父・母の思い出 7組 三浦 啓子(故阪口伸六郎 長女)

 

 父は和歌山県出身で、代々続いたメリヤス問屋の長男として生まれました。父のお父さんという人は、人が良すぎて、困っている人には、すぐただにしたりして、商売がなりたたなくなり、随分縮少したそうです。それ迄商家の長男として、何の苦労もなく坊っちゃん、坊っちゃんと大事にされてたのが、奉公人も皆いなくなり、その時のショックで、17才の時に受洗し、クリスチャンとなったそうです。

 その後、勉強がしたくて家を継がず、勘当同然で家を出て、代用教員をしながら学費を貯めては、大学へ行ったということです。数日間、パン1個だけで過ごしたりなど、このやり方で大学を2つも出て、戦争がなければもう一つ行きたかったとか言っていました。その時の苦労話は、私達にはあまり話しませんでしたが、よく辛抱してそこまで頑張ったと皆驚きました。

 終戦の年に母と結婚しましたが、齢とった祖母を看てくれる人というのが、条件だったようで、仲々ふさわしい人が見つからず、勉強もしたくて晩婚となったようです。

 母は、静岡県で生まれて、東京育ちの箱入り娘で育ちましたので、結婚後の雪深い北海道や、暑い九州での生活、そして3人の年子達と祖母の世話などで、ずい分苦労したようです。

 私は昭和23年に東京世田谷区で、父が40才、母が30才の時に生まれました。父は尊敬する中山伊知郎氏の伊知をとって、伊知子とつけたかったと、父の知人からききました。啓子の、啓は意味は、辞書によると、道を開く、教え導くとありますが、熱心なクリスチャンでしたので、神の啓示、イエス・キリストのことを教え導くという願いもあったのかもし知れませんと、知人の牧師さんからききました。

 その後北海道の小樽商科大学勤務となり、私が5才の時に、祖母を含め、家族6人で小樽市に引っ越しました。大変雪が多くて、私達子供は、雪遊びなどで楽しく遊びましたが、父の仕事は、慣れない屋根の雪おろしや雪かきなどで屋根から落ちそうになったりと、囲りはヒヤヒヤ。人一倍正義感が強く、学長にも意見を言ったり、赤点すれすれの学生が、我が家に好物を持って訪ねて来た時も、絶対受け取らず、私や弟達は、おいしそうなお菓子が、又持ち帰られるのを見て、何度か恨めしく思ったものです。

 小樽時代は一番お酒も好きだった頃で、夜中に突然友人を連れて来て、翌日母が何か言うと、すぐに、悪かったネ、ご免なさい、と謝るので、お父さんとはけんかにならないと、母は苦笑していました。

 家にいる時の父は、冗談ばかり言って、人好きで、賑やか、オープンな性格でした。逆に母は、無口、控え目で、世の中の夫婦とは、一味違っていました。

 小樽に12年程住み、慣れてきた頃に、網走の近くの北見市へ転勤となりました。ここは、同じ北海道でも小樽と違い、雪は殆んど降らず晴れていて、家の中から外は、ポカポカ暖かくみえても、一歩外に出ると、鼻水やまつげも寒さで凍りました。私は札幌で下宿をしていましたので、北見のことは、よく分りませんが、両親は、知床を旅したり、真冬の流氷を見に行ったりと、少しずつ楽しんでいたようです。ここに4年いましたが、関西育ちの父は、やはり寒さには閉口したようで、暖かい所へと希望を出し、今度は九州佐賀へ移ることになりました。日本の端から端への引越しは、その当時は、まるで外国へ行く様な感じで、若い私でさえ、一寸心細かったことを覚えています。

 佐賀では、始め言葉が殆んど分らず、驚きましたが、父は、どこへ引っ越してもすべて関西弁で通していました。好奇心旺盛の父は、母を誘って、長崎や日南海岸などに旅していました。北見と佐賀には、それぞれ3、4年住み、その後、願いがかなって、父の故郷の関西へ転勤になりました。数10年振りに帰った大阪では、沢山の懐かしい方々と、それは喜んで会っていた、と母が話していました。父は生前、私達に、苦しまずにパタッと逝きたいと言っていましたが、本当にその通りになって、最後は、大阪教育大学に定年間近迄いて、昭和48年に昇天しました。良き師、友人、そして何より良き妻、子に恵まれ、こんなに感謝なことはないと常々母に言っていたそうです。

 そして母が、折にふれ、私に話していたことですが、お父さんは、いくつか学校を卒業したけど、12月クラブの方々は、人情厚く、温かで、ここの卒業生で、本当に良かったと、お世話になった方々を想い出しては、嬉しそうにしていました。

 最後になりましたが、父が天国へ旅立ちまして、30年近くたちますので、色々親切にお世話をして下さいましてありがとうございます。

 そして卒業60周年を迎えられまして、本当におめでとうございます。父母も、天国で喜んでいることと思います。