一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第五十一号]       一橋のマーケティングの系譜       一橋大学商学部教授 田内 幸一

     はじめに

 ただいま御紹介いただきました田内でございます。私、大学時代は深見義一教授のゼミで晩年の弟子と― 昭和二十九年卒でございますから。深見先生が退官されたのが昭和三十五年でございました― いうことになります。出席者の名簿を拝見させていただきますと、深見先生は大学が昭和四年の御卒業で青葉先撃と御同期ということで、富士銀行におられたときよくうわさなど伺いました。その前が確か大正十四年の教員養成所の御出身で、そちらの御同期では日産の川又先輩、興銀から日産争議のところへ行かれてどうのなんていうお話を深見先生から伺ったことがありました。そういう大先輩の皆様の前でマーケティングのお話をするというのは光栄に存ずる次第であります。

    「マーケティング論の系譜」 (『一橋論叢』) よりの引用

 皆様のお手元にコピーして配っていただきましたのが、『一橋論叢』、これから出る四月号でありますが、「マーケティング論の系譜」ということで書いた原稿のゲラ刷りからコピーしていただいたものでございます。私も、これは調べながら書いた歴史でありますので、最初に原稿の方を読ませていただきます。
東京高等商業学校が東京商科大学に昇格した大正九年から、記録をたどることにしよう。最初に断っておかなければならないのは、「マーケティング」講座はきわめて新しいもので、昭和五年四月に始ったものであるにすぎないことである。その前身は「配給論」であった。商学部には、もともと講義名には片仮名を使わないという伝続が
あって、たとえば「オペレーションズ・リサーチ」と普通に呼ばれているものも、「管理工学」と日本名をつけている。

 この次、「一橋と社会工学」というテーマで話をされる宮川公男教授の担当がこの「管理工学」講座であります。
 
 唯一の例外は「エネルギー商品」で、これは、″エネルギー”を日本語に直すことは不可能なので、やむをえずにそのまま片仮名にしているものである。

 「マーケティング」の場合、日本では、昭和三十一年に、当時の経団連会長の石坂泰三氏を団長とする、日本生産性本部の「アメリカ・マーケティング視察団」が、帰朝報告書を発表したときが、マーケティングの日本への正式導入の時点とされているが、一橋大学においては、昭和五年まで、「配給論」 のタイトルのもとに、マーケティングの講義をつづけた。後に詳しく述べるように、「配給論」と名付けられた講義は昭和十七年から、深見義一教授によって、定年退官の昭和三十五年まで、毎年ないしは隔年に行なわれていたのであるが、その内容は、戦時中の、本当の意味における「″配給″論」から、戦争後のマーケティング的「配給論」 へと、大きな変化をしている。

 昭和三十七年からは、当時専任講師であった田内幸一が、深見名誉教授の後を継ぎ、「配給論」を担当したが、その内容は全くのアメリカ・マーケティングそのものであった。しかし先に述べたように、商学部の、講義タイトルに片仮名は用いないとの伝統にしたがって、講義名としては「配給論」を守り続けていた。その後神戸大学が「配給論」を「マーケティング論」と変えるとともに、実験講座化(予算が多くなる)に成功するや、東大も同様の動きをし、一橋も、同じように実験講座化し、講座名は「マーケティング論」となった。
東大は講座は持っておりましたけれども、ずっと担当教官がおられないで、私が非常勤で行っていたわけであります。去年から片平君という助教授が大阪大学から参りまして、やっと専任のマーケティング担当者が出た―こういうことです。

 実験講座化したのは、「配給論」 の本来の静的な内容に比べて、「マーケティング論」には、マーケティング・
リサーチといった動的な、実験的内容を含むからである。

 そして、講座名は「マーケティング論」、講義名は「配給論」が、その後しばらく続いたのであるが、″配給″という日本語も余りに古臭い響きをもつようになったし、講座名とが余りにかけ離れているのも好ましくないし、片仮名を講義名に用いることについての抵抗感も薄れてきたと思われたので、商学部教授会にはかって、昭和五十四年の新学期から、「配給論」は「マーケティング」に変えられた。講座名が「マーケティング論」であるのに、講義名を「マーケティング」とした理由は、マーケティングはすぐれて現実志向的な研究領域であり、講義の内容の多くの部分が、”論”というよりはむしろ″現象説明″ であるからである。

 現在の「マーケティング」講義の源をたどると、今述べたごとくに、「配給論」には容易に到達することができるが、その前をたどることは、困難である。しかしあえてそれを試みることにしよう。たしかに講義の継続として、「マーケティング」 の源をたどることは容易ではないが、教える人の流れとして捕えることは、それほど難しいことではない。太い流れは、
 内池廉吉教授→深見義教授→田内幸一教授
である。しかし講義の流れとして源を探ることが難しい理由は、内地、深見の両教授、そして特に内地教授が、様々な講義を担当されているからである。

      倉庫 売買組織 財政学 大正9年
内地氏 内地氏 内池氏
          緒方氏
併担
井藤氏
併担
昭和3年
          終り 昭和8年
社会保険 市場組織        
終り
昭和9年
内池氏 内池氏
      売買
福田敬太郎氏
        昭和10年
      深見義一氏         昭和12年
  内池氏終り 休 み     昭和13年
  深見氏 福田氏 終 り     昭和14年
  終  り 増地氏       昭和15年

     戦前・戦中

 大正九年から昭和十五年までの年表をみて印象付けられるのは、内池教授が、「財政学」、「売買組織」、「倉庫」の三講義を昭和三年まで同時に担当しておられたことである。また昭和九年から十二年までは、「倉庫」と「市場組織」を同時に担当された。昭和九年だけを取ってみると、この二つに「社会保険」が加わって、三講義併行である。しかも講義の内容が、今では全く別の専門に属することになっている「財政学」「社会保険」を商業学的講義とともに含んでいることには、今日の目からすると、全くの驚きである。「倉庫」も、現在では「交通論」 の領域に属する研究科目である。

 内池教授の担当された諸講義は、同教授が昭和十二年をもって定年退職され、名譽教授になられたあとも講師として担当された昭和十三・十四年で、「財政学」と「市場組織」、を除き、終りとなる。「財政学」は井藤半弥氏に引き継がれて、その後もずっと続くのであるが、「市場組織」のほうは、昭和十四・十五年と深見氏に引き継がれたあと、終りとなっ
っている。

 商業関連の科目としては、
「売買組織」と「市場組織」とが内池教授の担当としてあり、その他に、六年間三教授の担当で行なわれた「売買」がある。時間の流れとしてみるならば、「売買組織」が昭和八年で終ったあと、昭和九年から「市場組織」が始まり、それが昭和十五年で終ると、一年おいた昭和十七年から「配給論」が始まった、ということになるようである。この他に、いわば鬼っ子のような形で、六年間だけ「売買」 の講義が開かれたということになるであろう。

 「売買組織」 の講義内容を、大正十五年の講義要綱によってみると、
 一 市場、意義及其発達
 二 腐敗性品市場ノ組織
 三 穀物市場ノ組織
 四 製造品市場ノ組織
 五 市場体系
であり、昭和七年のは
 二 生鮮食糧品市場ノ組織
 五 仲介商排除問題
の二項目が変っている。
「市場組織」 の講義内客を、昭和十二年の講義要綱によってみると、

  配給論
深見氏
昭和17年
    昭和20年
休 み 昭和21年
    昭和22年
    昭和29年
休 み 昭和30年
    昭和31年
休 み 昭和32年
    昭和33年
    昭和34年
    昭和35年
休 み 昭和36年
田 内 昭和37年
     
終 り 昭和53年
マーケテイング   昭和54年
田 内
    現  在



 一 市場及配給
 二 市場ノ発達
 三 生鮮食糧品市場ノ機構
 四 穀物市場ノ機構
 五 製造品市場ノ機構
 六 市場ノ統制
 七 市場ノ体系
となっている。

 同じ「市場組織」の内客を、内地教授からあとを引き継いだ深見教授の昭和十四年の講義要綱によってみると、つぎのようである。

 「初メ二、インスティテユーショナル・アプローチヲ試ミ、次二、コムモディティ・アプローチトイフ行キ方デ、
市場組織の解剖卜検討ヲ期シタイ、ソシテ特二、前者ニハ許可制其ノ他ノ施設統制、更二経営統制ヲ結ビツケ、後者ニハ物動計画二基ク物資配給統制ヲ結ビツケテ行ク予定デアル。

 二時間ヲ単位トスル講義ノ上ノ便宜ヲ思ヒ、本年度ハ各回講義ノ題目ヲカリニ次ノ如ク定メテ論述ヲ試ミヨウト思フ。之等ノ各題目二見或ル点重複セルガ如ク、又或ル点本講義ノ内容トシテ要請セラルルモノヲ欠クガ如ク見エルカモ知レナイガ、斯カル点ハ各題目下二詳述スベキ材料ノ選択二細心ノ注意ヲ払フコトニヨリ補ツテ行キ度イト恩フ。

 総説・市場・配給・小売商形能ページ百貨店・チェーンストーア・ヴオランタリイチェーン・小売商許可制・小売商改善ノ諸問題・通信販売店・月賦販売店・卸売商・ジョッバー・出荷団体・商業組合・商店法・割引景品統制・広告統制・物価統制・米穀ノ配給・小麦ノ配給・綿花ノ配給・生鮮食料品ノ配拾・配給切符制度・全体主義と商業」

 深見教授によるこのような長い講義内容の紹介は、全く例外的であって、他の教授達のものは、おしなべて内池教授のものと同じような簡単なものである。

 ここに掲げられた講義内容をみると、「売買組織」 のほうは大正九年から昭和八年まで行われたものであるから、昭和六年の満州事変があったとはいえまだ本格的戦争に入っていた訳ではなかったから、統制という項目はないが、昭和九年から十五年までの「市場組織」となると、内池教授には″市場ノ統制″、深見教授には″広告統制、物価統制、配給切符″といった、戦時経済的な色彩が強く出てくる。

 戦前の日本には、強力な統制経済への志向があったようで、内池教授の昭和八年の著「市場経済と倉庫経済」(森山書店) にも、既に統制がかなりのウエイトをもって扱われている。基本的には、市場は自由に機能するにまかせるべきであるが、戦争のようなときには、統制は必要であるといった議論が、展開されているのである。

 深見教授は、私の恩師であるから、直接にいろいろの思い出話をうかがったことがあるが、経営学は、戦争中は生産向上で忙しかったけれども、僕は困ったよ、といわれたのが、記憶に残っている。それでも、一橋論叢昭和三十七年八月号(Vol48No2) 「深見名誉教授記念号」の著作目録をくってみると、戦時中にも、かなりの数の論文や単行本を書いておられる。その内客は、主として、ナチス・ドイツにおいて施行された小売商許可制の研究と、配給切符制度に関する研究に分類できるであろう。

 小売商許可制の研究は、内池教授との共著「小売商許可制の研究」 (同文館)昭和十二年、「独逸における小売商統制政策の動向」 (商学研究)昭和十一年、「小売商許可制の要請に関する基本的理論」(商学研究)昭和十五年、に
よって代表されるであろう。これはあくまでも、戦時的雰囲気の中での研究であった。しかし小売店の数がふえすぎて、既存の小売店の地位が脅かされるから、新たな小売商をなるべく出てきにくくすることが必要だとの意識を、小売商団体のリーダーが昭和四十年代にもったことがあって、深見教授の諸研究が、新たに注目されたものだった。

 またもうひとつの切符制度の研究は、昭和十九年の単行本「切符制度の理論と実際」(新記元社)に代表されるが、これも、昭和四十八年の石油ショック後、ガソリンなどの物資の配給切符を検討した通産官僚達が古本屋で探し回ったということで、戦後再び脚光を浴びた。

  
   戦後

 戦争が終れば、自由経済の時代である。とはいっても、私が入学して、小平の前期部に通った昭和二十五年は、暖房はもちろんなく、窓ガラスも割れていて、それが板でふさいであれば上等、大体は寒風がビュービユ吹き込むような教室で講義を聴いたものだった。三年生になって、国立に行っても、状況は全く変らなかった。いつも腹を空かしていたが、配給論の講義中には、もう小売商許可制も、配給切符制もなかった。コロンビア大学のナイストローム教授のもとに留学をされた研究の成果が、講義を、まだ進駐軍の占領下にあった日本では、まぶしいような感じのものにしていた。ニューヨークの地図を黒板に書かれて、これがブロードウェイ、これがメーシー百貨店などと説明されると、一生の間にそこに行ける日が来ようとは到底考えもできないときであったから、ただそこに行ったことのある人を、羨しく思うだけだったような記憶がある。

 既に述べたように、日本にマーケティングが正式に導入されたのは、昭和三十一年に、石坂泰三氏を団長とする日本生産性本部派遣のアメリカ・マーケティング視察団が、帰国後報告書を発表したときということになっているが、実際には深見教授の昭和二十四年の著書「商業学」(春秋社) で既に、「私見においては、諸活動、それによって物資が生産者側より消費者側に円滑に移転される、そうした諸活動の総合概念が、マーケティングである」と述べられている。したがって、戦後の 「配給論」は、その内容のすべてが、今でいうマーケティングであったとはいえないが、かなりの部分が、マーケティングであったといえるだろう。

 ただ大きく違うところは、商とは何ぞや、商業とは何か、市場とは何か、といったようなドイツ的概念の定義にかなりウエイトのあったこと、流通証券の実務・法律面の詳しい説明、それと関連して、貿易手続中のB/L、
L/Cなどについても詳しい説明のあったこと、そして、プロダクト・プランニングには全然ふられていないこと、である。

 プロダクト・プランニングについては、深見教授が昭和三十五年三月で定年退職される直前に、これについての博士論文を提出されて博士号を受けられ、それが昭和三十七年に千倉書房から「プロダクト・プランニング」として刊行されている。アメリカにおいても、マーケティングの一重要機能としてのプロダクト・プランニングは戦後のものであったし、日本において、本当にこの機能が企業にとって必要とされだしたのは、昭和四〇年代の前半以降であったから、深見教授の「配給論」講義の中にそれが含まれていなかったのは当然であり、かつ昭和三十五年時点において、これについての博士論文を書かれたのは、大変な先見であった。

 昭和四〇年代前半までの、企業の製品についての考え方は、外国、主としてアメリカの技術革新の成果を買ってきて、それを日本で製品化するというものであった。したがって、企業の主要関心事は、外国の企業でめぼしい新技術を持っているところはどこかを、他社よりも早く探し出し、少しでも早くその会社と技術導入の契約を結ぶことであった。この例は、東洋レーヨン (現在の東レ) のナイロン、帝人のテトロン、ソニーのトランジスタ、明治
製菓のペニシリンなどに見ることができる。このような状況では、日本のマーケティングにおけるプロダクト・プランニングへの要請は、なかったといっていいであろう。むしろ必要であったのは、マーチャンダイジングであった。深見教授の前掲書「商業学」によってみれば、これは「配給過程の一部であり、何を生産すべきか、何を商品種類に加え、また之より削除すべきか、の決定、旧製品に対する新用途、並びに旧用途に対する新製品の開発、その他、製品の価格付け等を任とするもので、物資を消著者の嗜好に適合せしむるの術こそ、マーチャンダイジングの総計であり、本質である」ということになる。

 また深見教授は英米法にも大変詳しく、戦後になって、法学部の英米法担当教授として田中和夫氏が赴任されるまでは″私が一番よく知っていた″そうである。したがって講義の中でも、約因とかエスクロウとかの言葉がよく使われた。

 証券市場についても深い知識を持っておられ、昭和二十八年から、「証券市場論」の講義を始められた。そして「配給論」と交代の隔年講義として、定年までに、昭和三〇、三十二年と三年間開講された。この講義は、昭和三十四年四月からは、小樽商科大学から赴任された木村増三氏(昭16学後、野村證券)によって担当された。その木村教授も定年退官され、現在は、釜江廣志助教授の担当である。


    マーケティングの要諦について

 一応ここまでで私の『一橋論叢』四月号の原稿を読み上げるのを終わらせていただきますが、マーケティングの源流をたどってみますと、内池先生、それから深見先生、そして私という形で流れてきているわけです。それで結局、その講義の中身、研究の中身というものも、マーケティング研究の、そして研究の対象となっている企業活動、そして消費者、消費市場というものの変化に対応してどんどん変わっていっているわけであります。

 というのは、マーケティングというのは基本的には環境への適応であります。要するによくマスコミなどでは、企業のマーケティング活動、特に広告などのそういったマーケティング活動が、いかにも一般大衆を操作しているように言われたり書かれたりすることがあります。事実そういうふうに見えることがあることも否定はいたしませんが、実際にはそんな力というものはないわけでありまして、優れた、例えば広告というものは、消費者の心の中に、まだ消費者自身にも意識されていない。しかし意識のレベルからほんの少し下の意識下のレベルにあるような新しい動きというものを鋭く感知をして、それに合わせた広告をするというのが一番優れた広告なわけです。そうするとその広告の方は非常に目につくわけです。しかしながらその意識下にある―サブリミナルレベルと言いますが―ものは消費者自身にもまだ意識レベルではよく感じられていない。それで広告が目につくわけです。で、しばらくたつと意識下にあったものが意識のレベルに上がってくるわけですから、いかにもその広告が市場における新しい動き、消費者における新しい動きをつくり出したように見えるわけであります。したがっていかにも新しい消費者の操作、新しい消費者の方向への動きというものを企業のマーケティング活動が操作しているように見えることがあるわけでありますけれども、もともと消費者が全然そっちの方向に向いていないときにそれを企業の思う方向に動かすということは、これは到底無理であります。

 ですからやはり一番大事なことは、消費者というものが実際どっちの方へ動こうとしているのか。しかも一番いいのは、いま申し上げたように、無意識よりは意識のレベルに非常に近い、意識のレベルよりちょっと下ぐらいのところで感じていることをうまく見抜くわけです。洞察をするということが非常に大事になってくる。ですから普通に見
ていれば確かに操作しているように見えるかもしれない。だけど実際にはそんな力はないわけです。

 ということは、マーケティングにとって一番大事なことは、消費者の考え、望み得べくんば意識下のレベルにある新しい動きというものを鋭くとらえるということが一番大事になってくるわけであります。

     
     戦後の第一次技術革新とマーケティング

 ですから、結局はそういう考え方でいきますと、マーケティングにとって一番大事なのは、環境をいかに読むか。そして競争でありますれば、競合企業よりもより早く、より正確にその市場動向を読んで、そしてそれに適合した企業活動をするということが一番大事になってくるわけであります。現実に優れた業績を挙げている企業というのを見ていると、そういうことを確かにやっているわけです。戦後しばらくの間、先ほど東レのナイロンとか、帝人のテトロンとか、ソニーのトランジスタとか、明治製菓のペニシリンというお話をしましたが、この時代はまだ日本にとって貧しい時代でありましたしするので、しかも外国に、先進国、特にアメリカでありますけども、アメリカにおいて新技術がいっぱいあった。ですから企業の経営者としては日本にない優れた技術を持っている企業を、競合企業よりも早く探し出して、そしてそれを自分だけ技術導入をするということが最高の経営戦略であったわけであります。それで高度成長。池田内閣が所得倍増計画を決めたのは昭和三十五年でありますが、実際に高度成長というのはもっと早くから始まっていたわけでありまして、東洋レーヨンがデュポン社からナイロンの特許を買ったのは確か昭和二十八年だったと思います。東洋レーヨンの資本金が七億五千万円で、デュポンに払った技術導入料が十三億円という、資本金の倍近くのお金を払ったわけですけれども、たった一年半ぐらいでそれをあっさり返しちゃったというぐらいもうかったわけであります。

 ナイロンの用途はいろいろあるでしょうけども、例えば靴下を一つとってみても、それまでの靴下というのはスフが主でありまして、いまはレーヨンと言っておりますけれども、その当時のスフは、三回もはけばもう破れるような靴下しかなかったところに、何回はいても破れないという靴下ができれば、これは売れるに決まっているわけでありまして、そういったような製品が次々と市場に出されて、これが第一回目の高度成長の初めの方を支えたわけであります。

 高分子化学。プラスチックとかビニールなんかもこれでありますし、それからペニシリンとかストレプトマイシン
というのが恐らく抗生物質では一番大きな影響力を持った製品だと思います。日本人の死亡率の断トツでありました結核をほとんど完全になくした。いまや日本人の死亡原因の二十位までとっても結核は出てこないわけでありまして、これはまさにストレプトマイシンという薬のお陰である。国民病が完全に消え去った。いまでも結核はないわけではありませんけれども、ほとんど問題にならないぐらいに押さえ込まれたということになります。

 それから、例えばいまスーパーといったような大型店が出てセルフサービスということで非常に効率的な小売が行われているわけですが、ああいうセルフサービスを可能にしたのは包装材料の進歩があったからでありまして、戦後の技術革新の中で最も国民生活に根深い影響を与えたのは、多分この包装材料の進歩でしょう。ビニールの袋とかああいうものがなければ一々計り売りをしなければならない。どれだけの小売商の人手が要ったかということになるわけでありまして、そういうものはみんな第一次、昭和三十年ぐらいから始まった高度成長というものによって日本を支えた技術であります。

 昭和三十五年には池田内閣が所得倍増計画を正式に閣議決定して、国是として高度成長を決めたと、こういうこと
になります。昭和三十九年には東京オリンピックがあり、そして東京、新大阪の間を新幹線が走り出したということであります。そういう形で高度成長が展開したのでありますが、昭和四十年代に入りますと、さすがの技術革新、その当時イノベーションと言っておりましたものも、種切れになってくるわけです。
 
 これについて象徴的な製品が二つありまして、一つは東レにナイロン技術を売ったデュポンであります。この会社というのは創業者利潤取得型企業でありまして、いままでなかった製品を大規模な開発努力の結果としてつくり出して創業者利潤をドカンと得るという型の企業であります。この企業が昭和四十年代の初めに発表したのがコーファムという人工の皮であります。それまでも人工の皮、アーティフィシャルレザーというのはあったわけでありますけども、みんな呼吸をしない。ですから要するにゴム長をはいているみたいなものでありまして、靴の中が汗でべ夕べタになってしまう。ところがこのコーファムというのは細かい穴があいておりまして、汗の蒸気をみんな外へ出す。ですから、むれない。この呼吸する皮コーファムというのを発表した。大変な騒ぎになりました。

 日本で産業スパイという言葉が初めて出てきたのはこのときであります。三センチ角くらいの切れ端を、その当時の値段で大体三百万ぐらいで売って歩いた。産業スパイと言われる人が暗躍したのはそのときであります。

 それからしばらくして、私はマーケティング的に非常に参考になるケーススタディだと思って、関係ありそうな企業に、お宅はそういうものを買いましたか、買ったとされたらその買ったものが実は本物でしたか、偽物でしたかというのを聞いて歩いたことがありましたが、どこも絶対におっしゃってくだきらなかったので、全然ケースが集まらなかったということがありました。もう済んだことだから言っていただいてもいいんじゃないかと思ったのですが、その点は皆さん守りが固くて、そんなもの買うわけがないでしょうというようなお答えでしたが、どうも買わないはずはないと思いますけど。

 こういうことで調査はだめでありましたけれども、とにかくコーファムというのは大変なみんなの関心を集め、しかもデュポンの社長がその新製品の発表の席上で、コーファムの製造コストは天然の皮より安い。だけど天然の皮より安い値段を付けたらコープァムは皮の代用品というイメしジになっちゃうからコストは安いけど代用品イメージを避けるためにもっと皮より高い値段を付けるということを堂々と宣言したわけであります。これも非常に話題になりました。実際にはコストは安くても高い値段を付けている製品はたくさんあると思いますけれども、安いけどイメージのために高い値段を付けるということを堂々と社長が発表したのは、それから後もいまだにありませんで、唯一のケースです。これが成功であったかどうかというのはケーススタディの絶好の種になっているわけですが、このコーファムもあえなく四年で失敗をいたしました。デュポンは人工の皮の市場からは撤退をしたということであります。

 これは呼吸をするというのは決してうそではなかったわけでありますが、天然の皮にはもう一つすごい特徴がありまして、きずが付いても皮の繊維がきずを小さく縮めちゃうような働きがあるわけです。ところがコープァムにはそれがありません。一たんきずが付くとどんどん広がっていく。そこが天然の皮とまるで違ったわけであります。主として靴に使われたわけでありますから、靴というのは必ずきずが付きます。一たんきずが付いたらおしまいということでありましたので結局失敗をしたということになります。

 その後、現在天然の皮に代わる人工の皮をつくっているのは日本だけなんですけれども、これは東レが発想を変えまして、靴はきずが付くからだめだ。衣料品に使えばきずは付かないだろうということで衣料品。衣料品に使うならピカピカ光った皮よりスウェード調がいいだろうということで、スウェード調のエクセーヌという皮をつくって、これは非常に成功しているわけですけれども、コーファムは見事に失敗をした。

 もう一つ典型的な失敗した製品は、これは珍しくアメリカではありませんで、イタリアであります。モンテカチー
ニというイタリアの化学会社。いまは国営のENIという会社に吸収されてしまいましたが、その当時は独立の化学会社モンテカチーニという会社がポリプロピレンという人工の繊維を発表した。これは繊維として持っているべきすべての性質を備えた理想的な繊維だという話だったわけです。繊維として持っているべき性質というのはいろいろあるわけですけど、軽いとか、摩擦に強いとか、しわにならないとか、風合いがいいとかいろいろあるわけです。その性質をすべて備えている。ただ一つの難点は染色性が悪いということである。それは承知の上で、そんな染色性の悪さなんていうのは技術買ってきて日本へ持ってくればすぐに直るに違いないということで、日本じゅうの化学関係の会社がモンテカチー二に、わが社に技術を導入させろという交渉に出かけたわけでありまして、当時はモンテカチーニ詣でという言葉もできたぐらいです。

 その結果、住友化学と三菱油化の二社が導入に成功したわけであります。ところが買ってきてみたらいつまでたっても染色性の悪さというのは解消できなかったんです。色が染まらなければ一番付加価値の高い衣料品には使えないわけでありまして、本来の意図とは裏腹に包装材料としてしか使えないという時代が十何年ずっと続いていたわけです。これも失敗だった。包装材料というのは非常に付加価値が安いものでありますから。
 ついでに申し上げますと、ここ四年ぐらい前から染められるようになりまして、現在はポリプロピレンは衣料品に使われている。夏になると広告の出ますウオッシャブル背広というのはこれであります。要するに週末に洗たく機に突っ込んでバッと丸洗いしてボンとかけておけば、それで月曜日からきれいな背広が着て歩けるという、これがポリプロピレンであります。三万円台で買えます。なかなかいいものであります。

 これは何で染められるようになったかというと、これはポリプロピレンの改良からはこなかったんです。ちょうどその頃金属を染める技術が開発された。アルミサッシュをブロンズ染めする。これは塗ったのではなくて染めてある
わけです。それからステンレスの風呂おけに模様が付いている。これも塗ったのではなくて染めてある。絶対に色が落ちないわけです。金属を染める技術というのができれば、これは専門家の話でありますけれども、この世の中に染められないものは何もないんだそうでありまして、その技術を持ってきてポリプロピレンが染められるようになった。
ですがそれはずっと後の話でありまして、ポリプロピレンを導入した最初の段階十何年間はおよそ不本意な状態が続いた。ここら辺で技術革新の枯渇ということが言われるようになりました。ところが企業としてはやはり次から次へと新製品をつくっていかなければいけないわけであります。

     技術革新枯渇時の新製品―その成功例

 したがってどうやって新製品をつくったかというと、これは既存技術の組合わせで新製品をつくり続けた。ここら辺が企業が非常にフレキシブル。日本はそこら辺から、いわゆる器用な能力、頭の柔かさというのを発揮しだしたわけでありまして、例えば、世界で初めてラジカセというものを開発したのは日本ビクター(IVC) であります。要するにラジオとテープレコーダーと一つのケースに入れる。これは技術的に何も新しいことはないわけでありまして、要するにカセットテープレコーダーとラジオを一つのケースの中に入れるだけのことでありますけれども、実はそれがいままでラジオの番組を録音するときに一々コードをつないでテープレコーダーに録音していた人たち。そういう人たちはたくさんいたわけでありますけれども、そういう人たちにとってはこんな便利なものはない。ラジオを聞きながら、あっいいなと思ったらボンとスイッチを押せばすぐに録音できるということで、それからもう二十年近くにわたってずっと年率三割、複利計算の三割の成長ですからこれは大変なことになりますけれども、年率三割の成長を遂げる大ヒット商品になった。だけど技術的には別に新しいものはなかったわけでありまして、むしろその既存の技術、既存のものの中における、ラジオとテープレコーダーと一つのケースの中に組み込んだらどうなるかという、そぅいうとらわれない発想ができたかどうかということの勝負であったわけであります。

 これは別に物と物との組み合わせに限りませんで、サービスと物との組み合わせとか、サービスとサービスの組み合わせとか、いろんな組み合わせが考えられるわけです。

 例えば、アメリカのマクドナルドというハンバーガーのチェーンがあります。これはアメリカで一番大きな外食企業であります。それから世界でも一番大きな外食企業でありますし、日本のマクドナルドも日本の外食企業の中で年間売り上げ高が一千億円を超えているのはマクドナルドだけであります。そのあとはスカイラークとかロイヤルとかそういうものが続くわけですが、あとは八百億台でありまして、飛び抜けてマクドナルドが大きいわけです。最近成長率が鈍っておりますけれども。とにかく売り上げ一千億を超えているのはマクドナルド。

 日本のマクドナルドはさておきまして、アメリカのマクドナルドというのは戦後、レイ・クロックさんというのが始めたわけです。創業二十年にしてアメリカ一の外食企業になったわけでありますが、何でそんなに急激に成長を遂げたのか。日本ではマクドナルドが日本人にハンバーガー、ひき肉のステーキをパンの間にはさんで食べるという食べ物を教えてくれたようなものでありますが、アメリカではハンバーガーというのは別に珍しい食べ物でも何でもなかった。

 アメリカの場合にはハンバーガーというのは国民食です。フライドチキンとホットドックとハンバーガーというのはアメリカ人にとって最もあたりまえの食べ物です。

 ちょっと余談になりますが、いま日本ではフライドチキンとハンバーガーは非常に発展をしておりますが、ホットドッグのチェーンというのはどういうわけだかほとんど日本でありません。どうしてかだれに聞いてもわからないわけでありまして。だから私は、調べた結果じゃなくて、直感でありますけれども、そこら辺にまだすき間があるんじゃないですかということを言ってけしかけているわけですが、どうなりますか。どういうわけだかホットドッグのチェーンというのは日本で発展していない。これが不思議です。

 さて、アメリカの場合にはレイ・クロックさんという人が始めたわけです。それで数多のハンバーガー屋さんがある中でこのマクドナルドだけが急激な発展を遂げたのはなぜかというと、これはやっぱり組み合わせなんです。マクドナルドの店へ行ってみますと、売っているものはハンバーガーであります。ですが実はマクドナルドの最大の商品は、どんなに混んでいるときお客さんが来ても絶対に五十秒以上待たせないという、その待たせないというサービスが最大の商品でありまして、それにハンバーガーがくっついていると、こうお考えいただいた方が本質が御理解いただけるんじゃないか。要するに現代人というのはすごいせっかちであります。ですから、どんな混んでいるときに行っても絶対に五十秒以上待たされない。一分以内にハンバーガーが手に入る。これはすごい魅力になるわけでありまして、これで発展を遂げたということになるわけです。これも組み合わせ商品ではないかということになります。

 ついでに申し上げますと、日本のマクドナルドは五十秒では大体済まない。大学のあります国立の駅前にもありますけども、私はいつでもマクドナルドへ行くたびにストップウオッチで測っているわけでありますが、国立のマクドナルドでは三分四十八秒待たされたことがあります。(笑)これはアメリカではチェーンを除名されますが、日本の場合は、五十秒なんてやるとお金がかかる。アメリカでもお金がかかるんです。五十秒以上待たせないためには何が必要かというと、これは結局つくりだめなんです。幾ら器具の改良をやったって、ハンバーガ(1)焼くにはどうしたって一定の時間はかかります。ですからお客を予想してつくりだめておくわけです。ところが余りつくりだめておくと
味が落ちるわけですから、つくってから三十分たって売れなければ捨てるわけです。だからいかに捨てるのを少なくして、しかもお客さんを待たせないかという需要予測が一番基本。だけどどうしたって捨てるのが出てくる。だから五十秒守ると損するからやらない。日本の場合はそんなに早いところないからもっと遅くてもいい。そのかわり考えたのは、ニッコリサービスです。ですから、お客さんが入ってきたら若い女の子が「いらっしゃいませ」とニッコリ笑う。これが差別化の手段です。だからハンバーガーとニッコリと、こういうことになるわけです。ですから、あそこの店はニッコリを維持することに猛烈に注意を払っているわけでありまして、やはり人が気持ちいい顔でニッコリできるのは三時間が限度。それを過ぎると、本人はニッコリ笑っているつもりでもゆがみが出てくるそうであります。(笑)ですからマクドナルドの若い女性のパートタイマー、絶対に三時間以上は働かせない。すると時給六百円ぐらいで三時間だと千八百円にしかならないわけです。そうすると遠くから来るんじゃペイしないということで、近くに若い女性がいるところ、近くに供給源のあるところにしか店を出さないのです。

 ですからそういう交通に時間もかからない、交通費もかからないという人たちを集めてきて三時間だけ働かせる。そうすると学校のそばとか、住宅密集地のそばということになりますと、知り合い、友達とか親戚の人、近所の人・いろんな人が来るわけです。そうすると、知らない人にはいらっしゃいませと言えるわけですけれども、知っている人が来るとやっぱり恥ずかしいわけでモジモジとなっちゃうわけです。そこでマクドナルドでは原価十円の紙の帽子をかぶせているわけです。あれは不思議なものでありまして、あんな帽子ひとつかぶると変身するわけです。ふだんの自分ではなくなるわけでありまして、だれが来ても、「いらっしゃいませ」と言えるようになる。そういうようなものの組み合わせがあのマクドナルドというのをつくっているわけであります。ですからこれも組み合わせ商品ということになります。


     第二次技術革新(ハイテク時代) の新製品 ― ヒット商品未だ出ず

 そういう形で技術革新が枯渇をしている時代をしのいでいって、現在はまた技術革新が大いにある時代ということになります。第一次技術革新の時代をイノベーションと言っておりましたが、現在はイノベーションという言葉はほとんど使われなくなって、言葉はすごくなっています。テクノロジカル・ブレイク・スルーと言うんです。技術突破と、こういうわけでありまして、すごい勇ましい言葉になっております。ある言葉を長く使っておりますと、だんだん垢が付いてきて、すごみがなくなるわけであります。

 ベトナム戦争でも最初は、敵を殺す、トウ・キル・ザ・エネミーと言ったんですが、終わり頃にはトウ・ターミネ
イツ・ザ・エネミーなんて言いまして結果は敗けちゃったわけでありますけれども。

 それでいまは技術革新があるんです。あるんですけれども第一次技術革新時代とは非常に違う。というのは、その技術革新が技術としては確かにあるんです。ハイテクノロジーの時代ではあるのですが、それが直接一般の消費者用の製品とはなかなか結び付かないという、そこら辺のむずかしさがある。だからいまのハイテクノロジーというものをどう実際の製品に結び付けて、消費者が泣いて喜んでくれる、そしていままでの製品をおっぽり出して買い換えてくれるような製品ができるかという、そっちのアイディアの方がほとんどまだ出ておりません。

 例えば、いまハイテクというとまず皆さん方の頭に浮かぶのはエレクトロニクス。エレクトロニクスの中でも特にLSIだろうと思います。高度集積回路ですが、いま一般に売られている一番高度の集積度の高いLSIが二五六キロバイトというわけです。五ミリ角の中に二五六キロバイトのメモリーがある。これは漢字入りの文章で四百字詰め
原稿用紙で大体五十枚分が入る。わずか五ミリ角ですから、これは大変な技術です。ですが、それだけの記憶容量を持つメモリー素子ができたからといって、それがすぐに、それを使って消費者が泣いて喜ぶ製品に結び付くかというと、そう世の中は甘くないわけであります。ワープロとかパソコンとか、そういうものにはもちろん使えるでしょう。ですがそれ以外それだけの記憶容量というのは何に使えるかというわけです。大記憶容量の素子ができる前は、合成音声で自然な音声でしゃべらせるためにはすごく記憶を食うわけですから、そういう素子が欲しいということをみんな言っていた。ところがそれだけの記憶能力を持つ素子ができてみたら、どんな機械にどんなことを合成音声でしゃべらせたらいいかということが全然アイディアが出ないということがいまわかった状態です。

 電気洗たく機に「水出してください」 「とめてください」 「洗剤入れてください」なんて叫ばせる洗たく機出した
けれども、ちっとも売れなかったわけです。
 
 電子レンジに「スイッチ入れろ」だの「目盛をどこに合わせろ」だの叫ばせたけれども、これはちっとも売れなかった。

 カメラにトークマンというのがありまして、シャッター押そうとすると、暗いときには、「フラッシュめボタンを入れてください」なんて叫ばせたけど、これも使っている人になってみると、人のいるとき叫ばれると恥ずかしいわけでありまして、そんなものスイッチを切って使っている。何のために叫ばせているのかわからないということになります。合成音声でいま一番売れているのは服部セイコーの売り出しているピラミッドトークというピラミッド型の時計であります。これは文字盤がないわけです。頭をぶったたくと「六時四十五分です」とか言うわけです。定価で一万円くらい。これは大変なヒット商品ですが、これには二五六キロバイトなんか全然要らないんです。一六キロバイトぐらいで間に合うわけです。

 これはどうして売れるかというと、やっぱり必要に合っているわけです。寝ぼけまなこで、朝、目をあけるのがめんどくさいときボンとひっぱたけば、何時なんて言ってくれるわけですから、これは便利。(笑)だけど二五六キロバイト分しゃべらせて、みんながこれはいいと言って喜ぶような使い道が何かあるかというとないんです。皆様方何か思いつかれたら、どこかそれに関係のありそうなメーカーにヒントを出してお上げになれば、きっと大変な謝礼金がくるはずであります。どう使ったらいいかみんな困っている。合成音声とか記憶がうんと上が
ったけど、何をやろうかというわけです。

 二五六キロバイトのメモリー素子を使った使い方としてかなり高度な使い方をしているのは、東芝のビデオテープレコーダーでありまして、ビデオテープレコーダーというのは静止画を出すのは、いままでのやり方ですとテープをとめておいて同じところをヘッドでこするわけです。ですからテープの一部分、とめている部分がいたみますし、ヘッドの目詰まりをしたり、それからどうしても画がプレたり、筋が入ったりするわけです。しかしながら東芝はこの二五六キロバイトのメモリーを四つ使いまして、その動いている画をボタンを押した途端にそこに録画しちゃうわけです、メモリー素子に。それを今度は出しますから、完全に固定した画が出るということでできれいな静止画が出るというビデオテープレコーダーを出しております。ですがこれはヒット商品とはいかないです。静止画がきれいになったからといってビデオテープレコーダーが、どれだけそれでみんな泣いて喜ぶ製品になるかというと、泣く人は非常に少い。それは特殊な部分を一生懸命しつこく見る人にはいいかもしれませんけれども、そういう人は世の中にはそうはいない。やっぱりビデオテープレコーダーというのは、大体の人にとっては動いているのを見ていればそれでいいわけです。怪しげなのを局部的に見ようなんて変な人には意味があるかもしれませんが、(笑)世の中にはそうそういう人は多くないわけでありまして、これは使い道としてはいいと思いますけれども、これでみんながビデオテ
ープレコーダー いままでのをおっぽり投げて東芝のに買いかえるかというとそうはいかない。というようなことになるわけです。

 あるいは形状記憶合金というのがあるんです。これは大変な発明だと私は思います。

 金属に、例えば針金などにある形をある温度を記憶させておくわけです。別な温度でそれをクシャクシャにしておいても形を記憶させた温度にするともとの形を思い出してピタッとその形に戻るわけです。
大変な発明なんですが、よくよく考えてみると何に使ったらいいかというのがよくわからない。それ自体は素晴しいんですけど。最初に使われておりましたのは、いまでも主要な用途は医療用なんです。

 例えば骨が折れたというときに、骨をつないで、そして針金でとめるわけです。すると形状記憶合金じゃありませんと、骨にとめる形をちゃんとつくって、そして相当大きく切り開いてそれを突っ込んではめなきゃいけないわけです。ところがこの形状記憶合金を使いますと、骨に当たる形をつくって、体温でそれを記憶させて、例えば冷やすか、熱くするかして真っ直ぐ延ばして、ちょっと切って突っ込んでレントゲンで見ながらあてておけば、体温でそのもとの形を思い出してピタッとはまると、こういうような使い道があるわけです。これは非常に助かっているわけですけれども、これ使うといったって、到底百億円なんという市場規模にはいきゃしないということであります。

 民生用で去年から使われておりましたのは、松下電器がエアコンの空気の吹き出し口の切りかえに使っている。熱い空気と冷たい空気とで向きをかえるというところに使っております。これが唯一の例だったんですが、今年の初めからワコールが形状記憶合金ブラジャーというのを売り出しました。

 ブラジャーというのは、要するに理想的でない形の胸を理想的な形にするためにあるわけです。そうすると本当は針金でピタッと理想な形をつくってそこにはめればこれは理想的な形になるわけです。ところがブラジャーというの
はどうしても汚れますから洗たくをしなくちっいかん。最初買ったときは理想的な形でも、一回洗たくするとゆがんじゃいまして、それをはめるとかえってもっと非理想的な形になるということであったわけです。(笑)ところがワコールの形状記憶合金ブラジャーというのは理想的な形を体温で記憶させてつくってある。だから洗たくしてゆがんじゃってもはめていればまた理想的な形にピタッと戻るというから、大変な人気なんです。だけどこれだって大した使用量じゃありません。ですから、やっと一つ何か目ざましい使い道が見つかったということで意味はありますけれども、もっともっといろんな用途はあるだろうと恩うんですが、いまだに出てこない。

 私はよく言うんですが、新技術というのはしゃぶりつくすまでにすごい時間がかかる。いまのハイテクの時代と言いながら、本当にしゃぶり出したほんの初期じゃないか。まだ生まれたばかり。だからまだまだだということであります。ですからいまの時代、新製品をつくるのは、むしろ組み合わせ、前の時代技術革新が枯渇していた時代の組み合わせの精神と、もう一つは女性的な細やかな気配り、心配りで、お客さんの不満に感じていること、満たされないと思っていること。これはお客さんに聞いたってわからない。自分だってわからない。意識的には感じていないわけです。そしてそれを満たす製品やサービスが出てみると、ああそうだ、これが私の求めていたものだと、初めてそこでわかるわけですから、こっちが洞察力がなくちゃそういうものはできないわけですけれども、そういうものがなくてはいけない。そういう発想じゃないと、いまや優れた製品はできないとこういうことになるわけです。


     東京ディズニーランドの成功とその示唆するもの

 一つの典型的な例が東京ディズニーランドということになるわけです。これは年間千二百万ぐらい人を集めている。アメリカの本家ロスの月ス郊外にありますディズニーランドが大体年間一千万人集めているわけです。日本でも一千万人と言っていたわけですけれども、実は内心経営者側は非常に不安であったわけです。なぜかというと、ロスの郊外というのは一年じゅう雨も降らない、冬もない。ところが日本は冬もある、雨もある、嵐もある。しかも海岸ですから突風も吹くだろう。唯一心の支えは農協と修学旅行と、こういう状態でスタートしたわけです。ところが、農協、修学旅行ももちろんありましたけれども、年間を通じて随分大ぜいの人が集まったということで大変な成功。一千二百万人ぐらい集まり、しかもお土産も一人当たり四千円ぐらい買ってくれるだろうと予想していたのが、大体七千円から八千円買うということで、お土産、記念品をつくる方も間に合わないので大騒ぎしたくらいの大ヒットになった。
あれができてからお盆の帰省の汽車や飛行機の混雑がまるで減ったんです。それまではお盆時期になりますと・みんな、例えば東京へ出ていた子供の夫婦が孫を連れて故郷へ帰るというのが普通だったから、大変に帰省列車、帰省飛行機が混んだわけであります。ところがあれができてからはむしろ逆に、東京に両親を呼んでホテルに泊めてディズニーランドを見物させて、そして故郷に帰すという逆のコースが非常に一般的になってきたわけです。だからそのために東京のホテルというのは夏場は稼働率が六〇%だったわけですが、二〇%上がりました。これは田舎の両親だけではありませんで、東南アジアからの観光客がふえたせいもありますが、その相互効果で二〇%稼働率が上がって夏場の稼働率が八〇%になった。ですから東京のホテルはディズニ17ンド様々です。ですから直行バスを出したり、お客の送迎バスを出したり大変なサービスをしております。そういう全部の波及効果まで入れると、大体四千億から五千億と言われるぐらいの市場規模なわけです。

 何でそんなに成功したのか。遊園地と言えば東京には昔から豊島園もあった。読売ランドもあった。それと桁違いの顧客動員力を持ったのはなぜか。あそこにはそんなにすごい出しものがあるのか。遊戯具があるのかということであります。そうするとあそこにはジェットコースターもないわけです。読売ランドは三百六十度回転するすごいジェットコースターみたいなのがあったりして、遊戯具から言えば読売ランドの方がよっぽどすごいかもしれない。ところがこれが違うんです。そういう断片的な問題じゃない。東京ディズニーランドというのは一つの総合的なコンセプト、哲学でつくられているわけです。それは何かと言いますと、東京ディズニーランドにお客がいるときは完全に現世を離れておとぎの国に遊ばせるという哲学で貫徹をしているわけです。ですからお弁当を持ち込ませないというのがあります。すると、これは開場初期はマスコミは、園内の売店の売り上げをふやすために、ケチして弁当を持ち込ませないんだという見方から、随分皮肉な記事を書いたりしましたけど、これは見当違いです。実際に何でそれを抑さえたかといいますと、せっかくおとぎの国に遊ばせているつもりが、家から持ってきたのり巻きを引っぼり出して食べたら、また現実に戻っちゃうわけです。これは困るわけです。ですから外の世界を思い出されるよすがというのを全部絶とうという、こういうコンセプトから、お弁当やのり巻きは持ってきちゃいかんと、こういうことにしたわけです。

 ですから一歩中へ入りますと外の景色は建物と植木で遮蔽されておりまして一切見えない。外が見えちゃったらこれは困るわけです。ですからそのためには大変な努力をしているわけであります。ロスの郊外のアナハイムにあります本家のディズニーランドは内陸でありますから、これは問題ないんですが、東京ディズニーランドは浦安という千葉の埋め立て地にあります。ですから強い風が吹きますと塩水が飛んできて葉っぱに付くわけです。開園前に実験したところでは、塩水が付きますと三時間そのままに放置すると葉っぱは黄変して落ちてしまうんです。そこで、そうなったら今度は外が見えてしまいますので、東京ディズニーフンドの場合は木の一本一本に全部噴霧器を付けて、木の葉っぱに塩が付いたら一斉にサット霧を吹き出して、葉っぱ一枚一枚全部洗っちゃうんです。それで絶対に葉っぱ
が落ちないようにしているわけです。それだけの努力をして外を見せないようにしている。

 それから、皆さんはかの遊園地へいらしたことおありになると思いますけれども、必ずお客で混んでいる園内を、人をぬって売店にお弁当や何かを運ぶトラックがノソノソ入ってくるわけです。あれ見るとまた現実に引き戻されちゃぅゎげです。それもディズニーランドの場合は絶対にないわけです。各売店全部に地下道が掘ってあるわけですから、物資補給のトラックというのは一切お客の間は通らない。これだってそれだけの基礎的なお金をかけているわけです。

 出し物はいっぱいあります。ところが人気のあるものは、どうしたって行列になります。一時間、一時間半待ちの行列になります。行列はだれにとっても不愉快なものではありますけれども、東京ディズニーランドの場合にはその不愉快さを少しでも減らすためにいろんな工夫がなされている。行列していて一番不愉快なのは途中から前の方で割り込まれることです。並んでいるところに友達が来て、ああ、あんたここにいたのなんて言いながらしゃべっているうちにお尻から行列の中に入っちゃう。あれを後ろで見ていると本当に不愉快。ディズニーフンドの場合は柵をガチッとつくりまして、行列の前の方は列の後の方で囲むようになって、絶対に割り込めないようになっています。ですから割り込まれる不愉快さをまず除いている。

 それから、あれは不思議なノウハウでありますけれども、行列に並んでいますと、止まっていることまないんです。
普通の遊園地の列ですと、ワッと動いてまたとまって、しばらく動かないでまたワッと動くわけです。止っているときが長いわけです。物すごくイライラする。ところが東京ディズニーランドの行列というのは、いつでもほんのわずかではありますけど少しずつ動いていく。あれが待つつらさというものをどれだけ軽減しているかわからない。

 そういうような、おとぎの国に遊ばせるという哲学のもとにすべての努力−まだまだいろいろありますけど―
を集中した結晶があの東京ディズニーランドです。だからほかの遊園地と全然違った顧客動員力を持っている、こういうことになるわけです。いまハイテクの時代と言いますけどももう一つハイタッチという言葉があります。ハイタッチというのは人間的な接触であります。いま申し上げたようにハイテクの方はなかなか使い道がわからないわけです。ですからむしろハイタッチです。ハイタッチの方が必要な時代ということが言えるんじゃないか。だからこのハイタッチの方のセンスの鋭さ。これを感性という言葉で呼んでおりますが、いまのマーケティングにとって一番必要なのは感性だというふうに言うわけであります。これが製品計画。プロダクト、プランニングの面であります。


     流通面に於ける新しいマーケティングの動向 ― 無店舗販売とコンビニエンスストア

 それから、マーケティングにはいろんな局面があるわけでありますが、別の領域として非常に重要なのは流通の面であります。メーカーから卸を通って、小売を通って消費者に品物ないしはサービスを届けると、こういう流通もマーケットの非常に重要な機能の一つであります。これもいま猛烈な勢いで変わりつつあります。特に一般に目につくのは小売の方で、卸の方は余り目につきませんけども、小売の変化に伴って、卸も猛烈な変身を、あるいは変貌を強制されているわけでありますが、その小売の方で言いますと、まず第一が無店舗販売といいますか、ダイレクト・マーケティングといいますか、小売店経由ではなしに直接に消費者に届けるという形の販売が伸びています。

 これは具体的には通信販売と訪問販売ということになりますけれども、訪問販売は豊田商事以来非常な落ち込みで、成長率が落ちております。通信販売。こちらの方は大変な伸びであります。これはいろんな理由がありますけれども、この頃の製品というのはちょっと一言説明の要るような、ただお店の棚に並べておいて自ら売れるという商品が相対
的に少なくなって、いろんな工夫が加えられている。それを説明しないとわからない。通信販売ですとその説明をちょいと付けることができます。それから、働いている主婦が多い。いまや結婚している女性の約六〇%は働きに出ているということになると、なかなか買い物をする時間がとれないというようなこともあります。

 というようなことで通信販売というのが非常に伸びている。これも通信販売でも、はがきとか電話とかいうものだけではありませんで、最近一番目覚ましい伸びを示しているのがフレッシュシステムズという、愛知県で始まったシステムでありますが、東京ではスカイラークや百貨店の松屋がそのフレッシュシステムズの本部のフランチャイズ契約社になりまして始めたところでありますけれども、これはNTTのアンサーというシステムを使いまして、ピッピッピッと自分の注文したい商品のコード番号を押すわけです。そうするとその機械からピッピッピッと音が出まして、それを電話の受話機を通じまして相手のフレッシュシステムズの本部のコンピューターに入るわけです。その音をコンピューターが読み取って注文が自動的にコンピューターに入る。これは二十四時間オープン。いつでも自分の気が向いたときにピッピッピッと注文しておくとサッと注文が入る。それが翌日届けられる。

 しかも、このフレッシュシステムズのユニークなところ、いい着眼点だったのは、要するに働いている主婦が多い。配達をしてもだれもいないときが多いわけです。いないときには配達できない。隣へ預ける。これは困るわけです。そこでこのシステムでは鍵のかかる鉄の一メートル立方ぐらいの箱を配っておきまして、留守中でもそれを届けて、その箱の中に入れておくわけです。帰ってきたときに鍵を開けてふたを開ければ中から注文したものが取り出せる。これが非常にいいアイディアだったということです。但しこれは集合住宅では無理です。一メートルの箱ですから廊下なんかに置いたら邪魔になります。団地とかマンションとかは残念ながら契約できないですが、独立の家を持っている方には非常に便利なシステムで非常に伸びてきております。

 そういうような無店舗販売というのが非常に伸びてきている。アンサーといったようなニューメディアと結び付いている新しい小売も出てきております。

 それから、今度は店を持っている小売店自体をとりましても、スーパーの時代と言っておりましたけれども、大型スーパーの伸びはもう非常に鈍くなっている。それから新規店も非常に少なくなりました。大規模店舗法というものがありまして、これは政治的な圧力でつくられたわけです。中小の小売商が大型店が出られちゃ困るから法律的に抑さえてくれということでつくられたのが大型店舗法で、私はその審議会の委員をしています。中央の委員と中国、四国地方の部会長もやっておりまして、よく行って調整しなくちゃいけないんです。そういう規制もありますけども、現実に出店の希望というものも減ってきました。いま後れていた山陰地方なんかがかなり激烈な争いが行われておりますけど、東京あたりだとあんまり出なくなった。出ても、高いお金かけて土地買って、あるいは土地借りて店をつくって、そこでやっても到底ペイしないというようなことになってきた。だからスーパーは事実上飽和したと考えていただいていいでしょう。売り上げの伸びも大体四%から七%ぐらいしかないわけです。

 むしろ小売店でいま一番注目されているのはコンビニエンスストア。具体的にはそのトップにいるのがセブンイレブンという会社であります。これはイトーヨーカ堂の子会社でありますけれども、もはやセブンイレブンの売り上げだけで、スーパー業界の三位であります西友の売り上げを凌駕している。二千七百店ぐらい。一日三店ぐらい開店をしており、大変大きな企業になっておりますが、このセブンイレブンみたいなコンビニエンスストア型の小売店といいのが非常に注目をされている。そのほか西友はコンビニエンスストアではファミリーマート、ダイエーがローソンという形で展開しておりますけれども、これは要するに全く新しいコンセプトでつくられた小売店なんです。

 コンビニエンスストアというのは便利さを売る店でありまして、逆に言うと値段の安さを売る店ではない。スーパ
と基本的コンセプトが違う。しかも、広さ平均して二十五、六坪の店というのは、いままでは大体その周辺半径五百メ上ル以内のお客は全部取りたい、そういう発想で出てきた。だからなるべく住宅密集地につくらなければいかん。その半径五百メートル以内の世帯が全部来てくれるためには.どの家でも必ず買う生鮮三品の肉.魚.野菜を品揃えとして持たなければならないという発想でつくられていた。これをネーバーフッド型ストア、近隣型ストアと言っているんですが。

 ところが店の大きさからすれば.このセブンイレブンというのは近隣型でありながら生鮮三品は置いていないわけです。何で生鮮三品を置かないのかというと.それは近所の人全部に来て欲しくなかったからです。だからいままでと全然逆な発想なわけです。中年の奥さん達は来てほしくない。要するに若い独身の人たちを市場標的として狙ったわけです。

 若い人たちというのはシャーツと買物に来て自分の希望のものをパッパッと拾ってサッとレジで勘定して帰りたい。ところが中年過ぎた、もう太った体の動きの鈍くなった主婦がウロウロしていると邪魔になるわけでありまして、(笑)そういう人は来てほしくないと、こういう発想です。いままでなかった発想です。

 それじゃそういう若い人たちはどういう買い方をするかというと、計画的ではなしに衝動的に買う。ですから衝動的に買われる品目を全部集めた。したがって.セブンイレブンに行って御覧になりますと、いままでの何々屋さんという業種分類でくくるとくくれない。祝儀袋もあれば、不祝儀袋もあれば、冷凍食品もあれば、お弁当もあれば、雑誌もある、そうなると何屋さんと言おうったって言えないわけです。別の言い方をすると衝動屋さんと言うとよくわかる。衝動というのは時間的に、今度いつ起きるかわからない。したがっていつでも店が開いていなくちゃいけないということになって.二十四時間営業というような形はそこから出てくるわけであります。

 こういう小売店を、われわれの世界では業態店と言っております。何々屋さんと商品分類でいえるのは業種店であります。業態店は.要するにどういう消費者のニーズ・アンド・ウォンツ、必要と欲望に合わせた品揃えをするかです。そうするとコンビニエンスストアというのは、衝動的に買いたがるものを揃えた業種態店と、こういうことになります。いま業績のいい店はみんな業態発想を持った店であります。例えばセブンイレブンといったようなコンビニェンスストア。それから、いま大型店舗唯一どんどん店の数がふえているのがホームセンター。特にその中でも目覚ましいのはケーヨーホムセンター。これは千葉の方から出てきた。小売屋では珍しく東大出た方が社長さんです。このホームセンターだって、あるいは日曜大工店という呼び方もありますが、何屋さんという昔の分類ではくくれないわけです。大工道具の店でもなければ.接着剤の店でもなければ.材木の店でもなく、何かを自分でつくりたい人のための店ということになります。ですからこういう業態発想というのはいま小売で一番求められているということになるわけでありまして、小売の業界というのも物すごく変わりつつあります。

 コンビニエンスストアに話を戻しますと、どういうものを衝動的に買うかというのは時間帯によって違います。したがってセブンイレブンに対する問屋さんの配送というのは一日三回行われるわけです。時間帯ととに違ったものを届けるということになります。ですから問屋も、いままでの体制ではこれは到底やっていけないわけでありまして、セブンイレブンの要求に対応するためにはそれなりの体制をつくっていかなくちゃならないということで、問屋さんもまるで変わりつつある。セブンイレブンだけではありません。似たような形の店.サンチェーンとか。サンチェーンというのは私より二年下の、石原慎太郎氏と同期の鈴木貞男さんが社長をしておりますが、いまダイエー系のコンビニエンスストアです。それから、西友系のファミリーマートは、私より三、四年先輩の、元伊藤忠におられた沖正義さんが社長をしておられます。結構コンビニエンスストア業界も一橋が多いわけです。セブンイレブンは鈴木敏
文さんというイトーヨーカ堂の副社長が社長さん。この方は中央大学の出身です。河出書房がつぶれた後イトーヨーカ堂へ行かれたという方です。

 ごく短かい時間でありますから、かいつまんでお話をしましたが、小売というもの、それに応じて流通経路という
ものも変わってきているわけでありまして、かつてはメーカーが流通経路を支配しておりまして、流通の系列化なんていうことが言われておりましたが、多くの業界においては大型店、それからセブンイレブンも、店は小さいですがセブンイレブン全体とすると大変な売り上げになりますから、むしろ小売の方がメーカーの鼻面を引っぼり回すというような形にどんどん変わりつつあります。これがバイイングパワーの問題と言われる。購買力と言わないで普通バイイングパワーと言うんですが、買い手独占です。普通、独占というと売り手独占。電力会社とかガスとか、売り手独占というのがモノポリーという言葉で言っている。普通・独占というとモノポリーという言葉しか浮かばないんですが、買い手独占というのが現実に流通業界では出てきております。モノプソニーという、皆様方が学校におられたときには余りお聞きにならなかった言葉だと思います。ですから供給者よりも買い手の方が力が強くなっちゃった。
だから初めから小売定価をメーカーに対して指定するわけです。うちの店ではこのものはこの値段で売りたい。そうするとあとのマージンや何か引くとあなたの卸価格は幾らでなければならない。そうじゃなきゃ買わないよ、こういうことを言われるわけです。するとメーカーとしてはそれに従わないと・例えばダイエーだのセブンイレブンだのがボーンと全部落ちちゃうわけですから、えらいこっちゃということで合わせざるを得ないというような形が、どんどん出つつあります。ですからこれはまさに買い手独占です。モノプソニックパワーというものがいまの流通というのを支配し始めている。ですからメーカー優位の体制というのは非常に大きく変化しっつあるというような状況であります。

 ですが、カリフォルニア大学から流通専門のバックリンという有名な教授がやってきまして、私の講義の時間に講演をしてもらったわけですけど、ヨーロッパでもアメリカでも日本よりもっと買い手側の購買力が強くなっている。メーカ1は鼻面引き回されている。しかもメーカーの方は安くしろという要求に従わざるを得ないから安くする。その安くする原資というのはどこから出ているかというと、結局削れるところは広告費だけだと。すると広告費を削ると今度は直接消費者にメーカーが訴える力が弱まるから、ますます小売りに依存せざるを得なくなるという、メーカーにとっての悪循環が始まっているというような話をして、その彼の講演をする前に、一橋の私の講義をとっている四百人ぐらいの学生の前で、君たちの中で流通業界に就職しようと思う人だれかいるかと言ったら、だれも手を挙げないわけであります。そうしたら、おれの講義が終わったら絶対にみんな考えが変わるぞなんて一生懸命講演したわけでありますけれども、終わってからもだれも手を挙げなかったと、(笑)こういう状態。流通といっても総合商社は別でありますけれども、普通の流通業界はだれも行かないわけです。

 ある流通企業は三月十五日項入社式をやっているわけでしょう。あんなことやったら来やしないというわけです。みんな最後の学生時代を楽しみたいときに、何で十五日余計に働かせてどういうことがあるんだ。そんながっついた発想持つなと言うわけです。そうすると、早くやれば新聞に書く。新聞に書くけど、それをみんな感心して見ていると思ったら大間違いで、いやだなと思って見ているわけでありまして、(笑)そこら辺の発想が達うんですね。しかも入る前に三十万円か何か売ってこいなんてなるわけです。入社までに三十万円とか五十万円売ってこないと入社式にも恥ずかしくて出られないという。自分で買ったり、親戚に買わせたり。そんなけちなことやるなというわけでありますが、だめなんですね、どうしても。まだまだ日本の場合は一流企業とは言えない。売り上げ高は大きいですけれども、この辺に日本の流通がいろんな面でアメリカやヨーロッパと違う。アメリカでもややそういうところがある
んです。ユダヤ系の人は行きますけれども、ユダヤ系でないビジネススクールを出た人は小売業へ行かないということはアメリカでもあるくらいですから、日本ではもっともっとということになるわけで、ここら辺がやはり日本の流通業界の問題だろうというふうに思うわけであります。

 一応きょうは、系譜とプロダクトプランニングと流通マーケティングの主な領域でありますここら辺についてお話をさせていただきました。

     
     [質 疑 応 答]

 ―  大変面白く伺いましたが、直接仲介の卸業を排除するというものの中に生活協同組合というのがあるわけですが、これが非常に力を得るので、これを制限するというような動きが出ておりますが、その点について一言伺いたい。

 私、昭和三年緒方先生の協同組合論というものを売買組織という形で講義を聞いた者の一人でございますから、ことにそういうことに気が付いて申し上げます。

 田内 いま生活協同組合というのは、大体総小売売上高の二%ぐらいになっておりますでしょうか。ですからウエートとすると小さいわけですが、一つ問題が非常に大きくなっておりますのは、小売売上全体が余り伸びなくなっているときに、生協というのは普通の一般の小売店じゃなしに、あれは厚生省の管轄でありますので、通産省管轄の大規模店舗法の制限を受けないわけです。ですから大型店が好きに出せるわけです。すると売上げ全体が伸びないときに大型店出して、しかも組織化をしてどんどん売上げをふやしている。これはたまらんと。

 それともう一つは、生協はほとんどみんなひとつの政党系でありますから、自民党がこれはけしからんというものも絡んで、生協を何とかしなくちゃいかんと、こういうことになっているわけでございます。生協が伸びているもう一つの理由、組織をつくっているということと、もう一つは、いま健康に対する関心。例えば添加食品とか添加物、健康食品、そういうようなことがあって、実際に健康食品として売られているものが本当にそうなのかという、あんまり信頼感がないような面もある。そうすると生協の場合、私、調べたことはありませんけれども、何となく生協でやっているのは安心だというようなイメージもあったりしまして、そういう形で伸びている。いろんな要因が相乗的にからんで注目を集めている、ということになるんじゃないでしょうか。
                                         (昭和六十一年三月二十五日収録)