一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第五十九号] 西洋文明史の片隅から 一橋大学経済学部教授 山田欣吾
ー カロリンガー時代の文明史的特色 −
はじめに
私、ただいまご紹介いただきました山田欣吾です。
この会にお招きいただき、大先撃の方々の前で日ごろ考えていることをお話しする機会を与えられまして、大変光栄に思っております。光栄に思うと同時に、何か身がすくむような緊張を覚えております。
私は、一橋大学におりましたときには、増田四郎先生のご指導によりまして歴史研究の道に入りました。最初手がけた研究テーマは村松恒一郎先生、増淵龍夫先生がご研究になったドイツ中世末期の村落共同体の研究でありますが、そんなところから私研究を始めまして、それをきっかけにしてドイツの中世のことを勉強するようになりました。
今から振り返ってみますと、いろんなことを勉強しましたが、一体自分の研究関心はどういうところに一番濃厚にあったのだろうかと振り返ってみますと、どうやらドイツのそれぞれの時代、それぞれの地域の社会の歴史をできるだけ全体としてとらえたいというような関心があったようです。とりわけ村落共同体の研究から仕事を始めた関係もありまして、そういった生活の末端組織のレベルから一番頂点的には国王の支配といったところに至るまで、非常に重層的に構成されております中世社会の全体をひっくるめて、それを一つの政治秩序の構造というような形でとらえられないものかと、こんな関心がどうも貫いていたようであります。そういう、歴史を全体としてとらえるという観点は、まさに文明史的な見方でありまして、そういう意味できょうお話ししますテーマとしても「西洋文明史の片隅から」と文明史という言葉を使わせていただいた次第であります。
最初は、中世末期から勉強を始めたのですが、どういうわけかだんだんに研究関心が時代をさかのぼりまして中世の中期、それから、初期中世というぐあいに古いところに向かってまいりました。現在では中世の初期の時代に最大の興味をもっております。したがいまして、きょうのお話もそういった問題領域から日ごろ考えていることを若干お話ししてみたいと思うわけであります。
西ヨーロッパ(フランク王国)における帝権と教権の関係 ― ビザツ帝国との対比において
前置きはそれぐらいにしておきまして、早速本題に入ります。
皆様よくご承知のとおり、七五一年という年にカロリング家のピピンがそのときのローマ教皇の事実上の同意を得た上で、クーデターを起こします。みずから王位についてメロヴィング朝のフランク王国にかわってカロリング朝のフランク王国というものが開かれることになります。七五一年、ピピンのクーデターといわれる出来事です。
このカロリング朝のフランク王国を継承したのが、大王とあだ名された例のカール(シャルルマーニュ)ですが、彼は父親から引き継いだこの国の領土を拡大するとともに、八〇〇年にはローマでこれまた時のローマ教皇の手から、ローマ皇帝だけに許される皇帝の冠をいただきます。そして、この皇帝の位はさらにカールの息子ルードヴィヒ、あだ名を「敬虔」といわれた皇帝に伝えられまして、北は北海から南は地中海に及ぶ大きな皇帝の政治的支配が実現されることになります。このピピンからカール、カールからルードヴィヒと三代にわたって約百年存続した、いわゆるカロリング朝フランク帝国、― この「いわゆる」というような歯切れの悪い言い方をするところが、私のきょうの話に関係するところでありまして、この点は後でお話しいたしますが、― ともかくそのカロリング朝フランク帝国というものが、歴史的なヨーロッパ世界の誕生を意味するものであったことはご承知のとおりであります。その点は既に増田四郎先生が『西洋中世世界の成立』という、一九五〇年のこの書物でありますが、この中で非常に力強く叙述されているところであります。
ところで、この西洋世界の特色は、これまでさまざまに論じられてまいりましたが、しばしばそれは同時代のもう一つのキリスト教帝国、すなわちビザンツ帝国と対比されまして、やや図式的で標語風の形で次のように性格づけられています。それは、ビザンツの政治体制は皇帝=教皇主義であるのに対して西ヨーロッパは楕円的世界だという対比の仕方であります。それは、こういう意味です。ビザンツでは皇帝が同時に、西で言えばローマ教皇が担当していたような最高の宗教的指導者としてのファンクションをも一身に兼ね備えて行使するという意味で、皇帝であると同時に教皇である。したがって、これを学者は、その当時にこんな言葉があったわけでも何でもありませんけれども、皇帝教皇主義的な体制(ツェザロバビスム) というふうに呼んだわけであります。
これに対して西ヨーロッパ世界、フランク帝国ですが、ここでは最高の政治的権力と最高の宗教的権威とが、それぞれ一方は皇帝に、一方は教皇にという形で異なった人格によって担われているという意味で、二つの中心を持つ楕円的な世界だという格好で、一方は皇帝教皇主義、他方は楕円的世界、こういう特徴づけがなされてまいりました。そして、こういういわば出発点における構造の違いが、その後の二つの世界の歴史を大きく規定したのだと考えられまして、ビザンツでは政教未分離の形でデスポティックな、専制的な体制が非常に安定的というよりも、停滞的に保たれたのに対して、西ヨーロッパでは歴史的出発点において既に内包されていた教権と俗権の緊張関係が、いわば内的矛盾になりまして、その内的矛盾の展開として、その後の西ヨーロッパのダイナミックな政治発展が起りえたんだというぐあいに説明されるのが普通でありました。これにはかなり正しいといいますか、いい線を突いたとらえ方という側面があることを私も否定しないのですが、実は、こういった図式的なとらえ方の中には、ビザンツとフランクの両方にわたって私の見るところ、重要な誤認が含まれているというふうに思います。
私は、ビザンツの専門家ではありませんから、それについてはきょうは最低限触れる必要のあるところだけしかお話しできませんが、ビザンツの歴史を停滞的なものであったとする見方に対しては、一橋の擁するビザンツ史の第一人者渡邊金一先生の名著岩波新書の『コンスタンチノープル千年』副題を「革命劇場」という例の書物が、いかにビザンツの歴史はダイナミックなものであったかということを余すところなく描き出しております。
一方、西ヨーロッパ史について申しますと、ヨーロッパの長い中世史は、ご承知のとおり、皇帝権力と教皇権力との極めて激烈な闘いによって貫かれております。そういった教権と帝権の闘いというものは、教科書の常識的記述では、フランク時代に早くも内包されていた両者の緊張関係がいわばそのまま拡大、展開してくる過程だというふうに、今日でも書かれているわけでありますが、実はこれからお話ししますように、フランク時代におきましては、この二つの権力は敵対どころか非常に密接な形で支え合っているのでありまして、実はその後のヨーロッパ史のダイナミックな発展というものは、このフランク的な体制を引っくり返していく過程という意味合いを濃厚に持っているということを、私はきょうのお話を通じてある程度申し上げてみたいと思っているわけであります。
全体の見通しはそれぐらいにしておきまして、フランクとビザンツでは国家と教会の関係は非常に違ったあり方を示しておりました。それをここではまず、それぞれにおける国家生活、政治生活の中で教会ないしは聖職者が果たした役割の違いという点に焦点を合わせて、簡単に対比してみたいと思います。
ビザンツの歴史は、西ヨーロッパの中世史とは違いまして、もう既に成熟の頂点に達したローマの帝制期の文明世界をそのまま引き継ぐような形でスタートいたしました。ビザンツの国家というものは、ローマ国家そのものの連続体でありまして、政治、軍事、裁判、財政に関する制度も、また、中央、地方の統治機構も既にローマ皇帝時代に確立されて、使いこなされていた。そういう装置をビザンツ帝国は引き継いでいるわけです。そのような国家はキリスト教以前的なものでありまして、キリスト教はそれをつくり上げるのに何のかかわりも持ちませんでした。国家にとってキリスト教とその教会はニューカマーでありまして、キリスト教が後にローマ帝国の国教になった後でも、国家とその装置を運営するのに、この新参者の手を借りる必要は全くありませんでした。もちろんキリスト教の政治神学が皇帝の権威を宗教的に崇高化したことの政治的な重要性や国家教会になったキリスト教会がギリシア正教とよばれるようなオーソドックスな信仰形式の確立を通じて帝国民の統合を強めたことの意義は、どれほど高く評価してもしすぎることはないと思います。しかし、それにもかかわらずビザンツでは国家の業務そのものは、ローマの伝統そのままに、俗人の仕事、市民の仕事だったということは忘れてはならない点だと思います。これは、実は、日本におけるビザンツ研究の中でも私のみるところ、必ずしも十分強調されてこなかった点ではないかというように思います。
ビザンツ帝国の皇帝法と教会法の双方におきまして、国家の業務と教会の業務は二つの全く異なる領域として峻別されておりました。聖職者が宮廷の官職についたり、あるいは世俗的な名誉職を得たり、まして軍事的、行政的活動に従事するということは、かたく禁じられておりました。法規範の上で禁じられていただけでなく、現実的にも聖職者は国家活動の外側におりました。もちろん若干の例外はあるわけですが、しかし、その例外は、いかに原則が厳しく貫徹したかをむしろ強く印象づけるような、それほどのレアケースであります。ビザンツの教会と聖職者は、帝国の国制上何ら積極的な構成要素ではなく、例えば皇帝の選出に当たっても、教会、聖職者は意味のある参加をすることができず、単なるアクセサリーの役割りしか果たすことができなかったのであります。
また、この点はちょっと注目しておいていいことでありますけれども、ビザンツの皇帝がしばしばいろんな形で行ったあの手この手の家門政策でありますが、例えばコムネノス朝とかなに朝といった皇帝の家門が皇帝の地位を利用して、一門の力を助長するための政策を行いますが、そういう政策の中で一門の係累を教会の高位のポストにつけるという項目が全く欠如しているのです。これはかなり重要視していい点であります。
一つだけ例を挙げますと、パライオロゴス家について百七十人の男性の人名がわかっておりますけれども、その中で司祭ないし司教の地位についたものは皆無であります。そして年を取ってリタイアするとか、あるいは政治的な理由からいわば幽閉されるという形で修道士になった者が若干名存在するだけだといわれます。この点は西ヨーロッパとは著しい違いでありまして、西ヨーロッパの王家、あるいは有力な貴族の一門は、その次男、三男の中から目端のきく者を教会に送り込んで、できるだけ重要なポストにつけさせる。あるいは地方豪族にしましても、その地方の司教であるとか有力な修道院のポストといったところへ一門のものを計画的に送り込む、そういった形で貴族の家柄が、世俗の機械と教会の領域とにまたがって力を扶植することにより、初めて西ヨーロッパでは何といいますか、かれらの支配基盤が固まったのであります。ビザンツの様相は全くそれと異なっております。いかにビザンツでは教会、聖職者というものが政治的に無力であったか。無力というとちょっと語弊があるのですが、少なくとも政治的に無資格者であったということを強調しておきたいと思います。
ところが、そのように、ビザンツの聖職者が国家の公的業務からは原則として身を引いていたとするならば、フランクの聖職者の方は、逆にあらゆる国家生活の領域でその中心的な担い手として活動をいたしました。聖職者のこの政治へのかかわりの深さは、国家と教会の協力関係といった関係概念では、実はつかみ切れないほどのものでありまして、私はむしろ西方における国家はまさに教会として初めて成り立つことができたと言いたいほどであります。この点は後で多少立ちいってお話ししたいと思っているポイントですが、その前に、現象面からその活動の姿を幾つか拾い出しておきます。まず、統治センターとしての宮廷には、宮廷司祭がおりました。この宮廷司祭というのはフランクの教会におけるエリート聖職者でありまして、宮廷内部での聖務つまり宗教的な行事を執り行うだけでなく、もろもろの政治的、行政的な任務を担当しました。宮廷司祭たちの長、その当時の言葉では大宮廷司祭と呼ばれた宮廷司祭長は、宮廷で国王に次ぐ筆頭者でありまして、俗人で最高の地位を誇っております宮中伯の上位に立っておりました。彼は国王の最高政治顧問でありました。
また、国王の官房業務、書記局業務はこの宮廷司祭たちが執り行う最も重要な業務でありました。この時代の俗人は、また後でお話ししますように、ラテン語の読み書きができなかったものですから、国王は俗人をもって書記局を構成することができず、官房業務、すなわち国王の法律、命令を始めとして各種公文書や証書の作成、もろもろの会議や裁判の記録の作成、それから、その他もろもろの文書業務はすべて宮廷司祭の仕事でありました。そうした官房を取り仕切るのが官房長。かれは、先ほど申しました大宮廷司祭に次ぐ有力な政治顧問でありまして、当然のことながら国王の政治理念とか法観念とかもろもろの統治上のコンセプトは、彼らによって打ち出されたものであります。
また、カロリンガ時代の有名な制度ですが、国王が国内の各地に派遣した国王巡察使の中には、かならず大司教、司教、修道院長といった高位聖職者が入っておりました。また、フランクの国王がビザンツと外交交渉をするといった場合、そういう外交的な使節は大部分、聖職者によって担当されていたわけであります。
経済的にも教会は、国王統治の支えでありました。初期中世の西ヨーロッパ世界には、実は租税というものが存在しません。−般的な租税をフランクの国王は国民から取ることができなかったので、国王行為は主として王領地収益で賄われたわけでありますが、教会領は実は準王領地として、国王の統治活動を財政的に支える上で不可欠の要素でありました。
ついでに、それと関連した事実をもう一つだけ指摘しておきますと、私、先はどこの国では租税を取ることができなかったと申し上げましたが、実は、一つあるんです。それは十分の一税です。十分の一税というのは、キリスト教徒のすべてから教会に対して、その生産物ないしは収入の十分の一を支払わせるものでありまして、西ヨーロッパの中世期全体を通じて近世に至るまで、至るところで存在したわけです。それが国王の命令によって全国民に強制された唯一の租税であります。しかも、これまた注目されることですが、こうした十分の一税はビザンツ地域ではついに成立していない。ビザンツも同じキリスト教帝国でありまして、しかも十分の一税の根拠は旧約聖書の中に存在するわけですけれども、同じ聖書に基づいて成り立っているキリスト教世界の中でも、東方では十分の一税が成立していない。このあたりからみてもビザンツ国家、ビザンツ世界というものと西方世界の大きな違いが何となく感じられると思います。
脱線はそれぐらいにしまして、この西ヨーロッパでは国王の就任に当たっても教会は大変重要な役割を果たします。ビザンツの皇帝は選挙制をとっておりましたけれども、フランクの場合にはカロリング家に属する者だけが王たり得る、そういういわゆる血統権の原則が貫徹しておりました。しかしながら、このカロリング王家の王統としての血統の正当性根拠は一体どこにあったのかということを考えてみますと、冒頭で申し上げましたピピンのクーデターという出来事を思い起していただきたいのですが、彼はメロヴィング王家の正当な血統権を引き継ぐどころか否定したのですから、新しい正統性の根拠づけが必要になってまいります。その正統性を根拠づけてくれたのが教会です。教会は、メロヴィング家の血統権を否定し、新しい王家に正当性を保障するのに、キリスト教的な観点からする「適格性の原理」というものを導入し、それをもって新しい王統の血統権を根拠づけます。つまりこの新しい王家の血統が持つ権威は、キリスト教的な神の恩寵観念によって担保されていたわけであります。そして神の恩寵がだれにあるか、神寵の有無を判断するのは教会以外にないわけですから、そういう意味で、教会は国王の選定に際して決定的な役割りを果たすことができます。それが儀式の面では国王の就位のときに行われる塗油、つまり聖なる油を塗る。あの聖別の行為ですね。こういう形で象徴的にあらわされているわけであります。
事実、九世紀の半ば以来新しく国王になる人物は、教会の承認と塗油の儀式とを必ず経なければならない。それが国王就任のための不可欠の要件とされることになります。そして、それ以来これが西ヨーロッパにおける不動の制度になったことは御存知の通りです。
また、国王は法や政策の決定をする場合、当然のことながら王国集会を開き、有力者を集めてその同意を求める、という行為をいたします。今日で言えば議会に当たるようなものですが、この王国集会も制度史的に見ますと、実は古代末期以来の教会会議に接続するものであります。聖職者はその集会で常に不可欠の構成メンバーとして中心的な役割を果しました。また、最後に、教会はカロリンガーの軍事制度においても欠かすことのできない支柱をなします。
司教や修道院長は世俗有力者と同様にみずからのもとに家臣団を編成し、国王に対して軍役奉仕義務を負っておりました、とりわけ国王が遠征をする場合には、教会の軍団が常に重要な部分を構成したのです。
このようにビザンツの聖職者、教会の国家に対する関係と対比すると、驚くほどの相違が西ヨーロッパには見られるのですが、このような現象は、一体、西ヨーロッパ初期中世社会のどういった特徴と関係しているのだろうか。一体これはどこからやってくるのだろうかということが問題であります。この問題に十分答えるためには、当時の西ヨーロッパ社会のいろいろな局面について広く目配りをしなければならないことは申すまでもありませんが、きょうは、その中から二点だけかなり重要だと思われる問題を拾い出して、簡単にお話をしたいと思います。
まず第一に問題になるのは、私ども後世の歴史家が「フランク帝国」と呼んでおりますこの政治世界を、当時の人々はどのようなものとして見ていたのだろうかという問題であります。近代、現代の学者はいろんな工夫を凝らして、それが一体どのような「国家」であったのかを論じました。これは決して不当だというわけではありません。国王の諸活動を諸々のファンクションに分けて考察してみれば、彼は何よりまず軍隊指揮者でありますし、臣民全体に対する強制権の保持者でありますし、最高の立法者であり、最高の裁判官である。また、王はこういう任務を実現するために、中央と地方に役人を任命し、ある程度まで系統的な統治活動を行おうとしております。ただ、その努力がどこまで現実に貫徹したかという問題はあります。その疑問は確かに深刻でありますが、それを一応別とすれば、今挙げましたようなもろもろの事実は、我々にとっては常識的な国家活動の内容をなすものでありまして、したがって、我々観察者の側でそういったファンクションを一つの政治的統治システムに構成し直して、カロリンガーの国家というもののピクチャーを構成するという手続は、むしろ容易であります。実際、十九世紀以来の古典学説と呼ばれる学説は典型的にそのようなやり方をとってきたものでありまして、その際学者たちは近代的な国家モデルを整序の枠組みとして用いたために、この時代について一つの「君主制国家」のイメージ、つまり未熟ではあるけれども、官僚制的集権的統治機構を備えた君主制国家というイメージを堅固につくり上げ、その後の時代にも強く影響を与えて参りました。
しかし、大事なことは当のカロリンガー時代にはだれ一人としてそのような国家について議論したものがなかったということであります。私は冒頭で「いわゆる」フランク帝国という歯切れの悪い言い方をしましたが、それがここで関係してくるわけでして、この政治世界はアノニュムな無名のもので、フランク帝国なんていう名称はどこにもないし、後の時代の学者がつけた名前にすぎません。たった一度だけ、カールが八〇〇年に戴冠して間もない時期の公文書で、彼は自分の長いタイトルの中に「ローマ帝国の統治者」という文句をはさみこんだことがあります。しかし、これは一度だけの例外でありまして、そのはかには、学者が「神聖ローマ帝国と呼ぶ後のオットー大帝の帝国になっても、ローマ帝国とかなに王国といったいわば国名というものは使われておりません。カールの「ローマ帝国の統治者」というタイトルについては、そこに立ち入ると厄介な問題になりますから、後で時間がありましたら触れることにしまして、先にまいります。
それでは、同時代人はこの世界をどういうものとして把握していたのかという問題になります。一切の論証を省いて結論から申しますと、彼らはそれをラテン語でエクレシア(教会)と表現いたしました。エクレシアとは、教会の建造物、聖堂をもちろん意味しますし、また、聖職者によって運営される組織という意味での狭義の教会でもあります。
しかし、ここで私が問題にしているエクレシアというのは最も広い意味の教会でありまして、それは天上の不可視の神的世界に対応する地上の可視的な、神の人民によって構成される世界のことであります。すべてを包摂するキリスト教徒の世界という意味で彼らはエクレシア=教会という言葉を用いました。その言葉は別に、「キリストの身体」とも言いかえられております。つまりキリストを頭とし、それぞれの信者をその構成部分とするような、ただー人一人の信者がバラバラに体の一部をなすというのではなく、もろもろのオルド、身分、分というものにまとまって、キリストを頭にして有機体的に構成されている、そういう形の世界のとらえ方をその当時の人々は行っていたのです。
ここで、私、是非指摘しておきたいのは三浦新七先生のことでありまして、皆様方よく御承知の先生の『東西文明史論考』の中では、西洋文化の特色がキリスト教的なものにあるというとらえ方を軸にして西洋思想の歴史が見事に展開されているわけであります。三浦先生はその中で、当然のことながらキリスト教会のことをしばしば論じておられますが、その際、先生はエクレシアというラテン語を「神の御国」という日本語に訳しておられる。私は今回改めてこの書物を読みまして、三浦先生のこの訳語の卓抜さにびっくり仰天しました。もちろん先生は普通の個所で「教会」という言葉で論じておられるわけですが、肝心なところにきますと、エクレシア「神の御国」というふうに表現しておられます。まさにこの神の御国という観念なのです。
この時代の人が自分たちの政治的宗教的な世界をとらえるときの観念は、そのようなものでありました。それで、国王というものは、その神の御国を神から預かって、アドミニストラーツィオ、運営を任されている者にほかなりません。国王が神の御国の統治者であるという観念は、一つの例だけ申し上げますと、カール大王が七九六年に新しく選出された教皇レオ三世にあてた有名な親書にこういった形で書かれております。
カールは「神の恩寵によって王たる朕カールは」と書き出しておりますが、自分の任務はこういうものだと申します。すなわち「すべてにおいて聖なるキリストの教会(1)つまり神の御国―を、外に向かっては異教徒の侵入と不信者の破壊から武力で防止し、内的には公教的(カトリック)な信仰を確立することによってそれを安泰たらしめることだ。」 これこそ朕の任務だというわけです。こういう形で、国王は、教会の導き手であって、また同時にそれの防衛者でありました。ですから、聖職者はその教会組織のスタッフとして、王の統治活動の全領域にわたって王を助け、王に対して奉仕するという任務を負ったのは当然であります。
ところで、このように世界を端的に教会としてとらえることを可能ならしめた社会的前提は、これまた言うまでもないことですが、キリスト教の排他的支配が確立しているということであります。西ヨーロッパはこの点でもビザンツとは異なるキリスト教世界であったようであります。ビザンツ帝国は一方で政治的正統信仰を体制化しながら、他方で帝国の一部分では非キリスト教徒、あるいは非正統的なキリスト教徒の存在を客認します。それらを徴税対象ないし兵士の供給源としてビザンツの皇帝は活用いたします。
ところがこれに反して西ヨーロッパ社会は原則としてカトリック的キリスト教徒以外の存在を許さない世界でありました。ここでは異教徒と異端者はせん滅しなければならない敵です。この社会では、社会的政治的行為能力を持つピープル (当時の言葉でポプルスと申します) とクリスチャンズ、あるいはパースンとクリスチャンと言ってもいいんですが、この二つの言葉はすき間なく重なる概念でありました。ですからこの時代の公文書は王の臣民を呼ぶのに「神と王の臣民」という言い方をします。臣民にあたるラテン語はフィデレースというのですが、この言葉は実に意味深長でありまして、それは「神の信者」という意味と「王の臣民」という意味の二重の意味を含んでおります。彼らは神の信者であるが故に王の臣民でありました。だから王の努力は何よりもまず、すべての人民を神の信者たらしめ、彼らを神の信者にふさわしい者として教化するということに向けられます。
つまり、この社会では原則として、すべての人が洗礼を通じて教会の一員となり、教会に組織されていたのであります。そのような意味で教会こそがこの世界の形にほかならなかった。
以上大分厄介な概念のお話をいたしましたが、要点はわれわれが今日フランク帝国と呼んでいるものは、当時の人々にとっては教会、神の御国にほかならなかったということであります。
西ヨーロッパの政治体制の背景となった文字文化とロ誦的文化の二重構造
第二の問題に移ります。
ビザンツの場合と違って西ヨーロッパの聖職者をあれほどまで深く政治生活にかかわらしめた背景には、中世西ヨーロッパ社会が固有の言語文化の特色をもっていたという事情が横たわっております。つまりそこでは文字文化と口誦的な文化=オーラル・カルチャーの独特な二重構造が存在しておりまして、文字文化はもっぱら聖職者身分によって担われたという事情であります。中世ヨーロッパではラテン語が文明語として共通に用いられる一方で、日常的な話し言葉としては様々な民族語が地方、地方で使われていたということは御承知のとおりであります。またラテン語だけが文字言語であり、諸々の民族語は無文字言語にとどまったことも御承知のとおりです。
フランスの中世史家マルク・ブロックはその名著『封建社会』の中でこのことを言語生活の「奇妙な二重構造」と表現し、まさにその点に西ヨーロッパの他の世界と異なる特色があるんだということを強調しております。しかも西ヨーロッパ文明に固有なこの言語的二重構造は、この社会の身分的二重構造、すなわち俗人身分と聖職者身分という身分的二重構造と重なり合い、俗人身分は二股に口語的民族語の世界を踏み出すことがなかったのに対し、ラテン語はもっぱら聖歌者身分によって担われるというまことに特異な文化・社会構造が出来ていたのです。
こういう状態が生み出されるに至った歴史経過をごくごく簡単に申し上げますと、古代ローマでは文法、修辞法などを習って読み書きの能力を身に付けるということはごく普通の市民的教養に属しました。もちろん今日の識字率と比べることはできませんけれども、少なくとも古代ローマではラテン語の読み書きは普通の市民的教養でしたから特筆に値する能力ではありませんでした。そうした並みの教養を超える高い水準の知識を持った者だけが、特に、文人(ラテン語でリテラートスと言いますが)と呼ばれたのです。そして、文人を意味するこのリテラートスという言葉は、その後古代末期、中世初期、中世の半ばと意味内容を著しく変えてまいりまして、行きつくところ、それは高い教養を持った者という初めの意味ではなく、ただ単に読み書きのできる者という意味になってしまいます。しかも読み書きのできる者は聖職者に限られましたから、リテラートスとは、中世の半ばになりますと聖職者のことを指すようになってしまいます。こういう言葉の変化の中に古代から中世に至る教養の変化の歴史を大きく見通すことができると思うのであります。
余り先走ったことを言わずに元に戻りますと、大体五世紀ぐらいから地中海世界の西部、イタリア、ガリアでは、古代ローマ的言語文化の状況が大きく変わってまいります。
その頃文字を持たない、ゲルマン諸民族がローマ帝国の西の部分へ侵入して来ます。このいわゆる民族の大移動が大きく影響したことは言うまでもありませんが、ただこれだけに原因を還元することはできないのでありまして、遅くとも四世紀以来ロマンス語地域の話し言葉が統一的な文章ラテン語から大きく隔たって、俗語化したという事情も忘れてはならないところです。書き言葉はもはやだれの母語でもなくなってしまったわけであります。その結果古典ラテン語を習得して読み書きの能力を身に付けるということは、この社会ではすでに特別の教養を意味いたします。
ゲルマン諸族の支配下に入った地中海諸地域では、ローマ系住民の中にはまだラテン語の文法を習って、これは学校で習うわけですが、文章ラテン語を読み書きする俗人教養層が依然として多少は存在しておりました。しかしながら支配者となった戦士的ゲルマン人たちはこの書き言葉を自分で習得しようとはしなかったのです。
有名な事例ですけれども、イタリアを支配した東ゴートの英主テオドリック、大王と呼ばれたあの王でさえ、どうやら無筆であったということが、多少の争はありますけれど、ほぼ確実に言われております。
ゲルマン人支配者は文字の術の不可欠性も、またその重要性も十分高く評価していましたが、にもかかわらずそれを自ら習得して、文字を用いる諸活動に従事するということは、戦士、貴族、支配者に適わしいことではないという具合に考えていたようであります。これは中世半ばの貴族に至るまで一貫して連続した非常に独特な彼らのエートスだったようです。
こういう形で、ラテン語を身に付けた識字者が非常に少なくなっていく、そういう動きが西ヨーロッパ世界では進行していったのですが、これを古代的教養の観点から見ると、あるいは野蛮化、バーバリゼーションと呼ぶことができるかもしれません。しかし、それはともかく、そうした動きが進行する西ヨーロッパにおいて、共通の文字言語であるラテン語を維持するのに最大の役割りを果たしたのはキリスト教会であります。ゲルマン諸族によるキリスト教の受容とともに、彼らはラテン語の聖書とラテン語の典礼を受け入れますます。と同時に彼らは古代末期のラテン語で書かれたキリスト教文献を引き継ぎ、それを通して間接的に異教的古典古代の文化的遺産をも引き継ぐことになります。
したがって、聖職者ないし修道士となるためには少なくともこの教会の言葉、すなわちラテン語を学び教典を読み教義を把握しなければなりません。その結果文字を知る聖職者と文字とは無縁に生活する俗人という、中世ヨーロッパに固有の二極構造が生み出されることになります。
西ヨーロッパでももちろん諸々の民族語を書き言葉にしようとする努力が行われたことは事実であります。
例えばアングロサクソンの場合には最も成功した例でありまして、自らの言葉をラテン文字で表記し、例えばアルフレッド法典とかイネ法典というような法典を民族語で書くことに成功しております。しかしながらこれ自体も一体どの程度の実効性を持っていたかということになると大変議論が分かれるところですが、それはともかく、アングロサクソンの場合を一つのめざましい例外として、そのほかには一般に、もろもろの民族語を書き言葉にする試みはことごとくエピソーディッシュなものに終わったと言ってよろしいと思います。そこで初期中世から中世中期に至る西ヨーロッパ社会を特徴づけるあの状態ができ上がることになります。
もう一度繰り返しますと、聖職者と修道士だけが最低限のラテン語の読み書きの能力を身に付けるのに対して、俗人は最高級貴族に至るまで、いや、しばしば国王さえも無筆である。もちろん彼らが読み書きができないからといって、彼らが非文化的だというようなことを私は言っているのでは毛頭ないのでありまして、彼らは固有のオーラル・カルチャー、ロ誦的な文化、恐らく、古代ゲルマン社会にまでさかのぼるような、そういう文化伝統に基づく教養形式を持っていたことは言うまでもありません。しかし、彼らはごく例外的にしか読み書きができない。こういう状態が形成されました。
このようにカロリンガー社会には古代ローマやビザンツのような有識俗人層が欠除していたのであります。王族は大体ラテン語を操ることができたようであります。カール大帝はもちろんです。彼は宮廷を中心として、いわゆるカロリンガー・ルネッサンスと呼ばれる様々な文化興隆の努力を行います。王宮内部につくられた文人たちのサロンはラテン語でやりとりを行っているわけですが、カールはもちろんその中心人物の一人です。
しかしながらこういった王族及び極めて少数の上層貴族。そういったわずかの例外を除いて俗人は一般に、武人的な生活態度に固執して文字の知識を積極的に身に付けることはしなかったのです。その結果この社会では教会が事実上文知の独占的所有者であって、聖職者身分が文字を用いることのできるほとんど唯→の存在でありました。
こういう状態が当時の政治秩序、フランク帝国とわれわれが呼ぶあの大きな政治世界のあり方を考える上で大変大きな意味を持っていることはすぐおわかりになって頂けると思います。確かにカロリンガー時代の社会生活では、一般に、文字を使わずに行われる生活部分のウエートが高かったことはよく知られているところであります。生活空間がローカルになっていけばいくほど、例えば村の生活というようなところに下りていけば行くほど、そこではオーラルで、直接的な人間関係によって生活の秩序が維持されていた。こんな具合に考えてはぼ間違いないと思います。
しかしながら、確かに社会の基礎的でローカルな生活ではそのとうりでありますが、そのように細かく分節された下部構造の上に巨大な天蓋のように覆いかぶさっているフランク帝国、つまり例の「神の御国」 でありますが、その運営となりますとオーラルな手段だけではどうにもなりません。したがってカロリング家の王たちは、神の意思を地上で実現するという大目的を果すために、その統治理念と統治実践の双方にわたって、高度な文字文化に支えられたキリスト教的ローマ古代の伝統を継承しようとします。そしてこの続治努力はいやおうなしに中央から地方に至るまで様々のレベルで文知を備えたスタッフによって支えられなければならなかったことは当然であります。
古今東西を問わず、どの国家においても文官というものが司どっている統治活動がここでも必要だったわけですが、しかし、カロリンガー諸王にとっては俗人の中から文官を見出すことが基本的にできなかった。王の統治活動にとって不欠な文官的機能をここではもっぱら聖職者が担当せざるを得なかったのであります。フランク帝国なるものは中央宮廷の最高顧問官から司教、修道院長を経て地方の書記に至るまで、各レベルで政務に携わる聖職者の大群に担われて初めて存立し得たのでありまして、もし仮に彼らがビザンツ帝国での原則にしたがって、国家の事柄からみんなが身を引いてしまったならば瞬時にこの帝国は崩壊せざるを得なかっただろうと思われます。
むすぴ
大分長くなりましたが、以上見てきましたところから、カロリンガーフランク帝国と呼ばれているものが、決してビザンツ帝国と同列に論ずることのできるような国家ではなくて、いわば宗教的共同体、政治化された宗教的共同体、すなわち、「神の御国」であったということがある程度はっきりしたかと思います。私が最初にお話ししましたような、ビザンツとフランクの両者の政治生活における教会並びに聖職者の役割りの相違というものは、基本的にこういった構造の違いから由来していると考えます。
つまりビザンツ帝国はキリスト教以前的なローマ帝国を直接引き継ぐものとして、純粋に世俗的な権力装置を運営するのに聖職者の助力を全く必要としなかったのに対し、フランク帝国の方はキリスト教化されたローマ帝国から、その続治の理念と技術とを継承した教会に全面的に支えられることによって初めてその政治的支配は形をなすことができました。ですからビザンツでは国家の活動領域と教会の活動領域の境界線は客観的に引かれていたのに対して、フランクでは世俗権力と教会権力のどちらも他に対して自らに帰属する固有の領域というものを主張することができなかったわけです。
こういう形で聖俗が分かち難く混淆しているということにこそ初期中世、つまりカロリンガーフランク時代の特色があると言わなければなりません。したがって、冒頭に申し上げましたように、ビザンツの方は皇帝教皇主義だが、他方は楕円的世界で、そこでの教会は最初から相対的に自立していて、教会権力と皇帝権力とは緊張関係に立っていたという見方は大いに問題があるわけです。むしろ、ヨーロッパ史の出発点にはいま申しましたような、教会に支えられてしか政治的なものが成立しないという政教混淆の状態があったのです。また、そう考えてこそはじめて、約二〇〇年後の十一世紀に、例のグレゴリウス改革ないし叙任権闘争と呼ばれるあの大闘争、すなわち、「教会の自由」という旗印を掲げて教会が皇帝の権力から自立しようという戦いを起したとき、一体どのように深刻な政治・社会的動乱が起らざるを得なかったかということも、わりあいにクリアーに理解できるのではないかと思う次第であります。
大変長くなりましたが、御清聴どうもありがとうございました。
[質 疑 応 答]
一 どうもありがとうございました。
ヨーロッパ世界におけるキリスト教の浸透の状況というようなもの、先生のお話によって大変理解できましたことを御礼申し上げます。
実はいまのお話の中で二点について伺いたいのですが、先生のお話をもとに考えますと、ヨーロッパの特にゲルマン社会に対するキリスト教の浸透というのは、いわば上からめ思想革命というような形で、これは思想であるとともに文化であり、同時に政治の組織であるという形で浸透することによってあれだけの浸透度を持ったというふうに伺った上で理解しているわけですが、そうした形のものがゲルマン世界にはエッダ神話ということで知られている。オーディンを中心とした神々と悪魔との話というようなものがあり、これが恐らく民衆の基層の考え方、生活意識の中に非常に強かったものだろうと思いますが、それがあえなく崩れ去るというか、それに近いような感じで受けとめられたというのは、これは日本あたりの場合と比べてみると大変な違いのように思うんですが、その点についてどういうふうに御説明頂けるかと、これが第一点。
第二点は、キリスト教そのものが本来、聖書によりましてキリストの本来の考え方によりますと、これは山上の垂訓でもって「汝の敵をも愛せよ」と言い、それから「我は正しき人のために来たれるにあらず、罪ある人のために来たれり」といったような、非常に包客力の強い思想的な態度であるにかかわらず、西ヨーロッパの世界のキリスト教というのは異教徒に対して極めて排他的な接し方をする。十字軍なんかにしましても、異教徒に対しては本当に、夷狄、鳥獣と同じような扱いで残酷な取り扱いをしていくというような動きをしている。これはどこから出てくるのか。
これは私は、ゲルマンを中心にして考えると、これは神と、それから悪魔というものをあくまでも対抗的に考えて、一方は、敵は徹底的にせん滅しなくちゃいかんという、このゲルマンの基本思想、そのカロリンガー朝時代のキリスト教浸透以降においてもなお一番強い基層になっていて、それがあの西欧キリスト教の排他主義に結び付いたのかというふうにも考えられるんですが、その辺につきまして先生の御見解を、以上二点についてお伺いしたいと思います。
山田 大変恐しい質問を突きつけられまして、私、両方についてよくわからないとまずかぶとを脱がなければなりません。大変だらしない話ですが、正直そのとうりであります。
しかし、多少関連したことについて勉強しているものとして、ただわからないで引き下がるわけにもまいりませんので、多少私の考えていることを申し上げますと、最初の点でありますが、ゲルマンの、キリスト教から見れば異教的信仰を持ったゲルマン話族の中にキリスト教が浸透していく形は、やはり上からの浸透であったという御指摘そのとうりだと思います。
実際問題として布教の形は様々でありますけれども、例えば宣教師が異教的ゲルマン世界の中に入っていって、ほとんど単身異教徒の中に身を置いて、そこでキリスト教を説くという生活をうかがわせる材料としまして、われわれ学者がよく利用するものにいわゆる聖者伝があります。大体この聖者たちは殉教するのですが、彼らは異教徒の中に入っていく場合、まずその地方の有力者をキリスト教に引きつけるということを、やはりどこでも行っているようであります。
ゲルマン的な信仰がどのような姿をとっていたのかということについて私十分知識を持っておりませんが、一つ言えますことは、ゲルマン人の神観念というものも、力に対する信仰を一つ基礎にしていたと思います。言ってみればどの神が力をもっているか。そういう観点です。その点でゲルマンの立場から見ますと、諸々の神の中でキリスト教の神というのはどうやら非常に力のある神であるらしいというところまではわりあいに接近できる。古代末期のローマ帝国にゲルマン人たちは主として傭兵の形で雇われまして、そこでキリスト教に接触いたします。それで故郷へ帰って、民間レベルでキリスト教の風評がわりあい広く伝わっていたのではないか。最近特に強調される側面であります。
その点を前提して考えますと、例えばザクセン族がカール大王に攻められたような場合。ザクセン族は最後まで自分たちの信仰を掲げてカールと四十年の長さにわたって戦うわけでありますが、キリスト教の神をいただくカールの軍勢によって敗北を喫することによって、もうすでにキリスト教の神というものの強さを彼らは承認しなければならない。そのときに、恐らく諸々の神の一つとしてキリスト教的な神を受け入れるというところまでは、恐らくゲルマン人はわりあいにスムーズに入れたのではないかと私は思います。
そうしますと、今度はカールの側では、おまえたちはキリスト教の神を受け入れたんだから、ほかの諸々の神を捨てなければならないという形で権力的に、古い神々を捨てることを強要します。恐らくこの局面になるとゲルマン人たちはそう簡単には応じられなかったのではないか。古い神々に対する祭祀はともかく、それに対する信仰は恐らくずっと後の時代まで続いたのではないかと思います。しかし、キリスト教の神は受けいれていますから、形の上ではキリスト教徒として、洗礼を受けて教会に属します。しかし実際の宗教意識としてはゲルマン人は、初期中世と言わず、恐らく中世の中期、場合によったらもっと後の時代に至るまで伝統的な信仰というものをいろいろな形で持ち続けたと思います。
きょうのお話とも関係する点でありますが、この時代のキリスト教のあり方の一つの特徴は神と信者との関係を支配と服従の関係として把えるというところにありまして、いわゆる政治的な支配・被支配の関係に重ね合わせて、その側面を非常に強く打ち出しております。したがって新しいキリスト教徒たちもそういう側面だけを強く要求されたわけで、そこすら承認しておけば実際の心の中の問題については、決して寛容とは申しませんけれども、そこに立ち入って思想改革を求められるということは恐らくなかっただろうという具合に私は考えております。その点がまず第一点。
第二点のキリスト教の非寛容性ということですが、それが一体キリスト教の教義のどこからやってくるのかという点は、実は私は全く素人でお話しすることができません。大変申し訳ないのですが。
西ヨーロッパにおけるキリスト教が支配の宗教として、政治的な支配と一体になるような形でスタ−卜したという点が、どうしてもここでの特色として、十字軍時代にまで引き継がれたのではないかと思います。ある特定の神に対する信仰が基礎になってでき上がっている一神教的な宗教的共同体というものは、いずれにしろそれ以外の宗教的な共同体との間で非常に激しい対立関係を呼び起こして、お互いに他を排除するという性質を持っているもので、これは大体一般的に言わなければならないところだと思います。ただ、キリスト教の場合には、ユニバーサル・ミッションの思想がとりわけ強い。すべての人間は潜在的にキリスト教徒であって、したがって異教徒はたまたまいまだキリスト教徒になっていないけれども、本来彼らはキリスト教徒たるべきものだという、布教者たちのあの情熱的な活動を促したモティーフが濃厚にありました。ところが、ヨーロッパは、今日お話した次の時代になりますと、全体として軍事的に劣勢になり、外の異教徒からきびしい侵略をうけます。北からはノルマンが、南からはイスラムが入ってくる。東からはマジャールが入ってくる。その間、ヨーロッパのキリスト教徒たちは身を固めて異教的外敵に対して自らを守るという強い防衛の姿勢をとりますが、それが外側からの圧力が緩みまして、十世紀末からヨーロッパの中である程度自らの力というものが、これは社会経済史的な過程でありますが、蓄積されてくると、そのときの政治的な状況と出会いまして、外に向かっての十字軍活動、聖地を奪還し、異教徒はせん滅しなければならないというあの行動に出たものという具合に私は理解しております。
― ロシア正教という言葉がございますね。あれ、正教というのは正しい教会という意味ですか。
山田 正教という言葉はギリシャ正教から来ています。ビザンツの教会がギリシャ正教。われこそ正統なキリスト教信仰の形であるという意味で正統、オーソドックスというわけです。そのギリシャ正教を引き継いだものがロシア正教。
― ビザンツ帝国とはどういう関係になるんですか。
山田 ビザンツからロシア人はキリスト教を受け入れます。
― そうするとロシア正教というのはビザンツ正教と同じものなんですか。
山田 そういうふうに理解して頂いて結構です。ビザンツはトルコに亡ぼされてしまいましたので、かってビザンツのコンスタンティノープルが担当していたような中心的役割を今度はモスクワが担当することになるわけなんです。
― ビザンツ帝国というのは、いわゆる東ローマ帝国というやつですか。
山田 そのとうりです。
― フランク王国というのは西ローマ帝国になるわけですか。
山田 その点はノーというふうに言いたいわけです。ローマ帝国と申しますのは、やはり全体としてビザンツ帝国に引き継がれていった。よく八〇〇年のカールの戴冠は西ローマの復興だというふうに言われますけれども、決して西ローマというものがあったわけではなくて、実は皇帝というタイトルはローマの皇帝しか名乗ってはならないものだった。そういう意味で皇帝というのは全部ローマなんです。したがって西方の皇帝もローマから皇帝の権威を受け継いだというフィクションを設けなければならなかったのです。中世のドイツ皇帝が統治した国も後に神聖ローマ帝国というふうに呼ばれることになる。この神聖ローマ帝国は決して西ローマの末裔でも何でもなくて、まさにローマの理念が新しく復興されたものと理解して項きたいと思います。
― フランク王国というのは、さっき随分版図の広い王国だったという話だと思うんですけれども、中心はフランスなんですか。
山田 これはなかなか難しい質問ですが、社会経済的、文化的にフランク帝国の中での先進地域はどこかということになりますと、やはりフランスだと思います。北フランス。
ただ、フランク王国は同時にイタリアを含んでおりますから、何といってもかつてのローマ帝国の中心であるイタリアは経済的に最も豊かなところであったことは否定できません。
― カロリンガー朝というのは一体何世紀頃まで続いたのかわからないんですけれども、結局そういう王権と教会との密接な結び付き。それで一つの支配体制ができていたのがだんだんに壊れていくわけでしょう。それでルネッサンスの頃に至るまでの間の変遷といったようなものをちょっとかいつまんで。さわりのところだけちょっと。
山田 ごく簡単にお答えすることができます。きょうお話ししましたのは大体九世紀頃と御理解頂きたいんですが、十一世紀頃に初めて、教会と政治権力とがけじめなく混淆しているのは具合が悪いじゃないかという話になります。
それがいわゆる叙任権闘争とかグレゴリウス改革となって現われるのですが、そのときに初めて、宗教に支えられた政治秩序が世俗化してまいります。政治というものが世俗的な政治に方向をたどるようになります。その方向はやはり宗教改革、中世末期・というより近世初めの宗教改革のとき加速されます。この動きの終点はどこかということになると、政教分離というか、つまりどの信仰を持っている者でも市民的・政治的な権利は持つことができる、新教の立場にある者でも、旧教の立場にある者でも、政治的な権利を持つことができる、こういう原則が確立するのは三十年戦争を経て、一応の終点はやはりフランス革命に至る。こういうふうに理解して頂ければ大体間違いないと思います。そういう形でヨーロッパは政治と宗教との分離というものを世界の中で初めて自覚的に達成した地域です。
他方には依然としてホメイニ体制といったものも存続しているわけですが。
きょうの私のお話は、ヨーロッパは最初からそのようなヨーロッパではなかったんだ。最初は政治的、宗教的なものが不可分に混淆している。そこからどういう形で現在のヨーロッパのような体制が出てくるかを解くのがヨーロッパ史の一つの課題ではないかということを言いたかったわけです。
(昭和六十二年一月二十六日収録)
山田欣吾
昭和五年 長野市に生れる。
昭和二九年 一橋大学経済学部卒業.
昭和三五年 一橋大学経済学部専任講師。
昭和四七年 同教授、今日にいたる
論文
「中世後期オーストリアにおける鎮主制の諸問題 昭和三五年
「領邦国家とレーン制」 昭和四〇年
「一二・一三世紀のドイツ国家」 昭和四五年
「<ドイツ国>のはじまり」 昭和五五年
「<教会>としてのフランク帝国 昭和六二年
訳書
オットー・プルンナー「ヨーロッパーその歴史と精神」(昭和四九年岩波書店共訳)