一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第五十五号]    一橋における原価計算と管理会計  一橋大学商学部教授 岡本 清



    はじめに

 ただいま御紹介頂きました商学部の岡本でございます。本日は大先輩ばかりを前にいたしまして非常に緊張しております。とちりそうでありますが、どうぞ御容赦をお願いいたします。

 本日の出席者の名簿の中に中塚君の名が載っていますが、彼は私と同じ松本ゼミ出身で、昭和四十一年卒であります。

 彼から、この会で、「一橋における原価計算と管理会計」というテーマで話をしてくれという依頼がありまして、大変躊躇したわけですが、現在このテーマで話をせよと言われると、ー橋においては、私と私の弟子しかいないわけです。その私の弟子の方は、いま私の隣に一橋大学後援会理事長をしておられる田中先輩がおられますが、その後援会から、若手研究者の海外派遣というお金を頂いて留学できるチャンスがありまして、それによって彼は現在ハーヴァード大学に留学しております。そういうわけで私しかおりませんので、致し方なくお引き受けした次第でございます。どうぞよろしくお願い致します。

 きようのテーマは、「一橋における原価計算・管理会計の歩み」ということでございます。これは一橋の会計学の基礎を構築し、そのめざましい展開を通じまして日本の会計学の発展に指導的役割りを果たされた諸先輩の学問的業績を正しく受けとめることであります。実はきよう図書館から本を借りてまいりましたが、これが吉田良三先生の『工場会計』です。この本は大正六年に出版されたわけですが、この本こそ日本の原価計算書としては初めての本でございます。それ以前は複式簿記の本しかありませんで、一、二、工業会計のような名前の付いた本もあったわけですが、
本格的な原価計算書はこの本が初めてでありました。

 現在、私が一橋大学においてテキストとして使っている私の本はこれでございまして、吉田先生の著書と私の著書との間に約七十年の歳月がたっています。その間の諸先輩の偉業を跡づけるのがきようのテーマでございます。それではレジメに従って話を進めてまいります。

   
   我が国原価計算の先駆者吉田良三博士

 大正六年(一九一七年) 四月に、同文館から『工場会計』という一冊の本が出版されました。著者は商学士吉田良三であります。この序文を見ますと、当時わが国では原価計算に関する書物はまだ一冊もないとして、次の様にお書きになっておられます。

 「惟うにわが国で簿記計算に関する著書は汗牛充棟もただ啻ならず、而かも、その工場会計を論ずるもの、即ち製品の原価計算法を説き之が記帳整理法を示すものに至りては末だ一も之なきなり」ということで、まさにこの本はわが国でまとまった原価計算書としては最初のものでありました。

 吉田良三博士は明治十一年高知市にお生まれになりまして、明治三十六年東京高商専攻部領事科を御卒業になり、それで早稲田大学に奉職され、大正三年九月から一年半英米に留学されたわけであります。とりわけアメリカではコロンビア大学で、原価計算の権威として著名な1・リー・ニコルソンに教えを受けたそうです。ニコルソンは、現在のNAA (アメリカ会計士協会) の前身であるNACA (アメリカ原価会計士協会) の設立者としても有名です。

 それから、またニューヨーク大学ではワイルドマン教授の講義にも出席し、会得するところ少なからずということで、帰国してこの本をお書きになったわけであります。

 さて吉田博士の『工場会計』の内容ですが、この本では製造原価の種類を、見積原価、実際原価、それから能率原価(能率原価というのは現在の標準原価のことですが、)の三種類に分類してお書きになっておられます。しかしながら当時の原価計算の主たる目的は製品の価格決定と期間損益計算にあったので、この本の内容は実際製造原価計算が中心でありました。

 この本は当時のアメリカの原価計算の影響を強く受けて、記述の重点は個別原価計算に置かれていました。つまり市場生産形態がまだ支配的ではなかったために、むしろ指図書を発行して指図書別に原価を集計する方が正確であるという考え方で、個別原価計算が中心に説かれておりました。その説明は非常に平易であり、しかも製造間接費については、部門別に製造間接費を集計する、あるいは機械率によって製品別に製造間接費を配賦をするといった高度な理論と技術についても言及されており、当時としては第一級の原価計算書であったと思うわけであります。

 東京高商が大学に昇格するについて、会計学関係の学科目を増強する必要が生じ、吉田博士は早稲田大学から母校に招かれて、大正七年九月東京高商教授に就任されました。それ以来昭和十三年に退官されるまで原価計算の講義を担当し多数の著書を執筆されたわけであります。レジメでお名前の横に書いてありますのは一橋で教えられた期間でございます。

 次に吉田博士の御研究についてお話ししなければなりませんが、これは何といっても先生の学位請求論文『間接費の研究』 (昭和十一年七月、森山書店)を抜きに語ることはできません。

 そもそも原価計算は、十八世紀の産業革命を契機として工業経営の生産形態が手工業的経営から機械制大工場へと移行し、そこで初めて生まれてきた技術です。それまでは企業といっても村の鍛治屋程度の規模ですから、そこでの
原価計算はたいしたことはなかったわけで、原価といっても主たる内容は直接材料費と直接労務費だけだったわけです。ところが機械制大工場になってきますと、巨額な資本が固定設備に投下されることになり、製品と直接に結び付かない間接費が巨額に発生してきたわけです。従来それらは損失だと思われていたわけで、例えば古い原価計算書を見ますと、アンプロダクティブ・マテリアルと書いてありますが、それは間接材料費のことです。そういうわけでアンプロダクティブ、つまり損失だと思われていた間接費が非常に多く発生してた。この間接至はいかなるものからなっていて、それをどうやって製品へ配賦するかということが当時の主要なテーマだったわけです。

吉田良三先生はこの問題に真っ正面から取り組まれたわけです。大正十三年三月に吉田先生は、原価計算の講義を太田哲三先生に頼んで欧米に留学されました。

 田島四郎教授の話によりますと(田島先生は当時学生だったわけですが)、「私は、昭和三年度に先生の原価計算論を聴講したが、同年度の講義は前半が英米派原価計算論であったのに、後半に於いては突如ドイツ学説に急転回したことを記憶している。」とのことです。吉田先生は大正十三年欧米に留学されて、ドイツのシュマーレンバッハやレーマンの原価計算をかなり勉強されたに違いないと思います。そういうわけでアメリカの原価計算、それからドイツの原価計算を徹底的に研究され、それらを「間接費の研究」にまとめて、学位請求論文になさったのでしょう。

 先生は一橋に移ってから、一橋会計学の確固たる基礎をつくり上げ、とりわけ原価計算では第一人者と言われながらも、定年間際になって、その一生をかけた研究成果を学位請求論文とした、そういう真摯にして謙虚な態度は人々の称賛を博したと言われております。

 さて、この 「間接費研究」 の内容でありますけれども、第一編は間接費総論、第二編が間接費能力論。能力論と申しますのは、どういう費目を間接費に算入してよろしいかという間接費の費目の内容です。そして第三編は間接費配
賦計算論。こういうふうになっております。

 実は私は吉田先生にお会いしたことはないわけでして、御写真を拝見すると、見事な禿頭で恰幅のよい紳士であるという印象を受けました。その学風は、博士のお人柄のせいか、高瀬荘太郎先生の評によると吉田学説の内容は、きわめて「堅実、穏健、奇を些かも衒はず、精緻、綿密を極め、常に学界の定説として重きをなす」とのことです。確かに 「間接費の研究」を拝見しますと内容はそのとうりでありまして、ある特殊な立場から強烈に自説を主張するということをなさってはおられない。いろいろな説を勘案し長所、短所を比較して、妥当な線を主張しておられます。

 例えば間接費の配賦という問題を取り上げてみますと、間接費というのは製品との関係では直接につかまえられないものですから何かを基準にして、例えば直接作業時間を基準にして配賦をする。そうすると、ある製品をつくった場合に何時間かかったという直接作業時間をつかまえて一時間について幾らという割りかけ率を設定し、それで配賦をします。その場合、実際に発生した製造間接費を実際の作業時間で割って実際配賦率を出し、これで実際配賦をしますと、製造間接費は固定費と変動費からなるため、好況になると非常に製品単位原価は安くなります。しかし、不況になると製品単位原価は非常に高くなるという困った現象が生じます。そこで正常配賦の理論が今世紀の初頭に提唱されました。

 これは、イギリスの電気技師であったアレキサンダー・ハミルトン・チャーチという人が、今世紀の初頭にアメリカに移住し、そしてフル操業を基準にした正常配賦率を提案したことに始まります。科学的機械率と当時申しておりました。なぜフル操業を基準にして配賦するかというと、当時としては工場がアイドルの状態になるのは経営者の責任であると考えられていましたので、フル操業が普通の状態であったわけです。そこでフル操業を前提とした配賦をしますと、配賦率を計算するときは、年間の製造間接費の予算を年間のフル操業時間で割りますから、配賦率そのも
のは非常に低くなります。それで配賦をしますと、実際に発生した製造間接費の全部を配賦できなくなる。つまり配賦漏れという事態が起きました。そして次第にアメリカの経済が恒常的に停滞ぎみになってくると、フル操業は常に普通の状態ではなくなってきます。そうしますとたえず配賦漏れという事態が生ずる。そこでむしろフル操業を前提としないで、平均操業度、例えば五年間で好況、不況の波が襲ってくるとしますと、五年間の平均操業度を基準にして配賦した方がよいという、平均操業基準の配賦率の考え方が生れました。吉田先生の 「間接費の研究」 では、平均操業度が支持されています。そうしますと、月々残った配賦漏れはどう処理すべきか。年度末において残った配賦漏れはどう処理すべきかという問題がまた新しく出てくるわけですが、その場合も理論的には平均操業度でありますから、例えば五年間の平均ならば五年末まで繰り延べて相殺していく。好況のときもあれば不況のときもあるでしょうから、配賦差額は借方差額のときもあれば貸方差額のときもありますので、それらを繰り延べて相殺していくのが理論的に正しい処理でありますけれども、しかし実際問題としてはこの方法の採用は困難です。そこでその配賦差額は年次の損益勘定へチャージしてしまうというのが実際的な処理になります。したがって吉田先生は「間接費の研究」の中で、平均操業度基準の正常配賦を主張されながら、その差額は年次損益勘定へと、非常に実際的な処理を主張されるわけです。そういうわけで先生の学説は極めて精緻、綿密であり、しかも穏健だったので、学界の支配的な意見という位置を占めたわけであります。

 日本の原価計算はこのようにして欧米、特にアメリカとドイツの原価計算を輸入してきたわけですが、そういう輸入の段階で、吉田博士のような優れた理解力と、堅実にして穏健な人柄の学者が先駆者としてその任に当たったということは、わが国の原価計算のその後の発展にとってまことに幸いであったと思います。しかも博士が着想もよく、当時の原価計算論における核心的な課題を一生かけて研究された点を考えると、計り知れない功績があったと思われ
ます。

    理論と実践の調和を宿願としその域に到達された巨星太田哲三博士

 吉田博士の次は太田哲三先生でございます。太田先生は、私が一橋に入った年、私は昭和二十三年に専門部に入っており、その年に退官されておられるわけで、先生の授業は聞けませんでしたが、専任講師として残ったあたりから先生の御指導を頂きました。

 博士は、学者、会社社長、そして公認会計士として縦横に活躍して、幅広い領城でいずれも指導的な役割りを果たされたわけであります。中央経済社から「会計学辞典」を出そうという話があり、先生が編者になられ、私もお手伝いをすることになりました。編集会議のある日、先生はその前日の夜行で広島から帰って来られ、まる一日ずっと編集の仕事をなさったわけです。僕なんかくたびれて頭がボーッとしちゃいまして、その時つくづく思いましたが、やっぱり超一流の学者になるには頭脳はもちろんのこと、人一倍健康でないとだめなんだなあと思いました。

 太田先生は明治二十二年清水市にお生まれになりまして、大正二年七月東京高商専攻部を御卒業になりました。母校に助手の空席がなかったものですから、ゼミナールの恩師上田貞次郎先生が中央大学で受け持っておられた「商工経営論」と「経済事情」の二科目を上田先生から譲ってもらったけれど、その二科目だけでは専任扱いできないと中央大学に言われ、夜間の経済科でも「簿記・会計」を担当してほしいと言われたそうです。太田先生は商業学校の御出身ではなくて、一橋時代にはほとんどこの種の勉強をなさらなかったために、簿記・会計は全く苦手の科目だったそうです。そこで上田先生に相談したところが、「簿記ぐらい出来なくてどうするか。」と一喝され、その科目を引
き受けたのが博士の会計学研究の始まりであります。

 母校との関係では、大正十年四月に東京商大専門部の講師になられ、十一年四月に商大予科講師、それから下野直太郎先生の退官を機に、昭和四年四月、東京商大教授に就任され、昭和二十三年三月に退官されました。

 吉田先生の第二次外遊のさいに、原価計算の講義を太田先生が担当されました。吉田先生の『工場会計』は個別原価計算中心であった点を考えて、太田先生は総合原価計算と個別原価計算を区別し、さらに標準原価計算をも取り入れた、『工業会計及原価計算』を千倉書房から昭和十二年に公刊されました。

 博士は財務会計理論において動態的会計思考を発展せしめた点で偉大な研究業績を残されたわけですが、きょうは原価計算と管理会計の領域ですので博士の功績は、「理論と実践との調和は彼の宿願である」と自ら自叙伝で書いておられるように、学者ないし政府委員として、あるいは公認会計士として、原価計算の研究成果をわが国の企業に普及させたこと、それからまた豊富な実例研究を行ってそれらを批判的に検討したことにあると私は思います。

 昭和五年に、未曽有の不況を打開する方策として、産業の合理化以外にはないという考え方から、当時の商工省(現在の通産省) に産業合理局が設置され、その中に作られた財務管理委員会に太田先生は参加されました。昭和六、七年にこの委員会は原価計算の研究に着手したわけですが、この頃は非常にドイツ原価計算の影響が大きかったので、ドイツの「原価計算基礎案」とかシュマーレンバッハのコンテンラーメンを研究しまして、昭和十二年に「製造原価計算準則」を公表したわけです。この準則は法的強制力を持たなかったのですけれども、原価計算の普及に相当効果を挙げたといわれています。さらに戦争が激しくなるに及んで、国家総動員法に基づき昭和十四年に物価統制令が公布されました。これによりますと戦時の適正価格は、中庸生産費に適正利潤を加えたものが必要である。それに基づいて価格を決めなければならないということで、中庸生産費を決定すべき原価計算制度の確立が焦眉の急になりまして、そのために業種別原価計算を研究することになり、物価委員会の中に専門委員会を置き、吉田良三先生が石炭を、早稲田大学の長谷川安兵衛先生は機械工業を御担当になり、中西富雄先生が白動車、黒沢清先生が紡績業、そして太田先生が鉄鋼業を御担当になりまして、業種別の原価計算の確立に尽くされたわけです。その後軍需工場で原価計算を指導し監査する基準として、陸軍と海軍が別々に計算基準をつくりました。

 陸軍は昭和十三年に 「製造原価計算要綱」を制定し、海軍は昭和十五年に「原価計算準則」を発表して、それぞれ陸海軍が製品を買い上げるときにはその原価計算によるデータを持ってこいということになったわけであります。しかし企業の立場からしますと、陸軍と海軍が別々の基準を要求するのでは困りますから、これらを統合する必要上、昭和十六年、企画院に財務諸表準則統一協議会が設けられまして、昭和十七年に「製造工業原価計算準則」を発表し、これが法制化されたわけです。軍需品の調達価格はこの要綱に基づいて決められたので、この要綱はかなりの強制力を持ちました。太田博士もその制定にはもちろんのこと、その普及についても非常に御尽力なさいました。現在、産業経理協会が淡路町にありますが、あれは日本原価計算協会と称し、太田先生が費用を立てかえてこの協会を設立なさったと承っております。

 昭和四十五年七月、博士は八十一歳の高齢で他界されました。博士の高弟の一人、成蹊大学の新井益太郎教授の協力によって、博士の遺著「実践原価計算」が公刊されました。これは「工業会計及原価計算」を改訂し、昭和三十七年から五十回にわたって「産業経理」誌上に連載された「実践原価計算」をまとめたものです。この「実践原価計算」は博士の原価計算に関するライフワークと言ってもよろしいと思うわけです。

 その内容を拝見すると非常に驚かされるのは、アメリカ、あるいはドイツの学問を輸入し、原書を一所懸命読んで横文学を縦にするだけといった本とは違い、わが国の企業の原価計算の現状とその批判がその中に盛り込まれている
ことです。

 一例を申しますと、直接経費というのがあります。直接経費といいますのは、原価を形態別に分類すると、材料費、労務費、経費至となりますが、それを直接費と間接費に分けまして、直接材料費、直接労務費、直接経費というふうになるわけですが、この直接経費というのはアメリカの原価計算書には一つも出てこないのです。

 内容は何かと言えば、例えばある製品をつくるためにメッキ加工が必要である。そうするとそれを下請に出す。その場合下請に払う外注加工賃が、その製品に直接にかゝる経費です。アメリカの原価計算書にはこのような直接経費が一 つもその記述されることがない。ところが日本の原価計算ではこれは非常に重要であります。つまりわが国では下請企業を利用することが多いわけです。そうすると元請企業は下請に対して資金援助、作業指導、機械の貸与などを通じて、いわば親子関係にあります。こういう関係はアメリカではあるのかないのか、そこらへんはよくわかりませんけれども、アメリカの原価計算書には出てこない。この博士の著書では外注加工賃についての処理も詳細に書かれておりまして、材料の無償支給の場合と有償支給の場合に分けて書かれています。下請に出すときに材料を無償で与えて加工させ、それででき上がったものを受け取るという無償支給の場合には、加工貫を支払うだけです。ところがこれだけですと、元請の方も下請の方も有償の方がいいということを言い出す場合があるわけです。

 それはどうしてかと申しますと、下請の方では、無償で材料を支給されますと、材料を非常に粗末にしがちである。ですから有償で支給すると、そんな高い材料ならば大切に扱おうという気が起きるわけです。しかし余りに高過ぎてもよくありません。つまりそんなに高い材料ならばもっと加工貫を値上げせよということになりかねないからです。そこら辺が難しいところです。

 他方下請にとって、無償支給よりは有償支給の方がよいとする理由は、無償ですと売上げは外注加工賃だけになり
ます。ところが有償支給でありますと、材料を買ってそれを加工して、さらに売るということになりますから、売上高の規模は大きくなるので社会的信用が増すわけです。有償支給の場合には外注加工賃は発生しません。これは材料を下請の方が買って売るという形で処理されるわけです。売りと買いで相殺されることになります。その場合、余り高い価格をもって支給しては、下請の方から加工賃の値上げを要求される恐れがあるので、普通は元請と下請とが協議して協定価格をきめることが多いわけです。有償支給の場合に材料の購入原価だけで下請に引渡すのはよくありません。というのは、材料の購入原価だけでは、その材料に付帯費用がかかっており、付帯費用は材料の購入原価に必ずしも含められていないことが多いわけです。それからまた、材料に投下されている資本の利子分も入っておりませんので、それらの分も加えて計算した価格で支給しないと元請の方が損するわけです。そういった事柄が細かに論じられ、実務に即した原価計算が詳細に述べられています。実務を知らぬ学者の到底及ぶところではなく、まさに先生は、その宿願である理論と実践の調和の域に到達した偉大な巨星だったと思われます。


    一橋における管理会計の創始者松本雅男博士

 太田先生の次は松本雅男先生であります。先生は私の恩師です。きょう松本先生と同期で、親友の伊達文蔵様がここに御出席になっておられまして、私より松本先生をよく御存知であるために、私としても非常にしゃべりにくいわけであります。

 松本先生は、昭和六年に東京商大を御卒業になり、井浦仙太郎先生のゼミで金融論を専攻されました。この当時、銀行金融業務に従事する一橋出身の有志が鳳聚会なる会を結成しており、この会が銀行金融に関する研究を奨励する
ため、大正十二年から毎年母校在学生に懸賞論文を募集していたそうです。昭和四年度における論題は、「戦時戦後におけるわが国為替相場変動の研究」であったが、先生はこれに本科二年のとき応募して、見事二等上席に当選されました。この懸賞論文では、大正十二年の第一回から昭和四年の第七回に至るまで一等は誰にも与えられなかったから、二等上席は実質上の一等であったと言ってよろしいと思います。先生は非常に温泉好きの方でありまして、このときも賞金七十円を手にし、一カ月間塩原の温泉にのんびりとつかっておられたそうです。

 先生は温泉好きの点で、病膏盲に入るの感があり、昭和四年から昨年までにかけて、四百八十七箇所の自然温泉を征服したと自慢しておられ、いまも非常にお元気にしておられます。

 さて、この長編の懸賞論文が鳳聚会によって出版されたものですから、東京商大を卒業するときに、彦根高商で金融論の助教授のポストがあり、多数の候補者がいたわけですが、先生はこの論文のお蔭で彦根高商の助教授となって赴任されました。昭和六年三月先生は新しい希望に胸を膨らませながら任地へ向かわれたわけです。ところが彦根高商の方では、太田先生のゼミを出た方が金融に興味をお持ちになり、その講座を自分がやると言われたものですから、松本先生は金融論を教えられなくなってしまいました。本科で原価計算を、別科で簿記を担当せよということになったそうです。それで、自分は金融論専攻で何のゆかりもない原価計算や簿記を教えろというのか。悲憤やる方なく先生は下宿の二階で、琵琶湖の湖水を渡ってくる入り合いの鐘の音に耳を傾けながら、机に向かって頬づえをついておられた。辞表をたたきつけて郷里和歌山に帰ろうかとお考えになったわけですけれども、とてもそういうぜいたくなことを言える身分ではなかったので、原価計算、簿記を教えることになったそうです。

 ただ、そのために松本先生は、一橋大学において管理会計を創設するという、偉大な業績を残されることになりました。もしここで辞表をたたきつけていたら、松本管理会計学説は生まれなかったでしょう。そういう意味でこの事件はまことに先生にとって、むしろ幸運であったと言わなければならないわけですが、しかし他方においてこの事件は、先生をして、楽しかるべき新婚生活を犠牲にし、必死の勉強へと追いやったのであります。よく先生から承りましたが、当時は、「このまま埋もれてなるものか。」と必死になって、早朝から深更まで書斉に閉じこもり、奥さんをほったらかしで原価計算を勉強されたそうです。

 そういう事情であったものですから、これに同情した一部の教授たちは、もし先生が何か新設科目の担当を提案するならば、それを全面的に支持するということになりました。そこで先生は考えてみると、彦根高商の卒業生は次第に製造工業会社へ就職するようになってきたが、当時の彦根高商には工業経営論の講座がない。こうした事情を考えて先生は、工業経営論の担当を教授会に提案し、それが認められまして、昭和七年十月から開講する運びになりました。これはまさしく先生の先見の明であったと思います。一方において原価計算や簿記を教え、他方においてテーラーの科学的管理法を説くときに、会計学と経営学との境界領域に何か新しい学問領域があるんじゃないかということをおぼろげながら感じられたと思います。しかしそれはまだ夢の中の花に似て、漠とした淡い存在にすぎなかったわけであります。

 それでその後どういうことになったかと申しますと、文部省の留学生派遣という事態が起こりました。当時彦根高商と高岡高商とは交替で留学生を派遣しておりました。昭和十一年はたまたま彦根の派遣する番でありましたが、第一候補者が身体検査の際に急病にかかり、第二候補者であった先生がドイツに派遣されることになりました。

 この当時のドイツ経営学界は、高名な教授たちが各大学によってそれぞれ学説を主張しており、百花擾乱の感があったわけであります。そこで先生はまずベルリン商科大学でニックリッシュやメレログィッツの講義を聴かれ、フランクフルト・アム・マインでシュミット、ケルンでワルプやゲルトマッハーの講義を聴かれました。

 先生はシュマーレンバッハを自宅に訪ね、研究テーマとしていかなる問題が重要であろうかと質問をされたそうです。先生としては、貸借対照論を勉強したいがということを申されたら、シュマーレンバッハは、その間題はもはや私が研究し尽、くした。将来重要な問題が二つある。それはレヒヌングスヴェーゼンとフェルパルトングスレーレとを結合させたものである。つまり計算制度論と管理論とを結合させたものである。第二はアップザッツレーレだと答えたそうです。後者は販売管理です。そうするとシュマーレンバッハの指摘した計算制度論と管理論とを結合させたものこそ、先生がおぼろげながら予感した新しい学問領域だったのではないかということで、まさしくシュマーレンバッハの示唆は、暗夜に灯ぜられた光明であったわけです。そこで経営者のための会計学こそ、新しく自分の研究すべきテーマであるということに気が付いたわけですが、まだ当時は暗中模索の状能だすぎませんでした。日本人の留学生はこの当時非常に羽振りがよく、汽車は一等に乗って旅行するのが普通だったそうですが、先生は汽車は三等に乗り、貧しい職工街に下宿して、一年半もらった留学の費用を二年間に引き延ばして研究に専念されたそうです。この当時、水よりも安いビールの味を覚えたと先生はおっしゃっておられました。

 さて、企業会計では財務会計が伝統的な会計学でありますが、松本先生がこれから取り組もうとされるのは、経営者のための会計学、つまり管理会計であります。この研究をどこから着手したらよいだろうか。たまたま先生は学生時代に金融論を専攻し、卒業論文のテーマとして、銀行経営の大規模化という現象を解明するとともに、大小銀行階級別にその収益性を判定する各種指標の標準値を実証的に算出する問題に取り組まれました。この研究は、昭和六年「本邦銀行成果経営生活標準の研究―大小銀行階級別」という論題で「彦根高商論叢」に掲載されました。いまで言えば銀行についての経営分析ということになります。それで先生はセクリストの銀行標準分析法のほかに、アメリカのギルマンとからウォールらの経営分析の手法を検討し、これらを大小銀行の収益性を判定するために採用したわげです。この論文を「彦根高商論叢」に発表し、先生は多くの先生に抜き刷りを送り指導をお願いしたわけですが、普通はなしのつぶてであります。ところが高瀬荘太郎先生はこれに対して、便箋三枚正びっしりと書いた批評と激励を書き送ってくださったそうです。そこで心から感謝した先生は、昭和七年夏に鎌倉の避暑先に高瀬荘太郎先生を訪ね、御指導をお願いしました。そういうわけでこのとき以来高瀬荘太郎先生が、会計学研究における松本先生の恩師になられたわけです。これが機縁となり、高瀬荘太郎先生のお陰で、松本先生は母校に呼び戻されました。これが昭和十六年のことです。そして学部で「経営分析及び比較」を担当することになりました。

 先生は本当に喜ばれて、研究や講義に専念されたことと思います。ところが当時非常に食糧難であって、極度の疲労と暑さのため、汗と努力の結晶である講義案を出版すべく原稿を出版社に手渡した日に、先生は卒倒されてしまったそうです。頑強な先生が卒倒されるというのはちょっと信じられないくらいですが、それは昭和十九年八月二十一日の暑い昼下がりのことでありました。先生は医者の勧めに従って郷里和歌山に帰って静養していたところ召集令状を受け、和歌山連隊へ入営し、駐在二日で戦地へ出発しました。先生は独立歩兵第六十四大隊付の陸軍歩兵少尉であり、第一線の指揮官であったから、もはや生きて帰れないと思いました。ところがたまたま彦根高商時代の教え子が下士官で本部付になっていまして、この人のお蔭で第六方面軍司令部付となり、昭和二十一年五月、招集解除となって先生は帰国されました。そこで真っ先に出版社を訪ねたところそこで聞かされたのは、何と原稿の紛失であります。それで先生は狂気のように駆け回って原稿の行方を探し求めたのですが当時本を出版するには検閲があり、その検閲のため、原稿を預ったという先生を訪ねたら、その先生は脳軟化症で寝ておられた。家族の方があちらこちらと書斉を捜してくださったけれども、ついに発見できなかった。そこで先生は二、三日阿呆のようにぼんやりしていた。しかし、これは先生の手記からの引用でありますが、「窓から見る六月の空は蒼く、吹き込む風はさわやかであった。
この空の色と風の味が次第に私に勇気を取り戻させてくれた。再びエネルギッシュに書き出した。」 (松涛十五号二ページ)というわけです。松本先生の学風はバイタリティであり、それを松本ゼミの伝統として私が受け継ぎ、これをまた私のゼミテンにたたき込んで、そしてまたハーヴァード大学に留学しています私の弟子にも受け継いでもらっているわけです。

 実はそういうことで先生がお書きになった本が、「企業比較論(1)企業能率測定の理論と実務」 (千倉書房、昭和二十三年)です。この本は表題から見ると経営分析のような本に思われますが、その序文に次のように書かれています。

 「ここに本書が取扱ったのは実にこの企業統制用具としての会計学である。なるほど正確にいえばかかる統制会計学は従来といえども、企業会計、予算統制、標準原価計算、経営比較等の名の下に研究されている。然しこれらはいずれも統制会計学の部分領域を別々に取扱ったにすぎずして、未だこれを統一した構想は存しなかった。本書は、立論の当否は別として、企業の本質に基づいてこれらを一つの体系のもとに統一し、これを組織的に説明せんと企てた。」と。したがってこの書物は今日の言葉をもってすると、まさしく管理会計論と名付けられるべき本だったわけであります。

 つまり原価計算が母体となって管理会計が生まれてくるわけです。企業会計は財務会計と管理会計からなっておりますが、そのどちらも企業についての経済的なデータを収集し処理して、それらを情報として利害関係者に提供しますが、このデータ処理の会計独特の装置は、財務会計の場合は複式簿記であります。もちろん原価計算も必要なんですけれども、どっちかと言えば複式簿記である。ところが管理会計の場合は、原価計算が中心になってきます。これは、企業活動の部分部分についての経済的な資源の消費と、それから生まれた成果とを比較する。そういうインプットとアウトプットの比較計算という性格を原価計算が持っているものですから、管理会計の中心的な用具は原価計算であります。このような原価計算が工夫され、それから予算統制が生まれてきます。こういうように企業をコントロールするための手法が別々に生まれてきますと、それら全部を体系づけて、経営者のための会計学とはどんなものかを考える学問領域が必要になってくる。松本先生がそこに気付かれてこの本をお書きになったわけです。それはいまから思えば当然のことなんですけれども、当時は会計というと財務会計一本でありますから、管理会計を主張しても、とてもそれを受け入れてもらえない。単に(財務)会計資料を経営管理のために利用するにすぎないと受け取められていたわけでして、伝統的な財務会計の権威者からすると、近頃能率技師のお先棒を担いで管理会計ということを言っている人がいるけれども、「いたずらに新規を追って足下を踏みはずさない注意が肝要であろう。」という見解をとっていました。こうした四面楚歌の中で松本先生は、その体系付けに一所懸命苦労されておられました。当時管理会計の体系化ということについてはいろんな学者がその試みをしているわけですが、一つは、例えば計算手段の側面から体系付ける試みがなされました。標準原価計算とか予算統制といった個々の計算手段として、管理会計が発展してきているものですから、その体系は、例えば事前計算であるとか事後計算であるといったような計算手段の側面からの体系化を試る学者が多かったわけであります。その代表は、例えば早稲田大学の長谷川安兵衛先生。あるいは本学の古川栄一先生であります。しかし計算手段は一種の道具でありますから、道具によっては管理会計用にも財務会計用にも使えるので、この体系ではすっきり説明できなかった。

 そこでそういう欠点を意識した神戸大学の溝口一雄教授は、適応領域別の体系化を主張しました。生産管理会計、販売管理会計、財務管理会計というようにその管理手法の適応領域別の管理会計論を展開したわけです。そうした中にあって松本先生は、これは経営者のための会計なんだから経営管理職能の側面から体系づけるべきであるという態
度をおとりになりました。これは一夜の着想によるものではなくて、先生が金融論の御出身であり、そして経営分析から入っていかれて、分析するときは分析の目的を考えないと、データの集め方、処理の仕方が全部違ってくるといぅことをお気付きになっておられたものですから、管理会計は経営者が何のために使うかということから体系付けなければならん。したがって経営者のファンクションが問題であるという立場をおとりになって、最初経営管理者の職能をプランニングと、コォーディネーションとコントロール、つまり計画、調整、統制の三つに分けまして、計画のための会計、調整のための会計、統制のための会計と三つの体系を採用したわけです。

 ところが考えてみると、調整のための会計というのは特別の計算技法がないものですから、これはおかしいということに気付かれて、プランニングのための会計、コントロールのための会計、という体系の管理会計論を展開されました。実は当時は少数説であったわけですが、アメリカ会計学界は管理会計の体系を同じような立場で体系付けてたものですから、松本先生の管理会計の体系が主流派を占めることになりました。

 松本先生は、一橋では「経理特殊問題」を昭和十六年に担当されました。その内容はドイツ留学時代研究を深めた経営比較であります。この科目は昭和十七年に「経営分析及び比較」というふうに名称を変更しました。そして昭和十九年に経営比較になりまして、それから、昭和三十四年、ついに先生は教授会に提案して「経営比較」を「管理会計」に改称してもらいました。一橋の管理会計は、ここから始まるということになります。

 他方、先生は標準原価計算の権威としても有名であり、先生の学位請求論文は「標準原価計算論―その本質と発展」 (国元書房、昭和三十六年)です。これはアメリカと西ドイツにおける標準原価計算論の歴史的研究に基づき、標準原価計算の本質を、その形式的計算構造と実質的機能の側面から研究したもので、日本会計学会において太田賞を受賞しました。

 このようにして先生は一橋における管理会計の創始者としての重大な役割りを果たすとともに、標準原価計算の研究でも令名が高く、緻密な歴史的研究を展開し余人の追従を許さなかったわけです。いまもってこの書物は標準原価計算の研究では必読書になっております。

    会計学全領域にわたり最高水準の研究成果を残された番場嘉一郎博士

 松本先生の次に一橋で原価計算を担当されたのは番場嘉一郎先生であります。番場先生は昭和九年東京商大を御卒業になりまして、ダイヤモンド社に記者として勤務され、その後学界に入って巣鴨経済専門学校、横浜市立経済専門学校の教授を経て、昭和二十一年に母校に帰りました。当時は東京産業大学と言ったわけですが、その付属商学専門部教授におなりになり、昭和二十四年の学制改革で一橋大学助教授になられまして、それ以後昭和四十八年四月に名誉教授として御退官になるまで、会計学原理、管理会計、原価計算、監査などの講義を担当されました。

 先生の御研究でありますが、これは驚くほど広いんです。財務会計、管理会計、原価計算、税務会計など会計学の全領域にわたりしかもそのうちどれをとってもそれぞれの最高水準をいく研究であって、書かれた論文も膨大でありました。

 先生のお宅にある日伺いますと、和室の座わり机でお茶を飲みながら原稿を書いておられ、その廊下には出版社の原稿取りの人達が何人も待っているんです。あれ、すごいなと思うんですけど、僕は論文書くときはだれかいると書けないんですが、番場先生は編集のきれいな女の子でも座わらせておくと、どんどん書いてくださるとか(?)で本当に驚いてしまうわけです。

 著書については、齢五十を越すまで会計学に属する単行本を出版されなかった。ところがいざ処女作を公刊するとなると、それは先生の学位請求論文でありますが、本文が千百九十ページにもおよぶ膨大なものでありまして、先生はこの著書「棚卸資産会計」 (国元書房、昭和三十八年)により、商学博士の学位のみならず、この年度の日経経済図書文化賞、それも特賞をお受けになりました。それが出版されたのが七月のことですが、同じ十一月に今度は名著「原価計算論」。これは実際製品原価計算を徹底的に論じた本であります。それから、昭和四十三年に「原価管理会計」。これは標準原価計算とか。直接原価計算、予算原価計算など管理会計用の原価計算を主体にしてお書きになったものであります。それから、昭和四十五年には「新稿原価計算」、四十六年に「新講工業簿記精説」いずれも中央経済社からでありますが、続々と公刊されました。
 先生の学風ですが、どの本にも共通する特徴は、先生の論究における内容の深さ、そして緻密さです。これは本当に、私ども及ぶところではないというふうに思います。しかもその論究は強列な自己主張に貫かれておりまして、私なんかも非常に影響を受けました。

 その点を申し上げるには、原価計算論の発展をお話ししないと、ちょっと説明が困難であります。つまり原価計算の発展は、まず吉田先生の時代に輸入されたアメリカの原価計算。これは当時は実際原価を把握することに主眼がありました。製品の実際製造原価を計算すれば、あらゆる目的に役に立つんだ、という意識だったわけです。実際原価は真実の偽りのない原価なのだから、正しく原価をつかみさえすれば、価格決定にも使える、期間損益計算にも使える、原価管理にも使える、利益管理にも使えるんだと、そういう考え方だったわけです。ところが今度は太田先生、松本先生の頃になってくると、実際原価を原価管理に使うといったって使えないんじゃないか。原価管理に使うためには今月の実際原価と先月の実際原価を比較することになりますが、それは上がったか下がったかということはわかるけれども、どうして上がったか下がったかという原因を分析することは不可能です。

 といいますのは、実際原価というのはそのときどきの原価に影響を及ぼす価格であるとか能率であるとか、操業度であるとか、いろんな要素が絡んで入ってきますので、真実の原価というよりは、原価計算学者からすればその時々の、原価に影響を及ぼす要素の偶然的な変動をすべて織りこんだ偶然的な原価であります。その偶然に発生した原価同士を比較しても、上がったか下がったかということはわかっても それはよいか悪いか、なぜそうなったかという原因がわからないわけです。

 そうしますと、原価管理用にはそういうものでは困る。実際原価と比較するのは達成目標である標準原価でなくちゃならん。この製品をつくるにはどのくらいでつくるべきであるかという目標をあらかじめ設定しておかなければならん。そういうことから目標と実績と比較するという手法が出てきまして、これが実際原価計算の次に工夫された標準原価計算です。

 標準原価計算の次に、番場先生の時代に出現したのは、利益管理用の原価計算です。原価管理は重要ではあるけれども、原価をいくら下げてみたところで、売れない製品を作ってもしょうがないわけですから。そうすると利益計画とか利益統制に役に立つ原価計算が必要になってきます。

 その場合には、原価を管理可能か不能かというような原価管理用の概念を使ってもだめでありまして、今度は売上高が変動したときに原価は変動するかしないかという観点からの原価の分類、すなわち変動費、固定費といった原価概念が必要になります。そして売上高から変動費を差し引いた差額を貢献利益(コントリビューション・マージン) と言っておりますが、その貢献利益を製品品種別に計算しておいて、それの大きいものの方へ重点的に資源を配分する。そういう方が利益計画、利益統制に役に立つと考えられるようになりました。このような考え方から生れたのが、直
接原価計算(ダイレクト・コスティング) であります。

 以上申しあげたように目的によって原価概念、利益概念を使い分けなければならない。異なる目的には異なる原価を。ディファレント・コスト・フォア・ディファレント・パーパス。そういう考え方で、原価計算は素晴しい勢いで発展してきたわけです。

 他方において、その歴史的な発展を裏返しから見ますと、例えばコスト・コントロール用に工夫された標準原価は期間損益計算目的にも使えないだろうかという考え方が生れます。そうすると標準原価を熱烈に支持した人々は、実際原価よりは標準原価の方が製品原価としては真実の原価である。何となれば製品を作るためには標準原価だけでつくるべきである。それ以上かかったものはロスなんだ。ウエイストなんだと。そういう考え方で標準原価こそ真実の原価であるという考え方が出てきます。さらに元来は、利益計画用に工夫された直接原価計算の場合にも、伝統的な原価計算すなわち全部原価計算に対して直接原価計算によって計算した方が、外部報告用の期間損益計算目的にとって適切であるという主張が生れてきました。このような直接原価計算論争が約十年間続いたわけです。

 だから、特定の目的には適切な原価があるんだという考え方で原価計算の歴史が流れてきましたが、その裏返しに、ある一つの原価でオールパーパスにも使いたい。そういう考え方が常に裏返しになって発展してきたわけです。

 それで番場先生は、その両方をつかまえて研究をなさる点に番場学説の特徴があります。先生のお言葉によれば「管理会計がわからなければ財務会計はわからない。財務会計がわからなければ管理会計はわからない。」と、おっしゃっているわけです。そういうことで、管理会計の論理を、財務会計の、先はどお話ししました「棚卸資産会計」の中の棚卸資産原価概念にも持ち込んでユニークな論理を展開され、会計学の発展に多大の貢献をなさったわけです。


    私の研究テーマについて

 番場先生の次を承ったのが私でありまして、私が第五代目ということになります。

 じゃおまえは何をやっているのかと言われると、内心忸怩たるものがありますが、私の時代になってくると時代が変わってきまして、私がいま興味を持っているテーマはこれを三つに分けることができます。

 一つは、意思決定会計という領域であります。つまり原価計算の発展を、価格決定とか期間損益計算のための計算。そういう目的が非常に重要だった時代。それから、原価管理が重要だった時代。それから利益管理が重要だった時代。その次の私の時代になってきますと、経営意思決定のための会計ということが非常に重要な役割りを持って登場してきます。

 例えば、設備投資をすべきかすべからざるかとか、あるいは機械をここで取りかえた方がよいかどうかとか、あるいは従来部品を買っていたけれども機械の能力に余りがあるから自製した方がよいか。そういった右せんか、左せんかという意思決定会計が非常に重要になってきております。そこで重要な原価概念は、従来の期間損益計算の場合にはプロダクト・コストかピリオド・コストとかいう原価概念が重要であり、それから、原価管理のときには管理可能費と管理不能薯の原価概念が適切な概念である。それから、利益計画のときには変動費と固定費という概念が適切な原価概念であったわけでありますが、意思決定の場合にはどういう原価概念を使い分けなくちゃならんかというと、差額原価と埋没原価ということになってきます。

 差額原価というのは、将来採り得る代替的コースの一つを選択したときに、将来(増加しても減少してもいいんで
すが、)その発生額が変化する原価を差額原価と言います。どちらのコースをとっても、依然として同額発生してくる原価を埋没原価(サンク・コスト)と言います。意思決定のためには埋没原価は考える必要はないわけです。差額原価だけを考えればよいということになります。

 近頃痛感するんですが、私は電車の中で探偵小説を続むのが好きでして、探偵小説を買うんですが、昔は始めから終りまで全部読んだわけです。どんなにつまらないと思っても、せっかく買った本だからというので、最後まで読んだものです。しかし最近は捨ててしまうことが多くなりました。といいますのは、つまらない本の場合それに何百円か投じたわけですが、その何百円かはもうサンク・コストなんです。これから先を読むか読まないかという意思決定にとってはすでに発生してしまった原価ですから、その意思決定には無関係である。私の目の方が有限の資源です。この頃老眼になってきまして非常に目が弱くなってきましたから、このつまらない本で、視力を消費するのがよいか悪いか、そちらの方が重大ですので、あっさり捨ててしまう。同様に、企業の場合、陳腐化した設備の未償却残高はサンク・コストです。償却が終っていないからといって取替の意思決定を遅らせてはなりません。こういうような意思決定用の原価概念が非常に重要になってきたわけです。

 それから、二つ目は、今度は学際的な研究が非常に重要になってきたということです。計画とか意思決定ということになりますと、先ほど宮川君の講演の抜き刷りが配られましたが、宮川君のやっている管理工学。例えばオペレーションズ・リサーチは、稀少資源の有効配分についての意思決定を行うモデルを扱っています。

 それから、企業財務論。これは現在アメリカで非常に発展してきておりまして、資金の調達と運用、資本コストをどう計算するか、設備投資をどのように意思決定するかということがこの領域で非常に研究されてきております。さらにコンピュータであるとか情報理論であるとか、行動科学であるとか、そういった隣接諸科学の研究領域の成果を吸収したり、向こうへ影響を与えたりというような面が非常に多くなってきています。

 そういうわけで私はいま企業財務論について非常に興味を持っていまして、財務論と管理会計との境界領域を研究しています。

 第三は、いままで、いわば吉田先生がアメリカ、ドイツの原価計算を輸入してそれを定着させた。太田先生がこれを普及させ、それから、松本先生、番場先生がさらにそれを醇化させた。そういう時代を経て、いま日本の企業の方がアメリカの企業よりも抜きん出てくるという状況になってきました。そうすると原価計算や管理会計は、企業という土壌の上に咲く花でありますから、日本の企業がそんなに優秀になってきますと、日本の原価計算とか管理会計の方が、アメリカを追い越すという時代になってきました。そこで私どもがやらなければならないのは、日本の企業の原価計算ないし管理会計の実態調査を行い、そしてそれを批判的に検討し、そしてそこで要求されている問題の解決方法を探求することです。

 いま、そのために私がどういうことをやっているかと申しますと、TPMというのがあります。これは、トータル
・プロダクティブ・メンテナンスの略です。昔は原価管理というと作業者の作業能率の増進をするために標準を設定し、それを守らせるということが原価管理の中心だったわけですが、いまは非常に機械が進んでおり、例えば日本はロボットの保有で世界のトップにある状況です。その場合機械をいかに使いこなすか、つまり設備能率の総合効率化を図ることに、原価管理の中心が移ってきました。

 そういう場合に機械設備のメンテナンスが非常に重要になってきており、原価計算でも修繕費という名前が次第に保全費という名前に変わりつつある。予防医学と同じように、機械は壊れてから修理するわけではなくて、設備を日常点検し定期点検して予防保全を行う。そうしますと事後保全という考え方から予防保全に移って、それから今度は
改良保全(コレクティブ・メンテナンス)という考え方が生まれました。これは設備が壊れにくいように改良するものです。それからさらに設計段階からメンテナンス不要の設計をねらう保全予防(メンテナンス・プリヴェンション)が出てきます。そういった保全体系を生産保全(プロダクティプ・メンテナンス)と言っております。これはアメリカで開発されました。

 それを一九五一年東亜燃料工業が取り入れ、一九五三年にPM実施会社二十社が集まってPM研究会を組織し設備維持管理の研究を始めました。ところがアメリカ流のPM(生産保全)を日本に輸入しやってみると、日本ではうまくいかなかった。

 それはどういうわけかというと、アメリカ流のPMは機能分業論に基づいており、メンテナンスマンとオペレータとは全く別であります。そうすると、機械が壊れた。保全部の人を呼んでくる。おれたちオペレータは遊んでいる。
「私作る人、あなた直す人。」というわけです。こういったやり方がアメリカ流の方式です。

 ところが現在日本の企業では、設備が非常に多く保全マンは一つの会社に二、三二十名ぐらいしかいない。そうするととても手は回り切れない。そういった状況を乗り切るために日本の企業では、社長から現場のオペレータに至るまで、全員参加のTPM(これをトータル・プロダクティブ・メンテナンスといいます。)を工夫しました。この運動が一九六九年、日本電装から始まりました。前述したPM研究会は、その後日本プラントメンテナンス協会になりまして、現在PM実施会社にたいし、協会はコンサルタントを派遣、指導し、その成果を評価するために、会社側は協会側で設定したPM優秀事業賞にチャレンジする仕組になっています。TPMを導入すると、企業体質が改善され、企業業績が飛躍的に向上するので、TPMは一流企業にどんどん普及しつつある状態であります。

 ちょっと時間がないのでよくお話しできませんが、この運動の特質の一つは小集団活動にあります。現場の班長さんが四、五人のオペレータと小集団を形成しますが、自分たちの小集団にたいし、それぞれ気に入った名前、例えば「ひまわり」とか花の名前を付けてみたり、漫画の主人公の名前を付けたりしています。そして驚いたことにTPMは各小集団による徹底的な掃除から始まるわけです。だれがどこを掃除するかとか、機械の手入れをだれがどこをやるかと、そういう打ち合わせをして一所懸命掃除をする。そうすると掃除しにくい場所がわかりますから、その掃除しにくい原因は何か。それは油漏れであるとか、機械の構造が悪いとか、いろんな原因があるわけです。そうすると、それを解決するにはどうすればよいか。そういった小集団活動がTPMの基礎にあるわけです。「チョコ停退治」も、重要な小集団活動の一つです。機械というのは、ほっておいてもどんどん動くものかと思ったら、そういうわけではなくて、ちょこちょこ不具合いで停止します。そのような一回五分以内の機械の停止についてその機械に調査用紙を張っておき、チョコ停が発生した時、直接その紙に書き入れるようにしています。それで工場の仕事が終わると、小集団が班長の号令で集まって、自主的に棒グラフを作りチョコ停の発生は、どの部位で一番多く発生したか、それを解決するためにどうすればよいのかを議論します。その対策として、例えば機械の構成部品の形を変えてみたらどうかといった改善提案が行われます。こういうようにして機械の故障発生件数はTPM運動を三、四年やりますと、九割ぐらい減ります。月々二千件あったチョコ停がわずか二十件近くに減ることも稀ではありません。TPMは、「儲るPM」として、高く評価され、素晴しい勢いで日本の企業の間に普及しっつありますが、結局最後にはこのTPM運動も管理会計の問題に落ち着いてきます。

 と申しますのは、経営者としてはTPMをやって結局儲かったか儲からないのか、そういう運動を展開して企業体質が改善されたのかどうか、それがずっと維持されているのか、このような成果を知るための会計情報が欲しい.ということになります。そういったTPMプロジェクトについてのインプットとアウトプットの比較計算の手法を各社で
一所懸命作っている最中でありますけれども、これにはなかなか難かしい点があります。

 例えば、TPM運動である工程における機械のオペレータの作業時間が二時間短縮された。そうしますとその成果を会計情報にするためには、その二時間にあるセントトをかけて金額に直さなければなりませんが、その二時間に普通は加工牽率をかけるか、あるいは変動工費率をかけるか、あるいは直接労務費の賃率をかけてその成果をつかまえようとします。しかしながら省力化と省人化は違うわけです。あっちで二時間、こっちで三時間短縮されたとしても、現実にオペレー夕一人分は節約されていないわけです。また節約された時間が、生産上、有効に他の目的に使用されているかどうかを、確認しなければなりません。そうしなければ、前述の原価節約額の計算では「未実現利益」を計上するのに等しいことになります。このようにTPM運動による成果の測定は非常に難しくて、各社ともいま取り組んでおりますが、私もこの問題に非常に興味を持っているわけです。

 大変お粗末な話でありましたが、吉田良三先生から現在、私に至るまで一橋における原価計算および管理会計の流れをお話しいたしました。そういうわけで、後輩も一所懸命頑張っているということを諸先輩に御理解頂きたいと思います。

                                 (昭和六一年九月二六日収録)





岡本  清  昭和二十九、一橋大学卒業、
        昭和三十五年、一橋大学商学研究科博士課程終了、
        昭和三十六年、一橋大学商学部専任講師、
        昭和三十九年、一橋大学商学博士、同大助教授、
        昭和四十年、フルブライト交換教授研究員プログラムによりミシガン大学留学、
        昭和四十四年、日本会計研究学会学会賞受賞
        昭和四十六年、一橋大学教授、原価計算および管理会計担当、現在に至る。
        昭和四十八年、「原価計算」により日経図書文化賞受賞、
        昭和五十八〜六十年、一橋大学商学部長、
        昭和六十一年現在、 日本会計研究学会理事、
                      日本原価計算研究学会常務魂事、
                      公認会計士三次試験委員、
                      東京大学経済学部非常勤講師(管理会計}、
                      一橋大学後援会監事

主要著書 「米国標準原価計算発達史」白桃書房、昭和四十四年、
       「原価計算」国元書房、三訂版、昭和五十五年

論   文 「わが国企業におけるTPM運動と管理会計の役割」会計、一二八巻三号、昭和六十年九月
       「管理会計と企業財務論−その境界領域の検討」ビジネス・レビュー三三巻四号、
                                                   昭和六十一年三月