日露戦争の諸海戦
Fri, 6 Jun 2003
十二月クラブ(1組)松村次郎君より
日本海大海戦の一連のメール興味深く拝見させて貰っています
日本を知らな 過ぎると云うご意見が有りましたが 全く同感です、
特に戦後生まれの人達は もっと自分の国「日本」を知るべきでしょう
さて 日本海海戦外史とでも申しましょうか
其の様な類のものが 随分有る 事ご存知の事と思いますが
之からご紹介するものも其の1つです。
父が孫達に子守唄代わりに歌っていた明治37年頃の唄を下記し
「上村将軍」
佐々木信香 作詞 佐藤茂助 作曲
1. 荒波吠ゆる風の日も 大潮咽ぶ雨の夜も
対馬の沖を守りつつ 心を砕く人や誰れ
天運時を籍さずして 君幾度か謗られし
ああ浮薄なる人の声 君睡れりと云わば云え
夕日の影の沈むとき 星の光の冴ゆるとき
君海原を打ち眺め 偲ぶ無限の感如何に
2. 時しも8月14日 東雲白む波の上に
煤煙低く棚引きて 遥かに敵の影見えぬ
勇みに勇める丈夫が 脾肉は躍り骨はなる
見よやマストの旗の色 湧き立つ血にも似たるかな
砲声天に轟きて 硝煙空に渦まきて
茜さす日も打ち破り 荒るる潮の音高し
3. うる山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に
艦隊勇み帰る時 身を沈めゆくリューリック
恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり
英雄の腸ちぎれけん「救助」と君は叫びけり
折しも起る軍楽の響きと共に永久に
高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり
上記に書かれている史実及び靖国神社にも顕彰碑がある須知中佐の話など 聞き齧りですが続けたいと思います。
今日は此処迄。
Sun, 15 Jun 2003
十二月クラブ各位
山崎 坦
「後輩の声」「日本海大海戦」では多くの後輩の声をHPに収録出来て有意義だったと
思います。
引き続き、一組松村次郎君より「蔚山沖海戦の歌」をよせられ、触発されて日露戦争
を更に深く考えてみようと思いました。
松村君の寄稿は新たに「日露戦争の諸海戦」として「後輩の声」項より「新論文・随 筆」に移したいと思います。
日露戦争はご承知の通り明治37年(1904年)2月開戦明治38年8月ポーツマ
ス条約調印の間で、日露戦争の海戦は、制海権の争い(飛行機はまだ現れていない)
即ち日本本土から大陸の陸軍えの補給路の問題で、勝敗の要であったわけです。
諸先輩のご苦労は文字通り血の出る思いであり、それを乗り越えてくれたが故に今日
のわが国があるわけです。
その諸海戦とは
仁川沖の戦闘(1904年2月8日)
旅順沖海戦「黄海海戦」(1904年8月10日)
蔚山沖海戦(1904年8月14日)
対馬沖海戦「日本海大海戦」(1905年5月27日)
ロシア艦隊の降伏(1905年5月28日)
など数次にわたって戦われており、
この間旅順港閉塞作戦で戦死した、広瀬中佐と杉 野兵曹長の話は、唄に残され、残念ながら今はなき万世橋の見事な顕彰慰霊の銅像
で、我々の年代で知らぬものはありません。
1904年8月の黄海海戦で「三笠」他将官旗を掲げていた艦は集中砲火を受け、 「三笠」は二基の三〇センチの砲塔使用不能、艦尾側三〇センチ砲は失われ、艦首砲 塔は動かなくなり、艦首水線付近の装甲に穴があき、指令艦橋も破壊された。
艦長, 参謀長負傷、東郷司令長官側近の参謀2名戦死と被害甚大であった。
しかし、東郷提 督自身はかすり傷一つ負わなかった。
艦は翌年の5月の大海戦までに急遽修復されたのです。
日本人は日露戦争における先人の偉業ををもっとしっかり肝に銘じなければならぬと思います。
ではまた よろしく