5組 和田一雄 |
父の生前の自慢の一つは、東京大震災の大正12年に、丸の内の東京駅のまん前に出来た丸ビル(当時は東洋一のオフィスビルと云われた)の店子第1号の1人だ、と云うのであった。そしてその度びに、私は人に使われた事がない、お前もサラリーマンに丈はなるなと、付け加えられた。それが皮肉にも丸ビルの直ぐ隣の三菱商事で一生を終る伜であった。 其の父への孝行にもなればかしと、商事停年後は其の父の部屋を私が相続して、和田事務所を開き、入口ドアの硝子にタテに並んで、「和田順顕建築事務所」の9文字丈を記念に併記して残こす事を、三菱地所にも了解を取付け、父の存命中は元気な間、毎日大磯の自宅から用も無いのに通って居た。89才で老衰突然死迄の事であった。日本一高い家賃料率を誇る三菱地所を恨み度くなる事も何度も経験したが、今の私は頑張れる間は頑張ってみようと心に決めて居る。但し来年2002年に出来上る新らしい丸ビルに入る資力は迚も無いと、残念乍ら諦めて居る。父は生前、時折、初代地所社長の赤星さんは会う度びに「和田さん、将来お仕事を止められても、宜しかったらずーっと丸ビルに居て下さい」と、親切に云って呉れたもんだと嬉しそうに私に話して呉れて居た。其の赤星さんを心底から尊敬し、私にもよく赤星さんみたいな立派な三菱マンになれと教訓を垂れられた。 閑話休題、斯うした縁から、丸の内の再生は日本の再生と云う標語の下に、決然と今、立ち上がって居る三菱地所を見ると、他人事では無く成功を祈って居る。 現在の三菱地所の人達よりも永く、丸の内の空気を吸って来た人間として、又人生の生甲斐を与えて呉れた三菱に対する感謝と尊敬の気持から、些か「丸の内の再生」に就いて卑見と希望を並べてみたい。失礼の点があったら、馬齢を重ねた故と御許しを請い度い。 尊敬措く能わずの三菱宗家四代目の岩崎小弥太さんには、「儲けが目的では無く、日本が世界経済社会での貢献と発展の為」と云うのが経営理念であったと信ずる。その三菱の纏め役として一番ふさわしいのが三菱地所ではないかと、若い頃より考えて居たが、今は重工、自動車、商事迄が品川地区へ脱出とか、残念な事である。 オール三菱での大仕事とは云えなくなっては、オール丸の内として、今後の開発計画の理念を確立するべきではなからうか。職住接近のビジネス地域開発競争に対し、丸の内地区は条件が不利ではあるが、日本国民のメッカと云うか、国民広場と云うか、他の地域にはない皇居前広場を擁し、毎年多くの国民が各地から集まる。特に全国からの修学旅行シーズンには、東京駅前の地下広場は、其の生徒達で一杯になるが、何の受入施設も無く、便所も何処にあるか判らない有様で、お恥づかしい限りである。 都や東京駅と相談して、受入れ施設を本格的、抜本的に考えるべきではなからうか。丸の内地区で利益を期待する考え方を抑えて、全国民に愛され、信頼される丸の内開発計画を期待して止まない。 |