肺がんつれづれ草 「私と妻の闘病日記」

2004年9月 柴田哲男  
目  次
T はじめに U がん検診から入院まで
V 中央病院入院の日々 W 平成大学横浜病院
X 「今、この時」を充実させる

T はじめに

 健康な日々を送っていて、自分が病気になるなど考えもしなかったが、ひょんなことから肺がんにつかまってしまった。初めのうちは「まあ自覚症状のない段階だから初期なんだろう。早く見つかってよかった。」と余裕があったのだが、検査が進むにつれて胸膜播種の転移がわかって手術は不可能とわかり、更には抗がん剤がかえってがんを刺激してしまってか脊椎への転移を促進し激痛を味わうなど「明日をも知れぬ」絶望の気持ちに陥った時期もあった。その後も、「がんと共存する」気持ちで落ち着きを得たり、また時に落ち込んだりする日々は続いている。イレッサ、放射線治療も経験した。藁をもすがる思いで「漢方」にものめりこんでみたし、高額のアガリクスなど民間療法にも頼ってみた。がんに罹った人がたどる道は人並みに一通り経験したのではないかと思う。
 現在進行形であるが、このような私の個人的な体験をできるだけ率直に、心の動きを書き残して見たいと思う。皆様の何かの参考になれば幸いである。(尚、固有名詞は仮名とさせていただいています。)
 肺がんは現代の難病のひとつである。見つけにくいし、また見つかった場合でも脳や骨髄への転移も起こりやすく、非常に治りにくい。今も右肩上がりで増え続けているという。現在国を挙げた取り組みも始められているようであるが、一日も早く「見つけやすく」そして「治しやすい」病気に変わるように切望してやまない。

U がん検診から入院まで

肺がん検診
 横浜市の広報を見ていた妻から、「保健所で肺がん検診があるから一緒に受けに行かない?お義姉さんのこともあるし、一度受けといたほうが安心じゃない?」といわれ、それもそうだと2003年9月25日の肺がん検診の申し込みをした。10才年上の姉が3年前くらいに肺がんで手術をしたがこの春再発し、その後の病状は思わしくない。つい先日9月初めに二人で信州まで見舞いに行ってきたばかりだった。私はたばこは吸わず健康そのものであるし、2年前まで会社に通っていた頃の健康診断では血液検査や尿検査など模範的なデータばかりであった。当分の間病気とは縁がないとは思ったが、念のため受診してみるかと重い腰をあげたのが実情であった。検診は、問診表に記入した上でレントゲン撮影という簡単なものであった。
 検診を受けたことも忘れた頃、10月20日に検診結果が送られてきた。「胸部X線検査で異常な影が認められるので、がん検診センターへお越しください。」と精密検査の通知である。まず頭に浮かんで悔やまれたのが、つい先日保険の整理をしてアメリカンファミリーのがん保険を止めてしまったことだった。
 精密検査は23日で、その日X線写真を撮った後結果の説明も聞けると書いてあるので妻も一緒に行くことにした。横浜市がんセンターは三ツ沢公園の近くで横浜中央病院に併設されていた。

精密検査
 精密検査はまずレントゲン撮影とCTがあり、担当のK先生から「右の肺に薄い影がある。古い肺炎の痕のようにも思えるが、詳しくは後日CT結果を見てからでないとわからない。」ということであった。妻が「万一がんだとしても、まだ初期だと考えていいでしょうか。」と聞くと、「まあそうでしょうね。」と軽い返事だがこれは気休めだろう。待ち時間に廊下の壁に掲示してあるグラフを見ると、センターで今までに肺がん検診を15万人くらい実施したが、がんが見つかったのは212人と書いてある。1000人中1.4人である。こんな宝くじのような中には入るまいと無理に安心しながらその日は帰った。
 30日、待合室で待っている周りの人たちが、皆同じ立場のはずなのにあまり心配そうな様子もなく、落着いて見えるのに感心した。私は無理に落着いているものの、内心気が気でないというのが正直なところであった。
 呼ばれて診療室に入るとすぐにK先生が「率直に申しまして」と話し始める。とたんに「うーん、当たってしまったか」が実感。専門の医者がCTを見た結果ならまず間違うことはあるまい。肺がんはまず決まりだ。「これがそうです。」と指して説明されるが、素人目にはよくわからない。
 「率直に言ってがんの疑いがある腫瘍なので、気管支鏡検査をして細胞診をする必要があります。」というのだ。細胞診断は最後の確認だろう。先生は気管支鏡検査の事前説明同意書に「肺がん疑」のためと記入した。胃カメラは何回か経験していて抵抗感は少ないが肺にカメラをねじ込むというのは一番避けたいこと、しかしここまでくればもう逃れられまい。覚悟を決めるより他はない。しかしこの段階ではまだそれほどに現実感が沸いてこない。何を心配しなければいけないのかよくわからず、気持ちは上滑りしている感じである。
 まず浮かんできた現実的な心配は、私の5人兄弟のうち二人が肺がんになったのだから遺伝的な可能性が高いということ。子供たちには確率の高さを自覚させ、早めの検査など用心をさせなければならない。長男のたばこはすぐに止めさせなければ。とりあえず妻から子供たち3人に電話で連絡してもらった。
 子供たちは突然の話でびっくりし、特に娘は大きなショックを受けたようだ。東京の次男はもちろん、福島の長男や広島の娘も皆心配してすぐに駆けつけるといってくれるのは少々気が早すぎるものの、正直嬉しく有難い。

気管支鏡検査
 11月4日肺の気管支鏡検査。検査室の周辺を含めて緊張感が漂っているのがわかる。看護師さんも大勢つき、準備の段階からひっきりなしに声を掛けてくれる。緊張をほぐすために笑顔も絶やさない。この日に限らず中央病院の看護師さんたちはベテランが多く、常に患者の立場に立ってくれていて頼りになり、心温まる人ばかりであった。よく全体としてあそこまで鍛えられているものだと何度もつくづく感心させられた。
 気が重い気管支鏡検査ではあったが、終わってみると心配したほどには苦しくもなく、胃カメラのときと同じようにのどを通ってしまいさえすれば後はじっと我慢して待つだけであった。ただ組織採取のとき、なかなか腫瘍にまで到達しないようで、がりがりガリガリいつまでも引っかいているのには閉口した。あまりガリガリやると、がん細胞を刺激して暴れさせないかと気をもんだ。検査後は2時間休んだあと帰宅。明け方に38度近く発熱して心配し、中央病院に連絡を取ったりしたが翌日には熱も下がり、何とか事なきを得た。
 13日に結果の説明。もしかしたらという一縷の望みは持っていたが、そんな奇跡が起こるはずもなく、無情にもがんは確定。腫瘍の大きさは3センチほどだという。すぐに入院手続きの話しになった。19日に入院して詳しい検査を行うと。妻がK先生に「初期だったのでしょうか。」と再度念押しの質問をすると「それは検査してみないとわかりません。」と今度はつれない返事。
 入院治療については自宅から2、3分の平成大学病院が有難いとも考えたが、良し悪し等の判断材料が一切ない。K先生に相談すると「率直に言って中央病院のほうが数多く扱っているのでいいと思います。」ときっぱり断言される。私も手術になると思っていたので、経験の多いところが安心だろうと考えそれに従うことにした。けれど中央病院までは車だと約30分ほどかかるので、妻が運転して通うとなると、ぶつからないか迷わないか大きな心配事を抱えることになってしまった。

入院前に考えたこと
 病状については自分なりに、自覚症状が一切ないから恐らく初期段階で、まずは手術になるだろう。姉の例から見ても、手術の後3、4年は安泰として、問題はその後再発してくるかどうかだろうと見通しを立てた。また一方で、急に進んだ悪性の進行がんで2、3か月でアウトかもしれない。入院したままもう家に帰ってこられない覚悟も必要かもしれないなど、根拠はないがあれこれ不安な思いもあった。ちょうど62歳で死んだ父親のことも浮かんで繰る。以前によく酒田老先生と「どんな風に病気して、どんな風に介護され、どんな風に死んでいくのが一番いいか」、何度も何度も語り合ったことも思い出されてくる。
 いずれにしても人生の残りがカウントダウン状態になってきたことだけは確かだ。どんな状態になろうとも最期の日まで前向きに雄々しく、しっかりと生き抜きたいものと覚悟は決めたつもりであった。

ささふね学童クラブ
 振り返ってみて、私はやはりとても幸せな人生を送ってきたと思う。妻と子供・孫に恵まれ楽しく過ごしてきたし、おかげさまで現在家族についての特段の心配事はない。生まれ育った親や兄姉にも恵まれた。仕事や会社の関係も周りの人々に恵まれ、思う存分仕事をやって来たという満足感がある。(私の方からはあれこれ迷惑をかけた人もあったろうが。)友人たちやご近所の皆さんとも仲良くつきあってきたと思う。
 定年後に子育て支援をしたいという妻に説得され引きずられて自宅で始めた「ささふね学童クラブ」も、これほど恵まれた楽しい仕事が他にあるだろうかと思うほど子供たちとの楽しい毎日である。「ささふね」を始めたということだけでも妻のアイデアと実行力に感謝の念を表しきれない思いである。
 ただ、この後働く親たちに迷惑をかけないようにどうしたらいいのか、これが最大のというか唯一の心配事であった。また、「ささふね」の事務処理的なことや週刊通信などはパソコンを使ってほとんど私がやっていた。ドリルの問題作りなど先行してやれることは多めに作り置きしてはきたが、妻一人で後がやりきれるだろうか。蛍光灯の玉ひとつ取り替えるのでも大丈夫だろうかと気にかかる。(幸い様々な人々の応援やご協力をいただき、何とか一日の休みもなく乗り切ることができた。皆様に心から感謝している。)
 「ささふね」以外には特別心配なこともなく自分の身体のことだけに専念していればいいのだから、入院療養者としては随分恵まれた立場といえるだろう。

 それにしても入院で妻と別れること自体が寂しい。今まで離れて生活したのは35、6年前に長男を産むために実家へ3か月帰っていたときぐらいしかなかった。夫婦は「つれあい」とはよくいったもので、しょっちゅう喧嘩をしながらも、何でもかんでも二人連れでやって来た思いである。特にこの2、3年は「ささふね」もあって朝から晩まで自宅で一緒の生活であった。入院は特別遠いところへ行くわけではないから大袈裟なようだが、もしかするとこのまま永の別れということもないとはいえない。
 けれども次の朝は、愛犬ペルにくれぐれも家の守りと妻のことを頼んで、元気よく病院に向かった。持参した本は兼好法師の「つれづれ草」と津本陽「下天は夢か」。

V 中央病院入院の日々

入院・検査
 妻と二人で中央病院へ。自分では手術になるものとほぼ決め込んでいたので、気持ちも落ち着いていた。ベッドの割り当てや説明を受けて病室へ。6人部屋の真ん中のベッド。皆さんに挨拶するが、即挨拶を返してくれたのは対面窓際のHさん。温厚な感じで鼻に酸素吸入をしておられる。他の対面のお二人は新人が来たことにも気がつかないようだ。横になったまま目も上げない。両脇はカーテンが閉じていてどんな人かわからない。けれどまあ、部屋全体が落着いた感じで、ここがこれからの私の生活の場になるわけだ。しばらくするとぽっちゃり人懐っこそうな看護師のSさんが来てくれて、私の担当だという。入院時の簡単なアンケートのようなものの聞き取り調査をされた。
 その日は頭のCTと腹部のエコー。4時半には入浴もして後はやることがない。早速暇をもてあまして廊下歩きと階段上りを始めた。2日目は朝ちょっとK先生の診察があって、骨シンチ、心電図、心肺機能測定、レントゲンなど検査。まあ結構忙しいがそれでも時間は持て余す。ナースセンターに頼んで外出許可をもらい、毎日三ツ沢公園の散歩をすることにした。廊下散歩と公園散歩で「元気のいい人がいる」と評判になっていたようだ。
 3日目、採血と酸素検査。酸素検査は小さなワニが指先に食いついたような形で行う。私は「食いつきワニ」と名づけた。それから3階手術室コーナーに呼ばれて耳たぶを切っての出血検査も行った。いよいよ手術の事前準備という感じである。この近くで手術台に横になるのかと思うと緊張感も覚える。昼前にたまたまK先生にお会いしたとき「夕方話しますが、今のところ異常はありません。柴田さんを見ていると健康そのもので、肺に異常があるなんて思えませんね。」と珍しく軽い口調で話される。午後に胸のCTがあり、あとは手術の具体的な日程を聞くだけという気持ちであった。
 ところがその日の夕方、K先生が来られて話しを始める。初めのうちは何の話しをしているのかよくわからなかった。メモ用紙に肺の略図を描かれて、腫瘍の丸印をつけた後、右肺の上部3分の2に点々と小さな赤点をつける。「胸膜に播種があるのが見つかりました。」というのだ。私にもようやく言っている意味がわかってきて、「それは転移の話なんですか?」と聞くと「そうです」という。胸膜に播種ができてしまっていると手術はできないと話に来られていたのだ。
 実にこの瞬間から私の肺がんとの真の戦いというのか、逃れられない直面が始まったといえよう。とにかく事実はいかんともしがたいので、妻に気の重い電話をしてその日は金曜日であったので外泊すべく自宅に帰った。

がんと共存へ
 26日夕方、カンファランスルームでK先生と向き合う。「手術を考えておられたのでショックだとは思いますが。」と先生。胸膜播種はわかりにくかったというのだ。ずっと異常なしと思われたがそれにしては腫瘍マーカーが1900と異常に高く(通常は5程度)、詳しく調べてようやく見つかったという。肺がんのレベルとしてはWまであるうちのVのbで種類は腺がん。予想通り姉と同じだ。手術はできないし放射線照射も無理で抗がん剤治療しかない。ただ、がんは完全にはなくせない。「今は抗がん剤も副作用が少ない、いいものがいろいろ出ています。いろいろ変えながら長期的にやっていきましょう。」
 臨床試験として使う抗がん剤は「タキソール」と「ジェムザール」。できるだけ早く、明後日から始めれば年内に4回の1クルーを終えることができる。その後は退院して通院治療が可能という。臨床試験のための分厚い説明書と同意書を渡された。
 27日、妻のほか東京の次男も参加して再度K先生の説明を聞いた。「抗がん剤でがんはなくせない。小さくするのが目標。」という説明に対し妻が「それはがんと闘うというよりは、がんとも共存し、悪くならなければいいという考え方でしょうか。」と質問すると、先生は我が意を得たりという感じで「全くその通りだと思います。」私も、確かに今現在十分元気なわけだから現状が続けばいいわけで、言葉のあやとはいえ少し気が楽になった。
 次男は自己体力で直す方法も考えられないかと質問した。先生は「いわゆる免疫療法という方法ですが、そういう方法もありえます。」と答えたが、私は「今まで人並み以上に健康な生活を送ってきた。それが肺がんになりさらに転移までしているのだから、このままほ放っておく度胸はない。やはり現代の医学で最善と思われる治療を受けることにしたい。」と話した。翌日の28日から抗がん剤治療を始めることになり同意書も提出した。
 その晩長男から妻に「お金のことは自分がなんとでもするから心配しないで。とにかくどんなことでもやって治すように。」と電話があったという。日頃のんびりした長男だがやはりいざとなれば頼もしいことを言ってくれる。当面経済的な心配まではないものの、そんな気持ちでいてくれるとは有難いことだ。

タキソールとジェムザール
 前夜の22時から副作用防止の点滴を始め、真夜中の4時にも次の点滴、それに朝の9時30分からもうひとつなどがあって10時から3時間にわたるタキソール点滴。続いて14時30分までジェムザール。随分長丁場であったが特別の異常もなく無事終了した。ただその日の夕方からわずかに熱が出るようになった。それでも36.9度くらいまでで大したことではない。まわりの患者仲間の皆さんも点滴無事終了を一緒に喜んでくれる。
 1週間後の12月5日も同じスケジュールで無事に終了。これまで副作用らしい副作用もなく、先生も順調という感触のようだ。3回目の点滴からは通院でもよさそうという。けれど7日の日曜日に37.6度の発熱があったときにはとうとう何か始まったかなと少し弱気が出てきた。白血球は5000あって異常なく、熱ざましの坐薬で翌朝には熱が下がりほっとした。思えばこの発熱あたりが異常の分岐点であったのだろう。
 12月11日K先生が「白血球が1400に下がりました。2000以下は異常ですが、今頃は副作用が出る頃で驚くにはあたらない。それで初めから3週目は空けてあるわけです。感染防止のためにうがいと手洗い、マスクをしてください。内服で抗生物質を出しますが熱が出たら点滴します。今まで同様歩くのはOKです。」
 私として始めて現れた明らかな副作用であった。それも1400とは極端に下がったもの。やはりショックであった。さらに14日の日曜日からは大量に髪の毛が抜け始めた。これもほぼ100パーセントの人に現れる副作用だから十分覚悟はしていたが、現実になるとあまり気持ちのいいものではない。ただ、体調が特に悪いこともなく相変わらず元気に院内散歩を続けているのが救いであった。公園の散歩は風邪の感染が危ないので以後止めることにした。

ALP異常値
 12月15日K先生が改まった様子で話しに来た。白血球は依然として低い状態だが別にALPという数値に異常値が出ている。副作用かどうかわからないがCTとエコーで検査するという。そのデータは急に高くなったのか聞くと、今までも高かったが更に高くなったという話。今まで肺の心配だけしてきたが、いよいよ他の臓器にまで影響が出始めてきたとなると、これからどうなっていくのだろうか。いいようのない不安に駆られる様になってきた。
 ほぼ同年代で亡くなった人々のこともよく考えた。ターザンといわれていた頑健な身体なのに甲状腺がんが発覚してから3カ月でなくなってしまった山田勝ちゃん、胃がんの手術を2回経験した後もずっと穏やかに高校同期会のまとめ役を続けた龍雄さん、間質性肺炎ながら最期まで活動的だった木橋さん、すい臓がんで会社や友達のお見舞いを断ってひとり亡くなった中松さん、定年直後に大腸がんがわかったが既に手遅れだったという金沢さん、心筋梗塞でひと晩で亡くなったしまった同期の高井さんなどで次々に顔が浮かんでくるが、それぞれどんな気持ちで死に直面されていたのだろうか。
 その日の午後担当看護師のSさんがカウンセリングをしてくれた。私もこれからもっともっと悪い結果が出てくるのではないかという不安感を率直に打ち明けたが、Sさんの温かい励ましで随分気が和らいだ。その夜は中央病院のクリスマス会に参加し、病気を忘れて楽しんだ。
 18日先生から話しがあった。「肝臓や胆のうには異常は見つからない。ただALP(アルカリフォスファターゼ)は肝臓又は骨の異常で出てくる数値。肝臓に異常がなければ骨ということになるが、骨への転移はない。現在外部機関に出してさらに調べてもらっているので、結果が出るまで2,3日かかります。」白血球とALPが好転すればタキソールなどを継続するし、そうでなければ薬の変更もありうるということだった。骨への転移といわれても現実感はないが、更に不安が募る話であった。
 翌週の月曜日朝、K先生はベッドで私の背骨をたたいてみたが、この段階では確かに痛みは感じなかった。「骨に異常があればたたくと痛むのですが」というので痛くないのは有難い。しかしながら骨への転移の疑いが現実的になってきたことは確かなようだ。午後骨シンチをして写真で経緯を見るという。

背骨への転移
 24日朝K先生から「他の先生とも相談してから夕方お話します。」と予告があったので、あまりいい話ではなかろう。
 その夜の話。まず、タキソールなど現在の薬が効いていないということ。腫瘍が縮まらないだけでなく腫瘍マーカーが高騰しているというのだ。今まで副作用はあまり出ていないので、新年からは強めの薬ではあるが、シスプラチンに変更したい。
 それから骨シンチで見ると背骨の黒さが濃くなってきているという。私は「背骨に転移していると考えるべきですか?」と尋ねると「その通りです。」と返事。更に「当初から転移があったがはっきりわからなかったということだと思います。」という説明であった。私は背骨への転移は下半身不随が起きてくるのではないかと心配し質問したが「すぐにそういうことが起こることはないでしょう。」と答えられたが大きな不安であった。26日家族と一緒にもう一度話しを聞くことにした。
 妻に電話すると当然ながら大きく動揺した。肺がん検診を受けて以来、入院したときも全く元気いっぱいだったのに、背骨への転移などが起こってきたのはどういうことだろうか。入院して治療したことが返って悪くしてしまったのではないかと不信の念が出てきたのも当然であった。

ささふねを続けられるか
 それよりも更に、こういう状態でささふねを継続できるかどうかの問題があった。途中で突然、働く親に迷惑をかける事態だけは避けなければならない。一方私がいなくなったあとは、ささふねが妻にとって毎日の生きがいになるだろうから何とか継続しておきたいという気持ちも強く、二人の間で何回も行きつ戻りつしていた。
 しかしながらこの時点では妻もついに「3月まででささふねを閉じる」という決断をしたのであった。二人で育て上げてきたささふねを止めざるを得ない、これは私としても何よりも悲しい残念なことではあった。(その後娘や息子たちからの意見や説得もあって、4月以降も規模を縮小して細々とだがささふねを継続できている。本当に有り難いことだ。)
 この頃から気にするせいか、夜中寝ているときに背中を押されるような圧迫感を感じるようになってきた。初めのうちは気のせいかと思いたい気持ちもあったが、だんだんと本物だと認めざるを得なくなってきた。
 26日妻次男長女と私の4人で先生の話しを聞いた。一通り話しを聞いた後、妻は新年度から平成大学病院に転院させたいと申し出た。受け入れてくれるかどうかの不安があったが、K先生はきわめて協力的で、「もし平成大学病院がダメだったら再度中央病院で受け入れます。」という両構えの備えまでとってくれた。29日までに紹介状を書いてくれるということで、その日はそのまま退院した。

平成大学M先生との出会い
 自宅に返ってほっとはしたが徐々に背中の痛みが表面化してきた。夜上向きに寝ると痛みを感じる。上向きに寝られないとどうする。しばらくの間なら横向きになれるがずっとは無理。平成大学はまだ海のものとも山のものともわからないし中央病院は出てきてしまったし、この痛みや眠れないことをどうしたらいいか。不安が募った。
 妻が本屋でアガリクスの本を見つけてきてくれて、高額ではあったがわらをもつかむ思いとはこのことですぐに手配して翌30日から早速飲み始めた。
 31日大晦日、やはり背中の痛みが耐え切れず、長女が中央病院の救急外来に電話したが、大混雑の模様であまり取り合ってくれない。やむなく平成大学病院の救急に行き、紹介状も出して背中の痛みを訴えた。平成の救急外来は親切で、わざわざ病棟当直の肺がん専門の先生に連絡を取り呼び出してくれた。やがて現れたのがさらっとした感じの若い感じの人で、これがM先生との出会いであった。
 M先生はK先生からの紹介状と私が書いた病状の経過を詳しく読んだ上で早速レントゲンの手配をし、まずは背中の痛み止めで鎮痛剤を処方してくれた。さらに翌々日の新年2日にまた当直で出ているから来るように、痛み止めが効かなければ薬を変更してくれるという。
 1月6日以降病院が始まれば入院も大丈夫と聞いて私も家族もほっとした。やっと漂流状態を終えることができる。薬もイレッサが間質性肺炎のほかにはリスクが少なく効果も高いので勧めたいとのお話しがあり、私としてもシスプラチンの副作用に比べればはるかにありがたいとそれでお願いすることにした。

家族への言葉
 大晦日長男次男長女のそれぞれ連れ合いや孫など一族全員が集まってくれたので、心からの挨拶をした。
 「私は62歳で決して長いとはいえないが充実した人生を送れたと思っている。お母さんと一緒のお陰でとても面白いくて楽しい一生になった。特にささふねはすばらしかったと感謝している。いい子供や孫に恵まれて何の心配もない。会社でもいい人たちに出会い、思う存分仕事してきて悔いはない。残りの日々、私はどういう風になったとしても最後まで充実感を持って生きるようにしたい。後は残されるお母さんのことをくれぐれもよろしく頼む。」
 M先生に出会い、家族にも必要なことをいい終えたので、その晩は久しぶりに背中の痛みも忘れて本当にゆっくり眠ることができた。

W 平成大学横浜病院

イレッサ服用
 大晦日は痛み止めが効いてよく眠れたが、元旦からはやはり痛みが復活。臨時の痛み止めも使わなくてはならない。またまた気持ちが落ち込んできた。それで2日の緊急外来診療時には早めに入院させてもらえるように頼もうと考えた。2日の日は妻のほか心配して長男長女も一緒に同行して大部隊となった。M先生はすぐに痛み止めのレベルを上げてMSコンチンというモルヒネの一種を処方してくれた。入院については「入院しても痛み止めを飲むだけでやることは同じですよ。飯はまずいし、あわてることはないですよ。」と取り合ってくれない。それでも病院が始まれば早めに入院できるでしょうといってくれた。
 MSコンチンを服用しても2,3日は背中の違和感が消えなかったが、4,5日目からは痛みを忘れ夜もぐっすり眠れるようになった。モルヒネを使っているという懸念はずっとあったがそれでも日常的な痛みが忘れられるようになったのは本当にありがたく、随分元気も出てきた。
 7日MRI検査して8日に入院となった。翌9日から早速イレッサの服用が始まった。イレッサはちょっと大き目の飲み薬で、簡単に飲めるのでとても楽だ。ただ3日目くらいに何となく息苦しくなったような気がして先生に報告した。先生は「ちょっと気になりますが、様子を見ましょう。」ちょうどそこにいた妻が「イレッサが飲めなくなると困ります。」と発言すると「死んじゃったらしょうがないでしょう。」とにべもない。
 イレッサの副作用としては間質性肺炎が心配なので、さすがにそのための用心は怠りなかった。週に2回動脈血採血で血液内の酸素濃度測定とレントゲン検査。それから毎日必ず食いつきワニによる酸素濃度測定。看護師さんたちからも繰り返し「少しでも息苦しかったらいってください。」と念押しされた。幸い当初の息苦しさは気のせいだったようで、特別の問題もなく順調にイレッサ服用が続いた。動脈血採血は医者がやるのだが、都度M先生は「すごーく痛いですよ。」と前触れするので、部屋の人たちは「また始まった。」とくすくす目で笑いあった。
 1週間経った頃から全身に発疹が現れ、特に首の周りがひどかった。顔は若い頃のにきびのよう。ただ特別痛くもないしそれほど痒くもないので、この程度の副作用なら苦にもならない。むしろイレッサが効いている証拠じゃないかと思うことにした。
 入院中やはり運動不足にならないよう、平成大学でも廊下の散歩は欠かさなかった。周りがおなじみの中央公園なので気が休まる。朝は妻が愛犬ペルを連れて病院の周りを散歩するので、それにデイルームから手を振るのが毎朝の日課となった。以前からお参りを続けていた鎮守のお社が眼の下にあるので毎朝お参りを続け、併せてお天道様へのご挨拶も欠かさないようにした。時には公園で遊ぶささふねの子供たちと手を振り合う嬉しいひと時もあった。妻がくるのにも歩いて5,6分なので、中央病院のときに比べて何もかもずっと気軽に過ごすことができた。

皆様から「気」をいただく
 年賀状に入院のことなど触れておいたので、あちこち先輩友人同期生、兄姉親戚などから心温まるお見舞いや激励をいただいた。皆様本当に自分のことのように心から心配してくださっている。高校同級生で肺がん権威の宮木さんや秋田の病院長宮川さんの専門的なアドバイスはありがたい。
 ずっと継続的に見守り持続的励まし続けてくれている綱山さんや仲林先生など私は本当に有難い人々に囲まれている。あるささふねのお母さんからはタヒチ産の「ノニ」ジュースをケースごといただいたりもした。私は皆様から「気」をいただいているのだ。気を引き締めて、頑張らなくちゃ。

多発性骨転移
 毎週水曜日の午前中は教授の回診日。日頃時間を持て余して退屈しているし、主治医と少し違った角度で話ができるので皆結構楽しみにしている。あるときN教授が私に「腰の痛みはどうですか。」と聞き、それに対してM先生が「腰よりもむしろ胸椎の方の痛みが」という説明をされるのでちょっと不審に思った。後でM先生に「腰にも転移があるということですか?」と聞くと「そうですよ。多発性骨転移と聞きませんでしたか。」とそっけない返事。中央病院からの紹介状段階で既にそうなっていたのか、あるいは昭和大学でのMRIでわかったことなのかわからないが、いずれにしろそれだけの患者にとっての大事をきちっと本人に伝えていないのはどうしたことか。
 N教授はとても丁寧な話し方をされて感じがいいし、稚気もある。ある回診時に私が読んでいた「罪と罰」を見つけられて、「いや私も大好きなんですよ。」とすっかり話が弾んでしまった。やはり上に行く人ほど人当たりがよく、相手の話しをよく聞いてくれる人というのが事実のようだ。

あっさり退院
 あっけないくらいに1ヵ月が過ぎ、2月7日は確認CT。夜19時半過ぎに妻にも来てもらって先生からの結果を待った。M先生が現れ「小さくなっていましたよ。」といわれてそのまま引き上げようとする。私はあわてて写真も見せてくれるように頼んだ。カンファランスルームで写真を見せていただくと海のくらげが幾重にも絡み合ったような写真でよくはわからないが、確かに中心部の腫瘍らしきものが小さめにはなっているようであった。中央病院への入院以来わずかではあってもよくなったという結果は初めてなので、本当に嬉しかった。
 「胸膜播種は?」と聞くと「小さくなってます」といわれるがそれは本当かな?とあまり本気にはできない。「背骨のほうはどうなんでしょうか?」と聞いたがそちらは見ていないのでわからないという。CTでは全部を見るのではないのかと不思議に思う。しかしながら、何はともあれいい方向で収まりつつあってひとまず退院というのだから喜びであった。退院の後は気持ちの区切りという意味もあってお見舞いただいた方々に快気祝を送らせて頂いた。

高額医療費など
 我々年金生活者にとって、長期にわたる入院や療養生活は経済的に大きな負担であることはいうまでもない。入院治療費はもちろん内容によって日々異なるのだが、ざっといって1日1万円程度というところか。月額で30万円くらい。幸い国民健康保険の高額医療補助制度があり、いろいろな制約はあるものの少なくとも10数万円は後日バックしてもらえるので、非常に有難い。
 また医療保険については、肝心のアメリカンファミリーはキャンセルしてしまっていたたが、郵便局の簡易保険ともうひとつ小さな医療保険の2件を残していたので、こちらも大いに助かった。やはり、小口でも医療保険は入っておきたいものである。
 参考までに差額ベッド代は、平成大学の場合4人部屋で1日5千円。大部屋が3、4室しかないので、初めのうち4人部屋に入らざるを得ないことが多い。1人部屋は1日2万5千円だが、結構埋まっているから驚く。
 アガリクスとか様々ななサプリメントが宣伝され、「藁をも商法」と思いつつも、多かれ少なかれ購入しているのが実態だろう。いわゆる民間療法も同じで、いずれも相当な高額で負担は大きい。

X 「今、この時」を充実させる

イレッサ中止
 退院後、自宅でイレッサ服用を続けたが調子はよく、子どもたちからも春になったら少し気晴らしに旅行などの出かけたらと勧められ、予約を申し込んだ。また痛み止めをモルヒネからマイルドなものにレベルダウンできないかとチャレンジもした。そうこうしているうちに、またまた2月末には背中になんとなしの違和感を覚えるようになり、3月初めのMRIで脊椎の悪化が進んでいることがわかり、またまた気持ちが落ち込んで、旅行などはキャンセルした。亡母の七回忌にも参加できなかった。
 せっかくのイレッサも肺の腫瘍には効いたが背骨にはダメというM先生の判断で、残念ながら取りやめることになった。3月中旬に入院して脊椎に骨セメントを注入してとりあえず痛みを抑えた。抗がん剤治療については私は以前の中央病院での逆効果がまたまた起こらないかという不安があったので、少し先送りして、しばらくは様子を見ることにした。

金蘭銀蘭探し
 自宅療養中の私の生活目標は「散歩」と「ささふねの留守番」。とりあえずこの二つができれば意味ある毎日が過ごせていると満足することにした。
 朝起きると妻と愛犬ペルと中央公園の散歩。4月には藪かげのあちこちにひっそりと金蘭銀蘭が咲いている。とても素朴で愛らしい花なのだが、よくよくその気になって見つけないと目に入らない。私たちは2、3年前から探し続けていたので、およその咲き場所を把握しており、さらに公園全体の金蘭銀蘭を探しつくそうと意欲的に歩き回った。
 すると、中央公園だけでなく我が家のすぐ周りの遊歩道を含めて、あちこちに新たな群生場所をみつけ、二人で声を上げて喜んだ。恐らく我々二人が金蘭銀蘭の分布を知る一番の権威だろうと自己満足している。また来年も見ることを楽しみにしよう。
 同様にして、私が昔から大好きな高原の花ムラサキツユクサを捜し歩き、あちこちで見つけて喜んだ。秋から冬にかけては烏うりの真っ赤な実が嬉しい。栗の実拾いの余禄もある。
 水辺の小鳥かわせみに会えた朝は感激。ウシガエルやのんびり甲羅を干す大きな亀にも時々会える。一度など公園の大池を巨大な青大将が泳ぎ渡る場面に出くわしたこともあった。

漢方に心を動かされる
 学生時代のゼミ友人豊郷氏から、漢方を使って末期がん患者に大きな成果を挙げているという立浪医院を紹介いただき、これも藁をもつかむ思いで心を動かされた。抗がん剤は使うな、放射線はいけないとか両者相矛盾することが多いので、どこまでやっていけるか、初めから難しさは感じながらもこちらも申し込みをしてみた。すぐに漢方薬が送られてきてせんじて飲み始めた。味も悪くなく、何となく効くような気がする。
 3月下旬にようやく順番が取れて診察していただくと、「漢方薬2週間で既にがんの活動は止んでいる」「あなたの身体は治す力がある」と励ましてくれる。背中の痛みも漢方薬で抑えられるから心配無用と言ってくれた。そうなれば有難いことだし、取敢えずはそれを信じて従ってみようと無理にも思い込んだのであった。
 ただ、虫歯の治療後の金属が重金属アレルギーを起こしているので全部取り替えなさいといわれたのには困った。費用もざっと100万円はかかるし、どうしようか迷ったが、とにかく全て信じてやってみることにした。やってくれそうな歯科医を探してあちこち電話してみたが、幸い家の近くにとても丁寧で話のよくわかってくれる歯医者さんがいて協力してくれたので助かった。
 4月頃から少し背骨や肩甲骨が痛み始めたりしてが、立浪先生を信じて、できるだけこれは忘れてやり過ごそうと考えた。しかしながらじわじわとした痛みが次第に肩、背中、首と広がってきて、5月になると夜首が痛くて枕を当てることがもできなくなってきてしまった。ALPなど検査数値が悪化してきたこともわかった。
 立浪先生は相変わらず意気軒昂として励ましてくれるのだが、実際問題としてどんどん背中や首の痛みが進んで来るのだから如何ともなしがたい。やはり近代医学に頼り放射線などの治療を受けるしかないと心を決めざるを得ず、丁重にお断りの手紙を書いた。

「お迎え」
 私にも「お迎え」が現れた。といってもそれほどしつこいものではない。夢の最中だがすぐにわかった。峠道のようだが、一本道で私が車を降りるとそこに上品な着物姿の女性がひそやかに立っている。何となくどこかで見覚えがあるようなとは思うものの誰かはわからない。それでもお迎えだなということははっきりわかる。
 私はまだそんなじゃないよと考え、気がつかない振りをしてもと来た道のほうに引き返した。女性は追いかけたりはせず、そのまま静かに見送っていたようだ。

頚部への広がり
 5月末入院し、脊椎・腰椎への放射線照射を始めた。ただ首についてはまだ調べてないことがわかったので、妻が頼んでようやくMRI検査となった。寝る時どんな形に枕を当てても痛くてつらい。起きても重い頭が支えられない。赤ん坊の首が座らない状態というのがこんなものなのだろうか。
 病室では背丈の高い特別な車椅子を借りて、それに頭をもたれて休む時間が長くなった。病院の廊下を散歩中に休もうと思っても、ベンチはあるのだが首をもたれさせるものがなくて休めない。ようやく1箇所、手すりのある場所でゆっくり座れる場所を発見し、以後は勝手に私の専用休息所とすることにした。
 頚部のMRIの結果は放射線科のH先生につながり、骨が溶け出していて状態がひどいのですぐに追加で放射線の照射をするように手配してくれた。ところがM先生は「いや、頚部は転移の疑いです」と、すぐには動いてくれない。このあたりはまったくM先生らしさの表れなのだが、情けない極みであった。
 念のため見ていただいた整形外科の診断も、放射線科と同じように頚部の悪化がひどく骨折の恐れが高いと、すぐに重量0.8キロもある頑丈なコルセットを作って、常時はめるように指示された。さらにそれでも危ないので頚椎をボルトで固定手術したほうがいいとまで言われた。いずれにしろ頚部が極めてピンチな状態であることはよくわかったので、私は再度M先生に訴え、ようやく頚部にも放射線治療をしてもらえるようになったのであった。
 しかし既に首の周りが腫れてしまっていたので、放射線照射時首を固定する枕部分が痛み、技師の皆さんにお手数をかけさせた。一度は照射中に痰が絡み、喘息状態になって危うく窒息するのではないかというような苦しい経験もした。

食べられない
 放射線照射約4週間、食欲は徐々に落ちてきていたが、ある晩から急に口の中が痛み出し、水を飲んでも飛び上がるほどの痛みを覚えた。歯を磨くどころではないし、うがいもできない。幸い温かいおかゆだけは食べられたが、他のものは一切痛くて口に入らない。口腔のK先生に診ていただくと、放射線による副作用で、口の中じゅうが潰瘍状態になってしまっている。けれど2、3週間すれば必ずまた食べられるようになるからと励ましてくれる。
 おかゆのほかに何とか食べられるものはないか、妻と二人で一生懸命探した。まず蜂蜜。それからたまごどうふ。これはその後の私の大好物になった。温泉たまごも口当たりがよくて好物になった。普通の豆腐、但し醤油は一切使えないので味なしのまま。意外に味噌汁は味を薄めにすれば飲むことができた。ヨーグルト類もよく食べた。そうこうするうちに2、3週間経ってくると少しずつ口内の潰瘍も薄れてきたりして、普通に近いものが食べられるようになってきた。しかし、昨年の入院以来減少を続けていた体重は、当初より十数キロ減って、ついに47、8まで下がってしまった。足、特に左足の筋肉の衰えが著しく、このままでは家に帰っても2階への階段が上れないのではないかと心配になったので、とにかく廊下を歩くことだけは怠らないようにした。私の影響だけでもないだろうが、廊下歩きの同好者が増えてきて、ときによると数人が歩き回っている姿も見られ、ちょっと嬉しかった。

姉が逝く
 自分も同じ肺がんながら私を励まし続けてくれていた姉がとうとう7月、先に逝ってしまった。幸い最後の1か月ほど、あまり苦しむことがなかったようで、それが救いであった。葬儀には参加できず、妻に一人で参加してもらった。絵の好きな姉は、1年前には上野の美術館に絵を見に来るほど元気であったのに、自分の意思ではどうにもならない無念さが痛いほどわかって、妻は涙が止まらなかったと言った。

抗がん剤治療に望みを託す
 放射線照射の効果があったようで、背骨特に首周りの痛みが薄れ、7月初めの退院以来しばらく、次第に元気を回復していく実感があった。今まで治療効果を感じることが少なかったが、今回の放射線治療後は確かに首の具合がよくなってきた。食べ物が徐々に食べられるのも嬉しかった。しかしながら一方では、左の肩、首まわりが何となくはれぼったい感じがあり、M先生に告げると「ああ、こっちに出ましたか。」リンパ腺への転移という。早速ステロイドの処方があった。
 けれど、根本的にどうするか。もう一度抗がん剤に挑戦し最後の望みを託すか、それともこのまま対処療法(?)でいくのか。
 M先生は「抗がん剤も10パーセントくらいしか効きませんよ。」ともいわれつつ、「抗がん剤を使わない限り奇跡でも起こらない限り治らないし、私はそれで治ったという事例にあったことはない。」という見解。やはり私としては最後の挑戦のつもりで抗がん剤治療をお願いすることにした。使う薬は「タキソテール」と「シスプラチン」。8月初めに入院して点滴を開始した。
 私は中央病院のときと同じように、抗がん剤のによって脊椎などが攻撃され、痛みが再発してこないか、ずっと心配し続けているのだが、白血球が極度に落ち込んだ以外は比較的順調に進んでいるようだ。食欲が落ちておかゆ半分しか食べられないと私が愚痴ると、M先生が「半分食べられてよかったと考えましょう。」と、珍しくまともな応答をしてくれた。ときどきでも心が通じると嬉しいものだ。

「今、この時」を充実させる
 いずれにしろ、今は毎日朝夕の散歩ができて、またささふねの留守番もできているので、すっかり妻にもたれかかった毎日ではあるが、これぞ幸せな日々と自己満足をしている。娘の運転で3人で七沢温泉にも行ってきた。
 アテネオリンピックや高校野球のテレビを興奮しながら楽しむことができたから、まだまだ気力は大丈夫。サッカー・アジアカップの熱戦で、川口キーパーを初めとする「最後まで決してあきらめない」奇跡の実例も見せてもらった。プロ野球始まって以来のストライキは、このピンチをチャンスに変えて発展させるよう、我々も応援しなければ。
 アメリカブッシュ大統領のイラクへの大義名分なき先制攻撃や日本政府の無条件追随により、日本が一歩ずつ戦争へと近づきつつあるようで、気が気ではない。経済財政面での孫子の代への借金付け回しなどもこれからいったいどうするのか。乳幼児や社会的弱者への虐待のニュース、治安の悪化も目を覆うばかり。憂えたり腹立つ限り、生きている意味はあるようだ。一方、読書も楽しく、まだまだ読みたい本は山ほどある。

 生きていくべき日々は何日であろうと何ヵ月であろうと、あるいは何年であろうとそれほど違うものでもなさそうだ。要は「今、この時」を充実させているかどうかだろう。私自身、最後まで充実感を持って生き抜きたいと考えている毎日である。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの
夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづく
と一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。
 (つれづれ草)