「石澤絆の茂里」 6組 松田道子

 

 昭和20年5月末より10月はじめまでの5ヶ月間、当時女学生であった私達は、空襲が激しくなった東京を離れ、秋田県由利郡石澤村(現本荘市)に集団疎開を致しました。合宿先となる大蔵寺の設備が整うまでの二ヶ月間は22軒の民家に分宿、身の安全と食糧にも恵まれ、村では家族同様に暖かく自然の中で落ち着いた生活を送らせて頂いたのでした。

始めての農村生活は、冬期の食糧確保のため、山や谷間で蕨や蕗等の採集や田植を経験、農繁期には、村の子供達の保育所のお手伝いと、今振り返って見ると、沢山の思い出を作り、小学校の一部を私達の勉強の場として提供、村を挙げて積極的なご支援を頂き終戦を迎えました。当時は終戦の混乱期で帰京も危ぶまれ10月になって漸く帰ることになりました。

その後私達の生活も落ち着き、戦後30年の昭和51年有志で訪問旧交をあたゝめ、お付き合いがはじまりました。これが切っ掛けとなり、戦後50年目になり何か御恩返しの一つにと話が進み日本人の心を象徴する桜の苗木を贈呈することにし純粋な気持で感謝と永遠の平和への願いを込め「石澤へ桜を贈る会」を発足合宿先の大蔵寺の裏山に1ヘクタールの土地を市側が用意して下さり、私共はまず疎開した人数にあたる109本の桜の苗木を持って植樹に伺ったのでした。

其の地を「石澤絆の茂里」と名づけその後2期3期と市としての事業計画で整備充実を進めて下さることとなり「八重紅枝垂れ桜」を中心に現在2ヘクタールにまで広がり桜も200本に増えました。新しい世紀に入り本荘市ならびに「石澤作楽の会」(当時民宿として受け入れに協力して下さった石澤地区の方々)の御尽力により「石澤絆の茂里」の桜の若木も生き生きと蕾をつけはじめました。

石澤地区では国道107号のバイパス計画も進められかって私共を温かく迎え心を和ませてくれた豊かな自然や細やかな人情はそのままに市の東の玄関口として着実な発展を願い一昨年から順調にスタート「石澤絆の茂里」の下を抜けるトンネル(272米)には「絆のトンネル」と命名されるとか嬉しいおしらせも頂きました。完成次第本格的な桜の園になる由、今春樹木医の診断を仰ぎましたところ樹高も2米近く順調に成育しているとのこでした。まだ若木の為桜を愛でる人々を遠くより招き寄せる程の華やかさには程遠いのですが、やがて本荘の桜の名所となり、又更に角館の桧木内川堤の風情におとらぬ新しい「石澤絆の茂里」となってくれることを楽しみに見守って行きたいと思っています。