如水会ゝ報   2005・06 No.902



蝦夷貞任弁

エゾサダトウベン

を討て

     
よりみつよしか
依 光 良 馨
(昭15学)


私は土佐の香北町生まれ。父四十五歳の子。
生来の虚弱児で、六歳の暮れまで子守り付き。
小学校一年生の九月から半年間、寝たきりの小児麻痺患者。
二年生の四月から″おんぶ″通学の跛ひき。
そこで、宮城県白石の病院長の兄に預けられ、
六年生の正月に故郷を後に。白石へ着いたら、
東北弁(蝦夷安部貞任弁)はチンプンカンプン。

転校は中止して、あとの二ケ月は炬燵にもぐり込んだまま。
何んとか入試を通ったら中学の先生は日本語で助かった。

鉢森山を越えて小原温泉への遠足で、跛を引いて山道を登る私を見て、
「コワクは無いか」と学友が言う。
余り
危険な道ではないので、「コヮク無い」と答えたら、
急に不機嫌な顔になり、「嘘つけ、跛のくせに。コワソウにしてんじゃないか」と怒った
(「コワイ」とは「疲れた」という貞任弁だと後で分った)。
鉢森山の頂上近くにまだ残っている友達を、山の下から大声で「オソ、オソ、落ちてコ」と呼ぶのには吃驚した
(後で「早く降りて来い」の貞任弁だと分った)。

帰って来て教室で、
私を「院長、院長(インチョ、インチョ)」と囃し立てる大声を、
廊下を通りかかったニックネーム隠居(インチョ) の半沢発生が聞きつけて、
教室のドアを急にあけて、入って来るや否や、いきなり大声で囃す菅野新之輔の頭をコツン。
院長も隠居も同じ発音(ハチオン)だ。
隣の席の菊地虎三郎はいう。「君(チミ)のハチオンはハッチリしてんなあ」 と。

中学四年修了で二高受験直前、悪性の風邪をひき、高熱で失敗。
翌年は一高志望に変更した。
兄が仙台に行き、東北大学の先生(皆一高出身)が
「この頃は、母校の文科はみんな赤ぢゃ」というのを聞き込んで、
「一高の文科は絶対受けたらいかん。

どうしても、東京へ行きたいのなら、商科大学の予科を受けろ」との命令。
士農工商の古い観念を土佐で頭にこびり付けてきた私は、「商科は嫌だなあ」と悶々の朝夕。
耐えかねて、学級担任の森島先生に話した
ところ、
「何んだ、君は一高だというんで期待してたが、一橋か。そりゃあ、止めたがいい。

俺は水戸中学に十年いたが、
田舎秀才がバッタバッタとやられて、何んとか引っ掛ったのは島津恒雄(昭8学)という奴だけ。
十年にたったの一人だけだった。
あそこは英語が日本一馬鹿にむつ
かしい。

目の青い毛唐がベランメー口調で喋るのを書き取
るのからはじまって、、聞き取り、読み方まである。
白石のような田舎中学出じゃあ、とても歯が立たん。止めろ。止めて一高にしろ」という。
聞いているうちに、急に気が変って、
「そんなに難しい学校ですか。そんなら、試しに受けてみます」と教員室を出た。
すぐに英語通信へ加入。
何時の模擬試験でも高水準の点数を取っている東北の秀才が盛岡中学にいることを知った。
盛岡中学の及川完(昭11学、東京商大教授)で、彼の成績に励まされて、英語中心の生活を始めた。

商大予科受験の宿を牛込区佐土原町の高知県学生寮にした。
東大法科に失敗して、東北大の入試から帰って来た高知の先輩に食堂で会ったら、
いきなり大声で喋りかけられた。
「依光。おんしゃあ(お前)仙台の中学校ぢゃったねや。
俺あ、仙台の駅前のチンテン電車に急いで乗ろうとしたら、車掌に大けな声でづかれた(咎められた)。
『まだ死なん。お客(オチヤク)が落ちて、死んでから、お乗り下さい』と。
しよう(本当に)吃驚した。仙台という所は、怖い所ぢゃねや」。
日本語にすれば、「まだ済まん。お客が降りて、済んでから、お乗り下さい」だ。

かくて、貞任弁討ちの以下三首。

貞任が 大将なりし
陸奥は
納税拒否で
蝦夷と呼ばれぬ

明治 大正 昭和期の
国語辞典は正常日本語

終戦後 蝦夷の大将
金 田一    京 助
チン      チョウ
辞書の   発  音 変えて出版
ハチ   

(元高崎商科短期大学学長)
「紫相の闇」
「離別の悲歌」
作詞者