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■リレーエッセイ

「下流社会」 から見えてくるもの

國武 胤清(Gクラス)

「下流社会」 ということばが昨年秋ごろから言われるようになった。光文社新書の同名の本がそのきっかけのようだ。著者が一橋大学出身の三浦 展氏だったこともあってこの本を読んだ。 氏は所得不平等の度合いを測る「ジニ係数」や、階層意識、学歴、就職状況、貯蓄、消費、居住地域、結婚 などについての多くの調査結果を使って、我が国で社会階層の分化、とくに「下流」層が増えていることを示した。 「『下流』は、『下層』ではない」 が、「『下流』とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。」 と三浦氏は述べている。その結果、就職が困難で所得も低いという。 我が国社会で格差が開いているという認識は他の人々からも指摘されており、2月28日には国会の衆議院予算委員会の場でも「格差」問題に関する集中審議が行われた。 しかし今 「下流」 がなぜ注目されているのか? それは多くの人たちが漠然と感じている我が国社会の先行きへの不安を、この言葉が的確に表現しているからではないか?

ここで僭越至極ではあるが、マックス・ヴェーバーの 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 について私の理解を少し述べたい。
世俗的職業の宗教的重要性を初めて主張したのはルッターであったが、プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神の発展との関係を探求するにあたり重要な教義は、カルヴィニズムによる 「恩恵による選びの教説(予定説)」である。 「神は、ある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた。」 というこの教義、そして自分が神に選ばれているか否かは誰にも分らないという教えは教会などによる救済を完全に廃棄した。信徒たちの神との交わりは深い内面的孤立化のなかで行われることになった。 神がキリスト者に欲し給うのは各自それぞれの職業(天職)に励むことである。カルヴィニズムの信徒はカトリック信徒やルッター派信徒のように弱さと軽はずみの中で過ごした時間を他の時間の高められた善き意思によって償うことは許されず、カルヴィニズムの神がその信徒に求めたものは、個々の「善き業」ではなくて、組織にまで高められた行為主義だった。 カルヴィニズムのこのような教義は、その後禁欲的プロテスタンティズムの他の担い手たち(ピュウリタンなど)に引き継がれていったが、その流れのなかでこれらのプロテスタンティズム改革者たちが予期しなかったことが生まれてくる。それはこの禁欲の精神が資本主義的エートスの発展に力を貸すことになったことだった。 ユダヤ教のエートスが賎民的資本主義のそれだったのに対し、ピュウリタニズムが担ったエートスは合理的・市民的な経営と、労働の合理的組織のそれだった。 近代資本主義の精神の天職理念を土台とした合理的生活態度はキリスト教的禁欲の精神から生まれ出た。 そしてこの禁欲は近代的経済秩序の強力なコスモスを作り上げるのに力を貸すこととなったが、その結果、勝利を遂げた資本主義はこの支柱(キリスト教的禁欲の精神)をもう必要としない。 (以上、大塚久雄氏訳の 岩波文庫版による。)

この大著を翻訳された大塚氏は、「『エートス』は単なる規範としての倫理ではない。宗教的倫理であれ、あるいは単なる世俗的な伝統主義の倫理であれ、そうした倫理的綱領とか倫理的徳目とかいう倫理規範ではなくて、そういうものが歴史の流れのなかでいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気ともいうべきものなのです。」 と末尾の解説で述べておられる。

僭越にも私が ヴェーバーのこの著作を持ち出したのは、三浦 展氏が我々に見せている光景とヴェーバー が理念型で示した「エートス」 とが対極をなしているように思うからである。 我が国では我々の世代が社会に出たのと期を一にして、都市化や核家族化が進み始めた。我々は親の時代よりはるかに自由になった。職場では本採用社員が減り派遣社員が増えるという変化もあった。このようにして人々は次第に家族内教育や社会的教育の拘束の場から解放された。人々の連絡もメールや携帯電話によるものが増え、人々の間での真のコミュニケーションが減っている。 これらの社会現象は我が国に限ったことではないかもしれないが、たとえばテレビにしばしば映し出されるイスラム世界の人々の熱気とは全く異なるものだ。

伊丹敬之教授が昨年末新著を出された。 「場の論理とマネジメント」 (東洋経済新報社)である。 「場」とは、やかんを熱するとそのなかで水が湯になり対流する、というたとえで示されたように、「情報的相互作用の容れもの」で、「プロセスと構造をつなぐ概念」である。経営者が社内でいかにうまく 「場」を作るかは非常に大切なことである、と伊丹教授は述べておられる。 逆に、「場」を作らない経営者は 「静かな独裁者」となり、結局その会社にも経営者本人にも良くない結果をもたらす。マネジメントがうまく「場」をつくりそれを生かしている実例として、本田技研工業(現ホンダ)の藤沢副社長による大設備投資の決断(1965年)や、セブン-イレブンのオペレーションフィールドカウンセラー会議(創業以来で、現在は1500人が毎週)などが示されている。 「場は共通理解と情報蓄積の場として機能するだけでなく、共振の場として心理的エネルギーの供給の作用も果たす。その二重の機能ゆえに、場は大切なのである。」 と。 場のメンバーたちが 「アジェンダ」「解釈コード」「連帯要求」などを共有していくこと、個々のメンバーと全体を結ぶフィードバックの仕組みがうまく作用することなどで、心理的共振度も情報共有度も高まるのだ。
この著作は経営マネジメントにかかるものだが、従来の経営学の理論ではうまく説明ができなかったものに焦点を当てたものだと思う。 それにしても伊丹教授が説明された 「場」の概念は ヴェーバーが理念型で示した ピュウリタニズムの 「エートス」 と なんとなく似てはいないか? 社会全体や企業、団体などのなかで、その中の人々に共通の、フェース ツウ フェース的な相互理解、あるいは倫理観みたいなものがしっかりと存在することは非常に大事なことではないだろうか? 一般的に社会への様々な働きかけ、例えばボランティア活動のような場合でもそれは同様であろう。 では既に60歳を超えてしまった我々にこれから何ができるだろうか? 私は今はっきりした答えを持っていないが、宗教的祈りの習慣が少ないこの国では、<お習字の前に正座して墨をする> <きっちりとした挨拶をする> といった、今は殆ど忘れられてしまったように見える昔の人々の教えが、「共通のアジェンダ」「共通の解釈コード」 として非常に大事なのではないかと思っている。

「私たちは、数え切れない他人の『仕事』に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。 たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。裏面はベニア貼りの彼らは、『裏は見えないからいいでしょ?』 というメッセージを、語るともなく語っている。やたらに広告頁の多い雑誌。10分程度の内容を1時間枠に水増ししたテレビ番組、などなど。様々な仕事が 『こんなもんでいいでしょ』 という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。 また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。表には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、『こんなもんで』 という力の出し惜しみはない。」 (西村佳哲 「自分の仕事をつくる」 晶文社)

以上
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