兄であった弟 2組 西澤宏子(立川長武の姉)

 

 「数学が全部出来たから絶対上位合格だよ」とニコニコして報告する長武に、家族は内心当然と思い乍らも、おめでとうと祝福しました。

 府立四中から、自信があったのでしょう、商大一校しか受験しませんでした。その四中卒業の折には東京府知事からの優秀賞状を頂きましたから成績は良かったようです。もっとも、小学校6年間の超優秀振りには及ばなかったかも知れませんが、文武両道に秀でた物静かな弟でした。

 超優秀と書きましたが、姉の私がハラハラ致します程、勉強を全くせず、小学校から戻るとランドセルを放り出してそのまゝ原ッぱへ遊びに行ってしまいます。友達仲間では、どうやらリーダー格の様子でございました。

 野球好きであった父が、よくキャッチボールの相手をして居りましたが、そのせいか、子供チームでは一塁手として大会に出ていました。相撲も、父からいろいろと“手”を教わって、中々の取り的でしたし、夏は海での遠泳も難なくこなしていたようで、何時も明るい機嫌の好い子で、健康優良児の表彰も受けたものでした。

 難関で有名であった府立四中へも見事合格し真面目な中学生になりましたが、学校から帰ると自分の勉強部屋にこもってしまいます。よく勉強する感心な弟よ、と母と覗いてみると、きまって寝ているのです。勉強はせずに、こんな風に寝てばかりいて、どうして成績優秀なのかしらと、母はいつも首をひねって居りました。恐らく、授業中に卓抜な集中力で全部吸収してしまうので、帰宅後は休息仮眠ということになったのでしょう。「大物だなァ」と父は目を細めて居りました。

 その四中時代の仲好し三人組というのがございまして、揃って水彩画の上手でございました。四中から一人は帝大(東大)の政治へ、一人は慶応の医学部へ、そして弟長武が商大で経済でしたから、三人がそれぞれの分野で活躍して、三人で立派な日本を築き上げようと気焔をあげているのを目のあたりに致しまして、姉の私は「男の友達というのは、何というすばらしいおつきあいができるのか、羨ましい」と、いつも弟ながら、仰ぎ見る想いでございました。いずれも故人になりましたから、今頃はあの世で、青春時代の壮大な夢の続きを仲好く語り合っていると存じます、画を描きながら……。

 立川長武は、私にとりましては正に偉大な弟で、いやいや弟と申すより寧ろ大好きな兄貴で、外出の折など、姉の私が弟の上衣の裾だの、浴衣の袂の端などを掴んで従ったものでした。

 商大卒業直後の昭和17年2月1日、九段の近衛歩兵第一連隊に入営致し、幹部候補生として外地に参りましたようで、南方からはがきが一枚届きました次の報せは戦死の公報で、遺骨も無く、詳しい状況もわからぬまゝ、やがて、美しいルビーの勲章を中尉として頂きましたが……。

 弟の墓は、ですから戒名だけでお骨はございません。そこに、私が分骨して頂いて、弟といろいろ昔話をしたいからと、菩提寺の御住職様にはお願いしてございます。

 姉弟としてのこの世の縁は、極く短かいものでしたから、戦のないあの世で、父母姉弟相寄って、ゆっくりと、尽きぬ話を致したいものと願って居ります。