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Duffer's Golf
(私のゴルフ)
5組 山崎 坦

80歳を越える頃から、格好のパートナーだった友人達が次々といなくなった。
と思っているうちに自分も動けなくなってゴルフ場に行かなくなると
無性に' I miss you!’(ゴルフ) の感が去来して、
せめて懐かしかったゴルフの話を書いて置こうと思った。
晩年、フェアウェイを歩きながら「ゴルフの出来ることは最高の幸せ」と語らいながらプレイしたものだった。
(日記帳を繰ってみると、ゴルフをやめたときからパソコンでこのホームページを作り始めていた。)

戦前には、大学の部活にゴルフ部などという、当時の考えで、贅沢な、所謂敵性の運動部などはなかった。
現在の大学部活にゴルフ部があるのを見ると、なんとも羨ましい。
戦前、私の通った中学では運動と言えば体操、水泳、柔道、剣道が必修で、
スポーツは、学業に差し支えると言う理由から禁止されていた。
大学予科に入学してから堰を切ったように、
先ずクラスチャンからはじめて、スポーツ、球技と言う球技に参加した。
けれども上に書いたようにゴルフ部はなかった。



ゴルフをはじめたのは戦場から生還、復員してから、
日本経済が朝鮮特需などに救われて、ようやく軌道に乗ろうかという、
経済白書が「もはや戦後ではない」と書いた昭和30年(1955年)頃からであった。
年表を繰ってみると、最年少記録で、石原慎太郎君(一橋大学生)が
「太陽の季節」で芥川賞を獲得した年である。
私は35/6歳で、50年も昔のことになる。
それはどちらかといえば、社用からだったかもしれない。
商売をするのにゴルフが必要だったからかもしれない。
一挙両得でゴルフの魅力に取り付かれたのは私だけではない。
友人、取引先の同年輩の方々が、よきライバルで、腕を競った。



ゴルフを始めた人で止めた人はないといわれるように、皆夢中になる。
そして何かゴルフについて語りたくなる。
甚だしいのは教え魔になる。プレイヤーでなくてもレッスンプロとゆうわけか?
ちなみに
卒業周年記念文集から学友の寄稿
(「学友のゴルフ文」)を拾ってみると20篇ほど
あった。
なかなか面白いものもあるので別紙に列挙し、ともにプレーしたエピソードなどを添えて置く。
クリックして見てください



十二月クラブ会員名簿に趣味の欄がある。
ゴルフと書いている学友は50名に上る。350名中だ。
もっとも趣味欄には書いてない人でもゴルフが好きな人はいたから、
その数はもっと多いはずだ。



エピソードを書いているうちにいろいろなゴルフ場の思い出を書き始めた。
矢張り是は別頁「色々なゴルフ場にしようと思った。
亡父の古書類の中から昭和7年の武蔵野カンツリー倶楽部・会員名簿が出てきたので
この辺からはじめ様と思う。
クリックしてみてください




週刊新潮に青木プロが「おれのゴルフ」を連載している。
おれと言うところは一寸柄が悪いが、なかなか面白い。
過去に「○○のゴルフ」という題の本を沢山読んだ。

私がゴルフを始めて読んだ最初の教本は

ロイド・マングラムの「目で見るゴルフ」
だった。
次がトミーアーマーの「Your Best Golf」。
サム・スニードの「Natural Golf」
べン・ホーガンの「PowerGolf」「モダン・ゴルフ」
陳清波の「近代ゴルフ」などなど。
私の読んだ教本の写真(XXXGolf)
を別頁に列挙してエピソードを添えておきます。
クリックして見て下さい。

次なるは必読の書と思います。


この本の帯に:
日本のゴルフ人口は、いまや1500万にものぼる。
どんな魅力がこれほどの人をひきつけるのか。
また、自然環境の破壊、金権・利権まみれの現状をどう考えるべきか。
本場スコットランドでその醍醐味にふれた社会学者が、
人間的なドラマに満ちた英米の歴史をたどりつつ、
現代日本におけるゴルフ文化の歪みを衝き、
その再生を訴える。
とあります。

イギリス、セント・アンドリュースの話、アメリカ、オーガスタ・ナショナル・ゴルフ・クラブの話
Click                            Click
日本のゴルフの話
大正7年(1918年)第12回日本アマで始めて日本人が優勝した。
私たちの大先輩・東京高商卒・三井物産・(紐育・ホワイト・ビーチCCチャンピオン二年連続)
井上 信
於 東京ゴルフ倶楽部(駒沢コース

大正8年(1919年)日本アマ日本人二人目の優勝者も
一橋・東京高商卒
川崎 肇

1903年オックスフォード・ケンブリッジ大学ゴルフ部連合軍アメリカ転戦の一員
アリソンの話

その他、経済、社会、倫理など各方面からのゴルフ考
必読の要ありと考えさせられます。




私のゴルフに戻って。
初めのうちの練習
昼休みに丸の内から銀座え駆けつけては、銀座ゴルフの二階でプロの手ほどきを受けた。
確か維新号という中華料理店や見番のビルが近くにあった。
当時は銀座えよく行ったけれど最近は家に篭り切りだから、今どうなっているのかを知らない。
狭いところでマットの幕にボールをぶつけてバタンという大きな音をさせるのは寧ろ快感であった。
プロは初めからフォームを教えるということで、ああでもないこうでもないと、体に無理を要求したから、
いわばストレッチだったのだろうが、あとから体中が痛くなった。
今私が教えるなら、あんな無理なフォームを最初から要求はしない、Natural Golfでゆくと思う。
それにしても最近のLessonはよほど進んでいるのではないだろうか、
もう10年にもなるかも知れないが、ゲーリー・ウォーレンのLessonは面白いと思った。
ベータのVideoに録ってしまってある。如何なものでしょうか。
ミズノが彼のTHEORYにもとづいた教室を開いていたようだった。




漫画
ゴルフ金言集より
* 頭はスイングの錨である。  ―ーー  トミー・アーマー



庭に網を張るほどのことはせず、ティーショットの練習には紐のついたボールを打っていたと思う。
多分家人は嫌がったに違いない。
終戦後、家は占領軍に接収され、小さな家に追い出されていた。
生活はまだ貧しくて、寝室にはベッドも入っていない、和室に布団を敷いており、夏は蚊帳をつっていた。
布団にボールを置いて、蚊帳にぶつけてショートアイアンの練習をした。
マットレスや敷居でパットの勉強は熱心にやっていた。
バケツに水を張ってピンポンボールを浮かべてバンカーの練習ができるのだと言われていたが?



ゴルフクラブ
戦前父が使っていたものが物置にあった。
シャフトはヒッコリー(木製)、ウッドのヘッドはパーシモン(柿の木)、
アイアンのヘッドは鉄の薄いもので、直ぐ錆びた。
9番アイアンをニブリックと呼んでいたが、今ではそうは呼ばないだろう.。
2番のウッドがソールに真鍮(ブラス)が張ってあった所からブラッシー。4番ウッドはバッフィー。
5番ウッドがクリーク(昔は金の1/2番のことを言ったのだそうだが。)
ドライバーがどうもうまく打てなくて、ブラッシーばかり使ったものでした。

戦後私が始めた頃は
クラブはマグレガーのターニーが一番であると言うことで、無理して調達した。
輸入税がかかったりでかなりだったと思う。アメ横え行くと割安に手に入れられると言うことであった。
所得倍増計画がはじまった昭和36年(1961年)
海外出張の際、香港でもっと良いクラブを免税でということで
パワービルト・サイテイションを購入した。

マグレガーもパワービルトも、いずれもまだスチールシャフトで、ウッドヘッドはパーシモン。
グリップは皮革であった。
そのときのパワービルトのパターは一生使ってきた。

先般USAのゴルフ殿堂入りを果たした青木功プロの写真を見ると彼の小間には彼が愛用した
パワービルト一式が展示されていた。

グリップがゴムになって滑らないようになった、相変わらず皮革のグリップのクラブで練習していたら
宮本留吉プロにゴムのグリップにしたほうがいいとアドバイズされた。
シャフトがステインレス・スティールからカーボンファイバーになり、ウッドのヘッドがメタルからカーボンに、
やがてチタンになり、デカヘッドになった。
余計飛ばしたい、よいスコアで廻りたい、パットをいれたい、など、総てのゴルファー共通の望みどおり、
道具を追っかけた。
20年ほど前、日米貿易摩擦時代、故阿部外相が訪米 シュルツ国務長官(べクテル社出身)との会談の合間に
ゴルフをしたことがあったが、阿部外相が贈った日本製のセラミックのパッターによって
シュルツ長官のパットがよく入ったと言う話があった。世界一よく入るパッターだったそうだ。

何年かぶりに納戸からかび臭いクラブを持ち出して記念撮影を行った。
デカヘッドもパワービルト・モメンタム、チタンヘッド
写真でご覧のように、バッグにようやく無理やり入るほど
最長の、佐々木小次郎の物干し竿のようなドライバーを購入、
是が私によくあって、よく飛ばしたものだと思っている。(?)
特にクラスメイトとプレイするときは専ら距離を競ったものだ。


上がマグレガーのターニー(11番)
下がパワービルトのサイテイション(ウェッジ)
パワービルト・サイテーション
ドライバー(長尺)は
チタンヘッド
モメンタム
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