「執行」名の由来について 4組 執行一平

 

 前回の卒業50周年記念文集が出たのは、古稀を過ぎて間もなくの頃で、当時はこの先いつまで生きられるか、望むらくは21世紀を一目なりと見届けたいものだ、などと思い巡らしたものでしたが、それから10年があっという間に過ぎ去り、喜寿も、傘寿もさっさと通り越してはや21世紀に足を踏み入れる段になりました。ここまで来たからには、次なるターゲットは米寿か、卒寿か、はたまた100歳かということになりますが、お互いに激動の20世紀の大半を力強く生き抜いてきた身ですから、この上とも気丈夫に、各自健康に留意して、あと一踏ん張りしたいものです。

 さて、私は学窓を出てから、足かけ5年間の軍隊生活、30余年間にわたる商社勤務、続く15年間の教師歴を経て、満75歳で自適の身になりました。それから今日までの数年間は、予てからの念願だった我が家の歴史の調査研究に取り組んでおり、体力、気力の続くうちに、その成果を何らかの形にまとめあげたいと思っています。我が家の先祖は幕末期まで数代にわたり旧佐賀藩士で、その間の数百年にかかわる家系譜や若干の古文書類は残っているのですが、それ以前の遠祖に遡って家系を探究すると共に、幕末期以降の祖父、伯父、父、私と続く4代の記録を追補して、我が家の有史以来今日に至る通史を集成するのが私の願望です。

 ここで我が家の歴史を述べ立てるつもりはありませんが、ただその中から一つだけ、これまで多くの方々から何度も尋ねられた「執行」名の由来について、かいつまんで記させてもらいたいと思います。まずは、佐賀藩の武士道書として知られる『葉隠』の聞書第六に次のような一節があります。

 「お国執行名字根元の事 昔神埼櫛田宮の祭礼に毎歳勅使下向あり 数度下向の公家衆神埼に住宅し社務を勤められ候 社務を執行と申し候 年を経て社職の執行を其の儘家の名字と定められ候 此の末執行越前守等なり」

 また、中世戦国期の史書『九州治乱記』(一名『北肥戦誌』)の中に「神埼櫛田宮の由来」と題する一項があり、我が遠祖の家系と執行名の始まりについて次のように記されています。

 「彼の執行越前守伴朝臣種兼が先祖は元来下り衆にて (中略) 天忍日命の苗裔伴国道十二世の孫伴兼資と号し 建暦年中当社の執行別当職に補せられ 始めて下向 (中略)其子伴太郎兼篤朝臣 かはらず父の職を受けて肥前に在国し 彌々当社の司職たり (中略) 然るに此の御社 其の後は公家武家の御崇敬も白地になりて 神領も減少し 三度の神事すら絶えてこそうたてけれ (中略)斯くて近代執行は江上に招かれ 竹原に在城し (中略) 今の越前守が祖父伴治部大輔兼貞が時 始めて名字を称し 即ち執行と号す 其子執行摂津守直明 其子越前守にてぞありける」

 これらの記述のように、執行というのはそもそも朝廷や幕府の支配する社寺などに置かれた別当(長官)の職名であり、建暦元年(1211)我が遠祖の一人伴兼資(とものかねすけ)が、神埼櫛田宮の別当として初めて京都から下向し、九州の地に根を下ろして以来約300年、子孫代々この職を継承しましたが、大永3年(1523)兼資から10代目の兼貞に至って別当職を辞し、戦国武将として旗揚げした時に、従来の職名をそのまま家名としたもののようです。ちなみに、執行名以前の伴という家名は古代の朝臣大伴氏に由来し、伴家の遠祖と記される伴国道は、初め大伴国道と称して朝廷に仕えていましたが、弘仁14年(823)当時の淳和天皇の諱が大伴だったため、これを憚って大の字を省き、伴に改名したものと伝えられています。

 執行名の由来については以上のごとくですが、上掲2書の記述の中心人物とされる執行越前守種兼(1530−1584)は、我が家の戦国期の歴史に最も輝かしい栄誉をもたらした遠祖ですので、ここでちょっとだけその武功に触れさせてもらいたいと思います。当時我が遠祖は、種兼の祖父兼貞が初めて執行名を名乗って以来、神埼北部の竹原という地に小豪族として居城を構え、初めは肥前の守護少弐氏に与して、周防の大内義隆や豊後の大友宗麟などとの戦いに高名を挙げましたが、後に種兼は肥前の強雄龍造寺隆信の重臣となって数々の戦陣に抜群の勇名を馳せ、天正12年(1584)隆信が島原で薩摩の島津義久に敗れて討死した時、これに殉じて一族郎党と共に壮烈な戦死を遂げました。主君に対するこの種兼の忠節ぶりが後の世に武人の鑑として讃えられ、『葉隠』などの幾つかの書に取り上げられることになったわけです。

 もう一つ、我が遠祖が代々別当職を務めた神埼櫛田宮というのは、佐賀県の東部、かの弥生時代の遺跡吉野ケ里を含む神埼地区にあり、往昔この地一帯が「神埼御庄」と呼ばれる天領の荘園だった頃、その総鎮守として建てられた神社で、かつては「九州の大社」に数えられ、皇家や歴代将軍家などの崇敬が厚かったといわれます。創建以来1900余年、その間何回かの造替を経て今日に及んでおり、現在も執行名の遠戚が宮司を務めています。

 この辺で稿を終りたいと思いますが、私の調査研究は既にこうした古い時代の探究を一通り終え、ここ1、2年来は、明治大正期に「万博男」として国際的に知られ、日本美術の対外紹介に少なからぬ功績を残した私の伯父(父の長兄で私の先々代)、執行弘道の事績の調査と記録資料の収集に注力しています。その中間結果の一部は、一昨年5月に知人の美術評論家瀬木慎一氏によって日経新聞の文芸欄に紹介されましたし、今年3月にはアメリカの知己の日本美術史学者が出版した研究書に、数ページにわたって取り上げられました。私の個人的な調査研究が少しばかり陽の目を見たと言えましょうか。

 後回しになりましたが、執行という名前は正しくは「しゅぎょう」と読みます。私の幼少の頃は正しい読み方をしていた記憶がありますが、それでは少々発音しづらいせいでしょうか、それとも時代の流れに伴う言葉の移り変わりのためでしょうか、いつの間にか自他共に「しぎょう」と読む習慣になりました。

 最後に、卒業60周年記念のクラブ諸行事に当たられる委員諸兄のお骨折りに敬意を表したいと思います。そしてこの機会に改めて、物故学友諸兄の霊位に祈りを捧げ、併せて会員、準会員各位の御健勝と御長寿をお祈りします。
                                     (2001年9月記)
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Date: Tue, 28 May 2002
12月クラブ御中
初めてメールをお出しします。
私、島根県立美術館に勤務しております真住貴子と申します。現在館務の傍ら、1910年の日英博覧会について調査しております。 調査の途上、執行弘道という人物が浮かび上がり、昨年夏のイギリスでの調査で、1910年の3〜10月のうちにイギリスで撮影されたと思われる執行弘道の写真を発見いたしました。彼についてインターネットで検索したところ、貴クラブの会員である執行一平氏の 叔父上であられることが、12月クラブのホームページでわかりました。(クラブ通信「『執行』名の由来について」)
そこで、是非とも執行一平氏に叔父上についてご教示賜りたく、ご連絡を取りたいと希望しております。もしも差し支えなければ、執行一平氏のご連絡先をお教え願えませんでしょうか。 >個人の情報でもありますので、差し障りがあるということでしたら、以下に私の連 >絡先を明記いたしますので 、ご当人に私の希望をお伝え願えれば幸いです。私の手元にある、執行弘道氏の写真の複写なども差し上げられればと思っております。 突然のメールで甚だ勝手なことを申し上げ恐縮ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。 島根県立美術館 主任学芸員 真住貴子

( 4組 執行君が直接真住さんに連絡されました。 山崎)