想い出すまゝに 7組 伊豫田 錦子

 

 20年程前に主人とアメリカ、カナダの旅行に出かけた事がありました。久し振りに私の趣味の同級生グループで、再度カナダへ旅をする機会を得まして、昔と変らぬナイアガラの滝の激しく美しいパノラマには感動致しました。

 ○水雷と 名付けられ滝の 凄さかな

 ○行く秋や テーブルロックに 翳を見る

 12月クラブ海外旅行同好会の皆様と、第10回記念南米旅行に姉と二人で参加させて戴き楽しい思い出の大旅行となりました。有難く幸せに思っております。主人はよく「退職後は仕事のないゆったりとした観光旅行に行こう」と申しており、南米のブラジルも、その候補でしたので、12月クラブの皆様と御一緒させて戴き、感慨も一入でした。

 主人は三菱重工に入社22年目に始めて、東京転勤となり、その翌年には東京オリンピックが開催されました。旅行、イベント大好きな彼は、愛用の8ミリを肩に、開会式 閉会式とサッカー、水泳、体操等、入場券の入手出来る限り、家中で出かけました。 6年後の大阪万博も2回程楽しみ、その後53歳で運転免許を取得しました。休日には筑波へドライブに行き、山の上から筑波大学予定地を含む開拓地を見に行く程の張り切り様で、つくば博も楽しみにして居た様です。

 昭和50年 沖縄の海洋博の開会式に出席し帰宅したその夜、彼は心筋梗塞で東京女子医大の心研に入院してしまいました。入院時 部長の女医先生から「病状は横綱級の大変重い状態で、見込の無い手術は致しません」と言われ心細い思いをしました。その手術は成功して主治医がとても喜ばれ、知らせに来て下さいました。でもそれからが大変で、DC は100回にも及び、奇跡的に回復出来た事実は論文にして発表されたと聞きました。CCU1ケ月、入院合計3ケ月を経て、主人の体調が落ち付くまで夏休みを延ばして下さった主治医や看護婦さんのお蔭で、幸運にも退院出来て、今でも感謝しております。

 思えば戦争中は疎開先きで山畑を開墾し、茄子、きゅうり、さつまいも等作り、戦後は次第に豊かになり、写真、8ミリ、旅行、ドライブと趣味も広がり、仕事と二本柱になりました。彼は何事にも全力を傾ける性格で、医者から「こうゆう人が心臓病に罹り易い」と云われました。趣味は身を助ける様で、入院中彼は「もう一度あの、九十九里の海岸道路へ、海を見に行こう」との一心で難関を切り抜けた、と申しており、その後千葉の海へは、何度もドライブする事が出来ました。

 「退職後は便利で楽しい文化の中心東京で」と云う主張を変更し、故郷の岡崎へ家を建て第二の人生を送る事になりました。以後10年間は市民病院の心臓医に健康チェックを受け乍ら、好きなドライブ、旅行の計画日程表を楽しみに作り、それを実行しつゝ会社の方は徐々に退きました。

 昭和59年1月孫が誕生し名前を依頼された時、健康第一だからと「健一」と命名しました。彼の写した写真のアルバムは50冊を数え、旅行計画表は昭和59年12月迄を書き残し、今は、私の想い出の記録となりました。終のドライブは。

  ○花どきの 京の札所へ 連れ立ちて

  ○宝塚 終の旅路の 花吹雪

 私はとっくに主人の年令を過ぎてしまいましたが、今のところ健康で、楽しく暮して行かれるのは、主人のお蔭と、幸せに思っています。