(編者註:WIKIPEDIA 水田洋 - 学者。クリックしてください。)
朝鮮の二人の先輩
みずた ひろし
水田 洋
(昭16学後)
日本学士院と韓国学術院との交流計画によって、
二〇〇六年十月の最後の週に妻と一緒にソウルに滞在し、
学術院と四大学を訪問した。
スミス、ミル、マルクスをめぐる議論に女房が参加して、
「あなたがたは日本では特殊な夫婦ですか」ときかれたのには苦笑させられたが、
さまざまな収穫があった。
最大の収穫は、
学生時代からずっと気になっていた二人の先輩についての情報である。
崔英K先輩(昭15学) は、
ぼくが予科一年のとき、学生大会で一度あっただけである。
そのとき彼が壇上から「民族と階級の差別なしに学問ができるように」とよびかけた。
濁音ぬきのことばは、その後ぼくの心からきえなかった。
戦後の消息としては、『資本論』を翻訳したとか、北へいったとかの噂しかなく、
ようやくプラハであった北のアカデミー会員から、彼が元気であることを聞いて、
「よろしく」といっただけだった。
こんどの学術院訪問で、
隣席の趙淳教授(国立ソウル大学名誉教授、前副総理) が
アダム・スミスの『道徳感情論』にまで関心があることを知って話がはずむうちに、
崔先輩についてきいてみた。
「たしか『資本諭』 は三人の共訳だったと思います。
五〇年代後半ぐらいでしたから、国内にはないでしょう」という、
わずかな手がかりしか得られなかったが、
ここからまだ先へすすめそうである。
もうひとり、白南雲先輩(大14学) についても、
予科のときから知っていた。
といっても、先駆的な 『朝鮮社会経済史』 (昭八) の著者としての名前だけである。
ぼくは一九四〇 (昭十五)年に、一橋新聞から満州に派遣されたとき、
延禧専門学校(京城) の教授であった著者にあおうとしたのだが、あえなかった。
多くの知識人が拘束されていたときである。
今回、延世大学で講義をすることになって、
尹起重名誉教授(学術院会員) が日本語から韓国語への通訳をひきうけて下さった。
初対面のあいさつもそこそこに、
「岩波文庫の 『国富論』 の訳注はいいですね」といわれたのには、
おどろくとともにうれしくも思ったが、
「この大学の前身は延禧専門学校ですね」ときいたとたんに、
こちらからきいたわけではないのに話は白南雲先輩にとんだ。
彼は白先輩を直接に知る位置にあったのである。
しかも一橋に留学したことがあり、ぼくの経歴も知っていたらしい。
白先輩が高田保馬(当時商大の社会学教授) の弟子だったというのは全く意外だったが、
彼が朝鮮戦争後に、家族を残して北へいったということも、尹教授自身の参戦経験とともに、
ここでなければ聞けない話だった。
もちろん韓国では、こういうことについてさまざまな議論があるにちがいない。
しかしハングルが読めないものとしては、聞くしかないのである。
つぎの機会には、講義などしないで、聞きとりに徹することにしよう。
これは一橋の学問史の領域にはいることではないだろうか。
白先輩の同期には、ぼくの身近なところで杉本栄一(大14学)、
一年あとに高島善哉(昭2学) という、恩師たちがいる。
(日本学士院会員)