[橋問叢書 第四十九号]  一橋の学問を考える会

    アメリカの対日戦後政策
   一橋大学経済学部教授    中村政則
      ― グルー元駐日大使を中心として ―

  はじめに

 ただいま御紹介いただきました中村政則でございます。本日はこの会にお招きいただきましてありがとうございました。大先輩を前にこういうお話をさせていただきますことを大変光栄に存じております。
きよう私がお話しいたしますのは、「アメリカの対日戦後政策」。それも膨大なテーマですので、元駐日大使であったジョセフ・クラーク・グルーを中心に見ていきたいと思います。

  グルーの略歴
 
 グルーという人は、すでに御存じの方もおられると思いますけれど、一応略年譜(附録)をつくってまいりました。生まれは一八八〇年でありますから明治十三年生まれです。ボストンの上流家庭の四男、一番末っ子として生まれました。
 一八九二年に名門のグロトン校に入学しまして、このときにフランクリン・ルーズベルトとか、後にアメリカ
の駐ソ大使になるアベレル・ハリマン、それにディーン・アチソンといったような人たちが同窓生でおりました。 そして九八年にグロトン校を卒業してハーバード大学に入りましたが、フランクリン・ルーズベルトはグルーの二年後輩でした。
 ハーバードを卒業して外交官になりますが、この人は大変なキャリアを持っていた人でありまして、約四十一年間にわたって職業外交官として第一線で活躍した人であります。一九〇四年にエジプト、カイロの総領事館書記を振り出しに、メキシコ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、デンマーク、スイス、トルコ等で外交官活動に従事した後、一九三二(昭和七)年六月に日本に赴任してきたわけであります。その一ヵ月前に日本では五・一五事件が起こっておりました。また満州事変も前年の三一年九月十八日に起こっておりました。いわば軍部台頭の時代の日本をグルーはつぶさに観察したことになります。そして四一年一二月八日、日本がパールハーバーアタックをして日米開戦になり、外交関係は途絶し、約六ヵ月間グルーはアメリカ大使館内に幽閉生活を余儀なくされることになります。翌年の四二 (昭和十七)年八月二十五日に、例の日米交換船のグリップスホルム号に乗ってアメリカに帰国したわけであります。
 
 したがいましてグルーの日本滞在は約十年間に及んでおります。恐らく戦前のアメリカ人でグルーほど日本のことをよく知っていた人はいなかったのではないかと思うのです。特にグルーがアメリカに帰った四二年八月は真珠湾攻撃の翌年のことでありましたから、アメリカにおける反日感情は頂点に達しておりました。上から下まで反日感情が全米を覆っていたと言っていいかと思います。いわゆるジャパン・バッシング、“日本たたき″が非常に激しかったときです。
 
 現在日米関係は極めてぎくしゃくしております。経済摩擦をめぐりまして、場合によっては戦後最悪の状態にあるという人さえいるほどであります。特に今年は中間選挙が予定されておりますから、議員たちが票集めのために“日本たたき″を一層強めるだろうとも予想されておりますし、アメリカ議会には幾つもの保護貿易法案が出されるだろうと言われている。昨年も有名なジャーナリスト、セオドア・ホワイトが『ニューヨークタイムズ』に、真珠湾攻撃直後のような日本批判をやったことは記憶に新しいことであります。そういう日本バッシングが行われているときにジョセフ・グルーがどういうふうに戦後の日本を構想していたか。現在の状況と引き比べても、グルーのとった行動は
今日に幾つかの示唆ないしは教訓を私たちに与えているのではないかと考えます。そこでグルーの対日観、あるいは天皇観、天皇制の問題がグルーにとって最大のテーマでありましたから、きょうはそのことに話の力点が置かれるかもしれませんけれども、そのほか日本の穏健派についての考え方とかいろんな問題が出てくると思います。

 まずお配りしたレジメに沿いまして話を進めたいと思いますが、時間が一時間ということですので、私にとってはとても時間が足りないという感じですが、なるべく後から皆様からも御意見なり御批判をいただきたいと思いますので、一時間を超えるとしてもできるだけ討論の時間を残すように努力いたします。

 一のグルーの略歴はすでに年表を見ていただけばわかりますのでこれで省略いたしまして、グルー文書についてちょっとご説明しておきたいと思います。

  グルー文書について

 私は別にアメリカ外交史の専門家でも何でもありません。日本の近代史、現代史の専門家で、明治維新から今日の日本近現代の展開については大学でも講義等でやっておりますし、いろんなことを勉強してきたつもりでありますけれど、アメリカの対日戦後政策についての本当のエキスパ一卜というのではないんです。ただ一九七九年から二年ほどハーバード大学に留学いたしまして、自分は日本史家で、ハーバードの先生は私が行くと、はかの人には英語でしゃべるのに僕には日本語で接近してくるというか、ほかの人たちに随分うらやましがられたんですが、何で中村さんにだけ日本語を使うんだと言って。そういうこともあったので、じゃ僕はなるべく日本語を使わないように、できるだけ英語の資科を使って勉強しようということで、戦前から戦後にかけてのアメリカの対日観をテーマに二年間勉強5−6してきたわけです。

 しかしこれもまた大きなテーマですので幾つかポイントを絞らなければいけない。ハーバード大学にはホートン・ライブラリーという世界的な稀覯本、コレクションを集めた有名な図書館があります。そこにグルー・ペーパースが所蔵されていた。そこでグルー・ペーパースを四カ月ほど毎日のように通ってコピーをとったり、筆写したりしてきたわけであります。

 ところがこのグルー文書といいますのは非常に膨大な量でして、大別いたしますと、ダイアリー(日記)手紙、演説、会談、電文類、新聞と雑誌切り抜き(クリッピングス)、個人メモ、それから断簡。こういうふうに分類整理されているのです。恐らくハーバードのホートン・ライブラリーで所蔵している個人文書の中でも質量的に第一級の文書と言っていいかと思います。特にグルーの日記と手紙が非常に大事なんです。

 グルーの日記につきましては、た”TenYears in Japan”という本があります。これは一九五八年に『滞日十年』というタイトルで翻訳されて毎日新聞社から出版されました。日本でも多くの読者を獲得いたしましたが、アメリカでも大変な読者を獲得した本でありますけど、実はこの公刊された”Ten Years in Japan” というのは実際のオリジナルダイアリー、日記原本と比較してみましたところ、量的には十分の一しか印刷されていないわけです。グルーは意図的に何かを隠しているわけなんです。英語版を見ましても、人名がダッシュで名前が載っていません。それから翻訳されたものを見ましても、日本語版では某と書いてあるんです。「某氏一時に来訪」とあるだけで、名前は伏せてあります。これが誰なのかを突きとめる作業も私はしてまいりました。それは後で申します。それから手紙。これはまだフルに使った人はいないのですが、私、グルーがアメリカに帰国して以降の対日関係についての重要な手紙はほとんど全部コピーしてきまして大体読んでおりますので、そういうものを使ってきょうはお話ししたいと思うわけです。

  ”Report From Tokyo”

そこで次に三番目の”Report From Tokyo”から話を進めたいと思います。
グルーは一九三二(昭和七)年六月に日本に来てから四二(昭和十七)年まで十年間いたわけですけれど、彼がアメリカに帰国いたしますと、多くの人々が、十年も日本にいたわけですから、いったい日本という国はどういう国なのか、あるいは日本を戦争で打ち負かすにはどうしたらいいんだというようなことで講演依頼が殺到するんです。グルーは駐日大使は辞めましたけれども、国務省の顧問として公的な立場で演説をいたします。一九四二年から講演活動を始め全米を文字どうり東奔西走、四三年十二月ごろまで二百五十回に及ぶ演説活動を行っているのです。

 これはすべて国務省、それから戦時情報局と、演説内容についても、どういうことはしゃべっていい、どういうことはしゃべってはいけないか、ある程度相談の上、あるいは検閲1というよりも、エルマー・デイビスという戦時情報局長がおりますが、そういう人たちと相談の上演説をやっているわけです。”Report From Tokyo”は本になっていますが、翻訳はありません。薄いパンフレットみたいな本であります。

 ここでグルーはどういうことを言っているか、簡単に申しますと、日本軍国主義の野蛮さを批判することに力点が置かれておりました。真珠湾攻撃後ですから当然日本についての非常に批判的な論調が支配的でありまして、グルーも、この”Report From Tokyo ”ではその立場から演説を行っております。

 幾つかその内容を紹介いたしますと、日本軍部というのは非常にファナティックで、全力を挙げて“のるか、そるか”
(do-or-die)の気違いじみた精神の持ち主が多い。そして狂信的で死ぬまで戦う敗北を知らない兵士。こういう日本軍の攻撃精神を強調することによりまして、ナチスをやっつけてしまえばあとはジャップ--ーと使っておりますがーーー を片付けるのは簡単だという楽観論が米国内にはあるが、そういう楽観論、自己満足がいかに危険かということを熱をこめて、説いて廻っていたわけであります。
 
 ところが一九四二年二月、ドイツ軍のスターリングラード降伏を境といたしまして、グルーは特に、また日本の戦局も不利になっていくにつれて、日本軍国主義を批判する論調を変えまして、日本に対していかに早く降伏を引き出すかという方向に転換するわけです。いわば戦争のテーマから和平へのテーマへと転換していくわけです。そのときグルーが考えていたことは、日米両国が犠牲を最も少くする仕方でどうやって日本の降伏を引き出したらいいかということに最大の焦点を置くようになります。特にアメリカ社会には、良い日本人(ジャップ)は死んだ日本人(ジャップ)だけだ。(The Only good Jap is a dead Jap)そういう言葉が残っているくらいでしたから、ちょっとでも日本のことをほめますと総スカンを食らうんです。ところがグルーは十年間の滞日経験を通じて、日本人みんなが野蛮で校滑ということではないのだという。悪いのは狂信的な軍部であって、日本には戦争を欲しなかったグループがいる。それは天皇を頂点とする穏健派グループだと。そういうことでグルーは日本の穏健派(moderates)に対するアメリカ人の誤解を解くことに努めるようになるわけであります。

   シカゴ演説

そのことを大衆の前で公然と述べましたのが、一九四三年十二月二十九日イリノイ教育協会の九十周年を記念する晩餐会に招待されまして行った演説です。通常これをシカゴ・スピーチと呼んでおります。

この演説でグルーは、寛容と高度のステーツマンシップを持って和平に臨むべきことを訴えました。戦争犯罪人は厳しく罰しなければならないが、和平交渉に当たっては、復讐、尊大、偏見のとりこになってはならない。強固かつ永続的な世界平和機構を樹立するための礎石はすでに、大西洋憲章、モスクワ協定、カイロ会談、テヘラン会談ですえられている。特に一九四三年十一月末のチャーチル、ルーズベルト、蒋介石、三巨頭によるカイロ会談では、日本の領土問題処理の方針を決定いたしまして、一九一四年以降つまり第一次大戦以降日本が占領した地域の剥奪、満州、台湾の中国への返還、あるいは朝鮮の独立などを決めておりました。さらに三国は日本が無条件降伏するまで協力して戦うことを申し合わせていたわけですが、これに対してグルーは、それは確かに和平のための基本的枠組ではあるけれど、三巨頭会談での合意はあくまでも外的条件にすぎない。日本社会の変革、日本人の再教育というのは究極的には日本国内から盛り上がる力によってなされなければならない。これがグルーの基本的な考え方でありました。その場合に、日本社会に存在する健全な要素とは一体何なのか。特にグルーは当時のアメリカ人が非常にカルタゴ的な懲罰を加えるというんでしょうか。例えば日本を農業国にしてしまえとか、天皇制を廃止せよとか、そういう論調が支配的であったわけですけど、そういうやり方では日本から早期の降伏を引き出すことはできないのだということを強調し、かつ日本滞在中に自分が経験した日本人の好意的な態度、エピソードをいろいろと紹介しております。

 一、二例を挙げますと・昭和十二年十二月十二日に日本軍の飛行機が南京に近い揚子江上の米国砲艦パネー号を撃沈させるという事件がありました。これはバネ一号事件として有名でありますが、日米関係は極めて険悪な状態に陥ったわけであります。場合によっては日米関係は決裂しかねないというところまでいったわけですが、日本政府もあのときはわりと早く対応して謝ったわけです。グルーも迅速に活動いたしました。三週間後にこの事件は無事に終わ
ったんですけれども、この事件のときにアメリカ大使館には日本人からいろいろと申し訳ないというような手紙が来て、ある婦人などは自分の髪を切ってカーネーションの花を付けて、おわびの印しにこれをグルー大使にお渡しくださいというようなことをやった。

 あるいはシンガポール陥落、一九四二年二月十五日でありますが、このときも示威運動が日本で行われた。いまで言うとデモですが、警官の護衛つきの行列行進です。その行列行進がアメリカ大使館のところに来たときに、バルコニーにいたアメリカ大使館の書記官がその行列に向かって何となくポケットからハンカチを出して振ってみた。そうしたらいままで何か吠えるような形でやってきて、アメリカ打倒というようなことを言っていた日本人が急にこちらを見て友交的なゼスチャーで応えた。日本人は羊のようにおとなしく、新しい環境、指令のもとではどのようにでも誘導されつくりかえることのできる国民である。しかし軍部の戦争宣伝にもかかわらず民衆の間には根本的な米国憎悪は存在していない。

 そういうようなことを、エピソードを挙げて、ともかく狂信的な日本人イメージを払拭するように述べてきまして、そして最後にこういうことを言うんです。これがシカゴスピーチの最重要部分であります。

 私の翻訳でありますが、読んで見ますと、「わが国には神道を日本の諸悪の根源と信じている人がいるが、私はそれに同意できない。軍国主義が日本でばっこしている限り、軍国主義指導者は日本国民の情緒主義と迷信に訴えることによって、また英霊崇拝を強調することによって、軍国主義と戦争の美徳を宣揚するのに神道を利用するであろう。
しかし軍国主義が滅びれば、そのような宣伝も同様に消滅しよう。神道には天皇崇拝も含まれている。日本が軍部によって支配されず、平和を求める為政者の保護のもとに置かれれば、神道のこの面は再建された国民の負債(a liability)であるどころか資産(an asset)となりうる。このアセットということばをグルーは非常によく使うのです
けれども、要するに神道は再建された国民の資産となり得るのだ。こう言ったわけです。

 実はこの演説草稿をちょっと調べてみましたところ前日に電報で消している部分があるんです。それは神道のかわりに「天皇制は再建された日本国民、日本社会の資産となり得る」とあったのを、そこを削って神道でぼかしたわけであります。しかしこのシカゴ・スピーチは全米に大変な反響を呼び起こしました。簡単に言うとグルーは袋だたきにあいます。演説をしたのは、十二月二十九日でありますが、翌年一九四四年一月二日の『ニューヨーク・タイムス』は「神道というのはナチズムと同様侵略の教義であって、世界を天皇の支配下に治めようとする八紘一宇の原理となっているものだ。この教義に従わないすべてに対して、聖戦を戦っているのだと日本人に信じ込ませているものこそ、この宗教的、政治的ドグマにほかならない。それはわれわれが絶滅を誓ったナチズムやファシズムに勝るとも劣らないほど困難かつ危険な問題をわれわれに突きつけている。アメリカ人が、天皇や神道に代表されるすべてと戦っているとき、それを擁護する主張を少しでも行うことは場違いである」

 そのほかにもいろいろなことを言っておりますけど、『ニューヨーク・タイムス』はそう言ってグルーを批判いた
しました。先ほどのグルー文書の新聞の切り抜きには、このシカゴ・スピーチについての全米、地方紙を含めて反応が収録されています。一応全部見てみましたけど、ほかの新聞、例えば『スター・タイムズ』などは、「グルーは天皇を擁護し利用しょうとしている」と、センセーショナルに書き立てまして「残虐の源泉日本の帝(ミカド)は去るべし」といったような見出しを付けています。「シカゴ演説でグルー大使は、天皇崇拝は諸悪の根源ではない。ミカドイズムは負債というよりも資産となろうと述べたが、これほどばかげた話はない」。あるいは『フィラデルフィア・レコード』も「天皇は米国との戦争を望んでいなかったとグルー氏は言うが、真珠湾攻撃前に天皇が側近を自己の意思に従わせることができなかったことは明らかである。戦争が終われば突然の魔法によって天皇にそのような力が付くとでも言
うのであろうか」と、グルーの主張を皮肉交じりに伝えまして、やはりグルー批判を行っているわけです。
そういう批判が幾つもあって、結局、国務長官ハルはグルーに公的な演説活動をやめるように命令いたします。このシカゴ・スピーチの後、余りにも反応がひどかったために『ニューヨーク・タイムズ』 の記者とのインタビューにグルーは応じましてこう弁明をしております。

 「私はこれまで公的にも私的にも、天皇裕仁は皇位にとどまるべきだとか、退位すべきなどということを一度も述べたことはない。率直に言って対日戦で終局的勝利を収めた後、日本にどのような政治形態がとられるかを正しく決定できる立場にある人はわれわれの中に一人としていないと思う。私がこれまで抱いたこともなく表明したこともないことを公的な発言の中に読み込もうとしても、それは害悪のみあって一利もないのではないか」と反論しておりますけど、余りにもこの演説の反響が大きかったために彼は演説活動を停止せざるを得なくなりました。その後手紙でいろんな友人に、自分の真意がうまく伝えられていないということで、ほぞをかむような手紙が何通もありますけどそれを紹介しておりますと時間をとりますので省略いたします。
                                            
   『滞日十年』” Ten Years in Japan ”刊行の背景とそのねらい

 このようにアメリカ国内では天皇制を保持すべきだという議論と、一般的には廃止論が大きかったわけですけれども、そのような状況にあった一九四四年、日米戦争は大きな転期を迎えます。六月にマリアナ沖海戦で惨敗し、七月サイパン玉砕、東僚内閣総辞職。

 私が注目したいのは、この一カ月前の一九四四年五月前後のことです。シカゴ・スピーチのあったのが四三年十二
月二十九日で、四四年の約半年はグルーは冷遇視されるわけですが、日本の戦争敗北が必至となる状況になってきますと、当然対日戦後計画を考えなければいけないわけで、そうなりますと、日本のことをよく知っているグルーがやはり必要になってきたわけです。そこでグルーは一九四四年五月一日にスタンリー・ホーンペックの後を受けて極東問題局長に就任いたします。

 ご承知のように、アメリカ国務省内には「中国派」と「日本派」というグループがありました。「中国派」という
のはプロ・チャイナ、アンティ・ジャパン。「日本派」がアンティ・チャイナ、プロ・ジャパンでありますけれども、
ホーンペックは中国派の巨頭でありました。したがってソフトピースとハードピースとあった場合に、ソフトピース、つまり寛大なる平和で行くか、過酷なる平和を押し付けるか、国務省内ではもう日本の敗戦までギリギリの両派がしのぎを削っているわけです。ホーンペックに代わって日本派の巨頭グルーが一九四四年五月一日に極東問題局長に就任した。これはアメリカの極東政策、あるいは対日政策が変化する兆しではないかといったような観測記事まで『ワシントン・ポスト』が掲げたほどでありました。グルーは自分が極東問題局長になったことで、一つのチャンスがやって来たとみます。つまり対日和平、あるいは対日戦後計画をめぐって最大のチャンスがやってきたと見ているわけです。それで『滞日十年』という本を出版することに踏み切ります。実はこの本の出し方についても、私、調べてみてよくわかったのですけれども、アメリカにグルーが帰ってすぐ、いくつかの出版社がグルーに本を書いてほしいと申し込んでいる。彼が日記を付けているということは自分でもしゃべったんでしょう。ところがグルーはそれにすぐには応じなかった。

 なぜかというと、グルーは、この本は日本との和平交渉に入るとき重要な資料になると考えていた。ですからいつ出すか。あんまり遅くてもいけないし早過ぎてもいけない。タイミングを考えていたわけです。しかし、グルー日記
の中にはアメリカ大使館からスティムソン等々の国務長官にあてたトップ・シークレットの電文等々も大分入っておりますので国務省の許可も必要だったんです。ハル国務長官もこれをすぐ出すのはちょっとまずいと言っていた。アメリカの外交自書「ピース・アンド・ウォー」というんですが、一九三一年から一九四一年までの期間を扱ったものです。これが公刊された後ならば『滞日十年』で使われている公的文書が公けにされてもかまわない。こういうこともあって、グルーは、四四年五月に『滞日十年』 の刊行に踏み切ります。

 この書物は二つの目的を持っておりました。一つは、一九四一年の戦争勃発を導くに到った日本の趨勢と各方面の進展を明瞭にすること。要するに日本がなぜ日米開戦に踏み入っていったか。あるいは満州侵略から日中戦争、太平洋戦争とくるその戦争になぜ入り込んでいったかを日本社会の内部から解いてみる。もう一つの目的は、米国の大衆に日本と日本人についてより深くより詳しい心証を持ってもらいたい。こういうことでこの本を出したと言っているんです。

   グルーと「穏健派」

 この『滞日十年』これも正確に数えたわけじゃないのですが、私がコピーしてきた書評だけでも四、五十あるんです。物すごい数の書評が出ております。この『滞日十年』の中で非常に大事な点は穏健派です。日本の穏健派について彼は非常に重要な観察を行っているわけです。どういう人々をグルーは穏健派と見ているか。これを理解するためにはグルーのペンデュラム・セオリーというんでしょうか、「時計の振り子理論」を理解しておく必要があります。
日本の歴史を振り子理論として彼はとらえるくせがあるんです。それは明治維新以来、日本という国はミリタリーエ
ックストリームリストとモダレーツが交互に政権をとり合ってきた。極端な軍国主義者というんでしょうか、軍事的極端主義者が権力を握ったと思うと、また数年、あるいは数カ月後にはモダレーツが権力を握る。このように時計の振り子のように明治維新以来の日本の政治は動いてきた。

 幾つも証拠挙げられますが、例えば彼の日記では、こう書いています。「歴史の示すところによると日本の振り子は常に極端論と穏健政治の間を揺れている。だが現状によれば振り子はむしろさらに極端な方向に進む傾向がある。
近衛と特に松岡洋右はいずれ失脚するだろうが現状では拡張計画に逆行して、しかも生き残れる望みのある指導者ないし指導者のグループは日本には存在しない」この記述は一九四一年一月一日のものであります。グルーは極端な軍国主義者、あるいは極端な軍国政治、これが大嫌いなんです。やはり穏健派を中心とする政治。これが一番いいんだと考えていた。

 じゃ一体どういう人々を彼は穏健派と見ていたか。牧野伸顕、西園寺公望、幣原喜重郎、浜口雄幸、若槻礼次郎、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、出淵勝次、これは駐米大使ですけれども。新渡戸稲造、こういった人々がグルーにとっての穏健派なんです。この穏健派というのはいずれも欧米に留学、あるいは勤務した経験があり、品位と威厳を備え、謙虚で教養の高い紳士であるというのがグルーの穏健派イメージであります。

 いま言った宮廷グループ、外交官のはかに三井、三菱とか、そういった財閥系の指導的実業家、あるいは海軍将官とグルーは接触を保っておりました。これはアメリカの学者のウォルド・H・ハインリックス教授の書いた『日米外交とグルー』から取ったのですが、グルーの交際範囲というのは、一が海軍将官、二が大実業家、三が宮中グループと分けております。その中でも最も重要な情報源は宮中側近グループでした。グルーはもともとボストン上流階級の出身でありまして、アメリカの富裕な名門家庭の子弟が通うグロトン校に進学しハーバードを卒業した。そういうこ
とで日本の上流階級に最も親しみを感じていた。彼の出自とも関係あろうかと思いますが。
もう一つは、グルーは小さいときに猩紅熱にかかって耳を悪くしていましたので、十年もいましたが結局は日本語を勉強していないんです。だから英語のできる日本人とどうしても付き合いたかった。

 それから、もう一つは、彼の外交スタイルが宮廷外交のスタイルでありました。つまり戦後のライシャワーの民間外交、学者外交、あるいはマンスフィールドの議員外交とか、そういう外交スタイルと違うわけです。まさに宮廷外交のスタイルでありまして、ともかく牧野伸顕とか、特に樺山愛輔 ― 先ほどダッシュで名前が消されていると申しましたが、消されている人物は樺山愛輔、吉田茂、出淵勝次、そういったような人なんですが、彼らが重要な情報源なんです。”My informants” とか”most reliable informants”いう言葉で表現していますけど ― それらの人々は常に今度の戦争を天皇は欲していなかったと述べている。今度のと言っても
もちろん太平洋戦争の前ですから、満州事変とか日中戦争等々を指していると考えてもいいと思いますが。
ともかく天皇というのは平和主義者なんだと言っているんです。『滞日十年』の中にもグルーはこう書いています。これは一九三四年二月八日付でありますが、「この国における最高勢力は平和的である。天皇は穏かな平和を好む性格の人である。彼の知性は彼自身が選んだ「昭和」という語で性格付けられるが、これはエンライテンド・ピース、啓蒙的平和を意味する」というふうに言っております。

   グルーの戦後対日構想

 こういう日本理解がありますので、日本と和平交渉を行う際には穏健派を中心として、しかも天皇制を保持する方向で和平交渉に臨まなければ日本の早期の無条件降伏は引き出せない。これがグルーの基本的な考え方なんです。

 そこでグルーは ― 時間の関係でちょっと飛ばしますが ― 一九四五年、終戦の年の五月でありますけれど、獅子奮迅の動きをいたします。この一九四五年(昭和二十年)五月という時期はもう戦局は絶望的な段階に入っていました。一月にアメリカ軍はルソン島に上陸しまして、三月には硫黄島の日本軍全滅。そして三月九日、十日に東京大空襲があり、四月一日に米軍は沖縄本島への上陸を開始いたします。そして四月と五月に第二回、第三回の東京空襲があるわけです。しかも五月七日にドイツが無条件降伏している。イタリアの降伏はもっと前ですから、当然、次は日本をどうやって降伏に引き入れるかが問題となった。そこでグルーは、もはや日本の敗北は必至と見まして、五月二十六日に部下のユージン・ドウーマンを呼びまして、トルーマン大統領に対日声明を発表させて、そこで何らかの形でアメリカは天皇制を保持するつもりであるということを臭わせる文章をつくるべきだと考えるわけです。

 ドウーマンは同じく三十年近く日本にいた知日派、日本派の、言ってみればグルーの片腕のような人物でありますけど、彼が二日間かけて大統領声明に当たる案文をつくった。五月三十日の戦勝記念日には大統領が演説することになっていたので、そこで対日声明を出してもらおうとしたわけです。なぜこの段階でグルーはこういう行動を起こしたのか。これは従来はっきりしていなかったのですが、最近神戸大学の五百旗頭真さんが ― 私、ちょうどハーバード大学で半年一緒に付き合った友人でありますが ― 『米国の日本占領政策』を中央公論社から出しました。この五百旗頭さんの見解が多分当たっていると思うんです。

 グルーは五月八日ごろ、ということはドイツの無条件降伏の翌日でありますが、ヤルタ秘密協定と原爆開発計画をスティムソンから知らされているんです。ご承知のように、ヤルタ秘密協定で、スターリンはナチスドイツが降伏してから三ヵ月後に対日参戦することを米英首脳に約束したわけです。そのかわりにチャーチルとルーズベルトは千島
列島をソ連に引渡すと言った。まったく大国同士の取引でして、いまだに北方領土問題で尾を引いています。

 このヤルタ秘密協定にもとづいて、もしソビエトが対日参戦して戦後の日本に大きな影響力を持つということになると、つまり軍事的な勝利を勝ち取る上でソビエトの軍事力が物すごい意味を持つことになると、戦後の日本に対するソビエトの影響力が強くなり過ぎるのではないかということで、グルーはヤルタ秘密協定の修正を国務長官に進言したのですが、これは事実上拒否されてしまいます。

 もう一つはS1計画と言いまして原爆開発計画です。東京が三回にわたって猛爆撃を受けている。宮城も焼けた。そのうえ、また原爆を落とすようなことになれば、和平交渉の主体となる穏健派も焼き殺されるかもしれない。そうなれば日本を早期に無条件降伏に引き出すことはますます困難になる。しかも原爆の完成まであと三カ月だと聞かされている。もはや一刻の猶予もならないというのがグルーの判断でありました。グルーは日本に無条件降伏の呼びかけをやれば必ず天皇問題を持ち出してくると読んでいたのです。これは後にそのとおりになりました。

 日本がポツダム宣言を受諾するにあたって、御前会議で最後までもめたのが一条件でいくか、四条件でいくかにありました。結局、一条件、国体護持だけでポツダム宣言を受諾するということに決まったわけですけれども、グルーは何らかの形で天皇制を残す、あるいは戦後の日本の政治形態は国民の自由な意思によって決められるんだということを言ってほしいとトルーマンに何度も言ったわけです。

 なぜグルーはそれほどまでに天皇制を残すことにこだわったか。これは単に天皇が平和主義者だとか好きだからとか、そういうのでは全然ありません。アメリカ人の日本観とか天皇観を見るときに思うことは、非常に合理的というか、ドライというか、戦後になってくると冷戦の論理と納税者の論理、タックスペイヤーの論理で動いていくと私は見ていますが、この段階でグルーが天皇制を残した方がいいと言った理由を幾つか挙げておきますと、第一は、日本
には戦争を終結させることのできる人物は天皇しかいない。

 第二は、中国、フィリピン、香港、インドシナ、タイ、マレー、シンガポール、ビルマ、ボルネオ、スマトラ、こ
ういう地域、南方地域に百万−普通三百万と言います。満州に百万、中国本土と朝鮮に百万、それから南方に百万。三百万の日本軍がいたわけです。この日本軍を一掃することは長くかつ犠牲の多い戦いを必要とする。しかし天皇が詔勅を出して日本軍に武器を捨てよと命ずれば数十万のアメリカ兵の命は救われるはずだ。
 第三に、もし天皇制を廃止すると声明すれば、アメリカ軍が東京を占領したとき日本人の敵がい心は一層強まりゲリラ活動は頻発するであろう。ここでも多くのアメリカ兵の生命が失われることであろう。

 第四に、日本に民主主義を接ぎ木することはできない。それは日本に適さないし、うまく機能しない。したがってもし日本人が天皇崇拝を維持したいというならそのようにさせるのがよい。軍国主義を一掃すれば天皇制はむしろ日本にとって資産となろうと、こういうことなんです。

 戦争終結にあたって、無駄な血を流す必要はない。そのためには先ほどのようなサインを送れば日本が応ずるかもしれない。トルーマンはこのグルー案を五月二十九日のペンタゴンの会議にかけます。このときグルーは、大統領法律顧問のローゼマン判事、戦事情報局総裁エルマー・デイビス、それから、先はどの片腕のユージン・ドウーマンを連れていくわけですが、ペンタゴンにはスティムソン陸軍長官、ホレスタル海軍長官、マーシャル参謀総長が出席して、グルーの忠告といいますか、アドバイスを検討するわけです。トルーマンとかスティムソン等々はなかなかいいアイディアだと言ったわけですけれど、マーシャル参謀総長が、「ある軍事上の理由」でそれは時期尚早と言った。 「for certain military reasons」 とありますが実はこれが原爆なわけです。グルーはそのときある軍事上の理由というのは、日本本土上陸作戦のことをさすと思ったらしい。グルーは原爆のことを全然書いていないんです。最高機
密ですから数名しか知っていませんでしたから。アメリカは一九四五年十一月一日に九州上陸作戦、オリンピック作戦をやって、そして翌四六年三月一日に関東上陸作戦、コロネット作戦で日本陸軍を壊滅させるという計画をねっていたわけです。

 グルーは、それをやったら大変なことになると考えていたわけですから、なるべく早く日本を和平交渉に引き込む。
これを一生懸命考えていた。ところが軍事上の理由で陸軍に反対されてしまった。それともう一つ国務省の動きを見ておかなければならない。国務長官ステティニアスはちょうど国際連合をつくるのでサンフランシスコにしょっちゅう行っておりましたので、グルーが国務長官代理をやったわけですけれど、その後ステティニアスからバーンズにかわるわけです。彼は対日強硬派です。ですからポツダム会談のときはバーンズ国務長官ということになります。ともかく軍事上の理由でグルーの提案は退けられます。言ってみればグルーは敗北したわけです。いまのは五月二十九日のペンタゴでの会議でありましたが次にグルーは六月十六日に再びトルーマン大統領と会いまして対日声明について話し合う。ちょうどこれは沖縄作戦完了の時期であります。いまがチャンスだということで、グルーはトルーマンに会ったのですが、トルーマンは二日後の十八日に、対日声明はアメリカ単独で出すよりも三大国会談、米、英、ソ会談があるまで延期した方がいい。もし対日声明を出すとしても連合国の共同声明という形で出すほうが望ましいということでグルー提案を蹴るわけです。この頃になってきますとだんだんグルーの政治的影響力も低下してきていると言わざるを得ません。しかし、このグルー的な考え方はスティムソン陸軍長官に受け継がれていきます。スティムソンもグルーと同じ考えでありまして、日本本土上陸作戦前に対日声明を出した方がいい。ただグルーと違うのは、やはり原爆投下をした後に和平交渉。こういう線で考えていたようであります。

 時間が迫ってきましたので大急ぎで話を進めますけれども、ポツダム会議が開かれたのは七月十七日から八月二日
です。このときアメリカはまだ原爆実験に成功していなかったのですが、ポツダムに到着したあと、トルーマンのところに原爆実験成功の秘密電報が届いた。最近の研究書を見ましても、この報告を聞いた後トルーマンは一気に対ソ強硬外交の方針に転じ、スターリンに対して非常に厳しい態度をとった。チャーチルも、トルーマンの態度が変わったとそれを見抜いています。もちろんトルーマンはチャーチルに、実は原爆実験成功の電報が屈いたと話している。
チャーチルは、それはよかったと答えています。原爆を日本に対して使用するということは当初から両者で合意していたわけですから。スターリンに言ったかどうかですが、抽象的に言ったようです。原爆とは言わない。新型の兵器が開発された。スターリンもそれがまさか原爆とは知りませんから、結構ですなというようなことで終わったようであります。こうして、アメリカは原爆を「切り札」に使うことにして、ポツダム宣言の原文にあった第十二条を変更した。

 この第十二条というのは天皇条項ですが、第十二条の原文を調べてみますと、こうなっています。平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立されたと平和愛好諸国が確信できる場合には、その政体のなかに「現国体のもとにおける立憲君主制が包含されるであろう」。ところがバーンズたちの意見が通ってこの文章は削除されて、実際に出されたポツダム宣言では、こうなりました。「前記諸目的 ― つまり占領目的が達成され、かつ日本国民の自由に表明した意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立されたときには連合国占領軍は直ちに日本から撤退するであろう」すなわち、日本国民の自由に表明された意思、これによって政治形態が決められる。しかも平和的傾向を有し、かつ責任ある政府と言っています。ですからこれは両様にとれるわけです。日本国民が天皇制を廃止したいと言うんなら廃止してもいいし、保持したいと言うのなら保持してもよい。

 この問題について日本側は一体どう対応したかといいますと、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言が発出された二十六
日の二日後に記者会見で、ポツダム宣言「黙殺」談話を発表した。これは恐らくノーコメントぐらいに訳されれば何でもなかったのでしょうが、終局リジェクテッド・エンタイアリーと訳されて世界に報道されたわけですから、日本はポツダム宣言を完全に拒否したと受け取られてしまった。こうして八月六日、広島に原爆が投下され、八日にソビエトの対日参戦があり、九日に長崎にふたたび原爆投下されるという悲劇がおこった。日本政府は、このような事態になってはじめてポツダム宣言を受諾するかどうか真剣に検討しはじめます。八月九日深夜の御前会議で一条件(国体護持) のみで降伏するか、四条件(国体護持プラス在外日本軍隊の自主撤兵、戦犯の自主裁判、保障占領の拒否)でいくのかの議論がおこなわれたわけですが、結局、一条件のみでポツダム宣言を受諾することがきまった。この日本政府の終戦決意は、ラジオと中立国政府をつうじて連合国側につたえられます。この八月一〇日の日本政府のポツダム宣言受諾の申し入れ書に「右宣言ハ、天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下二受諾ス」とあったことは、ご承知のとおりです。

 いわば日本政府は、連合国に天皇制を残すつもりかどうかを問い合わせたことになります。これにたいする八月十一日付のバーンズ回答は、「日本の究極的政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである」と述べただけでした。これを日本側は、天皇制存置をみとめたものと理解して、八月一四日の御前会議でポツダム宣言を受諾を決定します。そして八月一五日に終戦の詔書を天皇がラジオ放送で行う。こういう周知の経過をたどるわけであります。この経過を見ていてドイツに対する無条件降伏と日本に対する無条件降伏で違うのは、ドイツに対しては国家の無条件降伏を要求しているのに対して、日本に対しては全日本軍隊の無条件降伏というふうに緩和されているわけです。こうなった背景の一つには五月以降のグルーの活動があり、またグルーと大体似た考え方をもっていたスティムソン陸軍長官の存在があったと思います。スティムソンも日本に何度か来て、し
かも彼はロンドン軍縮では若槻礼次郎全権と交渉し合った仲間です。浜口雄幸、井上準之助、幣原喜重郎など例の城山三郎氏の『男子の本懐』に出てくる人々をスティムソンは日本の穏健派と見ていたわけです。彼らは極端な軍国主義者とは違うんだという認識がスティムソンにはありまして、なるべく過酷な平和を要求しないでいこうと考えていた。ポツダム宣言には、以上のようなグルー、スティムソンの線が生きていたと言っていいかと思います。
  
   " American Council on Japan "と対日占領政策の転換

 大急ぎで最後の部分にはいりますが、実は日本がポツダム宣言を受諾した八月三日にグルーは国務次官を辞めます。これで自分の任務は終わったというわけです。国務次官辞任後バーンズ国務長官からマッカーサーが占領軍最高司令官として日本に行ったから、あなたが政治顧問としてマッカーサーを補佐してほしいと頼まれたのですけれどもグルーは断ります。

 三つほど理由を挙げていますが、第一に、マッカーサーは日本占領の第一歩を立派に踏み出した。それにマッカーサーという人は人の意見を聞くような人ではない。

 第二に、十年以上も日本に住み多くの友人を持っている者が、征服者の顔をしてまた日本へ戻りたいと思うだろうか。私にはできない。第三に、胆石がしばしば私を悩ませている。日本に行けるような健康状能ではない。こういったようなことを挙げまして、そのかわりにユージン・ドウーマンを推薦するんですが、実際に来たのは対日強硬派のアチソンです。

 戦後の日本は、簡単に言うと天皇制を残し穏健派を中心とした、そういう日本をつくるというのがグルーの構想で
た。ところがこのグルーの構想は結果的に言いますとそのとおりになったわけですが、その間に幾つものジグザグがあるわけです。どういうことかと申しますと、実際にマッカーサーがやった占領改革というのは、グルーが考えていたよりもはるかにラディカルな改革をやったわけです。それは軍隊機構の解散、政治的自由の承認、農地改革等々、要するに皆さんが経験してきたことですから、もう私が言う必要はないと思いますけれど、結局グルーは、この初期改革というのは行き過ぎているということで、一九四八年にアメリカ対日協議会というのをつくりまして、いわば日本占領政策の軌道修正を図る方向で動くんです。アメリカン・カウンスル・オン・ジャパン。言ってみれば日本ロビーでありますけど。一九四七年の夏ぐらいからアメリカは明らかに対日占領政策を転換したわけです。

 つまり初期は非軍事化、民主化。ディミリタライゼーション、デモクラティゼーションそれにディセントラライゼーショをくわえれば、スリーDということになりますが、地方分権化と言いましょうか、そういう戦後改革を推進したわけですが、ソビエトとの冷戦状態が顕在化する。さらには中国革命が現実的な日程に上ってくる。アメリカの対アジア政策が根底から修正を迫まられた。そもそもヤルタ会談のときでも、蒋介石を中心とする中国、これをアメリカのアジア政策の要としていたわけですから、その構想が崩れたわけでして、日本に対する占領改革を言ってみれば和らげて、非軍事化、民主化から経済復興へスイッチする。場合によったら再軍備を進める。普通「逆コース」と呼ばれる占領政策の転換がじょじょに進行します。このアメリカの占領政策の転換を公的に確認したのが一九四八年十月に出されたNSC13ー2文書です。ナショナル・セキュリティ・カウンスルつまり国家安全保障会議の13−2号公文書。
これにトルーマンがサインしたことによって、アメリカの占領政策は公的に転換したと言っていいでしょう。

 この占領政策の転換をリードしたのは陸軍次官のドレイバー、あるいはジョージ・ケナンでありますけど、そのほ′かにカウフマンとかパケナムとか、『ニューズウイーク』の記者であったハリー・カーン、そういったような人々が
後で動いて対日政策の転換をおしすすめたわけです。グルーはグルーの前の駐日大使であったウィリアム・キャッスルとともに対日協議会の名誉会長として、先はどのNSC13ー2の政策文書を引き出すように動いたり、あるいは四九年のいわゆるドッジラインを敷いて経済復興に持っていく。こういった政策転換の背後にグルーがいたということにご注目願います。

 最後はちょっと駆け足になってしまいましたが、グルーという人は基本的には保守的な外交官、共和党の側であります。ただグルーという人は兆常にレアリストであった。非常に見通しがきくと言いましょうか。普通のアメリカ人では考えもつかないようなこと、たとえば無条件降伏を引き出すために天皇問題が鍵だというようなことをいち早く言ったりした。穏健派を中心とした戦後日本の再建構想。これも最終的にはそういうふうになっていく。そういうことを考えましても、相手国というものを歴史的、文化的に理解するということがいかに大切かということをグルーの生涯は物語っていると思うんです。

 ただグルーの外交スタイルは宮廷外交であって、日本の労働者とか農民とか庶民については余り触れていないんです。そういう意味でグルーの外交スタイルの狭さを言う人はたくさんいます。ですからそれが現代の外交スタイルとして通用するかと言うと、そうではないと思いますが、しかしともかく日本の状況というものをよくつかんだ上で日本の認識をつくり上げ、それを外交場面に生かすことができたという意味では、戦前の最大の知日家であると言って間違いありませんし、今日のように、経済摩擦というのは実は文化摩擦なんだという人もおりますけど、相手国というのを本当に理解するということの大切さをグルーの経験というのは物語っていると思うんです。

 そのほか財閥解体とか農地改革とかについてグルーがどういう考えを持っていたか調べたのですが、どうもグルーはそういう方は弱くて、大体部下のフィーアリーとか、そういう人たちの見解に引きずられていたようでしたので、
きょうは少し天皇問題にウェートがかかり過ぎたかもしれませんでしたけれどもそれに絞ってお話しをさせていただきました。以上でございます。

質  疑  応  答

 ―
 お聞きいたしますが、東京裁判でございますね。現在、その裁判をアメリカ側の上層部の人がどういうように見ているかということと、もう一つはインドの判事がありました。あの思想はどうかと。国際法から見て東京裁判というものが歴史的にどういうような位置付けになるものか。そういうことについて御意見をお聞きしたいと思うんですが。

 中村 実は一昨年ですか、池袋のサンシャイン・ビルで東京裁判の国際シンポジウムがありました。これに私も出席したのですが、意見が割れまして、結局、あれは勝者の裁きであったという意見がだされました。“人道に対する罪″とか、平和に対する罪″という、つまり個人が負えないような罪を新しくつくったわけでしょう。ドイツのニュールンベルグ裁判と日本の場合。しかも事後的に、つまり遡及したわけです。それは国際法的に言えばおかしい。こういう議論と、もう一つは結局第二次大戦以降の世界の平和というものを維持するためには、第一次大戦のときドイツに対してめちゃくちゃなカルタゴ的な、まさに厳しいハードピースを押しっけて、結果的に三十年代に恐慌と同時にヒットラーの台頭を促す。これはやりたくないというのが大西洋憲章以来の理念だったわけです。日本についてもグルーなんかはそういう考えで臨んだわけですけれど。

 私は、第二次大戦後の平和に対する罪とか人道に対する罪。新しいカテゴリーをつくって、ともかくあそこで日本の戦争責任に一応の決着を付けたという意味ではやむを得なかったという考えなんです。それを全部免罪にして結局どうなったかわからない。ズルズルベッたりの歴史を歩むと、日本は大体そういう傾向強いんですけれども、あの場合にはやむを得なかったと。

 ただ、もう一つそれではアメリカはそうやって日本の戦争指導者を、東候英機以下七人を絞首刑にして、裁いたわけですけれども、その後アメリカはベトナム戦争であれだけのことをやったわけです。枯葉作戦とか。それが全然裁かれないわけです。本当に新しい国際法を適用するなら、アメリカもなんらかの国際法廷で裁かれてしかるべきだったと私は思います。だからバートランド・ラッセル卿は、法的には裁けないが、道義的に裁くといって世界の知識人を集めて法廷を開いて、ジョンソンとかニクソンを道義的に裁きましたけど、やはりリジットに考えればそこまでいかなければ片手落ちだというふうに思うんです。

 ― きょうは中村先生のグルーのお話、それから、先ほどちょっと触れられた神戸大学の五百旗頭真さん、アメリカ対日占領政策というようなものを反面から見ると、これは非常に日本に対する知日派という連中が日本に対していかに人道的に公正に日本を処理しようかという努力をそこに措いているという点とそれから、それに関連してアメリカの国内にどういう考え方が渦巻き、どういうものが主流になったかという点から言えば、アメリカを理解する点においても、先生のきょうのお話、それから五百旗頭真さんの本、両方とも非常にわれわれの参考になると思ってありがたく承っているわけですが、一つ教えていただきたいのは、グルーの登場というのは日本にとっては戦後の日本のために幸せだったと思うんですが、これの一番のきっかけになったというか、動機になったホーンペックとグルーの交代です。このときはハル国務長官がまだ在任中で、ルーズベルトにしてもハルにしても日本に対して決して好意的でなかった人々ですけど、そういうときにグルーをあえてホーンペックにかえて極東局長に推薦したというその経緯はどんなことがあったのか。その点おわかれになったらちょっと教えていただきたい。

 中村 大変むずかしいポイントを突いた御質問だと思います。『アメレーシア』というアメリカのリベラル派・ニューディール派の雑誌がありますが、その雑誌はグルーを極東問題局長にし、あとディック・オーバーとかドウーマンとか、そういう日本派の部下をジャパンデスクに置いたことに非常に批判的なわけです。その分析は、結局、貿易問題を ー グルーというのはJ・P・モルガンの姻戚関係です。奥さんのアリスはペリー提督の実兄のオリバー・ペリーのひ孫に当たるわけですけど、日本との経済的な関係を重視したためではないかと言っています。ジョセフ・バランタインとかブレイクスリー、これも日本派の人ですが、戦争に負けた後、モーゲンソーみたいに、これ厳罰派ですから、ドイツや日本を農業国にしてしまえとは言わない。それに対して、いや通商関係はちゃんと維持させて、しかるべき占領が終わった後、日本を国際社会に復帰させる。こういう考え方をブレイクスリーたちは持っていたわけですけど、グルーは大体その線で考えて、財閥解体なんかは余りきつくやるなということを言っているんです。ところが、ホーンペックは中国に長くいましたから中国のことはよく知っているが日本のことを知らないんですからホーンペックは日本はどうしようもない国だから隔離放置せよと。五百旗頭さんもそのことを書いています。隔離放置論です。だけど、じゃ天皇制をどうするんだ。具体的な話になりますと全然わからないのでグルーたちの意見に同調していくんです。だからやはり日本に対する知識と申しましょうか、理解ということが、もう戦争が終わることが確実になってきて詰めになっていくような時期が迫ってくれば、対日和平の問題はホーンペックでは処理できないというふうに考えたのではなかろうか。ちょっとそれ以上のことは私にはお答えできないのでこの辺でど勘弁ください。

 ― カルタゴ的懲罰というお言葉が出ましたが、簡単に。
 
 中村 要するに、紀元前一四九年でありますが。ローマ軍がアフリカの民族そのものをなくしちゃったわけです。カルタゴを壊滅させちゃったわけです。ですから無条件降伏でも最も極端に厳しいやつです。そういうようなことで臨むべきではない。高度のステーツマンシップというのはカルタゴ的な懲罰を加えるとかえって国際平和を乱すことになるという、これもそういう趣旨ではないでしょうか。
さっき言うのを忘れたのですが、ホートン・ライブラリーにある資料は一九四五年で切れちゃっているんです。
 
 それ以降は、恐らく余りにも生々しいので、グルーは寄贈しなかったのでしょう。グルーは一九六五年五月二五日に八十四歳で亡くなっているんです。したがって、四六年以降の文書は遺族が持っているはずなんです。僕は何人かのアメリカ人の友人にも、日本の占領研究者にも、アメリカに行ったら是非ボストンの北にあるマンチェスターという町に遺族が住んでいるから、その資料をハーバードのホートン・ライブラリーに入れるように交渉してほしいと言っているのです。この間もある新聞社の記者に言ったんですけど、それが出れば……。

                                          (昭和六十一年一月二十七日収録)

 


「附録」

               ジョセフ・C・グルー略年譜

1880,5・27  ボストン上流階級の4児の末子として生まれる、子供のとき猩紅熱
         にかかり、半分耳が聞こえなくなる
1992      グロトン校入学  F.D.R.Averel Hariman
         Dean Achesonも同窓
1898      グロトン校卒業  Harvard入学 大学新聞“Crimson”の主筆

         として活躍  F.D.R.はGrewの2年後輩
1902      ハーバード卒業
1904      Cairo アメリカ総領事館書記に任命さる
1905      Alice D.P.Ferryと結婚、アリスはオリバー・ハザード・ペリー
         のひ孫、オリバーの弟がマシュー・キャルプレイス・ペリー提督。
1908−1917,2 メキシコ、ロシア駐在の三等書記として過したあと、ベルリン大使
         館勤務 約10年間
         アメリカ・ドイツとの外交断絶
1918,10   パリ平和会議 エドワードM、ハウス大佐(ウイルソン大統領の腹心)
         の補佐
1920,4    デンマーク公使に任命1年勤務
1922−24   スイス公使1922−23年ローザンヌ会議にアメリカ職業外交官とし
         ての地位さだまる
1924      国務次官(長官はチャールズE、ヒューズ)後継者はフランク・B・
         ケロッグ、グルーとの仲良くなし
1927      トルコ大使となる 5年間勤務
1931,11   ウイリアムR・キャッスル国務次官より駐日大使就任の交渉うける
1932,5・20  グルー一家日本赴任の旅に出る、サンフランシスコ港より出帆
         6月6日東京着
    6・14  米国特命全権大使・グルー、信任状呈出 6月6日Td【yO著
    9・10  グルー、ナショナル・シティ銀行事件で内田外相と会見
    11・8  F.D.R.大統領当選
1933,1・30 ドイツ、ヒットラー新内閣組織
    3・4  F.D.R.大統領就任
   12・20  斉藤博 駐米特命全権大使となる
1934,4・29  広田・グルー会談
1935,8・3  国体明徴声明
   10・4  イタリー、エチオピア開戦
1936,3・7  ドイツ ラインラント進攻

−1−

1936,3・9  広田内閣成立
   11・3  F.D.R.大統領再選
   11・25  日独防共協定成立
1937,1・23  広田内閣総辞職
    2・11 林内閣成立
    6・4  近衛内聞成立
    7・16  米国ハル国務長官、華北の事変不拡大希望を声明
    9・12 新英国駐日大使Sir.Robert Craigie着任
   11・16  グルー・広田会談            ..
   12・12  バネ一号撃沈事件
1938,1・16 近衛内閣、国民政府を相手とせずと声明
    4・22  バネ一号事件解決
    5・3  堀内、クレーギー会談 上海海関税接収問題解決
    7・26  宇垣外相、クレーギー大便と会談
    9・29  英・独・伊・仏四国 ミュンヘン会談
    9・30  チェコ問題解決、四国協定成立、ドイツのズデーテン割譲要求承認
1939,1・4  近衛内閣総辞職、翌日平沼内閣成立
      14 クレーギー大使、極東新原則に不同意
      19 スティムソン国務長官を会長に”日本の侵略に加担しないアメリカ
         委員会”結成
    4・5  スティムソン長官上院にて英仏ソと提携し、日独伊三国制裁を演説
1939,8・23  独ソ不可侵条約締結
    8・24  イギリス、緊急国防全権法成立  フランス軍事緊急渚法令布告
    8・28  平沼内閣総辞職
     30  阿部内閣成立
     9・1 ドイツ、ポーランド進攻
     9・3  英仏、ドイツに宣戦布告
     9・4  米国、中立宣言、中立法発動宣言
    10・19  グルー大使、日米国交調整に関する重大演説
    11・4〜12・22 第1〜第4次日・米東京会談ひらかる
1940,1・14  阿部内閣総辞職
    1・16  米内内閣成立
    2・26  米国、石井・ランシング協定発表
    4・15  有田外相、米英の蘭印保護不要、日本蘭印の現状変更を望まずと声
         明
ー 2 −

1940,4・17  米国、ハル国務長官、蘭印の現状維持声明
      23  グルー、天津租界封鎖強化につき有田外相に申入れ
      26  有田・グルー会談
    6・10  有田・グルー会談
      19  有田・グルー会談
      22  米国ハル長官、太平洋の現状維持を表明
      24 有田・グルー会談、近衛文麿 新政治体制確立に遺進表明
    7・16  米内内閣総辞職
      22  第2次近衛内閣成立
      26  政府、基本国策要綱決定
      31 米国、航空機用ガソリン輸出禁止
    9・27  日・独・伊三国軍事同盟締結
   10・9  松岡・グルー会談
     12 ルーズベルト大統領、三国軍事同盟に対抗し、英国、重慶へ援助継
        続と強硬宣言
   11・3  F.D.R.大統領三選
   11・24  西園寺公望、死去
     27  野村吉三郎、駐米大使に新任
1941,7・16  第2次近衛内閣総辞職
      18  第3次近衛内閣成立
      25  米国、在米の日本資産凍結を布告
      26  米英両国、対日石油輸出禁止
    8・18  豊田・グルー重要会談
    9・6  近衛・グルー会談
   10・7  豊田・グルー会談
     10  豊田・グルー第2次会談
     16  近衛内閣総辞職
     18  東候内閣成立
   11・5  御前会議、日米交渉の最終的態度及対米開戦決定
     10  チャーチル首相、日米開戟の場合、1時間以内に対日宣戦と演説
     17〜 日米会談開始 第8次会談までつづく
   12・5
   12・6  F.D.R.天皇へ親電発す
     8  海軍機動部隊  真珠湾奇襲攻撃

ー 3 −

1942,6・5  ミッドウェー海戦
    6・16  日米外交官及居住民交換、浅間丸横浜出発  グルー大使、交換船
         にて帰国(グリップスホルム号)
    8・30  CBS放送で「日本より帰えりて」演説
1943,12・29 シカゴ演説(天皇制問題)反響よぶ
1944,1・15 国務省極東問題局設置  スタンレー・ホーンペック局長につく
    5・1  グルー、ホーンペックのあとをうけ極東問題局長に就任
    5・4  「日本に関する米国の戦後政策目的」 PWC
    5・9  「日本〜政治問題一天皇制」       PWC
   11・21  ハル国務長官辞任 エドワード・ステイニアス長官就任
   12・5  ス長官の要請によって、グルー国務次官になる
   12・19  SWNCC  第1回会議
1945,1・5  A Sub−Commitlee on the Far East結成 極東小委
    2・4  米英ソ、ヤルタ会談
    3・9〜 東京大空襲(第2回4・14〜15、第3回5・24−25)
     10   26万戸焼失死者10万
    4・1 米軍、沖縄本島上陸
    4・5  小磯内閣総辞職
    4・7  鈴木貫太郎内閣成立
    4・12  ルーズベルト大統領、死去
    4・30  ヒットラー自殺
    5・7  ドイツ降伏
    5・8  グルー、スティムソン陸軍長官から原爆(Sl)計画について知ら
         される
    5・26  グルー国務長官代理、ドゥーマンを呼び無条件降伏の案文起草させる
    5・28 ドゥーマン、対日声明案をグルーに渡す
    5・29  グルー、大統領声明として、日本の君主制の政治形体を変革する意
         図のないことを公表するようトルーマンに主張「軍事上の理由」で
         反対さる
    6・27  ステティニアス国務長官辞任
    7・3  バーンズ国務長官、ディーン・アチソン次官
    7・16  原爆実験成功


− 4 −(原本資料混乱。)

1945,7・18  原爆実験成功 第2報届く
    7・17〜 米英ソ、ポツダム会談
    8・2
    7・18  スターリン、近衛特使の件をトルーマンに話す。近衛の使命が何で
          あるか不明瞭なので「確たる回答はできず」の線で合意
          この日、原爆実験、第2報ポツダムに届く
    7・21 原爆実験についての本格的な詳報届く  トルーマン対ソ強硬姿勢
        に転ずる
    7・24  トルーマン原爆投下命令に承認を与える
      25 トルーマン原爆投下命令に正式発令
      26  ポツダム宣言発出、第12条訂正済みのもの
      28  鈴木内閣ポ宣言「黙殺」
     8・6  広島原爆投下
       8  ソ連、対日宣戦布告
       9  長崎に原爆投下
           午前、最高戦争指導会議
           午後、閣議
           深夜、御前会議
      10  日本政府 「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求を
          も包含していないという諒解の下」にポ宣言受諾を申入れる
      11 バーンズ回答文
      14  天皇の裁断によりポ宣言受諾を決定
      15  日本降伏  グルー国務長官辞任(後任アチソン)
          「日本派総崩れ」ジョン・ビンセント極東部長、SFE議長
ー 5 −


中村 政則      昭和十年東京に生まれる。
        昭和三十六年一席大学商学部卒業、
        昭和四十三年一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了、
        現在一橋大学経済学部教授、経済学博士

研究業績  「日本地主制の構成と段階」(共著、東大出版会、一九七二年)、
        「労働者と農民」(小学館版「日本の歴史」第二九巷、一九七六年)、
        「近代日本地主制研究−資本主儀と地主制」(東大出版会、一九七九年)、
        「昭和の恐慌(小学館版「昭和の歴史」第二巻、一九八二年)、
        「日本近代と民衆」(校倉書房、一九八四年)

編   著  「日本民衆の歴史」(共編、国権と民権の相克三省堂、一九七四年)、
        「大系日本国家史」近代一、二巻(東大出版会、一九七五〜六年)
        「大系・日本現代史」四、(日本評論社、一九七二年)、
        「技術革新と女子労働」(東大出版会、一九八五年)

訳   書  「ピッソン・日本占領回想記」(共訳、三省堂、一九八三年)