如水会々報
平成25年12月号 No.996

 橋畔随想



    二度の一橋講堂返還
   
    すず き あき お
     鈴 木 明 郎
              (30商)
 平成二四年五月、固から一橋講堂が再び母校に戻ったことに感激し、六一年前、GHQから講堂が返還された時の記憶を綴り合わせてみた。
 
 戦前、国際部はシエイクスピアの四大悲劇を上演していたという。それを復活すべし、それも国立ではなく神田でという声が上がった。これには幸運な環境変化もあった。昭和二六年頃から女子学生の入学が徐々に増え、アクトレス確保に希望が持て始めたことである。四大学(立教、早稲田、慶応、一橋)コンクールでは、他校は楽屋も男女別になり、目も醒めるような美女が目立ち始めた。立教には若き日の野際陽子がいた。
 
 当時、進駐軍のエンターテイメントは、一般兵士向けは日比谷の「アーニl・パイル劇場」、上級将校家族向けには神田の「一橋講堂」が当てられ、クリスマスには木立の奥の講堂入口辺りに幸せそうなイルミネーションが垣間見られた。座席数は五百、ホリゾント(舞台奥の背景用壁面)が平壁でなく円形曲面で、照明効果が柔らかく洒落た舞台であった。しかし、リハーサルでライトダウンすると、客席の足許をネズミが走り回るのには驚いた。その一橋講堂で旗揚げすべしとの大号令がかかったのである。
 
 国際部として『オセロ』を上演することに決まり、オセロ役の私とイヤーゴ役の天野聴一(30経)が講堂の返還交渉に当たることになった。

 GHQに行けば何とかなると考えたのはいかにも学生の浅知恵である。事前調査で本学の元英語の先生が一等書記官でGHQにおられることが分かった。

 古いタイプライターで手紙を作り、アポイントも取れ、GHQに赴くことになった。梅雨時で天野は洋傘にゴム長靴、当時としては第一級の装いであるが、私は番傘に穴のあいた革靴で、有楽町駅からGHQ(現在第一生命ビル)までのぬかるみ道で足許がグチョグチョになった。正面人口左右をガードする大男のMP・SPの前を撃たれやしないかと、Don't judge me by my attire.と心の中で唱え、ガタガタしながら、精一杯
の笑顔でハローではなくヘローとGIイングリッシュでお追従を言って石段を上った。今でもあの前を通ると可笑しくなる。
 
 女の美人兵隊さんの案内で二、三階上の大きな部屋に通された。そこにおられた一等書記官は長身でスマートな方だったように記憶している。にこやかに固い握手をして下さりホッとした後は、どっと学生の地が出て、一橋伝統の復活を神田でアピールすべきとか、やれ東大も伝統のギリシャ悲劇の復活を目論んでおり、遅れを取るべきではないとか、超多忙であった書記官を前に多分クドクド、We mus,we mustと諭し続けたのであった。その後どうやって有楽町駅まで戻ったのか記憶にない。バカな二人は会見大成功と返還大成功を勘違いして多分新宿辺りで飲んだに違いない。『オセロ』 上演の準備はプキヤナン先生、文学座、ブリティッシュ・カウンシルの有難い協力で着々と進んだ。オスミこと高原須美子(31経・元経済企画庁長官) はディベート部門で多忙、残念ながらアクトレス群には加わらなかった。
 
  昭和二八年の秋も深まった頃、一橋講堂返還が決まった。翌年五月新緑の侯、中央線全駅、書店、女子大、喫茶店等に一橋大学主催「一橋講堂再開記念祭」 の大ポスターが貼られた。モリカケ二〇円、ザルタヌキ二三円の時代に、チケットは確か百円で、祭りは三日間行われ、観客動員数は二千名超と聞いた。
実際 『オセロ』 は毎夜満席であった。祭りでは、その他、向井忠晴、高瀬荘太郎、中山伊知郎、赤松要による講演、音楽部の 『運命』演奏、演劇部や一橋寮の演劇、それに写真部による写真展と盛り沢山の催しがあった。
 
 こうして記念祭は大盛会に終わったが、お世話になった肝心の一等書記官のお名前を今、思い出せず、忘恩の学生は公演のご招待状も多分差し上げなかったのに違いないと思う。これはその懺悔の一文である。また特別調達庁に先輩がおられ、そのご尽力が一橋講堂の早期返還に繋がったとの話も耳にはさんだ覚えがある。何方がご存じであろうか。
                      (元三井信託銀行主席調査役)

 *鈴木明郎氏は本校執筆後、平成25年6月27日にご逝去されました。この原稿は友人の天野順一氏により届けられました。
                如水会々報 Dec 2013