一橋の学問を考える 「橋問叢書 第三十二号」
(あるいは「一橋の学風とその系譜 2」ー125頁 一橋大学学園史編纂委員会)
美濃部先生と憲法
一橋大学名誉教授 田 上 穣 治
はじめに
時間の関係で御挨拶も抜きにしまして、一時間ばかりで美濃部先生の御経歴と、世間の評価というか影響、そしてまた戦後の憲法についてどういう影響力を持っているかということをお話したいと思います。
美濃部先生の経歴 ・
まず先生の御経歴でございますが、古いことは抜きにいたしますが、先生は東京帝国大学の法科大学の助教授に明治三十三年になられまして、続いて三十四年に海外に留学をされました。主にドイツの方に行かれたのでございますが、明治三十五年十一月に外国から帰朝されました。その間三十五年に東京大学の教授に昇任されました。帰朝後直ちに東大のほかに東京高等商業におきましても講義を持たれまして、藤本幸太郎先生のお話を聞きますと、帰朝早々で ゲオルグ・イェリネック の Allgemeine Staatslehre (一般国家論) を台本にして比較法制史のお話をされたということであります。 先生はイェリネックには習わなかったが非常に私淑しておられ、私どもにもイェリネックの書物はぜひ読むようにと言われました。明治三十六年、帰朝翌年に法学博士となられ、明治四十四年に学士院の会員となり法制局の参事官を兼任されました。昭和になってからは七年に貴族院議員となられましたが、昭和十年天皇機関説事件でこれを辞めまして、後は自邸にあって、太平洋戦争の時代はもっぱら行政法の著作に専念されました。戦後先生は自由の身になられ、枢密顧問官として再び政治の表面にあらわれたのであります。昭和二十一年六月八日に政府が憲法改正案を国会に提出するとき、枢密院で決定したのですが、先生は一人反対されまして、改正する必要はない、明治憲法で十分であると言われて顧問官を辞職された。間もなく二十三年五月二十三日にお亡くなりになりました。
軍部・右翼の風圧下に於ける美濃部先生とその学説
先生の御経歴の中で、往時の高等商業の講義と東大の講義をお持ちになっていたころ、明治四十五年に『憲法講話』という書物をお出しになった。これがその後の先生の立場を明確にして、いわゆる天皇機関説−これは先生に反対する人々が付けた名称−天皇が大臣と同じように国家の機関であるというのです。その結果天皇のなさることを国民は賛成もできるし反対もできる。そして、万機公論に決するという明治天皇の五ケ条の御誓文により民主政治を行われることにあったのでありますが、保守的な当時の軍部および一部政治家は、天皇の政治について批判をすることは国民として許されないことであり、不敬罪をもって罰すべきであるとまで極論したのであります。『憲法講話』を出版された頃から先生に対し保守派は強硬に反対して、東京大学でも憲法の講義は美濃部博士には持たせないという運動が盛んになりました。いつごろ先生が憲法を担当されるようになったかはよくわかりませんが、大正十二年に『憲法撮要』という本が出て、その序文のところで「いよいよ東京帝国大学と東京商科大学において憲法の講座を担任することになったので、その必要から教科書としてこれをつくった」のだとお述べになっております。私どもは昭和二年に先生から憲法の講義を伺ったのであります。 保守派によると日本の憲法あるいは国体は日本の歴史に由来するもので、ほかの国とは全く比較にならない。学問
的にも外国の憲法と比較して日本の憲法の長所とか短所を明らかにすることは間違いである。日本憲法はほかの法律学とは違って、わが国固有の立場で研究しなければいけないということを言って、先生が比較法的に外国の憲法をよく引用されたことは誤りである。天皇を機関と考えることは日本には全然通用しないと激しく抵抗し、さらに先生を東大の教授から追い出してしまえという排斥運動も起こりました。私も昭和五、六年ごろには先生の研究室に出入りしておりましたが、右翼からの脅迫状、いやがらせの手紙が絶えずきており、封を切ったのがよく研究室の机の上に置いてありました。
もう一つはワシントンとロンドンの軍縮会議が大正十年から昭和五年にありまして、英・米・日に五・五・三の比率で主力艦のトン数を制限する軍縮会議が開かれた。そのときに日本の軍部はイギリスとアメリカの六割しか認められないことは日本の防衛を危くするもので、わが国独自の立場で反対することを主張いたしました。それを政府の方で抑えたものですから、政府はけしからん。その政府に迎合している美濃部は国家に害悪をなすものである。軍縮の議論から始まって、結局軍部の決定に反対する者は天皇の政治に反対する者であるとして弾圧したのであります。軍備拡張の問題についても、軍部に反対する者は天皇の政治に反対するものとした。旧憲法三条では「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるから、天皇は神であり、神の政治に反対することは絶対に許しがたいという論理を使いまして、天皇機関説を弾圧したのであります。排外思想というので反対した国粋主義の学者が後には軍部と結託して軍の独裁政治を擁護したのであります。これは天皇制を護持する議論ではなくて、目的は軍部の独裁を守るための議論であったと思うのですが、それがだんだん激しくなり、昭和十年についに先生は黙っておれなくなって、貴族院で自分の立場を弁明されたのであります。
私は昭和三十年に上田辰之助先生から、君は美濃部さんの弟子で興味を持っているだろうからと新聞の切り抜きをいただきました。その『朝日新聞』の切り抜きを見ますと、先生は約一時間にわたって御自分の学説を弁明され、「条理整然、信ずるところを述べれば満場粛としてこれに聞き入った。約一時間にわたり述べて降段されると貴族院には珍しく拍手が起こった」と書いてあります。貴族院は拍手など滅多になかったのですが、先生の弁明にみな感じ入って、議場から拍手が起こったということであります。後に新憲法をつくった松本蒸治先生もその中の一人で確かに喜んでおられた。またその場では誰も反対できなかった。けれども、その後になって政府、あるいは軍部は、何とか美濃部先生を弾圧しようと考えて、先生の書物は『憲法撮要』を初めとしてみな発売禁止になった。昔は発売禁止の制度に対して裁判所で争うことができなかったのです。
先生は貴族院議員を辞任され、また昭和九年に停年で一橋も東大もお辞めになった。
一橋はその後も非常勤講師として憲法を持たれていましたが、十年度からは天皇機関説の責任を負って講師も辞されたのであります。それから後はずっと自宅に蟄居せられ、外からの侵入で何か危害を加えることのないようにと、急設の交番が先生の家の門の所にできておりました。十一年、右翼の青年が先生のところに御見舞ということで果物を持ってきて、その籠の中に隠してあった拳銃で先生の足を撃ったのであります。お怪我はわりあいに軽かったので大事に至らなかった。そんなことで先生は終戦のときまでほとんど外出されなかった。私どもの同僚はみな先生をときどきお訪ねしてお教えを受けたのであります。戦時中はお酒も、先生はお好きなのに十分に召上れないで、私どもの配給を受けたお酒を差し上げると非常に喜ばれた覚えがあります。とにかく終戦まではほとんど御自分の家で行政法の書物、殊に上下二巻の『日本行政法』という二、四〇〇頁の大著をお書きになったし、また『判例の評釈』という書物が毎年一冊出ており、私どもも多くの書物に引用しております。そのように勉強されましたが、ほとんど世間的な活動はおやめになった。
戦後の美濃部先生と新憲法
新憲法制定に反対された美濃部
先生は前に申しましたように昭和二十一年に枢密顧問官になられたのでありますが、間もなく憲法改正が問題となった。旧憲法は天皇がつくられた欽定憲法であるから、改正する場合も勅命によって改正案を帝国議会に出さなければいけない。政府は幣原内閣から吉田内閣に変わりましたが、当時天皇は枢密院にご批准になりまして御前会議でそれを決定し、政府の方から国会に出す段取りでありました。枢密院では政府案を一応認めたのですが、その最後に美濃部先生がただ一人反対されて辞職した。その理由は、占領軍の下でつくった憲法改正案を審議するには、時間がない。いいかげんな時間でこれに賛成するわけにはいかないことが一つ。
もう一つは、その内容が明らかに天皇の主権、つまり日本の国体を変える意味をもっているから、ポツダム宣言に反する。昭和二十年八月にポツダム宣言を連合軍から突きつけられたとき、日本は戦争をやめるべきかどうかにつき大本営で非常に議論が紛糾しました。そのとき日本の政府および海軍は、戦争を終結することを主張したのですが、陸軍は強硬に反対し、いまポツダム宣言を受諾すると日本の国体、すなわち天皇制が変わることを理由として、最後まで抵抗すると言った。そのときに天皇が、自分は国体は変わらないと思う。たとえポツダム宣言を受け入れても国体は変わらないと考えるから、この辺で終戦にしようと仰せられて、お決めになった。これが承るところによると、今上天皇が直接にご自分の意見で政治を決定された唯一の場合であったといわれるのであります。そういうように日本の政府は天皇が政治の第一線に立たれ独裁的にお決めになる仕組みではない。これは万機公論に決する建前であり、そういうご精神で独裁政治はされなかった。しかし最後に天皇が終戦のご決定のように、どうしても賛成できないと仰せになれば、従わざるを得ない。だから天皇が独裁であったという非難は全く当たらない。独裁は革新的な立場から天皇制を非難する者が言う言葉にすぎません。確かにポツダム宣言は日本の天皇なり政府が占領軍の支配のもとに服すると書いてあるから、主権が天皇にある体制はポツダム宣言によって終わりを告げ、日本の国体は変わったというのです。
左翼ではありませんが東大の教授であった宮沢俊義先生も、二十年八月に日本で革命があった、外国のように血を流す革命ではないけれども、日本の国体が変わったのだから、天皇制は二十年八月で終わったと言われるのであります。宮沢さんが八月革命と言ったのは少し政治的な意味があります。天皇が終戦の時にはっきりと国体は変わらないといわれ、そういうお見込みで終戦の決定をされて、軍部も政府も従った。しかし当時の阿南陸軍大臣などが進退窮まってその晩に自殺をしたように当時は騒然としていたけれども、マッカーサーが初めて厚木の飛行場に降り立ったとき、彼が予想したような抵抗はなく、全く無血占領、であったために驚いた。ご聖断に対しては陸軍も反対できないことがわかって、敗戦国の君主が軍部とか国民から信頼を集めている例はこれまでほとんどないのに、天皇に軍部も国民も深く信頼して従うことを見て非常に驚いたのであります。
もう一つ、終戦の年の秋頃に天皇はマッカーサーに会われた。当時は戦犯の逮捕があって、軍人も、あるいは政治家も大物は巣鴨に捕まりみな戦々恐々としていたとき、天皇が御一人で司令部にお出かけになって、戦争犯罪の責任はすべて自分にあるので、軍人とか政治家に戦犯の責任はないとおっしやった。これにマッカーサーは驚愕したそうであります。恐らくキリスト教の常識と思いますが、アメリカ人としてすべての人の罪に代わってキリストが十字架に付けられるようなご精神であると直感したそうであります。天皇は全く淡々として信念をお述べになったので、マ
ツカーサーはこれは本当に理想的な君主であり、日本の天皇制を護持しなければいけないと決意したのではなかろうか。彼も日本を占領した当初は天皇制に反対の考えがあったようですが、ここに至って天皇は絶対に日本に必要であると決心を固めまして、新憲法の作業に臨んだのであります。だからマッカーサーと協議してつくった幣原内閣の憲法改正案には、天皇制を変える考えは含まれていないはずであるのに、でき上がった憲法の条文を見ますと、天皇制の要綱は日本国憲法の規定とほとんど同じでありますが、天皇が例えば衆議院を解散するなどというのは明治憲法と同じであり、栄典の授与もまた明治憲法と変りはない。そのほか国会の召集も同じであります。しかし条約は内閣が締結することに変わりました。もっとも天皇がそれを認証されるのですが、大きく変わったのは法律の裁可がなくなったことです。法律は国会を通ったときに自動的にでき上がる。
戦後の学者はいろいろの意見を言いまして、天皇制はあってなきが如きものである。一応天皇という規定が残っているけれども、天皇には何も実権がない。だから天皇制が否認されたと同じことであるというのです。けれども制定過程を見ますと、マッカーサー司令部は何とかして天皇制を残したいと思っておりましたが、連合国の中には天皇制に相当批判的な国があり、日本政府の希望どおりに天皇制を明治憲法のままで残すことになると、とても連合国は収まりがつかない。連合国の代表の極東委員会が昭和二十二年二月末にできましたが、その方では、マッカーサーの占領政策を到底われわれは承知ができない。天皇制は戦争と結び付くからという考えであります。戦争で勇敢に日本の兵士が闘ったのは、天皇制が戦争の力、あるいは兵隊の勇気の源になっている。だから天皇制がなければ日本の侵略戦争はなくなるであろう。そういう考えを持っていたらしいのです。はっきりと天皇制を廃止せよと言ったのは、ソビエトその他少しであるけれども、マッカーサーの考えとは非常に違っていた。
そこでマッカーサー案および日本政府の改正案は、天皇制を残すが、その権力を政治を動かすだけの力がないもの にしようということで、国会の立法権から天皇を除き、国会だけで法律ができるようにした、また条約も明治憲法では天皇の政府だけで締結ができたのですが政府と国会が条約を決めれば天皇のご裁可がなくても成立することになり、対外的には日本を代表する力が天皇にない。
対内的には立法権が天皇にないことにして、表面はいかにも天皇制という君主を認めない形になったのであります。
しかし先生はこういう新憲法をつくることにただ一人反対を主張せられた。もっとも反対しない人の中にも、例えば枢密院議長の清水澄という憲法の先生は、憲法の案が通ってから熱海の錦浦で投身自殺いたしました。後に日本国憲法が国会で決められたときにも、貴族院議員の中で数名反対をしております。例えば京都の佐々木惣一とい憲法の先生も反対の投票をいたしました。北海道の長官であった沢田牛麿さんも反対の演説をいたしました。
美濃部先生は機関説でひどく旧憲法時代に迫害されたにもかかわらず、あの憲法は理想的な憲法であって日本の民主政治を行うために適しているし、また国体の点でもあれでよろしい。だから特に憲法を改正する必要がない。戦後にどうにでも憲法が改正できたにもかかわらず、先生は改正に反対されました。私の今日申し上げたい先生の学説の一っは、民主政治の世の中と言いながら、明治憲法に特に改正を要するところがないというお考えであります。もちろん軍人のこと戦争のことは、旧憲法から削ってしまうほかないが、国民主権になったから明治憲法の天皇主権とい考えが消えたかというと、そうじやない。美濃部先生は主権という場合には国民主権にも反対されましたし、また天皇主権にも反対されたのです。それは法学的に主権は普通の権利ではない。権利とは権利者のために利益になることを法律で主張する力であって力と同時に権利者の利益が重大な要素になっております。ところが主権というのは天皇の権利ではなく、国家の権利である。 つまり主権によって行われる政治は国民全体のために行われるものであって、それは君主のために行う狭いものではなく、君主の統治は機関の権限である。機関というのは国の全体を法人と考えて、国全体のために行う仕事であって、政府のため、あるいは為政者のために行うのではない。これが天皇機関説あるいは国家法人説であります。これは何も先生が発明された理論ではない。北ドイツのハノーヴァはイギリスの君主が出た国でありますが、そのハノーヴァの君主アウグストが一八四七年に自分は王として主権者であるから憲法はもう要らないと言って憲法を引き裂いてしまった。つまり自分がつくった憲法だから気が変わってやめることも自由にできるはずという、主権は権利であるという思想であります。権利者ならば憲法を制定し廃止することも自由にできるはずだというのです。国の政治は.すべて自分のため、君主のためにあるのだから、いつでも都合が悪ければやめてよろしいというこの考えに反対して、本当の君主は国民全体のために政治を行うのであり、主権者が国民であっても、また君主であっても、権利として政府当局が政治を勝手にしてよいというものではない。だから天皇、国民、政府はみな国の機関である。国家法人説によれば、国民主権もまた国家の機関として選挙権者人民が国のためよい国会議員を選挙し、政治の民主化を図るのであって、選挙権は国の権利であり、選挙権者の権利ではないという思想です。このことをハノーヴァのアルプレヒトという学者が唱えた。これがドイツの通説になり、またフランスにおいてもこの説に従うオーリユー等の学者があります。だから先生の天皇機関説は、日本の国家という法人のために歴代の天皇が政治をなさったのであって、御自分の利益になるように政治を行ったという考えは、西洋の独裁政治と混同するものであって、日本の歴史には反するものである。だから先生は新憲法を制定するときに、国体を変える必要はないとして反対された。もう一つは、十分な準備もなしに総司令部と交渉し、審議を尽くさないで決めてしまうことは間違いである。殊にマッカーサー司令部から押し付けられた憲法は、本当の憲法ではない。ポツダム宣言一二項によれば、憲法は自由な国民の総意によって慎重に作るべきものであり、押し付けられたり、安易に制定すべきでないと強く反対されたのであります。先生はそれで枢密顧問官を辞職された。
明治のころには外国かぶれをしているような者は日本の本当の国家を論ずるには不適当とされ、また軍部独裁の妨害のおそれありという人もあったが、いまの憲法では、人類普遍の原理、あるいは世界先進国共通の普遍的な原理に従って法律をつくる、政治を行うということになっております。君主が国家の機関であるという天皇機関説も普遍的な原理であるイギリスでもベネルックスの君主制も共通であり、先進国の君主のあり方としてはまことに当然と思うのですが、わが国では強い反対があった。情勢が変わり終戦後になると、日本は敗戦国として侵略戦争を悔いている。そのことを外に向って明らかにするためには天皇制をやめることが当然であるという議論がある。
これは戦争放棄の考えと相通じるところがある。幣原内閣のときには、天皇制は残しても戦争はしないことを連合国に公にする必要があった。幣原さんは、天皇制をいまここで何とか守ろうとするとかえって連合国からは天皇制反対が強くなるから、天皇制を守るために戦争放棄という一大決心をしたということを枢密院で述べておられます。美濃部先生も、戦前は右翼から、あるいは保守的な立場からたたかれて、それに強く抵抗されました。そして戦後、先生の学説は、左の急進的な学者からは天皇制を認める必要はないと言われ、左から右に変わったように見えますが、先生の御本心は戦前、戦後変わっていないと私は考えます。
ついでに蛇足を加えますと、神聖にして侵すべからずという君主は日本だけではないのです。神聖なものという憲法の規定は、一八一四年フランスのルイ十八世の憲法第十三条に書いてあります。けれどもヨーロッパ社会においては人間を神とすることがキリスト教の精神に反するものであり、モーゼの十戒でも偶像礼拝は殺人、強盗より重い最大の罪として劈頭に掲げております。神でないものを神とすることは絶対に許しがたい。だからキリスト教世界の常識としてそういう解釈は通用しない。古代のローマ帝国は、皇帝を神として拝むことを国民、特にユダヤ人などに要求し、これに反抗したキリスト教徒は迫害されて多く殺されました。しかし迫害は失敗し、ローマ自身がキリスト
教を公認し、最後にはキリスト教国になっている。そういう歴史から考えて、近世のヨーロッパ世界において、ペルギーとかフランス、あるいは南ドイツの憲法に、国王あるいは太公は神聖にして侵すべからずと書いてあるのを、人間であっても神だという規定とは到底考えられないのであります。
新憲法に於ける天皇制について
新憲法の天皇は日本国の象徴であり、国民統合の象徴であるということで、精神的に国民が一体となるための支柱になっている。私ども国民は戦後に随分右や左に分かれて国論がなかなか統一できなかった。外国人だか何だかわからないような国民も出てきました。そういうとき君主には王朝の歴史があって、どこの国でも歴代、親子孫とその血統を受け継ぎますから、御一代で先祖代々の御精神を受け継がれている。伝統的な皇祖皇宗の遺訓によって日本を治めるのは明治憲法でも言われております。その治めるというのは権力で治めるのではなくて、そういう伝統的な精神によって国民が自から精神的には一体であると自覚することが期待されるのであります。私もハイデルベルグでお目にかかりましたがベルリン大学の有名な教授であったルードルフ・スメント先生は昭和三年(一九二八年)に憲法学の有名な統合論、憲法は国民を統合する法律であるという説を唱えまして、教科書として『憲法法』を著しておられますが、このスメントさんに、なぜあなたは統合学説を一九二八年にお書きになったかと質問しましたところ、先生は、それは第一次大戦によってドイツが完全に敗けてしまって、国民の中には小さな政党がたくさんできて、国会は統一がない。国民全体を一つにまとめる政策がなく、ドイツは全く国家として滅亡にあった。そういうときに憲法によつて国民が一体であるという精神的な支えを考える必要があった。それで憲法の規定が国民を統合するために必要な使命を持っていることを主張したのだというお話でした。
スメント先生はベルリン大学の憲法の先生ですけれども、後にゲッティンゲン大学に移りましてゲッティンゲンの教授としてつい最近九十幾つかで亡くなられました。スメント先生のように、国民を統合するためには憲法を考えなければいけないという議論が出てきたのは当然だと思います。戦後にドイツの憲法学界ではスメント教授の学説が非常な勢力を持っており、その弟子達がまだ随分残っていて大学教授をしています。
スメント先生が、ドイツの国民が統合力を失ってしまって、同じ国民としての自覚を持たないことを憂えて、もう一度憲法の統合で国民自体の統合を期待する。外国にも国旗とか国歌があり、ドイツでは、私も経験しておりますが、入学式なんかには今日なお大きな国旗を講堂の正面に出してその前で儀式をいたします。フランスのマルセーユの歌は有名な国歌でありますが、これによってフランス革命のとき、フランス人が外国の軍隊から国を守るために非常に勇気を与えられたといわれますけれども、それが国民統合の象徴である。君主という人格でなくても、国旗により、国歌によってわれわれは同じフランスの国民である、ドイツの国民であるという誇りを感ずることができる。
こういうことがどうも日本には最近ない。法律学では余り議論をしませんが、国民が一体性の意識を持つとか、愛国心を持つことが日本には欠けていると思います。そういう国民の統合が新憲法の一条に「天皇は日本国の象徴であり国民統合の象徴である」とあり、これは非常に大切な規定だと思いますが、反対の革新的な立場で言えば、統合は積極的な意味のある言葉ではなく、消極的に天皇主権を否定するものであるから、天皇はほとんど権力をお持ちにならず、あってなきが如き存在であるかのように見え、このことは新憲法四条の規定にもあらわれている。天皇は憲法に規定する国事に関する作用を行うだけであって、国の政治に関するような権力はお持ちにならないと四条に書いてあります。
この規定を私どもはそんな意味に考えない。憲法に定めてある天皇の行為と言えば、例えば七条で衆議院の解散がある。衆議院の解散は見ようによっては非常な強い権力であるけれども、憲法にある以上はこれを天皇から奪うことは憲法を改正しない限りできない。反対の学説によると、もし天皇が解散権をお持ちになるならば、明治憲法と同じようなな権力の主体になられる。天皇にそういう強い権力を認めることは、国政に関する権能を有することになるから、憲法四条が許さない。四条の規定によってそういう絶大の権威を持つ天皇を認めないから、当然解散権は天皇にないことになる。七条も憲法の規定であるが、国民主権の立場からすると、四条の方が好ましいものとして、四条の規定を重大に考え、国政に関する権能がないことを当然と考えて解散権はないとする。その結果七条の規定では、解散権が内閣にある。天皇はただ衆議院に伝えるだけであるという表現で説明をするのであります。
つじつまは、四条の方を原則と考えれば七条はそのようになるのですが、しかし実際に解散は、天皇が衆議院にお出かけになって宣言されるのではなく、衆議院議長が解散の詔勅を読み上げる。その点は明治憲法と変わりがない。それをつじつまを合わせるために天皇は使いの役割を果たすのにすぎない。だから天皇ではなくても内閣が決めさえすれば解散はできるという論理で簡単に片付ける。これは一例でありますが、わりあいに学界では問題になっている条文であって、そういうように象徴はあってもなくても同じで、昔の主権者ではない天皇というように考えると、その辺に四条の解釈もそれと連動して出てくると思われますし、衆議院の解散権を認めないという結論も出てくるのではないか。けれども日本の天皇制は君主としての歴史を持っている。歴代の皇祖皇宗の遺訓によって日本を治められるという君主制の特色は、もちろん日本だけではなく、先進国の君主制について共通な原理であります。新憲法では人類普遍の原理をやたらに強調するし、また進歩的な学者もそうでありますが、日本だけではなく世界共通の君主制の原理をどうして日本について認めないのか、私には説明がつかない。そういうのが先生の学説でもあります。
立法と行政の関係に関する美濃部先生の学説
もう一つだけ付け加えると、明治憲法の場合に天皇が立法権を持っておられ、それはもちろん帝国議会にかけて行われたのですが当時の通説では、立法権はそれほど大したものでなく、行政権の方が強いのだというのであります。法律ではなく、命令権と普通申しますけれども、ちょうど今日で言えば内閣の政令とか、法務大臣の法務省令というような行政府の立法の方が原則であるとするのが明治憲法の保守派の議論でありました。外国でも同じような議論があって、国会が法律をつくると書いてあることは、例外的なものである。例外としてある種の事柄は法律で国会にかけることになっているけれども、原則は政府の、特に君主の命令により君主御一人が責任を持っておつくりになる。その規則で政治は動いていく。例を申しますと、学校はほとんど旧憲法では勅令で決まっていた。大学令とか、その他の学校の規則はみな勅令であります。それどころか普通の営業の取蹄りなども、理髪業とか、看護婦とか、あるいは鍼、灸、マッサージなどの取蹄りは、みな内務省令、警視庁令とか、東京府知事の命令で決めるのが普通でありました。そういう説を保守派の方は主張しましたが、先生は本来は法律で決めるべきである。つまり国民の参加する国会において決めた法律によって政治を行うのが原則であると強く言われました。これが先生の有名な学説です。
今日は省略しますけれども、明治時代から先生の学説でしたが、これも先進国の立憲政治では当然であり、政治の根本は国会で法律で決めるというあたりまえの話であります。それを日本の政府なり、あるいは軍部では、法律ではなくて各部署の命令によって決めろという、国会を棚上げするような議論が強かったのです。この議論はドイツにもありました。しかしイェリネック、アンシュッツなどの学説に倣った先生のような説が次第に浸透いたしました。その際先生は行政法の判例も実証的に大いに研究されて学説の根拠とされました。私どもも学生、助手時代には判例の批評を随分先生に命ぜられまして、学術雑誌にも書いたのですが、そのような判例の研究は、行政法では昭和初期の時代にはほとんど先生が一人でやっていたような感じがいたします。民事判例とか刑事の判例は、すでに大正十年あたりから判例研究会が東京大学につくられて、そこで批評していましたが、行政法の判例は後れて、恐らく先生が最初であろうと思うのです。
このように、先生は外国の制度をよく勉強し比較法制史を担当されました。ほかに判例の研究もやっている。実際に日本の政治がどういうふうに行われているかを研究するだけではなくて、日本の行政とか司法はいかにあるべきかということで、それを立憲政治の線に従って民主的にリードされたのであります。先生によって判例を通じ、通説は随分変わってきたと思います。大正から昭和にかけてずっと先生の判例の評釈などを参考にすればすぐわかるところでして、これは戦後の日本においてほとんど定着している。右翼の妨害もなく、行政法の判例研究によって日本は随分民主化されたと思います。大体、憲法学者で政治学と憲法学と両方かけ持ちの先生は、国体論とか国家哲学の方の議論に走るのですが、先生は行政法と憲法とを担当されましたから非常に実証的な研究を進められて、私どもの指導もそういう立場からされたのであります。行政法学者も随分先生の弟子として出ております。こういうところに先生の特色があるのです。
「憲法改正」 について
そうすると一体憲法の条文はどれだけの価値を持っているか。法令は憲法の条文に入ると、憲法改正によらなければ変えることができない。現在でありますと国会各議院の総議員の三分の二以上で可決しなければ改正はできない。改正案ができますと国民投票にかけて、その過半数が賛成しなければ改正はできないことになる。だから非常に改正が困難で硬性憲法と学問的には申すのであります。その硬性憲法の代表的なものが日本の憲法であるから、改正は容易でない。日本国憲法は昭和二十二年から今日までまだ一回も改正がない。ところがドイツとかヨーロッパ、アメリカの憲法は頻繁に変わっております。何十回というように小さな改正がある。憲法は国政全体の基になる法であるから、政治情勢の変化によって時々刻々変えていく必要がある。そのときに憲法自身が改正できないと、結局憲法が死文化して、実際の社会と離れてしまう。その上に憲法改正を主張すると、すぐ護憲論が出てくる。憲論は殆ど九条だけを守る議論ですが、すべて憲法は絶対に変えてはいけないと言う。そういう議論が出てきて政治が固定してしまうのですが、そうなると最近起っている教育の改革についても、経済の問題についても、憲法が固定化して死文化してしまう。それを防ぐことは必要であって、条文が絶対だと考えるのは素人考えであると、先生は昭和五年の『憲法撮要』の序文で詳しく述べておられます。
先生の考えはそういう実証的な研究であります。判例とか国会の先例とかがたくさんありますが、政府の方では法制局の『法制意見』というものもあります。そういうものによって、憲法は変わらなくても絶えず生きた法として実際の運用の状況を調べて解釈すべきだ、というのが先生の従来からの主張でありますが、そういうお立場である先生は二十三年に亡くなりましたから、余り憲法改正の議論はされなかったと思いますが、今日それを聞かれたならば恐らく改正がむずかしければ改正しなくても憲法の解釈によって、国会の先例、あるいは裁判所の判例によって変えることができるじゃないかということをおっしゃると思うのです。だからそういう意味においては憲法改正には必ずしも賛成されないと思われます。しかしそれは、改正がいけないのではなくて、改正しなくても解釈によってある程度弾力的な運用ができるから差し支えないというお考えであり、これはドイツのゲオルグ・イェリネックという、先生の時代の有名な学者ですが、それが書いている憲法の変遷論にある。憲法改正ではなくて憲法の条文を動かさないで実際の運用を変えていくことができるという考えであります。先生は恐らくそのお立場だろうと思うのです。
そのように考えると、天皇制についても先生の御意見はいまなお新憲法をつくらないでもこれでよろしいということになる。基本的には旧憲法の考えを捨てるつもりはないというお考えだと思います。
はなはだまとまりませんけれども、先生の学説と先生のお立場を簡単に申しまして、ついでに私の感想を申し上げました。時間を超過しまして恐縮でございます。お許しいただきたいと思います。 〔拍手〕
[質疑応答] 、
ー 第九条について時間がないためにご省略なさいましたが、コメントを頂戴できますでしょうか。
田上 九条は問題が多いと思いますが、条文の上では九条の一項はほとんど議論が分かれていない。国際紛争を解決する手段としては戦争を放棄するという条件が付いており、それは不戦条約と同じ文句でありまして、不戦条約の場合には侵略戦争は放棄するけれども自衛戦争は放棄しないことがはっきり決まっていました。紛争解決は、国と国とが争っているときに平和的に外交交渉とか、あるいは調停仲裁のような普通の法律的平和的な手段で解決するのであるが、それができない場合であっても、最後の切り札として戦争に訴えることを放棄する意味です。だから最後まで平和的な手段で解決に努力するというところまで規定しているのが九条一項であります。これは不戦条約、ことに現在の国際連合憲章二条に同じ文句がありまして、世界のほとんどの国が認めているところであります。
問題は二項でありまして、「前項の目的を達するため」という文句が原案にはなかったのを、芦田均さんが、二十一年十二月帝国議会において憲法委員会の委員長として加えたのであります。でき上がった憲法は初めから「前項の目的
を達するために戦力を保持しない、交戦権を認めない」となっている。陸海空軍を持たないということは第一項の「目的を達するため」、つまり侵略戦争をしないために戦争放棄している。そのために戦力も持たないというのでありまして、自衛戦争のためには戦力を持つことができるというように読めるのであります。本当を言うと制裁を課することが国連憲章の四十二条にありますが、国と国とに紛争が起きたときに他国を侵略する国家に対して懲らしめのために国連がいろんな制裁を加える。その例は、アフガニスタンの問題でソ連に対し、これは成功したかどうかわかりませんが、オリンピックを開催しないことを実行して日本もこれに同調したのであります。あるいは経済的に国と国との国交を断ち切ってしまうこともあります。これは強大国に対してはとてもできませんけれども、ニカラグアその他中南米の国ではときどきあるようでありますが、そんなことをやって極力戦争に至らないように防ぐことであります。制裁のための戦争で必要があれば、これは局地的な戦争であって大戦争を考えないのですけれども、そういう場合には国連の指揮に従って関係諸国が戦争をするというのは侵略戦争を食いとめるためであります。直接外国から侵略された場合に自衛のための戦争をすることは初めから別枠であって、国連憲章五十一条にあり戦争放彙の中に入らないというのが常識であります。
自衛のための戦争はそういう経緯から言って、不戦条約なり国連憲章でもできる。ただ、日本の憲法は昭和二十年にサンフランシスコで国連憲章ができたのですが、その後一年で九条の規定が生まれましたから、初めから国連憲章のことを意識して、それにもかかわらず自衛のための戦争を日本だけはしないことを明らかにしたとみる解釈もあります。しかし自衛戦争の放棄とは文章のあやから言うと必ずしも明瞭ではない、前項の目的を達するためという前項すなわち第一項は国際紛争解決の手段としての戦争を放棄すると言っておりますから、自衛戦争を放棄するために戦力を持たないとは読めない。そういうことで文のあやから言えば多少紛らわしいところもあるけれども
提案者の芦田さんの説明によると、明らかに提案者は、自衛戦争をする権利を留保するために第一項に「目的を達するため」を入れたのであります。
もう一つの議論は、今日非武装中立などをいう社会党の意見でありますが、それはどこに根拠があるかというと、一つは憲法の前文です。第二段で、「平和のうちに生存する権利」と書いてある。平和のうちに生存することは、平和の社会でわれわれが暮らしていくことでありますから−戦争のない状態を指して、それが保障されているというようになるわけでありますが、これが多少問題になったのは長沼の第一審判決です。
北海道の長沼地方でナイキの基地を高台につくることになっていた。そのため保安林を伐って空からの航空機による攻撃を防ぐためにナイキの基地をつくったのであります。その場合に地元の人が保安林を伐ることに反対をした。その理由は、ナイキの基地という自衛戦争をするための措置は憲法に反するとして争ったのであります。第一審の地方裁判所は、この憲法前文こ、平和のうちに生存する権利が保障されているから、木を伐って基地をつくると、 かえって敵機が襲撃する恐れがある。夜も眠れないよう状態になり、平和のうちに生存することにならない。この権利を侵すことになるから、そんなものはやめてしまって、安心して眠れるようにせよというのが訴えであり、また判決であります。
けれどもこの判決は第二審に至って見事破棄されたのです。平和のうちに生存する権利は非常に曖昧な言葉であって、第一に遠い将来、二十一世紀とか、あるいはもっと先にはそういう時代がくれば本当に安心できる。しかし、裁判所は現在の原告の権利を救済するために訴の利益がなければならない。問題は将来のことではなくて、現在においてみんな各国が武装しているときに、社会党の人がいうようにいますぐ日本だけが武装を解除して、いつ攻められても仕方がないようにすることが、果たして平和のために生存する権利を認めたことになるかというところであります将来ではなくて現時点において武装放棄することが平和のための生存権の保障になるか。
それは外国の例えばオーストリアでも非武装中立を言っていますが、それには非常な反対がある。
というのは、ぐるりみんな高度に武装した国であって、わが方がいま即時武装しない、抵抗しないことになったら簡単に侵略を受けてしまうからです。その意味でみんな反対しているのですが、ではどうするかというと、順を追って、まず第一段階では核兵器の軍縮であり。徐々に一歩一歩高度の武装を少しずつ緩めていって、やがて将来は武装のない平和な国際社会が実現すればよいということが私どもの思うところですが、いつの時点かで議論が分かれている。いますぐに世界じゅうの国が非武装になってしまえば理想的かもしれませんけれども、まず不可能であるとすれば、結局いま非武装の防衛を言い、即時日本だけが武装せず、あるいは自衛隊をやめてしまうと、どう考えても防衛にならない。ことに防衛は時間が昔のようにかからないのであります。核戦争などは瞬間的に起こる可能性があって、そういうときに議論をしても始まらない。だから、とりあえずある程度の防衛力を持って自分の国を守ることが現実的であり、またそれは世界のどこの国でもやっていることである。ソ連でも、あるいは英米派の西側の諸国でも非武装にしていないのに、なぜ日本だけが非武装でよいのか納得できない。
そこで裁判所も、平和のうちに生存する権利は、遠い将来においてはまことに理想的であり、そのこと自体は憲法に置いといても構わないが、現時点においてすぐ非武装中立にすることは憲法の解釈として非現実的である。現在においてはそういう誤解を避けなければいけない、というのがオーストリアの議論です。平和生存権は最近に長沼判決から言い出したことで、学会の一部では社会党の言うとおり受け入れている人もあるけれども、権利は確かに特定の人の利益を守ることであって、その利益は法律によって明瞭に、しかも特定できなければいけない。例えば道を歩いていて突然に撮影をされない権利を言う人がありますけれども、憲法のどこにあるかというと幸福を追求する権利というのが憲法十三条に書いてある。その幸福追求の中に入るということを言うのです。なるほど道端で知らないときにシャッターを切って写真を撮られてしまったら、何に使うか非常に不安であり、不愉快なことであると思うのですけれども、その程度のものを幸福を追求する権利を奪われたとして裁判所に行っても、だれを取締るかはっきりしないし、また実際に芸能人なんか写真を撮られることを宣伝のために喜ぶのであります。そういう人もありますから、写真を撮られてはいやだという人を確かめて、その人のために権利として認めるということは、よほど明確な規定がないと、裁判所が保護を加えるために手を出すことができない。司法権は明確な権利を保障するために初めて行われるもので、そういう不確か権利が憲法にあっても、それは裁判所の保護する権利とはみないのが通説であります。司法では真剣な議論でありまして、幸福追求に対する権利は一体何を指すのか。例えば、プライバシーを守る権利とか、あるいはいまの撮影されない権利とか、環境を守る権利などもあり、明文の規定は何もないのです。そしてもう一つ、それは一体だれがどの程度に権利を持つかというのも非常に曖昧である。そういう曖昧な権利を弁護士会では何とか認めてもらおうとしているのですが、まだ裁判所では早いのではないか。学界でもまだ幸福追求に対する権利が余りに漠然としているから、もう少し法律で細かく規定があって初めて主張できるのである。だからまず国会が立法してからのことだというのが大体通説だと思います。
(昭和五十九年五月十四日収録)
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2005・03・08 山崎坦 編