一橋の学問を考える会
[橋問叢書 第六十一号]   一橋のソ連経済研究   一橋大学経済研究所教授 宮鍋 幟

    はじめに

 ただいま御紹介をいただきました経済研究所の宮鍋です。私は昭和二十八年、旧制商大最後の年次の卒業生でございます。実は、きょうで一橋の学問を考える会は六十四回目 (講義は六十四回目、叢書は六十二号目) だそうでございまして、諸先輩の方々がこのように息長く一橋における学問研究や教育についていい意味での厳しい批判をなさり、また温いバックアップをしてくださっていることを知り、全く感謝にたえない気持ちでございます。いままでの講演者の顔触れを拝見しますと、みなそうそうたる方々ばかりでございまして、私ごときがこの席でお話しするのは大それたことだという気がしないでもありませんが、お引き受けいたしましたのは、昭和五十七年に仮綴じの形で印刷され、今年の春に正式に刊行されました『一橋大学学問史』 のなかの部分を担当させられましたので、それを書いた以上はここへ来て、このテーマについての自分の考えをお話しすべきであり、それが私の義務であると思ったからであります。こういうふうに考えまして、その任ではありませんけれども、お引き受けさせていただいたような次第でございます。

 それではこれから「一橋におけるソ連経済研究」という本題に入らせていただきますが、まずはじめに次の三点を指摘しておきたいと思います。第一に、日本におけるソ連経済研究ということを考えてみる場合に、本格的な研究は第二次大戦後に始まったこと。この点をまずお含みおきいただきたいと思います。つまり、わが国では第二次大戟が終るまでソ連研究というのは一般的には禁止状能だおかれ、したがって私どもの大学もその点例外ではなかったわけでございます。

 一例を申し上げますと、福田徳三先生の『ポルシェヴィズム研究』は、先生が大正九年から十一年にかけて『改造』その他の雑誌に発表されたソ連についての研究論文四つと、それに関連する詳細な文献目録一つの計五編をまとめて大正十一年に公刊された論集であり、本学における最初のソ連研究書でございますが、この本の序文のなかで先生はつぎのように書いておられます。この中の論文の一っ「レーニンの国家理論」には非常に伏字(××印)が多い。それは大正十一年に右文を『改造』にまず公表したとき、内務省警保局の検閲により削除を命ぜられた箇所である。今回『ポルシェヴィズム研究』という単行本としてまとめるさいに伏字を起こそうと思って内務省警保局に連絡を取ったところ、結局だめだと言われた。したがっていったん組み上げたにもかかわらず、再び伏字とすることにした。切に読者の諒察を請わねばならぬ、と書いておられます。

 このことからわかりますように、初めは可能であったソ連研究も大正十一年ごろには公表される研究成果の内容のかなりの箇所が当局の検閲により×Xになる。そして、そのうちにだんだん研究自体ができなくなって参ります。ただし、起こりうるかもしれない対ソ戦準備との関連で、ソ連の軍事力や経済力についての研究が軍事目的上ある程度やられておりましたし、それから満鉄調査部でもソ連研究がかなり行われております。そういう例外はありますが、しかし一般的にはソ連研究は禁止状能におかれてしまいます。

 第二に、これは日本のソ連経済研究にかなり特有なことかもしれませんけれども、第二次大戦後のわが国におけるソ連経済研究は一九六〇年代半ば前後を境にはっきりと二つに時期区分することができます。
これはどういうことかといいますと、とりわけ六〇年代に入りまして研究対象である当のソ連において、経済システムがそれまで行われてきた官僚主義的、集権的な計画経済システムから分権的なそれへの転換を迫られ、その転換のための模索が始まったことと関連しまして、それにつれてわが国におけるソ連経済研究者の研究姿勢も研究成果の
内容も大きく変わってきたという意味でございます。

 それまで、どうもソ連とかその他の社会主義国を対象とするわが国の研究には次の二つの極端なタイプが見られました。一つは、あばたもえくぼ式に、つまりソ連と同じイデオロギーの立場からソ連経済について何でも良い方に見ようとし、黒いものでも白いと言うし、悪いものでも良いと言うタイプであります。もう一つの極端は、坊主憎けりゃ袈裟までもといいましょうか、ソ連とは相容れないイデオロギー的立場からそこでの良いものも悪く見てしまうタイプです。戦後のわが国のソ連経済研究には、六〇年代半ばまではこの両極端のうち、どちらかといえば前者のタイプに近いものが非常に多かったわけです。それが六〇年代の半ばごろからは日本のソ連経済研究者の間でも、イデオロギーを抑えて、社会科学者としてのクールな目で研究対象と取り組む態度が大勢を占めるというように変わってきたわけであります。

 ただし、ついでに申し上げますと、一橋におけるソ連経済研究は戦後期の初めから社会科学的な目でソ連経済を比較的冷静に分析してきたと言うことができますし、六〇年代後半以降になりますと、当然のことですけれども、日本でもこの姿勢の正しかったことがはっきりとわかるような状況になってきているわけでございます。

 それから第三に、これは私どもの大学の事情でございますが、第二次大戟後間もなく、それまでありました東亜経済研究所が現在の経済研究所に改組・拡充されまして、そこに初めてソ連経済研究部門が設置されました。これが昭和二十四年でございます。後で述べます野々村一雄先生と、そして惜しくも亡くなられたわけですけれども、故岡稔先生のお二人がこの経済研究所のソ連経済研究部門に野々村先生は助教授、故岡先生は助手としてほぼ同時に就任され、それ以後文献集めから始めまして今日に至る基礎を築かれたのであります。つまり、経済研究所のソ連経済研究部門の活動が軌道に乗るにつれまして一橋におけるソ連経済研究は主としてこの部門の担当スタッフの共同研究や個
人研究の成果によって示されるようになっていったわけでございます。
前置きが長くなりましたが、では一橋においてどんなソ連経済研究が行われてきたのかという点について、私は以上に述べましたことを踏まえて、つぎの三つの時期に分けてお話ししたいと思います。戦前・戦中期、戦後期その一、戦後期その二という分け方であります。


   戦前・戦中期

 まず第1の戦前・戦中期ですけれども、この時期についてここでは福田徳三先生、、それから大塚金之助先生及び山田雄三先生、以上のお三人の業績のことを概略お話しすることにいたします。

 まず福田徳三先生の業績でございますが、さきほどイントロダクションでも触れましたように、先生は大正十一年に、それ以前の一、二年の間に公表されました雑誌論文を集めて『ポルシェヴィズム研究』を公刊されるわけですが、(文献の(1))この論文集の内容は、レニンの代表的著作の一つである『国家と革命』(一九一八年)についての研究と、一九一一年三月に開始されたソ連のいわゆる「新経済政策」(ネップ)についての研究の二つから成っております。

 このうちレーニンの『国家と革命』についてどういう観点から論じておられるかと申しますと、福田先生は、レーニンはこの本の中で自分はマルクス、エンゲルスの国家論を引き継ぎ、ロシア革命運動へのその適用の経験をふまえてこれを書いたと言っておるが、果たしてレーニンは右の本の中でマルクス主義国家論の根本思想を正しく伝えているかどうか、こういう問題を提起なさって、この問題について先生一流の詳細な文献考証を行ったのち、レーニンの『国家と革命』はマルクス主義国家論を大体において正しく継承している、と結論なさるわけです。

 では、もう一つの福田先生のネップにかんする研究はどのようだったかといいますと、それはつぎのような内容のものでございます。ネップと申しますのは、ご承知のように、一九一七年十月革命に引き続いて起こった国内戦と外国の武力干渉が終ったとき、ソビエト政権がそれまでの戦時共産主義の政策をやめ、それに代えて新たに実施した経済政策のことでありますが、ソ連ではこのネップの時期が一九二一年春に始まって二七年末まで続きます。ネップに移行するまえの戦時共産主義の時期には、工業企業の全面的国有化、農民からの食糧徴発制、市場機構や貨幣の廃止、市民の全般的労働義務制などの極端な諸施策が行われまして、その結果、国家の手で集権的に管理運営される現物経済システムが出来上りました。そしてそれは、国内戦と干渉戦を勝ち抜くための一種の戦時経済のやり方だったと同時に、単にそればかりではなく、マルクス主義の伝統的イデオロギーに根ざした、社会主義経済とは非市場的で現物的な集権的計画経済にはかならないとする考え方によっても支えられていたわけであります。

 ところが、ネップというのはこれを緩めるわけですから、ネップの時期になりますと、食糧徴発制をやめて現物税を導入する、商業や工業の私的経営も認める、国営企業には独立採算制を施行する、外国との合弁企業設立にも踏み切る、もちろんそれらに伴って市場や貨幣も復活させるというようになって参ります。そしてこういった諸施策が実施されますと、そこに成立するものは市場機構をかなりの程度活用する分権的計画経済システムということにならざるをえません。ですから最近では、ネップの体制に計画原理と市場原理の結合にもとづく分権的計画経済システムの原型が見られるというふうに、ネップへの見方がなってきましたけれども、しかし当時はなかなかそのようには理解されませんで、ネップへの移行の当初、国外ではその諸施策はソビエト労農国家の資本主義への後退ないし降伏を示すものとみなされましたし、当のソ連では当時もその後も、ネップは来るべき、あるいはあるべき社会主義経済のそ
の原型ではなく、社会主義に至る過渡期の方策としてしか理解されませんでした。
ネップについての説明が長くなりましたが、福田先生のネップ研究は、ネップの諸施策を資本主義への後退ないし降伏とみる見方を打ち破ることが主眼でございました。そこで先生はこれまたいろいろと博引傍証なさいまして、つぎのように主張されるわけであります。ネップの諸施策は世上言われているような資本主義への後退でも降伏でもなく、運営様式としての、経済技術としての資本主義の導入であり、ネップの根本基調は戦時共産主義的な「強制共同経済」からの「自由共同経済」 への接近にある、と。先生はまた、将来、社会主義の時代が来ることありとすれば、この「経済技術としての資本主義」はその場合でもけっして無用に帰するものではないと思う、とも述べておられます。六〇年代に入りますと、ソ連でも集権的計画経済システムから分権的なそれへの転換が求められ、そのための模索が開始されたことははじめに触れたとおりでありますが、その後この転換はうまく進んではおりません。ですからゴルバチョフは昨年三月、党書記長に就任するやただちにソ連の現行経済システムの「ラディカルな改革」の必要性を強調し、また、これと関連してネップに学べとも言っているわけであります。つまり、ネップ研究における福田先生の主張はいまなお生きていることがお分りいただけると思います。

 福田先生が一九二五年(大正十四年)九月、ロシア科学アカデミー創立二百年祭に日本学士院代表として参列されたこと、また、英国代表として同じこの祝典に参加していたケインズとモスクワで学問的論争をなさったことはよく知られておりますが、最近、当時のソ連の新聞を見てそこに福田先生のことがかなり載せられていることが分かりましたので、これについて若干触れさせていただきます。ロシア科学アカデミーの創立記念日は九月一日ですが、このときは二百年祭ですから九月の前半全部を当てて祝われ、この間はじめレニングラード、ついでモスクワでそれぞれ何回かの式典が行われました。その最後のものは九月十四日にモスクワの有名なポリショイ劇場で挙行されるわけですが、このとき福田先生は、スターリン、カーメネフなどの党・政府代表やマックス・ブランクなどの外国招待学者代表と一緒に式典名誉幹事団のメンバーに選ばれておりますし、また祝賀のスピーチもなさっております。先生のこのスピーチのいわばさわりの部分を党の機関紙『プラウダ』(一九二五年九月十五日付)によって要約しますと、こうでございます。プロレタリアはずっと以前に「万国のプロレタリア、団結せよ」というスローガンを提起した。そして第二の「万国の研究者、団結せよ」というス口ーガンもむろん目新しくはない。というのは学問には国境がなく、研究者はつねにその研究をさまざまな国さまざまな国民に共有してもらうよう努めてきているからである。したがって、いまや第三のスローガンでなければならない。私は言いたい。「万国のプロレタリアと研究者、団結せよ」と。日本の福田教授のこのスピーチに会場は万雷の拍手をもって応えた、とその記事は伝えております。「…であります」調でなく要約したせいかもしれませんが、いかにも福田先生らしい活きのいいスピーチではないでしょうか。なお、政府の機関紙『イズベスチャ』(九月十三日付)には先生のお写真も載っていますが、本日は『プラウダ』(九月十日付)に載った先生の似顔絵のほうをコピーしてお配りいたしました。このほうがより鮮明にコピーできたからでございます。ご覧いただくと分かりますように、右側が福田先生で当時満五十一歳でしたが、似顔絵のせいでしょうか、それよりはお若く見えるように思われます。左側の似顔絵は、同じくこの祝典に参列された当時の東京外語のロシア語教授八杉貞利氏であります。(末尾資料ご参照)

 福田先生によって以上のような形で着手されました一橋におけるソ連経済研究は、先生が亡くなられた後福田門下の大塚金之助先生と山田雄三先生によって、これから述べますような意味はおいてではありますが、受け継がれてゆくわけでございますので、続いて、この両先生のその面での業績について紹介することにいたします。

 マルクス経済学者としての大塚金之助先生は昭和八年一月に治安維持法違反容疑で検挙・投獄されるわけでござい
ますが、その当時大塚先生は、「ソ連に目を向けよ」という晩年の福田先生のお言葉を世界的規模の学者であった恩師の 「学問的遺言の一つ」と受けとめられ、マルクスの 『資本論』や『剰余価値学説史』、レーニンの『帝国主義論』などの研究に打ち込まれるかたわら、ソ連経済の動向にも絶えず目を配っておられました。こうして先生はソ連の社会経済にかんする文献目録を編まれたり、ソ連経済についての論文を執筆なさるわけですが、お配りしてあります資料の (7)以下(9) までがそれでありまして、いずれも先生が検挙・投獄される前の数年間に公表されたものでございます。

 この当時、資本主義諸国は経済恐慌(一九二九−三三年) のさなかにありましたし、ソ連は第一次五力年計画(一九二八年−三二年) の実施中でしたので、一方、資本主義世界では恐慌による企業倒産や大量失業が起き、他方、ソ連ではとりわけ工業生産が嵐のような勢いで伸びるというように、両者の間にまったく対照的な状況がみられたわけですが、このような状況のもとで西側世界では、ソ連における五力年計画の実施を悪夢とみる立場とそれを希望実現ののろしとみる立場の鋭い対立もまた生れたわけでございます。時代状況が以上のようなものでしたから、さきに挙げました大塚先生の諸論文をつらぬく基本的な論調はソ連計画経済礼賛でありますし、また、その立場からの、ソ連計画経済を悪夢とみなすもう一 つの立場によって行われた「反ソ宣伝」 への反批判でございました。しかし、このとき実はスターリン集権体制がすでに進行を開始し、かなり確立していたわけでございますので、いまの時点から振りかえって見ますと、先生は当時のソ連社会の現実の楯の半面しか見ていなかったといえると思います。ただしそれは、当時の状況のもとでは避けられないことでもあったというふうに思われるわけでございます。

 大塚先生は、昭和八年十一月に徴役二年、執行猶予三年の判決を受けて釈放されるまで約八カ月間獄中にあるわけですが、刑務所を「第二の学校」と考えられまして、この間も、奥様からの差入れ本により絶えず勉強を続けておられます。ソ連経済学者のロシア語の原書も差入れられますが、なかには不許可になって宅下げされ、とどかない書物もございました。たとえば、ブリユーミン著『経済学たおける主観学派』(一九三一年)は許されましたが、トラハテンベルグ編『貨幣と信用の理論論集』(一九三〇年)やグロムイコほか著『ソビエト商業の十五年間』(一九三二年)は不許可で宅下げ本とされました。許されたロシア語原書を先生は辞書を引きながら読みこなしてゆかれるわけですが、実に大変なご努力でございます。『大塚金之助著作集』第十巻(昭和五十六年)が出まして、そのなかに獄中から奥様にあてた先生の書簡も収録されておりますから、いまでは私どもにも以上に述べたことが分かるようになっております。私はそれからの書簡を読んで先生の学者としての節をつらぬいたご勉強ぶりを知り、そのことに深い感銘を受けました。

 出獄されてからの先生はむろんソ連経済についても筆を折らざるを得ないわけですが、先生の獄中でのご努力やその後のご苦労をも顧みずに、先生のソ連経済研究はソ連計画経済礼賛に終始していた、ソ連社会の現実の楯の半面しか見なかったというふうにだけ申しますと、大変失礼なバランスを欠いた言い方になりますので、ほんのちょっとですが、獄中でのご勉強ぶりにも触れさせていただいた次第でございます。

 次に山田雄三先生の業績でございますが、文献の(10)に、山田先生の『計画の経済理論(序説)』というのが挙げてあります。これは昭和十七年、岩波書店から公刊された当時力作として評判になった本でございます。この本の中で山田先生は、計画経済という概念を広い意味に解釈されまして、計画経済の概念は「自由経済に対立する経済形態の総称」であると述べておられます。つまり自由経済を一方に置き、それに対立する経済形態を絶称して計画経済と名づけられるわけです。そしてそのうえで、自由経済と社会主義経済とのちょうど中間に、基盤は資本主義的であるが、手段が多かれ少なかれ社会主義的ともいえる「第三形態」を抽象的、理論的に構想すること、これが山田先生
の問題関心でございました。ですから、山田先生はこの本の中でソ連の計画経済理論を直接取り扱っておられるわけではなく、その意味で先生のソ連経済研究へのかかわり方はより間接的でございます。それにもかかわらず、先生のこの書物を一橋におけるソ連経済研究の重要な成果の一つとしてここで触れますのは、次のような理由なり事情があるからでございます。すなわち、山田先生は右の「第三形態」の経済を構想する過程で、一九二〇年代、三〇年代に欧米の経済学界で社会主義経済を対象にして展開されましたいわゆる「経済計算論争」の紹介と吟味を行っておられるからであります。

 この経済計算論争は、社会主義経済には果たして資源配分を合理的に行うための計算的基礎が存在するか、という問題をめぐって展開されたわけですが、この論争開始のきっかけとなりましたのは、オーストリアの経済学者ミーゼスが一九一二年に行った次のような問題提起です。資本主義のもとでは、自由市場における競争によって決定される価格を通して資源の合理的な配分と利用が実現される。ところが、社会主義のもとでは生産手段が公有であるため、少なくとも生産財については市場および市場価格が成立せず、価格のないところに経済計算はありえないから、そこでは資源配分が恣意的に行われ、つまるところ社会主義経済は運営不可能に陥る、というのがそれであります。ミーゼスによるこのような問題提起を発端としてそれ以後、社会主義においては経済計算は不可能だとする論者と、社会主義のもとでも経済計算は可能であるとする論者との間で論争が交わされたわけですが、このうち後者、つまり社会主義における経済計算可能論者について申しますと、最も影響力が大きかったのはポーランドの経済学者オスカー・ランゲの主張でした。一九三六、三七年に当時アメリカに滞在中だったランゲは「社会主義の経済理論」という二回続きの論文を発表しまして、ミーゼスなどの経済計算不可能論を批判しつつ次のように主張したわけです。第1に、社会主義のもとでも合理的な資源配分を実現するためには、価格をシグナルとして個々の経済主体の意思決定が行わ
れるという意味での「価格のパラメータ機能」が保持されなければならないが、その際の価格はかならずしも市場価格である必要はなく、技術的代替率にもとづく計算価格であれば十分であること。第二に、その実際のやり方としては、企業に生産上・販売上の自由を認めたうえで、中央計画当局は任意の計算価格をこれらの企業に伝達し、その結果生じる需給の不均衡に応じて当初の計算価格を逐次修正してゆけば、社会主義のもとでも価格のパラメータ機能が果たされること、これが彼の主張の要点であります。生産手段が公有の場合でもこのようにして計算価格を設定することができるから、そこでは経済計算も、したがってまた資源の合理的配分も可能である、というわけです。ランゲの見解は、社会主義の経済運営システムという点から見ますと、非市場経済と考えられてきた計画経済に市場機構を大幅に導入することによって、ソ連型の集権的計画経済システムに対して、計画と市場との結合・併用を内容とする分権的計画経済システムを提唱したことになりますので、このような立場は「市場社会主義」とか「自由制社会主義」と呼ばれているわけでございます。

 話を山田先生に戻しますと、さきほど述べましたように先生は、自由経済と社会主義経済との中間に、基盤は資本主義的であるが手段が社会主義的ともいえる、そういう第三形態の経済を構想なさる際に、いま私が大ざっばに紹介しました経済計算論争を綿密に分析されておられます。当時の現実の社会主義経済つまり三〇年代のソ連経済といいますと、そこでは資源の合理的配分という問題を市場メカニズムとか計算価格の活用によって処理するのではなく、重工業の急速な発展のために、あらゆる資源を物動計画的手法で動員することにそれこそ忙殺されていた時期でありましたから、当のソ連では経済計算論は悪しき「ブルジョワ理論」として簡単に一蹴されてしまったわけですが、しかし山田先生は『計画の経済理論(序説)』のなかで次の点、すなわち資源の合理的配分のための経済計算の問題は社会主義経済に実在する問題であること、この問題を処理するためには少なくともランゲ説が明らかにしたような市場
メカニズムとか計算価格の活用が不可欠であることを、経済計算論争の分析を通してはっきりと示されていたのであります。ランゲ理論がもっているこのような意義や重要性が東欧とソ連で評価されるようになりますのは、これらの諸国で経済システム改革の議論が盛んになりはじめたころ、つまり五〇年代末ないし六〇年代初めになってであります。このような事情から見ましても、先生が早くも昭和十七年にランゲ理論のもつ重要性を指摘されましたことは、やはり高く評価されて然るべきだと思うわけでございます。

 次に、第二の時期区分としての戦後期その一に移らせていただきます。


   戦後期その一

 わが国の場合、第二次大戦後になって初めて本格的なソ連経済研究が行える状況が生れたことと関連しまして、戦後初期にはソ連経済の研究が非常に活発になります。それ以前に研究の長い空白状態があったわけですから、その空白を埋めるためにもソ連経済研究が活発になって当然といえましょう。こうしてこの時期の初期には、まず社会主義経済に関心を寄せる方々によって相ついでソ連経済にかんする論文など発表されるわけでございますが、そういった業績に当りますのが本学で言いますと、文献目録の(13)、高橋長太郎先生の「ソ聯邦経バランス論の意義」(『経済評論』昭和二十年六月号)から(23)の片野一郎先生の『ソヴェト企業会計制度』(昭和二十六年)までのものでございます。山田雄三先生が文献(16)のような論文や著書を書かれてランゲ説の拡充を試みられ、また、マルクス経済学にも造詣の深い都留重人先生が(14)の「経済学の新しい課題―社会主義社会にも価値法則は妥当するか―」(『世界』昭和二十一年十月号)という鋭い問題提起の論文を発表されておりますのはいわば当然のことでしょうが、その他の方々もこれだけ多く書いておられます。たとえば、文献(19) の山田勇先生の「ソ連の生産指数」および同(20)の高橋長太郎先生の「ソ連邦国民所得統計の吟味」という二つの論文は、ソ連が発表した生産指数および国民所得統計をそれぞれその計算基礎にまで立ち入って吟味し点検したものであります。また、文献(22)の伊東政吉先生の「アメリカ経済の成長率」というのは、アメリカ経済の成長率についてのソ連側研究者の推計結果を、アメリカ経済の研究者である伊東先生が吟味され、ソ連側の計測というのは大分雑であると批判されている論文でございます。いま挙げましたのはいずれも、ソ連経済専攻でない方々によるご研究でありますが、それぞれお得意の計量経済学的手法を使われ、ソ連統計やソ連側計測の問題点を明らかにするうえで一定の積極的役割を果たされたものであります。現在、ソ連の公式統計について、その信ぴょう性がふたたび問題とされております。この点についての現在の特徴は、西側からの批判の声ばかりでなく、ソ連の経済学者自身がこれを問題にしはじめたことであります。ソ連統計の信頼性という問題はまことに根が深いのであります。

 つぎに、ソ連経済専攻の人たちによるこの時期の業績をその主著にかぎってあげますと、野々村一雄先生の『国民所得と再生産』と岡稔先生の『ソヴェト工業生産の分析』があります。文献の(24)と(25)がそれであります。

 野々村先生の『国民所得と再生産』 (昭和三十三年)は、いわゆる「スターリン論文」 (一九五二年)や『経済学教科書』 (初版、一九五四年)の公刊をきっかけにソ連で社会主義的国民所得論が新たに論議されるようになった状況を踏まえられて、ソ連学界におけるこの新たな動きに対応して行われた先生の理論的研究の成果であります。そこでは、マルクス的な意味における国民所得分析と再生産図式分析とが、社会主義経済の総過程を把握する際の基本的要素を構成するとの観点から、国民所得論と再生産・蓄積論が考察され、それらにおける分析結果が終局的には「社会主義的国民経済の再生産過程ないし構造の一覧表」たる国民経済バランスに総括表示されるべきことが明らかにさ
れております。

 これに対して岡先生の『ソヴエト工業生産の分析』(昭和三十一年)は、ソ連の工業生産の発展テンポ、工業生産の構造(重工業と軽工業の比率)、工業生産発展の結果としての物価引下げ機構の三つの問題を考察したすぐれた実証研究の書物でございます。ソ連工業を非常に綿密に分析されたわけですけれども、その結果、岡先生は、ソ連では五〇年代初め以降、重工業の超重点主義からより緩和された重エ業優先という新段階へ移行したこと、以前の重工業優先が多分にソ連の特殊性(国際的孤立性と歴史的後進性)によって規定されていたがゆえに、以前のソ連は表の「過渡的段階」にあったことなどを実証的に解明されたわけであります。この岡先生と、先に申し上げました野々村先生のそれぞれの御著書は、およそわが国の当時のソ連経済研究の水準を代表する力作であると言ってよいでしょう。

 以上で戦後期その一を終わりまして、続いて戦後期その二に入らせて頂きます。戦後を二つの時期に分けますのは、はじめに述べましたように大体一九六〇年代半ば前後を境にソ連自体も変わってきましたし、わが国のソ連研究者の姿勢も変わってきたからであります。


   戦後期その二

 この時期の代表作を御紹介いたしますと、文献(28)の岡稔先生の『計画経済論序説』(岩波書店、昭和三十八年)というのがございます。岡先生はこの著作のなかで、スターリン死後のソ連における労働生産性測定、投資効率、商品生産・価値法則、価格形成原則などの諸論争について「価値論と計画化」という観点から、その徹底した追跡と明快な論点整理をされました。そして、社会主義のもとでの商品生産と価値法則、社会主義のもとでの価格形成原則などといった一見非常に抽象的な議論の分析を通して、岡先生は、従来のソ連型の集権的計画経済システムがいまやその非効率性と非民主性の故に根本的改革を必要としていること。言いかえますと、ソ連型経済システムが六〇年代半ば以降のシステム改革、つまりいわゆる「経済改革」に行きつかざるを得ない内的必然性を持っていること、それ故の経済原論的な諸論争の展開であったことを、すでにこの時点において明確な形でわれわれに示されました。この書物はいまなお研究者の間で広く読まれております。

 岡先生は一九七三年に四十九歳の若さで世を去られました。非常に学才に恵まれた方でございまして、いまでも私たちは、岡先生が生きておられたら―例えばいまゴルバチョフ政権下のソ連ではしきりに経済改革のための話施策が採択され実施されつつありますが、このような諸施策を理論家岡先生ならどう評価するだろうかというふうにときどき思うわけでございます。

 岡先生が一九七三年九月に亡くなられた後、先生の友人の桃山学院大学教授の竹浪祥一郎氏が、経済研究所の雑誌『経済研究』の一九七四年七月号に「岡稔君を悼む」という題の追悼文を載せられておられますが、その中で竹浪さんは岡先生の業績について次のように言われています。

 「〔岡君の〕三冊の著書、四十数編の論文、多数の訳書を読み返してみて、私は名状しがたい感慨と一種の爽快な気分とに襲われている。黄金の五十代…を目前にして逝った人がこれほど質の高い著作をこれほどまで数多く残すことができるものであろうか。そしてこの一貫した研究態度はどうであろうか。私は、学術論文ばかりでなくて、日刊新聞に載った解説論文までできるだけ目をとおしてみた。改めて驚いたことに、どんな小さいものにも彼自身の見解が貫かれ、細かい神経が全文に行きとどいているのである。俗な言い方をすればやっつけ仕事やその場限りの仕事はまったく見られないのである。」わが国のソ連経済研究、社会主義経済研究をリードして来られた岡先生が四十九歳の
若さで 亡くなられたことは御家族にとってもちろんでございますが、わが国のこの分野の研究にとってまことに大きな損失であったと思うわけでございます。

 以上で大体のところは終わるわけでございますけれども、私と、それからもっと若い方について若干触れさせていただきます。文献(32) の 『ソヴェト農産物価格論』 (昭和四十二年)というのがありますが、これが私の最初の単行本でございます。

 私は旧制の大学院を終え、一九五六年七月に経済研究所のソ連経済部門の助手に採用して頂きまして、それから今日で三十年ぐらいになるわけでございますが、大した成果は挙がっておりません。ただ、どんなことをやってきたかと申しますと、この間、私はソ連における経済状況の推移とか、経済学界の動向に触発されながら、そのとぎどきに自分の関心を引いたソ連経済の種々の問題について、主として実証研究を行ってまいりました。そういう中で私が一貫して追究してきたテーマは次のことでございます。

 一つは、ソ連農産物価格の研究でございます。もう一つのテーマは、ソ連の経済改革の研究でございまして、この第二のテーマの方をなんとかまとめようとしているところでございます。

 文献(33) に西村可明さんの 「社会主義のもとでの商品生産」という論文があげてありますが、西村さんは現在すでに若手の教授になっておられます。西村さんのほかにもう一人、久保庭真彰助教授がおられます。文献目録は昭和五十年までに公表されものを列挙したものですので、久保庭さんの業績はここには示されておりません。昭和五十年には久保庭さんはまだ大学院の学生だったわけです。その後経済研究所に就職され、現在は助教授になっておられるわけです。このお二人の業績について簡単に触れておきますと、西村さんは、ここに載った論文も含めまして、最近岩波書店から『現代社会主義における所有と意思決定』という立派な研究を出されました。

 西村さんは経済研究所の米欧ソ経済部門ではなくて、経済体制研究部門に所属されています。非常な理論家でございます。

 久保庭助教授は私の属している部門、しかも米欧ソ部門の中のソ連研究セクションでございまして、久保庭さんと私の二人でソ連経済を担当しているわけです。久保庭さんは非常に数理経済学の得意な方でございまして、もっぱら理論的な論文を発表されておりますが、一つだけ挙げておきますと、『経済研究』昭和辛八年七月号に「ソ連経済の夕ーンパイク経路と最適成長経路」を載せているほか、アメリカの『ジャーナル・オブ・コンパラティブエコノミーズ』の一九八四年三月号に、いま申しました『経済研究』の論文をもう少し発展させてたものを発表されております。

 以上、本学におけるソ連経済研究を概観してきたわけでございますけれども、これから心がけたい点として次の三つを挙げておきたいと思います。

 その第一はこれからはソ連経済のエコノメトリックス的分析を活発化したいということであります。久保庭助教授が中心になられてそれを果たしてゆかれることと思います。

 第二は、今後は社会主義諸国の経済や経済システムを比較する必要があるということであります。これは、われわれ少しずつ心がけているわけでありますが、西村教授はこの七月から二カ年の予定でハンガリーに留学されておられることからも明らかなように、この第二の点は西村さんが中心になって一橋の中で担ってゆかれることになるでしょう。

 第三は、一橋の学風がわが国の学界においてどうであるかということもさることながら、国際化現象のこの世の中でもございますし、特に欧米のソ連経済研究に勝るとも劣らないような研究を進める必要があるということでありま
す。

 時間をやや超過してしまいましたが、これで私の拙い話を終らせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

                                                (昭和六十一年十月三十一日収録)



   注

(1) 福田徳三『ポルシェヴィズム研究』改造社、大正11年(同『経済学全集』、第五集、同文館、大正15年、   所収)。
(2) 同「労農露国承認の意義」 『改造』大正12年6月号(同『経済学全集』、第六集、同文館、大正15年、所   収)。
(3) 同「経済機構の変化と生産力並に人口の問題】一九二五年モスクヴァに於ける講演と討論−」 (同『厚   生経済研究』刀江書院、昭和5年、所収)。なお、英国代表として同じくこの祝典に参加していたケインズ   がモスクワで講演した際、福田がこれに批判的コメントを加え、その数日後に行われた福田自身の講演   で再びケインズを批判した (ケインズは欠席)滞ソ中の福田の有名なエピソードについては、帰国後の    福田の上記講演に詳しい。
(4) 同「厚生原理としての流通の正義」 『法曹公論』昭和3年12月号(同『厚生経済研究』、所収)。
(5)
 同「日露両国の知的交流」 『商学研究』第8巻第2号(昭和3年7月)。
(6) 大塚金之助「世界的規模」 『如水会会報』昭和5年7月号(『大塚金之助著作集』第六巻、岩波書店、昭   和56年、所収)。
(7) 同「一九三〇年ロシア書目」 『大学と社会学』昭和6年7月号。同「ソヴェート同盟の社会経済に関する    国際的文献」 『社会学』昭和7年5月号。
(8) 同「ロシア財政は破綻するか」 『大学と社会学』昭和6年6月号、同「ソヴェート同盟はこんなに延びる」    『女人芸術』昭和6年7月号、同「明るい世界の建設」 『ソヴェートの友』昭和6年12月号(『大塚金之助著   作集』第三巻、昭和56年、所収)。
(9) 同「反サヴェート経済戦争」 『改造』昭和6年4月、6月号、同「反サヴェー卜・カムパーニヤ」 『女人芸術   』昭和6年5月、6月号、同「資本主義の『計画経済』」 『改造』昭和7年2月号(『大塚金之助著作集』第三   巻、所収)。
(10) 山田雄三『計画の経済理論(序説)』岩波書店、昭和17年。
(11) 赤松要「ソ聯計画経済における独立採算性」日本学術振興会第三十八小委員会報告『公益性と営利     性』日本評論社、昭和16年、所収。
(12) 片野一郎「ソヴェ1卜の企業会計制度概観」 『一橋論叢』昭和18年10月号。
(13) 高橋長太郎「ソ聯邦経済バランス論の意義」 『経済評論』昭和21年6月号。
(14) 都留重人「経済学の新しい課題―社会主義社会にも価値法則は妥当するか―」 『世界』昭和21年11    月号(『近代理論経済学

   とマルクス経済学』理論社、昭和23年、所収)。これに加筆され「価値法則の制度的意義」と題された     ものが『戦後経済学の課題(2)』有斐閣、昭和22年、所収(『都留重人著作集』第二巻、講談社、昭和    50年、所収)。
(15) 小泉明「『計画経済論』考」『経済評論』昭和21年8月号。
〔16) 山田雄三「社会王義と計画経済」『中央公論』昭和21年11月号、同『資本主義経済計画と社会主義経    済計画』有斐閣、昭和23年。
(17) 小泉明「計画経済論の一展開」『一橋論叢』昭和22年6月号(『近代理論経済とマルクス経済学』理論    社、昭和23年、所収)。
(18) 大陽寺順一(現、菅順一)(社会主義社会と価値計算の問題」上原専禄編『社会と文化の諸想』如水書    房、昭和28年、所収。
〔19) 山田勇「ソ連の生産指数」(「ソヴエト経済統計の吟味」((2))『経済研究』第1巻第1号(昭和25年1月)。
(20 高橋長太郎「ソ連邦国民所得統計の吟味」(「ソヴェト経済統計の吟味((3))『経済研究』第1巻第1号(昭    和25年1月)。同「国民所得の成長率と支出構成」(「ソ連邦国民所得とその成長率の問題」((2))『経     済研究』第3巻第1号(昭和27年1月)。
(21) 都留重人「ソ連の国民所得概念について」同『経済の理論と現実』岩波書店、昭和34年、所収。この論    文ははじめAnnals of Hitotsubashi Academy,V,No.1、1954、に英文で発表、のち邦文で     上掲書に収録(『都留重人著作集』第二巻、所収)。
(22)
 伊東政吉「アメリカ経済の成長率−ソ連側の計測によせてI」『経済研究』第11巻第2号(昭和35年4月)。
(23) 片野一即『ソヴエト企業会計制度』春秋社、昭和26年。
(24) 野々村一雄『国民所得と再生産』岩波書店、昭和33年。
(25) 岡稔『ソヴェト工業生産の分析』岩波書店、昭和31年。
(26) 野々村一雄『ソヴェ1卜経済論』勁草書房、昭和29年。同『ソ連邦の経済』岩波新書、昭和28年。同『     ソヴェトの経済力』岩波新書、昭和36年。同『ソヴェト経済の構造』青木書店、昭和34年。同『ソヴェト     経済の分析』(副島種典との共編書)、勁草書房、昭和29年。
(27) 細谷新治「ソ連研究文献目録について」 『経済研究』第3巻第4号(昭和27年10月)、第4巻第1号(昭      和28年1月)。同「The RAND Corporation のソ連経済研究刊行リスト」 『経済研究』第10巻第      3号(昭和34年7月)。同「米ソ経済競争にかんする文献目録」 『経済研究』第11巻第2号(昭和35年     4月〕(28) 岡稔『計画経済論序説』岩波書店、昭和38年。
(29) 同「社会主義経済にかんする若干の新しい概念と接近方法について」 『経済研究』第17巻第1号(昭     和41年1月)・同「社会主義経済における計画と市場」 『経済研究』第20巻第1号(昭和44年1月) (      注(31)の『社会主義経済論の新展開』所収)。
(30) 同『社会主義経済論』 (竹浪祥一郎ほかとの共著)、筑摩書房、昭和43年、同第二版、昭和51年。
(31) 同『資本主義分析の理論的諸問題』、同『社会主義経済論の新展開』新評論社、昭和50年。
(32) 宮鍋幟『ソヴェト農産物価格論』岩波書店、昭和42年。
(33) 西村可明「社会主義のもとでの商品生産」 『思想』昭和48年10月号。
(34)  野々村一雄『コメコン体制』岩波書店、昭和50年。
(35) 同編『社会主義経済論講義』青林書院新社、昭和50年。
(36) 都留重人「資本主義と社会王義の決定的な相違点について」 『経済研究』第22巻第4号(昭和46年      10月) (『都留董人著作集』第三巻、講談社、昭和50年、所収)。
(37) 高須賀義博「東欧諸国の産業連関バランス」 (「社会王義諸国の産業連関バランス」((3)) 『経済研     究』第14巻第3号〔昭和38年7月)。
(38) 関恒義「資本主義国における評価」(「社会主義諸国の産業連関バランス」((4))) 『経済研究』第14巻    第3号(昭和38年7月)。




宮鍋 幟 昭和二年三月二十六日、東京に生れる。
       昭和二十二年四月、東京商科大学予科入学。
       昭和二十八年三月、東京商科大学学部卒業。
       昭和三十一年七月、一橋大学経済研究所助手、
       昭和四十八年十一月、同教授に就任、現在に至る。
       この間、昭和五十九年三月−六十一年二月、同所長。

専   門 ソ連経済論、社会主義経済論

主要著書 「ソヴェト農産物価格諭」岩波書店、昭和四十二年。
       「社会主義経済論」 (共著)筑摩書房、
昭和五十一年。

共 訳 書 E・リーベルマンほか「ソヴェト経済と利潤」日本評論社、昭和四十一年。
        V・ダダヤン「計画経済と再生モデル」新評論社、昭和四十六年。
        R・セルツキー「社会主義の民主的再生」青木書店、昭和五十八年。