3組 城所綾子 |
卒業60周年記念の通信特集号に何を書かせて頂こうかと思っておりました時、旧陸軍燃料廠所属の方々の集まりである「陸燃会」の今年度総会に遺族として出席しないか、とのお誘いを受けました。陸軍燃料廠は、主人が繰り上げ卒業後入隊し終戦まで勤務していた所で、その廠跡は現在航空自衛隊府中基地になっています。 総会の会場が自衛隊基地内の建物の一室なので、60年前戦時中に主人が過ごした地に立って見たいと思い、初めて参加しました。出席された「陸燃会」の方々もお齢を召されて、当時の青年将校の姿を偲び感慨深いものがありました。建物も当時とは全く違うそうですが、当時の写真を拝見し昔の雰囲気に思いを馳せました。 その折、石井正紀氏著『石油技術者たちの太平洋戦争』が紹介されました。この本によって戦争中南方石油の確保の為に多くの民間の石油技術者達が徴用され献身的に働いたこと、更に終戦後の現地での彼等達の苦労を知りました。復員後主人が勤務した三菱石油(株)からも多くの石油技術者が南方に徴用されたと記されておりその中に、主人が川崎製油所に所属していた当時の所長・田尻啓氏のお名前を見つけ感無量でした。この本で石油を持っていない国の立場を改めて考えさせられました。 私共が結婚した昭和22年頃は、戦後の GHQ の対日石油政策により石油産業が厳しい状況で、三菱石油(株)では「アゼリア化粧品」のブランド名で化粧品を売り出しました。この本には、アゼリア化粧品誕生のいきさつや、当時の三菱石油(株)のことなどが述べられています。そこで昭和56年に発行された『三菱石油五十年史』を開いてみると、昭和21年3月、製油所試験室で化粧品製造が開始され、化粧品が不足していたので飛ぶように売れたと記されています。その後、昭和22年8月11日に副業禁止の GHQ 指令が出されたので、同年9月アゼリア薬品工業が設立され、同社が化粧品・薬品関係の業務を行なうことになり、化粧品は全面的に販売網をひろげ、昭和26年10月まで化粧品販売を行なったと記されています。私の目の前に50年以上昔の店頭に並べられたアゼリア化粧品の瓶の形が浮かんで参ります。 その後の時の流れの中で、三菱石油(株)は日石三菱(株)となっています。昨年、城所吉男の23回忌供養を行ないましたが、主人が今生きていたらこの60年間にどんな思いを持ったでしょうか。拙い筆ではございますが、主人にまつわる思い出の一部を書かせて頂きました。 卒業60周年にあたって、12月クラブの皆様のますますのご健勝をお祈り致します。 |