如水会ネット(JFN)

●1964年人権法(Civil Rights Act of 1964)の成立

 1964年人権法は米国社会を大きく変えた極めて重要な法律であり、主として議会資料(Congressional Quarterly Almanac, 1963&1964 以下CQA)と合衆国最高裁の判決を基に報告したい。なお、Civil Rightsは日本のメディアでは公民権と訳されているが、Civil Rights Actに関しては「英米法辞典」(編集代表、田中英夫、東京大学出版会)に従い、人権法と訳した。

(1)合衆国最高裁判決、人種隔離から融合へ

 米国史上最大の戦死者を出した南北戦争の犠牲を払って、奴隷制度は正式に廃止され(1865年、憲法修正第13条)、法の前の平等と21歳以上の男子への普通選挙権が確立され(1868年、修正第14条)、人種・肌の色による選挙権の剥奪・制限が禁止された(1870年、修正第15条)。しかし南部諸州は「奴隷制度の継子」と呼ばれる人種隔離(Segregation)政策を採ることにより黒人を平等に取り扱うことを拒否した。彼らは人種隔離を"separate but equal"と称し、合衆国最高裁はその政策を合憲と認めたのである(SUPREME COURT OF UNITED STATES, Plessy v. Ferguson, May 18, 1896)。

 これは、Plessyという八分の一だけ黒人の血が混ざっている男性が東ルイジアナ鉄道の1等席の切符を買い、座席に座っていたところ、車掌が黒人席に移るように命じ、本人が拒否したため、列車外に連れ出され、投獄された事件である。ルイジアナ州法は、州内の全ての列車は白人用車と黒人用車とに分けること、自分が属さない人種の車に乗ることに固執した場合は罰金と禁固刑が課せられることを定めていた。Plessyは、地裁で有罪判決を受けたが、ルイジアナ州法は合衆国憲法に違反しているとして上告した。判決は、人種隔離を定めているルイジアナ州法が、奴隷制の廃止を定めた修正第13条にも、法の前の平等を定めた第14条にも違反していない、とした。ブラウン判事は判決文の中で「人種的偏見を根絶し、身体的相違に基づく区別を廃絶するための連邦法の制定は無力であり、そのような試みを行うことは現状の難しさを際だたせるだけだ」と述べているが、その考えが間違っていたことを歴史は証明した。1964年人権法は、米国人の意識を根本的に変革したからである。しかし、そこに至るまで、奴隷制が廃止されてから実に一世紀という長い時間を要したのであった。

 1950年代に黒人の意識は大きく変わった。第二次世界大戦、朝鮮戦争に従軍した黒人は、「我々は命を張って合衆国のために戦ったのに、帰還したら何故二級市民の取り扱いを受けなければならないのだ」と不満を持ち、現状の変革を求めた。黒人の意識の高まりを背景に、合衆国最高裁は大きく方向転換する(SUPREME COURT OF UNITED STATES, Brownv. Board of Education, May 17, 1954)。これは公共教育における人種隔離の違憲性について争われた訴訟であるが、判決(ウオーレン首席判事)は、南北戦争後の憲法修正が全ての米国市民の間の法的区別の根絶を目指したものであること、学校施設が平等か否かが問題なのではなく人種に基づいて隔離すること自体が黒人生徒・学生の意識を傷つけることを述べ、敢えて上記のPlessy v. Ferguson事件の最高裁判決を覆すことをはっきりさせた上で、公共教育における人種隔離が憲法の定める平等の保護(equal protection)に違反することを明言したのである。
                    
 公共教育における人種隔離を違憲とした1954年の合衆国最高裁の判決は、しかし、直ちに南部諸州の人種隔離政策の終焉をもたらしたわけではない。判決から10年経った1964年秋の時点で、南部11州(アラバマ、アーカンソー、フロリダ、ジョージア、ルイジアナ、ミシシッピ、ノースカロライナ、サウスカロライナ、テネシー、テキサス、ヴァージニア)で「白人学校」に就学している黒人
は、黒人生徒全体の2%に過ぎず、隣接する6州(デラウエア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリ、オクラホマ、ウェストヴァージニア)及びD.C.の59%と際だった違いがある(Desegregation Status in 17 States, D.C. -- Fall 1964, CQA 1945-1965, p.1599)。
 
 合衆国最高裁も1963年のWatson v. City of Memphisの判決の中で、人種隔離政策が南部諸州で依然として続いている状況に怒りの声を発している。この事件は、テネシー州メンフィスの黒人市民が、市営公園の多くが白人公園と黒人公園に分けられている状態に憤慨し、メンフィス市に対して人種隔離政策を直ちに止めるように指示することを連邦地裁に訴えたものである。メンフィス市は、隔離を直ちに止めると人種間の摩擦によって安全が保てないという管理上の理由を挙げ、連邦地裁が原告の訴えを退ける判決を下したため、上告された。最高裁は、既に人種隔離が解かれた公園で何ら安全上の問題が発生していない以上他の公園で隔離を続ける根拠は全くない、として地裁判決を破棄したが、特に9年前のBrown v. Boad of Educationの判決に触れ、公共教育の場における人種の壁を取り除くことを無期限に遅らすことは許されない、としている。(SUPREME COURT OF UNITED STATES, Watson et al. v. City of Memphis et al., May 27, 1963)

 しかし、1954年の最高裁判決は黒人自身の意識を大きく変えた。翌1955年アラバマ州モンゴメリーで、黒人女性ローザ・パークスが市営バスの「白人席」に座り、白人に譲ることを拒否して逮捕され罰金を払わされた事件を発端とする、マーティン・ルーサー・キング牧師の指導による黒人の市営バスボイコット運動は、ボイコット指導者達の住居が爆破されたり、カープールが市警察に過度に取り締まられたりするイヤガラセにも拘わらず、1年以上に亘って続けられ、最終的には公共輸送機関における人種隔離の廃絶をもたらした。

(2)1957年人権法と1960年人権法

 司法が先行した人種隔離撤廃に向けての動きに、立法府と行政府の腰は重かったが、アイゼンハウワー政権下では、二つの人権法が成立(1957年及び1960年)している。これはいずれも黒人の投票の妨害への連邦政府の介入権の拡大を意図したものである。南部での黒人の選挙登録の割合は1960年の時点でも30%程度に止まっており、特にミシシッピとアラバマではそれぞれ6.1%、13.7%と極めて低い率に止まっていた(CQA 1945-1965, p.1626)。白人からの妨害は明らかであり、連邦政府による介入が求められたのであった。
 1957年の人権法では人権局(Civil Rights Commission)の設置を定めたが、同局の1961年の報告書は、雇用機会均等に関する大統領直属の委員会を法制化するべきだとしているが、この提案は1964年人権法でEEOC(Equal Employment Opportunity Committee)の設置となって実現している。
 
 アイゼンハウワー政権下での公立学校教育における人種隔離撤廃への特筆すべき動きは、1957年9月にアーカンソー州リトルロックで起こった黒人高校生の「白人」学校への入学である。アーカンソー州知事フォーブスは、州兵を使って黒人学生の登校を阻止しようとして連邦政府と対立したが、州兵は裁判所命令で引き下がらざるを得なくなり、白人の暴力行為から黒人学生を守るため、アイゼンハウワーは、州兵を連邦軍に組み入れ、落下傘部隊を降下させて、黒人学生の登校を守った。合衆国最高裁は、暴動の危険を理由に学校教育での人種隔離撤廃を遅らせることは許されない、とした。(CQA 1945-1965, p1600)

 1960年の大統領選挙でケネディは「最高裁の決定を実施するための倫理的且つ説得力ある指導力」を標榜し、白人票の51%をニクソンに取られながらも、黒人票の68%を取り込むことにより、僅差で勝った。しかしケネディ自身が特に黒人に同情的であったわけでなく、人権法の成立に特別熱心であったわけでもなかった。また、南部民主党議員の怒りを買うことは再選への大きな障害であった。アイゼンハウワー政権下で成立した二つの人権法とは異なる広範囲で総合的な人権法を求める黒人の大きな期待にも拘わらず、ケネディは大統領就任後の2年間、人権法を議会に提出しなかった。
 
 1963年4月、マーティン・ルーサー・キング牧師は、アラバマ州バーミンガムを舞台に人種隔離の壁を破るためのデモンストレーションを開始した。彼らは黒人を認めていないランチ・カウンターへ座り込み、また小学生を含む多くの黒人がデモ行進に参加し
た。これに対し、市警察は棍棒を振るい・警察犬をけしかけ・消火栓の水を浴びせてデモ参加者を弾圧しようとしたが、この光景は全国に放映されて大きな反響を呼んだ。
 混乱を収拾させるため、連邦政府は黒人と白人の代表に「停戦交渉」をするように呼びかけた。これに関しクーパー上院議員(共和党、ケンタッキー州)は上院で次のように演説している。「本日連邦政府は停戦を求めた。停戦はこれ以上けが人が出るのをを防ぐために必要な措置である。しかし、残念なことは、連邦政府が停戦を求めざるを得ず、黒人が求めている要求を施行できないことにある。何故なら、連邦政府は、黒人が求めている正当な要求に法的な権威とそれを支える根拠を与え、それを施行させるための立法措置を怠ったからだ」(CQA 1963, p336)
 黒人と白人は次の4点で合意に達した。即ち、1.ランチカウンターや公衆便所での人種隔離を90日以内に撤廃すること。2.雇用における人種偏見を無くし黒人の採用を増やすこと。3.デモの逮捕者を釈放すること。4.黒人と白人の協議の場を設けること。ibid., p337) しかし、この合意が発表された翌日、キング牧師の弟の家とキング牧師が泊まっていたモーテルの部屋に爆弾が投げ込まれた。ケネディがこれ以上逡巡することは許されない情勢となった。
 弟のロバート・ケネディ司法長官の強い勧めもあり、ケネディ大統領は6月11日にTVとラジオで、合衆国が倫理的な危機に直面しており、それは警察の力によっても街頭のデモによっても解決されず、議会の立法によってのみ解決されることを訴え、人種差別を払拭するための法案を翌週議会に上程することを約束し、国民の支持を求めた。(Transcript of the President's June 11 Radio-Television address to the nation on Civil Rightsから要約)

(3)1964年人権法の上程

 1963年6月19日、ケネディ大統領は人権法案を議会に上程した。法案はHR7152とされて下院の司法小委員会に送られ、6月26日より公聴会が開始した。HR7152は、国政選挙での投票権の保証と識字テストの制限、連邦政府の介入(第1章)、公共の場(ホテル・レストラン・公共輸送機関・小売店・公園等)での差別の禁止(第2章)、公立学校での人種融合(第3章)、政府と契約関係にある企業が雇用における差別を行うことを防ぐためのEEOCへの介入権付与(第7章)等8章から成り立っており、これまで成立した人権法に比べて総合的で、差別を禁止するために連邦政府が介入するとの姿勢を強く打ち出しているが、しかし8日前の大統領声明から人々が期待したであろう法案より弱いものになったという印象は否めない。人々が期待していた雇用における差別の禁止が一般企業には適用されず、政府と契約を持つ企業に限られたからである。
 しかし、ケネディ大統領はこの法案でも議会を通過するのは極めて難しいと考えていたようである。民主党は上下両院で多数党であったが、南部民主党は真っ向から人権法案に反対していた。CQA 1963は法案に反対する議員の発言を掲載しているので引用したい。ブライアン・ドーン(民主党サウスカロライナ)「私は人々が権利、権利と騒ぐのに飽き飽きした」、アルバート・ワトスン(民主党、サウスカロライナ)「人種問題は南部の問題であり、南部の人間、南部の白人と黒人によって解決されるべき問題である」、ジョー・ワゴナー・ジュニア(民主党、ルイジアナ)「人種を平和的且つ整然と分離することは違法なことでも不道徳なことでもない。単純な平等は共産主義である」(p. 345)。
 一方、AFL−CIOのジョージ・ミーニー委員長や全米自動車労連のウオルター・ロイサー委員長は、政府案を黒人の権利擁護のために更に改訂する必要があると述べた(ibid, P. 345)。8月28日のレーバーデイに開かれた大集会で、キング牧師は"I have a dream."で始まる有名な演説をした後、他の黒人指導者と共にホワイトハウスに招かれケネディ大統領と歓談したが、その時大統領は「人権法が成立するためには非常に強い超党派の支持が必要だ」と語った。(New York Times, 8/29/63) 民主党内は左右に大きく割れており、その中間に位置する多数の共和党議員の支持が、人権法の成立のためには必須の条件であった。
 ケネディ政府が特に協力を要請したのは、清廉高潔として名高く、また弁護士出身で法案に明るいマッコーラック下院議員(共和党、オハイオ)である。これ以後、同議員は南部との妥協を図る民主党の裏切りに何度か会いながらも、超党派の人権法成立に向けて中心的役割を果たしていく。

(4)下院での審議

 司法小委員会には議長のエマニュエル・セラー(民主党、ニューヨーク、司法委員会議長も兼任)を初め人権派の議員が多く、法案を大幅に強化する修正がなされた。投票権に関しては国政選挙だけでなく地方選挙も含めて司法省に無制限に近い介入権を与える修正、従業員25人以上の企業での雇用上の差別を禁止しEEOCに立ち入り調査権と介入権を付与する修正など、殆ど新しい法案に近い大幅修正がなされて司法委員会に上げられた。修正法案がそのまま司法委員会を通過して下院本会議に送られた場合には成立は全く不可能になるとみた政府は、共和党のマッコーラック議員に調整を依頼した。マッコーラック議員は司法委員会のメンバーと精力的に交渉を重ねた上、元々の政府案と小委員会修正案の中間で新修正案を作成((投票権に関しては国政選挙に限り、また従業員25人以上の企業の雇用上の差別を禁止するがEEOCの介入権を弱めるなどの修正)し、10月29日、新修正案は司法委員会で可決され、11月20日、下院本会議に送られた。当時の下院規則では下院本会議にかけられる全ての法案はその前に規則委員会(Rules Committee)の承認が必要になっていた。規則委員長は「判事」というあだ名を持つ人種隔離主義者スミス議員(民主党、ヴァージニア)で、規則委員会は人種問題に進歩的な法案を葬り去る「スミス判事の墓場」と呼ばれていた。11月20日、司法委員長セラー議員は、人権法案の下院での審議日程を早期に決めるように頼んだが、セラー議員は審議に入るそぶりは全く見せなかった。11月22日、ケネディ大統領はダラスで凶弾に斃れた。

 副大統領から大統領に昇格したジョンソンは、50年代後半の上院で民主党のリーダーであった。南部のテキサス州選出にも拘わらず、1957年と1960年の二つの人権法の成立に中心的役割を果たしたが、今回の人権法に関しては、消極的姿勢を保っていた。人権法案を議会に上程することに反対していないが、この法案では議会を通過しないと考えていたと思われる。しかし大統領に就任すると態度を一変し、極めて積極的になった。11月27日に開かれた上下両院の合同会議で新大統領ジョンソンは演説しているが、その中で人権法案に触れている。彼は「人権法案の早期成立こそ故ケネディ大統領の偉業を最も雄弁に称える弔辞である。我々は平等の権利について余りにも長く議論してきた。100年以上に亘って議論してきたのである。今や次の章を書くべき時に来た。即ち、法律書に書き入れるべき時に来たのである」と述べ、本人権法の早期成立を促した。(Address by President Lyndon B. Johnson before a Joint Session of Congress, Nov. 27, 1963. CQA 1963, p.1019) 

 議会との間に距離を置いていたケネディと異なり、ジョンソンは頻繁に議会に出向いては民主・共和両党の指導者達に根回しを行った。さすがのスミス委員長も審議を促進せよとの声に抗しきれず、規則委員会は年が明けた1月7日に審議を開始し、1月30日に下院本会議で審議することを可決した。下院本会議での審議は翌31日から開始した。
 人権法案に反対する南部民主党議員の戦略は、攻撃対象を公共の場での隔離禁止、雇用における差別禁止、連邦政府の助成金打ち切りに絞り、共和党保守派議員を取り込もう、というものであった。反対派の中心であったコルマー議員(民主党、ミシシッピ)は、1月31日の下院本会議の一般討議で「人権法案は大統領や司法長官ばかりでなく、全ての連邦政府の官僚に助成金を打ち切る権利を与えることになる」として、共和党議員に反対に同調するよう呼びかけている。(CQA 1964, p.345) 
 しかし、人権法案を弱める多くの修正提案は結局共和党議員の賛同を得られず、全て否決されている。下院本会議の審議で特筆すべきは、2月7日になされた第7章(雇用)に関する修正提案が可決されたことである。前述したスミス議員は、「雇用における差別禁止を、人種・肌の色だけでなく、性にまで拡大すること」を提案、女性議員の超党派の賛成を得て、修正動議は可決された。これによって米国の職場における女性の地位が大きく変わることになる。
 一方、ドウディ議員(民主党、テキサス)の「年齢による差別禁止の動議」は否決されている。ADEA (Age  Discrimination in Employment Act of 1967)の成立によって雇用における年齢による差別が法的に禁止されるまで、あと3年間待たねばならなかった。
 1964年2月10日、人権法案は下院本会議で賛成290、反対130で可決され、同月17日に上院に送られた。

(5)上院での審議

 上院では審議引き延ばし(Filibuster)が認められているため、同法案が骨抜き修正なしに成立するのは困難と見られていた。
(註 審議打ち切り動議を可決するには三分の二の賛成が必要、人権法案には賛成でも審議打ち切り動議には反対の上院議員が多いと考えられていた) しかしジョンソン大統領は2月29日の記者会見で「下院を通過した人権法案こそ現政権が強く推すものであり、同法案がこのままの形で上院で可決されることを望んでいる」と言明した。(CQA 1964, p. 356)

 ジョンソンの後を継いで民主党上院議員のリーダーの地位にあったのはマンスフィールド(モンタナ、後の駐日大使)であったが、人権法案の成立に向けて最も積極的に働いたのは次席のハンフリー(ミネソタ)であった。一方、共和党では、リーダーのダークセン(イリノイ)はリベラルとコンサーヴァティヴの中間に位置し、今回の人権法案は稍行きすぎと考えていた。次席のクッチェル(カリフォルニア)は人権法案に全面的に賛成していた。ハンフリーは、クッチェルと密な連絡を取る一方、人権派グループのダークセンへの個人攻撃を厳しく禁じ、人権法案に賛成する超党派の議員の結束を固めていった。ダークセンはマンスフィールドと共に、連邦政府の介入を若干制限する修正案を用意したが、この修正は人権法案推進派及び司法省から受け入れるに足る修正と評価された。人権法案に反対する南部民主党を中心とする反対派は、妥協なしの絶対反対の線に拘り、孤立していった。

 米国民の故ケネディ大統領に対する人気は衰えず、審議引き延ばしに対する世論の批判は高まり、審議打ち切りに賛成する議員が次第に増えていった。6月10日、審議打ち切り動議が提出された。動議の採決に先立ち、反対派のリーダーであるラッセル
(ジョージア)は「上院が斯かる箝口令を否決することを訴える」と演説し、ハンフリーは「我が国の憲法が裁かれている。問題は二種類の市民権が存在するのか、それとも一つか、である」と述べた。(CQA 1964, p. 367)  採決に入り、上院は人権法案では初めて審議打ち切りの動議を可決(賛成71、反対29)した。そして、マンスフィールド・ダークセン修正案が採択された後、人権法案が上程されて丁度丸一年経った6月19日、法案は上院本会議で採択に付され、賛成73、反対27の大差で可決されたのである。

 CQA 1964は、人権法案が可決された時の反響を載せているので、ここに訳出してみたい。
キング牧師:「人権法は既に暑くなった夏に心地よいそよ風をもたらすであろう」。
ウイトニ・ヤング(全米都市同盟委員長)はジョンソン大統領に祝電を打ち、「人種隔離と差別の廃止の法制化のための劇的な戦いに示された大統領の強い指導力」を称えた。
マルコムX:「善意を法制化することはできない。この法案の成立は決して果たされることのないものを約束することによって黒人の失望を招くだけであろう」。
ジョージ・ウオーレス(アラバマ州知事):「今日は個人の自由にとっての悲しむべき日である」(CQA 1964, pp.372-373)

(6)1964年人権法の成立

 1964年7月2日午後6時45分、ジョンソン大統領は人権法の署名に先立って声明を発表した。「私は今、1964年人権法に署名しようとしている。この機会に、この法律が全ての米国民にとってどのような意味を持つかを申し上げたい。我々は全ての人間が平等であると信じている。しかし、実際には多くの人々が平等に取り扱われていない。我々は全ての人間が譲ることのできない権利を持っていると信じている。しかし、実際には多くの米国民がこの権利を享受していない。我々は全ての人間が自由を謳歌する権利を与えられていると信じている。しかし、実際には数百万人の人々が、自らの過失の故にでなく、肌の色によって、その権利を奪われているのである。この状態を続けるわけにはいかない。合衆国の基礎である我々の憲法がそれを禁じている。倫理がそれを禁じている。そして私がこれから署名しようとしている法律がそれを禁じている。この法律の目的は罰することにあるのではない。この法律の目的は国を分裂させることにあるのではなく、あまりにも永く続いた分裂を終結させることにある。この法律の目的は全国的なものであって、地域的なものではない。この法律の目的は、自由の信奉、耐えざる正義の追求、人間の尊厳の尊重を促進させることにある。我々はこれらの目的を必ずや達成するであろう。何故ならば、ほとんどの米国民は正しい行動をしたいと願う、法律を遵守する市民であるからである。」
 声明後、大統領は1964年人権法に署名し、同法は1年後に発効した。署名式典には上下両院議員、閣僚、外国の大使、人権活動家が招かれていたが、法案に反対した南部諸州の出身議員は一人も姿を見せなかった。アルバート・ゴア上院議員(民主党、テネシー州)も姿を見せなかった議員の一人であるが、36年後に息子が大統領候補として黒人層の支持を得ているのは興味深
い。

 ジェイヴィッツ上院議員(共和党、ニューヨーク)が「第二次世界大戦の宣戦布告以来最も重要な議会の立法」と表した1964年人権法は、発効後米国社会を大きく変えていった。特に、第7章の雇用に関する差別の禁止は、偶発的に加えられた男女差別の禁止も含め、その後の企業の人事政策の根本的変更を余儀なくさせた。1967年の「雇用における年齢差別禁止法(Age Discrimination in Employment Act of 1967)」と1990年の「身体障害者に関する法(Americans with Disabilities Act of 1990)」とを加えて、米国は雇用における差別に対して最も厳しい制裁規定を持つ社会となっている。様々な差別が実質的にまかり通っている日本社会から来る駐在員が大きなカルチャーショックを受けるのは当然であろう。しかし、米国は行き過ぎた訴訟社会だと嘆く前
に、米国の現実に合わせた人事政策への転換をしなければ、いつまでも米国従業員からの訴訟の標的にならざるを得ないであろう。


参考文献
1.Congressional Quaterly Almanac, 1963 CQA,1964 & CQA 1945-1965
2.Charles & Barbara Whalen : The Longest Debate. 1985. Susan Locks Press
3.D. A. McWhirter : Equal Protection. 1995. Oryx Press

 

後藤 浩 hiroshigoto@mercury.ne.jp

上のページに戻る


禁無断転載