私の信仰 2組 鵜澤昌和

 

 近年はおめでたい結婚披露宴に招かれる機会が減り、友人知己の葬儀への参列が多くなった。淋しいことである。どういうわけか結婚式はキリスト教式が急増しているが、葬儀の方は大部分が仏式で行われ、キリスト教によるものは稀である。キリスト教信仰者が今日なお人口の1%に満たない圧倒的少数派であるわが国の場合、これは当然の現象であろう。(韓国は儒教の国といわれるが、人口の20%以上がキリスト教信者であるという事実を知る人は少い)

 それでは日本は仏教の国かといえば、仏教を信仰している人つまり仏教信者が果してどれ程居るのかは問題で、正しくは日本は宗教無き国あるいは信仰無き国というべきかもしれない。前記のようにキリスト教式結婚式が安易に流行するのも、このことを裏付けるものと見ることもできよう。

 さて私自身は、わが国では少数派であるキリスト教信者であるために、「何故キリスト教を信じるのか」という質問を受けることが何度かあったので、4年程前に「キリスト教に関する覚え書き」と題する10ページ弱のパンフレットを少数作成して、お答えに代えて来た。(ご希望の方には若干の残部を呈上可能)今回その中の一端を記して、諸賢の多少の参考にして頂ければ幸と考え、筆を執ることとした。

 私の父は青年時代にキリスト教の信仰を得て終世富士見町教会に所属していたが、子供達には各々自主性に委せて特に教会に伴うなどの事はなかった。したがって私は日曜学校にも行かず、中学生の時に自発的に父の教会に行き自らの決断で洗礼を受けた。兄も信仰者であったが、それも全く独自の決断によるものである。

 さて、聖書の記述やキリスト教の教義については、われわれの常識では到底納得しえないものが多く、非合理、非科学的というべき点が少くないが、それを何故信じるに至ったのか、以下にその要点のみ記す。

 1.今から思えば誠に自主性のない安易な考え方としかいえないが、西欧諸国の偉大な科学者、知識人、思想家など優れた知識人の多くがキリスト教信者であるという事実からこれらの人々の厳密精緻な検討・批判に耐えて受入れられたものであれば、それは十分信じるに価するものであろうという考えがあったこと。

 2.当時読んだ内村鑑三著「余は如何にして基督信者となりし乎」(岩波文庫)をはじめ、山室軍平著「平民の福音」その他の書物の内容には啓発されるところが多かったこと。

 3.多くの宗教の説くところは、極めて明確に理解できる身近なことがらが多く、病気のいやし、開運、災厄の除去などのいわゆるごりやくあるいは因縁、たゝりの問題、死者の供養と自らの修行についてなどであるのに対し、キリスト教では、われわれにとって都合がよく、われわれが望むようなごりやくなどは全く約束されず、特別な修業も定めてなく、たゞ唯一絶対者たる神の存在を信じることを先づ求めている。その教義は人間の常識によって理解しにくく、人間にとって都合の良いものではない。人の手による宗教は人が理解しやすく、人にとって好都合であるのに対して、われわれに都合の悪いキリスト教の教えは、神の手による真と信ずべきものに違いないと考えたこと。

 4.近時の科学の進歩はめざましく、すべての事象は遠からず科学的に解明されるのではないかとすら思われてくる。そこで科学的に証明されたもの以外は一切信じないという人も少くない。しかしながら、不可知なるものは今なおあまりに多い。宇宙に存在する無数の星の状態はもとより、われわれ自身の体内の異常の原因すら不明のものの方が多いという。しかも、謙虚で優れた科学者は、自然界のしくみを解明する程、絶対者なる創造主の存在を信じざるを得なくなるともいわれる。私は神秘主義ではないが、科学は万能ではないと思っており、信仰とは認識ではないと考えたこと。

 ごく簡単にまとめれば、以上のような前提によって私は多くの迷いの中からキリスト教を選び取ったといえるが、これは勝負事が苦手で賭けごとが駄目な私の人生最大の一生に一度の賭けであり、結果はそれこそ神のみぞ知るである。

 ところでキリスト教の教理あるいは教義には上述のように常識によって理解しがたいことも多く、また例えばキリスト教でいう「罪」あるいは「死」「十字架」「復活」というような用語の意味が、われわれが普通に理解しているものとは全く異なっていたり、または十分に説明されていない場合が多いこと、さらに例えば「神」と「キリスト」との関係、信ずべきは神なのかキリストなのか、なぜ神教でなくてキリスト教なのかなど、ごく基本的なことがらが適切に説明されていないことなど、キリスト教界には反省すべき点も少くないと考えている。よく「敬虔なクリスチャン」ということばが使われるが、教会に集まる人々は問題を持った、実にさまざまな人々で、清く正しく明るい人が集まるのではなく、罪を自覚した人々の集まりである。森永製菓の創業者森永太一が「我は罪人の頭なり」と常に表明していた由であるが、教会にも争いや派閥も生じるし、問題児もいる。ある人は教会を病を自覚して癒されたい病人の集まる病院であると称した。

 死後のことについては、キリスト教では輪廻転生ということはいわれておらず、死後の世界もあまり明かにされてはいない。キリスト者は、たゞ信じて死に臨むのみである。