてまた、高木先生の御世話で一橋に来ました。一橋では商科大学から一橋大学になり、これは社会科学の総合的な大学にすべきである。したがって大学の名称を変えたらどうかということで。この話は御存じの方も多いと思いますが、学内でかなり議論がありまして、社会科学大学という名前、これはユニバーシティ・オブ・ソーシャル・サイエンス。それから、一橋大学という由緒のある名前とどちらにするかということでかなりもめました。
これからの日本の学問が世界的に飛躍するには、一橋大学よりトウキョウ・ユニバーシティ・オブ・ソーシャル・サイエンス、東京社会科学大学がいいとする説もかなりあったのです。私は若輩でもちろん何も意見を言う立場でもございませんでしたが、結局一橋大学ということに落ち着いたわけです。いま考えてみますと、内容的には日本で唯一の総合的な社会科学大学になっておりますが、やはり一橋という名前が世界的に知られてきており、外国からの留学生も、私のところには、メキシコ、台湾、イタリ1から来ていました。皆、いま国へ戻って立派に仕事をしていますが、一橋大学という名前で、ちょっと発音しにくいとか覚えにくと言いますが、やはり一橋大学で押し通したのは結果的にはよかったんじゃないか。


   上原専禄先生の学問とその人間像

 そこで、社会学部というものをつくることになり、上原先生が初代の学部長になられ、社会学部の構想というのはほとんど上原先生がお考えになった。私は予科から社会学部の方へ移らしていただいたんですが、最初大変だったんです。

 上原先生を御存じの方々大ぜいいらっしゃると思いますが、とにかく綿密な方で、小さな手帳があって、何でも、例えば僕なんか大したこと言っていないのに全部書かれる。教授会が午後から始まりますと、ひどいときは夜の十時とか十一時。私はとても鎌倉に帰れない。鎌倉へ帰るからお先へなんて言えないわけです。たまたは東京にも家がありましたのでそういうときは東京に戻りましたが。そういうことで非常に苦心なさって、その後いろいろな大学で学際研究といって、社会関係学部とか人間科学科とかいろんな名前の学科、学部が輩出している状能ですが、やはり先躯的なのは一橋大学の社会学部である。ここで歴史、文学、哲学、それから社会学、心理学、言語学などを総合的に研究する。それには学問は縦割りではいけないんじゃないかということで、これも国立大学で最初の試みだと思いますが、地域研究という部門をつくりまして、アジア、アメリカ、それからヨーローパなどある地域について総合的な研究をするということを考えられた。これもいまは方々の大学でもやっておりますが、地域研究の考え方の発想はどこから出たのか。私も一橋でずっと何十年も御恩を受けているわけなのでいろいろ調べてみております。一橋からドイツに留学された三浦新七先生がライブツィヒで有名な歴史家のランブレヒトに師事されました。ランブレヒト研究は上原先生がそれを引き継がれたわけですが、三浦先生、上原先生の書かれたものを読み直してみますと、私
が現在一番関心のある日本人研究、私は日本人学と呼んでおりますが、国民性の研究あるいは私が言っている歴史心理学の最も先躯的仕事が三浦先生と上原先生によって進められたが、これは日本の歴史学の世界では、まだ評価が足りないんじゃないか。ランブレヒト自身がドイツの歴史学者の中で非常に批判されたということがあり、最近にドイッで歴史学の状況について書かれたものを見ますと、ランブレヒトはやはり総攻撃にあって、現在でも評価が余り高くないというようなことが書かれた本もありますが、私はそうは思わない。

 三浦先生は特に古典的なギリシャ、ローマ、ユダヤの世界などについて国民性の研究をされ、上原先生はランブレヒトの紹介をされ、新しい史学を日本で築かれた方として直接、間接に学恩を受けています。ところで上原先生は確か満五十歳になられたとき突然お辞めになったんです。私たちの社会学部の教授会で困りまして、高島善哉先生が学部長で、代表して是非辞意を翻していただきたいと、その理由を伺いにいらしたんです。高島先生が帰られて教授会で、上原先生は、自分は今後一日本人として生きるつもりなので一切学校関係とかそういうものには携わらないというお話があって、われわれ俗物は、おれたちは日本人じゃないのかなんて、(笑) その程度の次元のところで、上原先生の真意がわからなかったのです。その後先生がお辞めになってから、私が一番尊敬していた先生なので、度々お宅に伺いました。

 これから自分は一日本人としてということでしょうが、勉強するということで、お宅の中に校倉づくりの非常に立派な書庫をおつくりになって、その書庫ができたとき私も伺って書庫の中でお話ししたことがあります。そのときに先生が、自分は長年教育者としてやってみたけれども、教育というものは人間をよくすることができないんです。私は教育に絶望したという言葉でした。

 それから、政治もやはり人間の生活をよくできるものではないと思う。芸術の話は余り出ませんでしたが、自分は
宗教についてはまだ勉強が足りないので、あるいは宗教は人間を救うことができるかもしれないので、これから自分は宗教の勉強に専念します。特に日蓮の研究をやるというお話を伺った。
                                         
 それからまもなく、先生の息子さんで、上原淳道君というのが先生のところへ行きますと、お宅が跡形もなく全部サラ地になっている。つまり淳道君も知らないうちに、ピアニストのお嬢さんと二人で京都へ、どなたにも知らせずに引っ込まれて、お弟子さんで一番近かった人たちも知らないということで、これは探してはいけないんじゃないかと、私なんかもそう思って、お見かけしたという人がたまにありましたが、私は、先生はもういわば隠遁の生活をなさるということですから、探し出したりするとか、どこにいらっしゃるとか、そういう詮索をするのが先生に対しては最も失礼であると思ったので、ついに亡くなるまで知らなかったのです。

 奥様は御病気で亡くなられたのですが、上原先生は、そのときの主治医が、これは先生のお言葉で言うと、つまり誤診のようなことで治療がうまくいかなくて亡くなったというように思い込まれたようです。そういうことがありまして、上原先生とはそれで永別ということになったわけです。

 先生が大学をお辞めになってから国民文化会議という文化団体をつくったんです。これは非常に幅の広い文化運動を日本でやろうということで最初の企てで実にいろんな方が参加しておられた。徳川夢声さんとか山田耕筰先生とかいろんな方が入っておられて、それだけの方々が集まっておられる場所だとすると、上原先生のような人格者でないとということで議長になられて、私は上原先生の下でなら何でもやろうという気がありましたので、上原先生が議長になられたときに、僕が事務局長でということで ― その経違も『学者渡世 ―心理学とわたくし』に書いてございますが ―、そういう中で三年半たって先生がお辞めになったんですが、お辞めになるときの御挨拶でおっしゃったのは、「頭のいい人ならこういう会議の議長は一年ぐらいやればそれがわかってしまうから辞めてしまうが、自分は
鈍いのでとうとう三年半もやってしまった」というおことばでした。先生はめったに皮肉を言われるととはありませんし、あんまり笑ったりなさらない方でしたが、そのときだけは何かちょっと皮肉なような笑い方をされたのをいまでも覚えております。

 上原先生から受けた学恩としては先生の研究されたランブレヒトが、歴史学は社会心理学であると主張したことなど、僕が勉強不足で上原先生からランブレヒト、さらに先生自身の歴史学について教えていただくチャンスを失ったことを、いま大変残念に思っております。

 先生のために追悼会というのを四、五年前にいたしましたが、そのときも、大体追悼会なんかやることが先生の意志に反するのではないかと。十何人集まりましたが、これはやっちゃいけないんじゃないか。しかし、きょうはもうこれで解散というわけにもいかないので、先生に叱られるのは覚悟の上で先生をしのぶ会をしたことがございます。
きょう、また上原先生が、おまえはいつまでたっても余計なことをしていると声が聞こえてまいります。


   一橋教授陣で心に残った大塚金之助先生と上田辰之助先生

 それから大塚金之助先生と上田辰之助先生。この二人の方の学問。大塚先生はああいう方ですから、御自分の著書、それから寄贈された本は全部東ベルリンの大学の図書館に贈られたんですね。私が何か本を差し上げると、先生はまめな方ですから必ず葉書きをよこされて、何とかの本を寄贈してありがとうございました。あなたの本はいま大西洋の大体どの辺を船で運ばれているって、先生読まないでどんどん送っちゃったんです。(笑)ひがんでいるんですが。(笑)相当苦労して書いた本で、大塚先生が読んでくださると思うと、すぐに返事が来ちゃうんです。(笑)

 そういうことと、あの先生は治安維持法などで随分苦労なさって戦後に復帰されたのですが、気むずかしい方で、僕の教え方とはまったく反対で、あの先生は非常にストリクトで、ソビエト思想史をやっている大学院生が論文を持って先生のところに行ったら、先生が、この論文のもとになっている本は何年版の本を使ったんですか。一九三三年版です。いや、その版はスターリン時代で都合の悪いことは全部削ってあるから、全部帝政時代の初版でやり直しなさいと言われる。普段余り指導しないんです。勉強は自分がするものだ。それで気に入らないと、あの先生の部屋は図書館の二階の表に向いたところなんです。「何ですか、こんなもの」と言って窓から庭へ放り出して、それを下へ降りて行って拾って泣き泣き帰るような、そういうところがある。

 しかし個人的には非常に面白い先生で、悪いことじゃないんですがコレクトマニアみたいなところがあって「私は日本人で一番たくさん映画を見ています。明治時代から見ています」といわれて、プログラムを全部とってある。あれ、どこへ行ったんですかね。あれも東ドイツへ行っちゃったんですか。(笑)
それから先生日く「学者は結婚してはだめです。一人でなきゃ本当の研究はできません。結婚したら子供をつくってはだめです。私を見て御覧なさい、家内はいますが子供はいないでしょう」と、変なところで自慢して、(笑)あれは奥さんがやはりおかわいそうだと思いましたが。よくその話をされたんです。お弟子さんが結婚すると非常に御気嫌が悪くて、(笑)恐る恐る報告に行くのもあれなんで、別に独身を皆装っていたわけじゃないと思いますが。とにかく先生は、勉強するんなら一人でなきゃだめです。妻子がいて気を取られたらその分勉強できないというようなお話でした。

 もう一人上田辰之助先生。上田先生は私が家庭的に非常に親しくしていた、歌舞伎の藤浪小道具の三代目藤浪与衛さんという方が府立一中時代の同級生で、中学生のとき一番驚いたのは、アメリカの軍艦が大正の初めぐらいに横浜
へ来たとき上田君と一緒に行ったら、中学生なんだけれどアメリカの軍人とベラベラ英語で話していたのには実に驚いたと言っておられた。上田先生はまれに見る語学の天才でしたが、非常に人間も面白い方でした。

 大学はどこでも出勤簿がありますが、自分が出勤したときは判を押すわけです。上田先生はそういうものの存在を全然知らなかったらしくて、これは何だと言って、こんなものがあるのかと。それでとにかく自分の出講の日というのはみんな押しちゃうわけ。そうすると祭日とか休暇になったところも、とにかくめんどくさいというので全部。(笑)上田先生だったかどうか。事務の人たちがとてもこれはたまらない。一々消さなきゃならないから。先生方全部出講したことにしておきますからいじらないでくださいと。(笑)私のいるところから出勤薄は事務の方で取り上げられて。このごろはどうしておられますか。そういうことがあった。

 私は、一日も不愉快な思いをしないで、いい先生方の人間的な影響を受けたことをいまでも―最初非常勤で天文学的でしたが― (笑)きょうまたこうやって皆さん方にお話しできる機会を持って大変うれしく思っております。

   
   社会心理学と私

 一橋を辞めましてから今度は成城大学に七年勤めまして、そこも定年で辞めたんですが、私よりも先輩の方々がいらっしゃいますが、私の専門で言いますと、一橋大学として私がいまでも非常に感謝していることは、国立大学で社会心理学の講座というのを文部省に申請しましてその第一号が一橋で、これは私の在任中ですからもう三十年ぐらい前です。まだ社会心理学という学問が余り認められていない時代だったんですが、そこで社会心理学の講座ができて、現在は私のゼミの三期生ぐらいの佐藤君というのが、私のあと学部長もやり、評議員などもやっていた人ですが、その後二講座ふえ、いずれも私が教えた人たちで、社会心理学だけで八六年からは三講座です。これも国立大学では私のところ―いまでも私の大学というふうに言っていますが ―  一橋が最初で、この第三講座は、新聞研究をずっと学生時代からやって、私が指導した人が教授になりました。
社会心理学という学問は大体戦前から、もちろん、さかのぼれば明治時代から社会心理学と名乗った著書もありますが、私がアメリカで、私は生理学に近い生理心理学とか実験心理学で、京大でも卒論はそれでやったわけですが、御承知のようにアメリカの大学は博士課程になりますと主科目と副科目二つで、主科目実験心理学、副科目に生理心理学と社会心理学をとったんです。
向こうで研究していたのはずっと動物の実験で、このごろは行動学という言葉が出てまいりましたが、動物と人間の比較研究のようなことをずっとやってきて、社会心理学そのものは副科目ですから、勉強はいたしましたが、主たる研究は実験心理学です。
ただ、日本に帰ってみますと、アメリカではもう ― 私がいたのが昭和十五年から二十二年までですが ― そのころから社会心理学は非常に盛んで、特に軍関係で、あるいは国民生活の上で、戦時中の食生活を変えて、新しい習慣をつくるにはどうしたらいいかとか、当然戦争目的の直接役に立つ宣伝の研究。アメリカは広告や宣伝の心理学が経営心理学の一部門として戦前から盛んであり、それから世論研究では、いまでも古典と言われるアメリカのリップマンという人の研究などが早くから出ておりますから、アメリカでは社会心理学がもう大体三十年代から非常に盛んで、戦争になってなおさら盛んになったということがあります。日本と同様にアメリカでも心理学者の主な人はほとんどみんな軍関係の仕事で、私の付いた先生も二年ぐらいワシントンに大佐待遇ぐらいで行っておられた。
私が大学院のドクター論文でやったのが動物の実験、特に動物の記憶に関する実験で、実験動物として非常に丈夫で扱いやすい小さいもので、私の研究室で飼うことのできる動物は何かというと、これはゴキブリなんです。ゴキブリを八十匹ぐらいかごに入れていろいろ実験をやったんですが、ときどきそれが逃亡しますと、研究室の建物全体の大問題で、女の子なんか怒っちゃって、あなたの方がゴキブリよりもっと害虫だとか(笑)何とか言われて、それを耐え忍んでやっていたんです。実験をするときに私が手製の箱をつくりまして、かごの中から箸でパッと入れると、みんな見に来て、神業だと。(笑)どうして捕えるんだと言って。つまり一番いいのは、手でつかむより箸でサッとやるのがいいわけです。それで随分苦労して、結果はアメリカの心理学雑誌に一九四三年にドクター論文をそのまま出してもらいましたが、それはかなり早かったので、戦後になっていろんな国際心理学の会議に行くと、別に私が若く見えるわけでもありませんが、ゴキブリ実験というので中身より材料が有名になっちゃって、あのゴキブリの実験をやったのはおまえの父親かと。知らん顔していると本気にそう思っていたというようなことがありました。昔、普仏戦争のときですか有名な細菌学者のパストゥールが「学問には国境はない。しかし学者には国境がある。」といいました。有名な言葉でありますが、私は必ずしもそうは思わない。学問に国境がないだけでなくて、やはり学者にも国境はないと思います。
大学院の同期生で同じ研究室にいたのがダレンバック先生の息子さんですが、召集され、重爆のパイロットになってベルリン空襲で、アメリカで言うミッシング、つまり行方不明になりました。これは捕虜にもならないし、ベルリン大空襲ですからわからないわけです。先生はもともとドイツ系の人で非常に厳格な先生ですが、亡くなってからまだ四、五年私はアメリカにいたわけですが、先生のところへ行ってもついに最後まで息子さんの名前、ジョンというのですが、一言も言ったことがない。昔の武士というのはこうではなかったかなと思ったんですが。奥さんの方はやはりそうではなくて、息子さんの写真を常に飾って、私が行く度に必ず聞くんです。ジョンは生きている、どこかで
捕虜になって生きている。そのうちに帰ってくる、きっと帰ってくる。あなたもそう思うかと、必ず毎回言われるので、それが実につらくて。しかし、それ以上、父上である先生が一言も言われなかった。その先生は、もう一人弟さんがいてお医者さんになりましたが。やはり外人でも父親の中にはそういう人もいて、アメリカ人は比較的表情を大っぴらにするし、泣いたり笑ったりしますが、先生はついに最後まで武士で、奥さんは普通の女性で。

 つまりミッシングですから戦死の公報がなかなか来ないんです。戦争が終わって私が帰る最後においとまごいに行ったときもまだミッシングということだったんですが。その後先生がテキサス大学に移られて、私がテキサスまで行ってお目にかかって、それが最後でしたが。やはり学問に国境がないだけでなくて学者にも国境はないというふうに私は思うわけです。

 ほかにもアメリカの友だちで戦死したのがいます。それから東京の大空襲のときに参加してパイロットでけがして帰ってきたのもいました。そうすると不思議なもので「やあ、東京の高射砲はよく当たる、あれは大したものだ」と言って、実に普通のように話をすることができる。

 それから、海兵隊というのがアメリカの最強部隊です。陸海軍で攻めあぐむと最終的には海兵隊を出すんです。敵前上陸でむずかしいところなど。ですから、最後の最大激戦地であった硫黄島とか、ああいうところは海兵隊です。海兵隊で負傷して復員して来る。復員兵は全部大学へ入学できるという特典がありましたから、そういう学生たちが帰ってくる。私は博士課程終わってから助手をやり、講義も一応やっていたのですが。そうすると海兵隊の二メートルぐらいあるのがいるんです。全都プロレスか相撲みたいなやつばかり。海兵隊の採用試験では聞くことは一つしかない。おまえは両親のどっちかを殺したことがあるか。イエスと言ったやつだけ採るというくらい猛烈なんです。そういうのが私の講義を聞いて、試験になると、何点ぐらいですかと言って、聞き方が何となく恐しいので、別にそれ
でおびえたわけじゃありませんが、皆よく勉強していた。

 ベトナム戦争でも、それから朝鮮戦争でも私が新聞を見ていると、海兵隊を繰り出すときはアメリカとしては、もうこれでだめだったら止めるという正念場です。大体アメリカは人命尊重という考えがありますから、あるところまではやりますが、やせ我慢をしないということでギブアップします。朝鮮戦争もそうです。あれは林彪のひきいる大軍と対峙して結局ギブアップした。ベトナムもあるところまで行って最終的に海兵隊を出しましたが、海兵隊の奮闘にもかかわらず、あれも結局勝ち目がないと判断したギブアップです。

 私は戦後日本へ帰ってからいろいろ、社会心理学の方面で研究の新しいアプローチとして、一番最初に大衆文化の分析をはじめました。映画とか流行歌とか、当時ですからラジオ、最も大衆的に人気のある娯楽の調査を始めたのです。それから、一橋と前後して日本女子大へも教授として行ったことがあって、そのときのゼミの第一期生というのは、映画の観客調査をずっとやっていて、いま岩波ホールの総支配人をやっている高野悦子君。

 また私が「伝統芸術の会」というのを戦後すぐつくって、狂言の野村君兄弟、能の観世兄弟、歌舞伎の又五郎君、雀右衛門君とか、そういう人たちが戦後、日本の伝統芸術は今後一体どうなるのか。歌舞伎は「忠臣蔵」を初めとして封建的であるというので上演禁止になった演目が非常にたくさんあって、とてもやれないんじゃないかということがあってその将来について考え、行動する会としてつくったのです。その例会に東京女子短大の学生で、『演劇界』という雑誌でアルバイトをやっていた学生が、先生方をつかまえて議論をふっかけていました。それが後に作家になった有吉佐和子です。彼女なんかは学生時代から飛び抜けてよく勉強もし、頭もよかった。

   私の教育方針 ― プロとアマの教育について

 私は父親を見て、自分が何でもやってしまってはだめだ。論文とか報告なども、僕が書いた方が早くまとまるけれども、極力学生諸君が自分で書く。不十分なところがあっても、やはり自力を付けるには自分でやらせなきゃだめだというので、それは一面から言うとあまり何も教えなかったということになりますが。

 この間、私の古希のパーティを辰野君とか高野君とか、みんなでやってくれたのですが、ゼミの学生代表で、辰野君とか石原君もそうですが、皆言うのは、先生には何も教わらなかった。それは教わらなかったんじゃなくて教えたことを忘れたんだと僕は思いますが、先生に習ったことは一つも覚えていない。ただ何をやってもよかったことだけが残っていると言って。私は決して自由放任じっなかったんですが、教育方針として極力自力でやらせる。自分の間違いは自分で発見する。いわゆる手取り足取りの指導はしない。

 それから、学問でも、それは皆さん方の仕事でもそうだと思いますが、学生時代からプロとアマの区別がつくわけです。プロの学者になろうという人は、やはり手取り足取りということではありませんが、厳しくしつけないと一人前にならない。

 それから、学問も職業。私は学者渡世、学問も商売の一つだと思つておりますから。学問を商売にする人間は、やはりそれだけの訓練をしないとものにならない。ですからそういう区別は一応しますが、できるだけ自分でやれるようにする。

 成城の御関係の方があると思いますが、高垣先生初め成城は一橋から大分へ行って、社会学部でも私の同輩で、中
国思想史の西順蔵君、それから一年後輩の中国経済史の増淵龍夫君。二人とも最近亡くなりましたが、非常に立派な学者で惜しいことをしました。成城に行きますと、ここは一橋と非常に違って、私はいままで私立の大学へ講義に行ったことはありますが、成城はやはり一橋のような緊張した空気は余りない。それはプロの学者になるという人が非常に少ないということもありますが、全体にたいへんのんびりしているんです。

 成城でも一人前と言うとおかしいのですが、学園紛争があったらしいんです。狭い校庭があってデモをやると、あそこは付属幼稚園まであるんです。幼稚園の子供が後からついて来る。おまえたちあっちへ行けと言っても面白がってついて回っているので全然デモにならない。(笑)そのうちに結局学生運動自体が消滅しちゃって。僕は冗談に、ここは幼稚園がある限り大丈夫です。(笑)幼稚園の子が付いて回ってはデモも白けちゃってどうしようもない。(笑)
それは私が行ったときよりも前の話ですから、その光景は見たかったと思いますが。そういう面白いところがある。

 全くとりとめのないお話ばかりいたしましたが、私としては、やはり一橋で学んだこと、特に優れた先生方、先学、それから学生諸君、そこから受けたものは計り知れないということで、一応私の話を終わらせていただきます。

 どうもありがとうございました。
                                 (昭和六十年十一月十三日収録)

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