ウズベキスタン紀行

ウズベキスタンから帰国しましたウズベキスタンに行ってきました

From: 薮田剛由
Sent: Thursday, Febrary 27, 2011 8:09 PM
Subject: ウズベキスタンから帰国しました
ウズベキスタンから帰国しました
昨日ウズベキスタンから無事に帰国しました。
まず東京の暖かさにはびっくり、前日のヒバアはマイナス18℃でしたから、その温度差は30℃です。
一番の印象は文化の違いです。ほとんどがイスラム教徒ですが、それがいいかげんイスラムです。
戒律をほとんど意に介せず、彼らは「人間が主人公でそのための宗教だ」と平然と語っていました。
ソ連崩壊から独立して20年、カリハラ大統領の独裁はその時からで、いまアラブから始まった民衆革命に怯えています(空港のマシンガンの警備兵にはびっくり)。
しかし国民は日本人に親近感を持つ温和しい人達で、誰でも「こんにちは」と声を掛けてきます(教育と医療はだだが、相当の格差があり、大統領一族は富を独占)。
毎日の食事はどこでも同じ、ガイドに、「遊牧民の伝統食だから、毎日景色が変われば食事も美味しいよね」と聞いたら、「そんな文学的な問題ではない。同じものを食べていれば体をこわさないのだ」との回答。体をこわしては遊牧出来ないと納得。
ソ連時代でも壊されなかったモスクで、メッカの方を向かっての妻と一緒にお祈りの仕方をウズベキスタンの若者達に聞いて、お祈りした時の写真を添付します。



From: 薮田剛由
Sent: Tuesday, March 23, 2011 3:04 PM
Subject: ウズベキスタンパンフの送付

ウズベキスタン旅行のパンフを送ります。

 ご無沙汰しておりますが、如何お過ごしでしょうか。
 この度の東日本大震災には本当に驚きましたね。また災害にあわれた方々には、心からお見舞い申し上げます。私も、弟をはじめ数軒の親戚が仙台におりますので、数日間は大変心配しましたが、ようやく連絡が取れたところです。
 空前の規模の地震と津波で、多くの方が被災され、今なお余震が続き、さらに福島第一原発の事故が発生、その深刻な状況が毎日報道されています。地震発生から10日ほど経ち、ようやく復興に向けての動きが始まったように見受けられます。それにしても、千年に1度と言うほどの災害ですから、これからが、いよいよ大事な時となるでしょう。
 私たちは、この地震が発生する半月くらい前に、中央アジアのウズベキスタン旅行から帰ってきたところでした。今回の私達のグループは、私達夫婦を含む7組の夫婦と単身参加の方の15名が、阪急トラピックスのツアーに合流した旅でした。この大変な時ではありますが、忘れないうちにと思って急いで纏めましたので、ご覧ください。今度お会いした時でも感想を聞かせて下さい。

2011・3・23   薮田剛由


アッサローム・アレイクム(こんにちは)
Assalom Alaykum
ウズベキスタンに行ってきました
2011年 2月16日〜2月25日

編集  キンキンツーリスト

中央アジア・シルクロードの旅〜ウズベキスタン〜10日間
(2011・2・16〜2・25)

第1・第2日目(2月16日〜17日、晴れ)
 今回は、阪急トラピックス・関東の「ウズベキスタン“文明の交差点”まだ見ぬその先のシルクロードへ」の旅に参加しました。
 今年建国20周年を迎えるウズベキスタンは、シルクロードの中継地として栄えた国で、独特の文化と歴史の深さはもちろんのこと、どこか懐かしさも感じさせる魅力あふれる国です。ウズベキスタンは日本の約1,2倍の国土に、2千7百万人の人口を擁し、首都タシュケントは270万人の大都会、民族はウズベク人80%(同じウズベク人でも東洋・モンゴル系からロシア・ヨーロッパ系まで本当に多彩)、ロシア人5,5%、タジク人5%、カザフ人3%などの多民族国家、公用語はウズベク語、約半数の国民はロシア語を話す。宗教はイスラム教スンニ派が85%、ロシア正教会が9%。平均寿命は、男68才、女73才。日本との時差は、マイナス4時間。
 今回の私達のグループの参加者は、7組の夫婦と単身参加が1人で合計15人、今大変人気があり、早々に募集が締め切られ、総勢は38名のツアーです。
 2月16日午後8時、添乗員・石山聖子さんと、ウズベキスタン航空タシュケント行き(ボーイング767,定員300人)に搭乗し、経由地の関西空港で、ほぼ満席の状況になった。約9時間の飛行で、翌日の17日、午前3時半にタシュケント空港に到着。しかしかなりの時間を入国手続きに要し、いささかうんざりし、観光立国としては残念な気がする。
 深夜の出迎えは、現地ガイドのツルスノブ・ハムズさん。彼は、28才、独身のすらりとした好青年で日本語の弁論大会で優勝するなど、日本語がとても達者。この秋にも日本人の女性と結婚をするという。当地では観光ガイドは、もっとも知的な職業の一つで、高収入が得られる。ウズベキスタン経済大学の観光学部日本語科を卒業後、日本に3カ月ほど留学した経験がある。父は警察官だったが、今は定年となり、58群ものミツバチを飼っている養蜂家とのこと。その家族とは、6日目のブハラへの観光の道すがら対面することになった。
 運転手は、シャポールさん。サマルカンドへ向かう。このバスは、ウズベキスタンでのサッカーアジア大会の予選で、日本選手団を運んだと聞く。運転席にはヤタガラスの日本サッカーチームの旗があり、その隣にはウズベキスタンの国旗も飾ってあった。国旗は、三日月と12の星を刷り込んだ青、上と下を赤で挟んだ白、緑の三段の模様、それは、イスラム教と12の州と青い空、純潔と情熱、緑と生命などを表現している。
 途中、朝日が砂漠の地平線に上がり,地面は白く塩を浮き上がらせ、ラクダ草(いばらがあり、塩を根から吸い上げるという。ラクダだけはこれを食べるので、ラクダ草という。家庭での燃料になる)だけが生えている荒涼としたウズベキスタンの大地が果てしなく続く。
 車内では、常時13sの紙幣をリックに背負ったハムズさんが、現地通貨スムへの両替をする。100スム=5円、10000スム=6USドルという、その単位があまりにも法外な桁外れで、急に大金持ちになったかと錯覚する。「お酒を飲む人は、とりあえず50ドル(約4300円)を両替した方が良い」とのことで、83、000スムという大量の紙幣を手にする。とても財布に入る量ではない、特別のビニールの袋を添乗員の石山さんが配ってくれた。私達が日常的に使うスムでの支払いは、ビールやグラスワインは4000〜7000スム(200〜350円)、写真撮影料2000〜3000スム(100〜150円)、トイレ代100〜500スム(5〜25円)というものだった。
 初日に訪れたのは、モンゴル侵略前のサマルカンドの古都の廃墟。アフラシアブの丘にある古代都市の壁画は、修復されていた。
 サマルカンドは世界でも最古の都市の一つで、古代ローマと同じ約3千年の歴史をもっている。紀元前4世紀にアレキサンダー大王によって破壊されたが、シルクロードによる交易が盛んになるにつれ東西文化の交流点として復興、幾多の王国の支配の時代を経たあと、13世紀にはモンゴルのチンギスハーンの侵略でまたも徹底的に破壊された。
 14世紀にはアムール・チムールによって少し離れた現在の地に建て直され、インドから地中海に及ぶ大チムール王国(1370年〜1507年)の首都となった。チムールの命令で大規模な建設事業が行われ、アーチ状の巨大な玄関、高い青色のドームなどの建築様式は、ユーラシアの各国の首都と競い合う中央アジアの都市の誕生を現している。サマルカンドとは、サンスクリット語で、「人や商人が集い、出会う場所」という意味で「青の都」、「東方の真珠」と言われる美しい街。「サマルカンド文化交差路」として世界遺産に指定さている。
 そのあと、民家レストランにて昼食を済ませ、チムールゆかりの人達の霊廟シャーヒズインダを訪れ,石の階段を上り、数々の美しい追善モスクと廟を見て回った。ウズベク人も家族でお参りや巡礼にきていたが、この廟に隣接しているウズベクの人々のお墓をみると、墓石にはソ連の支配下の時代の風習である故人のレリーフが彫られてあり、お墓はその人自身のためのものであり、いわゆる先祖代々のお墓ではない。
 車で走っていると、すべての木の根元から1mほどの高さまで白く塗られている奇妙な景色に気がついた。ハムズさんに聞いてみると「安全のため目立つようにしているのと、防虫剤も入っており、立ち小便をすると色が変わるので衛生上も役に立っている」とのこと。
 その後ビビハニムモスクを訪ねる。15世紀の初めに5年間かけて建築された中央アジア最大のモスクで、チムールが、征服した国から優秀な建築家、芸術家、職人や資材を集め、インド象も使用されたという。20世紀の終わりに大規模な修復工事が行われたが、巨大な大理石製のコーランの書見台のみは当時のままに残っている。
 その後シャーブ・バザールに寄り、ウズベク風の帽子、お土産のお人形、レーズンやナッツを買う。新しい街を散歩しながら、スーパーに2軒立ち寄り、夜のお酒などを仕入れる。
 ホテルのアフロジャブ・パレスホテルは街の中心部にあり、レギスタン広場も近い。異国の夜を、皆で乾杯し、夕食を済ませ、その夜はぐっすり。

第3日目(2月18日、雪)
 朝起きてみると、なんと一面の銀世界。雪に覆われたモスクやミナレット、砂漠の国の街に降る雪は、予想外の光景でした。
 バスで、グル・アミル廟(タジク語で「支配者の墓」の意味)に向かう。1405年、中国に遠征している途中で亡くなったチムール・アムールやその息子たち、孫のウルグベク(1394〜1449)など一族のお墓がある所。各部屋には、一族の人たちの石棺が当時のままに安置され、1996年には、金3kgを使って現在のように見事に修復された。庭には樹齢700年の大木があり、人々がお祈りする前にお尻や手・足などを洗う場所も設けられていた。
 次に向かったのは、サマルカンドの中心地にあるレギスタン広場。レギスタンとは「砂地」を意味し、ここには運河があり川底の砂と沈泥の沖積土で出来た広場で、都市の6本の大通りがここで交差していた。ここは、チムールの時代には、商売人と職人が中心でしたが、その孫のウルグベクの時代には宗教的な中心地となり、現在、広場には15世紀から17世紀にかけて建築された3つのメドレセ(神学校)が競いあうように並んでいる。
 左側のウルグベク・メドレセは、天文学にも秀でたウルグベクが建てた神学校。正面の門には星空をモチーフにしたモザイク模様があり、天体観測のためのプラットホームもあった。彼は、ガリレオの100年も前に、巨大な天文台を建設し、1年の長さを現代の科学で測定したものと1分と違わない誤差で推測。また1018の恒星の軌跡を記録した天文表などを表し、当時ヨーロッパから「花咲けるサマルカンド」と謳われた。
 この対面にあるシェルドル・メドレセの入口のアーチには、偶像を否定するイスラム教では珍しい「太陽とトラとシカ」が彫られていた。20世紀の修復工事の際に再現された。シェルドルとは「トラが入っている」という意味。
 正面のテイラカリ・メドレセは、17世紀中頃、ビビハニム・モスクが崩壊状態だったため、それに代わるものとして、神学校を兼ねたモスクとして20年間かけて建築され、ドームの内部はすべて金箔で飾られていた。
 これらは、いずれもソ連の支配下の時代に、2mもの砂や瓦礫を除去して、大規模な修復がおこなわれて、現在に至ったものである。いずれのメドレセも青が基調のタイルで装飾され、布は、日本のかすりの原点の様な模様が多い。
 サマルカンドの世界遺産とは特定の建築物(それらのモスクやメドレセ、ミナレットは、せいぜい50〜60年前の修復工事で再現されたもの)を意味せず、3千年に及ぶ東西文化の「文化交差路」として認定されたものとのこと。この点は、一般的にはなかなか理解しにくいものと思う。
 この日は、昼食、夕食とも民家レストラン。いつもおきまりの数種類の前菜に、ホヌム(蒸し餃子)や、デイムラマ(ポトフみたいな煮込み)のメインデッシュ、スープ、ナン(パン)、果物やケーキのデザートなど12〜3種類のコースで約2万スム(1000円)といったところか。毎回どこでも全く同じような料理、「遊牧民の食生活は、毎回風景が変わるから、同じ料理でも飽きないのかな」と、聞くと、ガイドのハムズさん曰く「そんな問題ではないよ、体に馴染んだ食べ物は安心だし、病気もしない。地元民の食糧自給率は、100%だよ。」と。
 ここは砂漠地帯だから、森林がない。従って紙は貴重品、空港の税関申告用紙からホテルのトイレットペーパーに至るまで、真っ黒い再生紙みたいなゴワゴワの代物。部屋にはテッシュペーパーなど置いていない。
 都市部のホテルのテレビは、国内のテレビ放送以外にも世界各地の電波が受信でき、激動のアラブ世界の動きをリアルに伝えていた。そして、多くの人々は携帯電話を盛んに利用している様子。

第4日目(2月19日、雪)
第4日 シャフルサブス
第4日のシャフルサブスの雪のアク・サライの宮殿を背景にした新婚さんの記念写真に入れてもらいました。
(画像のクリックで拡大表示)
 雪の中をシャフルサブスに移動。雪のデコボコ道を走ること3時間、途中村のバザールに遭遇、千人位の村人が思い思いに道路や空き地に、ビニール1枚の店を開き、日常の生活用品や食糧品の商売をしている。鶏1羽が8000スム(400円)。その渋滞に巻き込まれてなかなか前進できない。
 途中、雪の中、横一線に並んでの壮観な青空トイレも貴重な思い出でした。
 シャフリサブスとは、アムール・チムール出生の地で「緑あふれる街」という名のオアシス都市、当時サマルカンドに次ぐ第二の都市でした。チムールはここにアク・サライという巨大な宮殿を建てたが、のちの支配者によって破壊された。20メートルの間隔をあけて38メートルの2本の塔が建っているが、当時は50メートルあったと言われている。雪のためにこの116段の塔の階段を登ることは出来なかった。
 吹雪の中、アク・サライの宮殿を背景に、2組の新婚さんが記念写真を撮っている。私達はあつかましくもそれに割り込み、祝福を共にした。雪の中でも下校時の子どもたちは、元気に「こんにちは」と日本語であいさつをする。私達も「アッサローム・アレイクム(こんにちは)」と返す。子どもは2人までとの政策のようだが、一般の人は罰金をはらっても子どもを望んでいるらしい。
 トルコやキューバと同じで子どもは、とても人懐っこく、大切にされている。子どもの教育費は、医療・保健費と共に基本的に無料となっている。しかし、学用品は不足しているらしい。私達は、ツアーの最終日に、この国の子どもたちにと、手持ちのボールペン30本あまりを、ハムジさんに託した。
 「知らない人に声をかけるな」と子どもに言い聞かせなければならない日本との違いを痛感する。
 そのあとさらにブハラ目指し、夕日が沈む高原を3時間半ひたすら走る。車窓から天然ガスの採掘施設を見た。天然ガスや石油は、レアメタルと並んでこの国の大切な輸出品となっている(この件で、先日、カリモフ大統領が来日)。数少ない鉄道の踏切で、中国からセメントなどの物資を運んでいる46両の長い貨物列車を見送る。
 車窓からの畑は、綿花と小麦、米、果物が中心。ソ連の支配下のときは綿花栽培を割り当てられ、モノカルチャー経済に近い状況だったが(現在でも、綿花生産は、世界第6位、外貨収入の約18%を占める)、独立後、天然ガス、石油などの鉱物資源の開発で、最近、国民経済のバランスを回復しつつある。
 しかし国土の10%余りしかない優良農地の大半を綿花栽培に割いているため、食糧自給率は半分以下とのデータもある。もともとウズベキスタンは砂漠地帯であり、降水量は少なく綿花栽培には適していない上に、近年アラル海の縮小や農地の塩害に悩まされていると聞く。
 夜8時頃、アジア・ブハラホテルに到着。なおこのアジア・ホテルグループは、ウズベキスタンでも代表的なホテルグループで、カリモフ大統領の妹が経営しているとのこと。

第5日目(2月20日、晴れ)
 終日世界遺産・ブハラの歴史地区の観光。ブハラは、サンスクリット語で「修道院」という意味を持つ。イスラム教文明の最も尊重されている聖なる都市の一つ。朝ホテルの周りを散歩していて気がついたが、オレンジの制服を着てほうきで道路を掃除している人が多い。ハムジさんに聞いてみると「あの人たちは市の公務員です。日本円で7万円ぐらいになり、主婦の仕事としても助かる」とのことだった。
 今日は、古代ブハラ発祥の地と言われるアルク城へ向かう。現在のアルク城は18世紀の中頃に作られ、ブハラハーン王国の中心地として栄えたが、20世紀の初めソ連の侵攻で城は崩壊、その後ブハラは、ソ連の一部となり、1991年の独立でウズベキスタン共和国となった。
 城内の博物館では、1920年まで続いたマンギドウ王朝の当時の生活の様子や銃や剣などの武器、鞭など、詳しく展示されていた。城の屋上からはブハラの街が一望できた。
 そのあと、アリ・アラブ・メドレセやカラン・モスク、カラン・ミナレットを見学。ソ連時代でも壊されなかったカラン・モスクでは、ウズベキスタンのフェルガナ地方から巡礼に来た青年たちから、ムスリム(イスラム教に帰依する者)の五行の一つである1日5回のメッカに向かっての礼拝の仕方を教わり、一緒に記念写真を撮る。(五行とは、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)
 伝統刺繍のスザ二のお店では実演を見ながらの買い物、国鳥のコウノトリのはさみ店でも値切る交渉を楽しみながら買い物をする。昼食後、木造のボロ・ハウズ・モスクを見学。
 その後、コルホズ・バザールでは仔羊のむき身や脳みそのない頭、豚の足を見てびっくり。帽子や香辛料、チーズやハチミツの買い物をする。「こんにちは」、「ちょっと見るだけ、どうぞ」と声をかけるおじさん、おばさん達は、とても陽気で楽しい。金歯の光る人が多くみられる。
 そのあと一旦ホテルに戻り、グランド・ブハラホテルにて、ウズベキスタンダンスやファッションショー。美しいプロポーションに見とれながらの夕食。(コブルマ・ラーメンという焼うどんみたいなものが意外に美味しい)
 2月20日が丁度誕生日になる人(寺島千恵子さん)に、添乗員の石山さんから、スザニのクッションカバーが贈られ、参加者全員で祝福する。夕食の後、私達も一部屋に集まり、彼女の誕生日のお祝いをする。お菓子やオリズルでの素敵なネックレスを用意し、歌を唄ったり、漢詩を詠んだりした人、「人生長く生きていれば、楽しいこともいっぱいある」と夜遅くまで話は尽きない。

第6日目(2月21日、晴れ)
ホテルから歩いてのブハラ観光。昨日も朝の散歩で歩いた所。素朴な焼煉瓦のマコギアッタリ・モスク、池の岸辺と言われるバラ・ハウズは中世ブハラでは最も大きな人工の貯水池、池のほとりには樹齢700年の楡の大木とラクダの像があった。キャラバンサライ(隊商宿)として建設され、完成後メドレセになったナデイヴァン・ベギ・メドレセの正面には2羽の鳳凰が白いシカをつかんで太陽に向かって飛んでいる絵が描かれている。これは偶像崇拝を禁止するイスラムの教義に反するから、サマルカンドのシェドル・メドレセ同様当然大きな話題になったはず。ロバに乗ったホッジャのブロンズ像などを見てから、バスに乗ってシトライ・モヒ・ホサ宮殿の見学に出発。ブハラの郊外にあるこの宮殿は、19世紀末から20世紀初めまで工事が続いた。ヨーロッパとブハラの伝統を結合した建築で、ブハラ・ハーン王国の最後の王、アミール・アリムハーンの夏の宮殿である。寝室や応接間、八角型の宿,ハーレムやプール、庭には沢山のクジャクが悠然と歩いている。
ブハラに戻り、昼食後、陶器の街ギュジュドヴァンに向かう。途中ハムズさんの実家の近くを通過した時、家族全員が沿道で待っていた。彼は恥ずかしそうに、数か月ぶりの対面を果たし、お父さんやお母さんは大変喜ぶ。彼は近く結婚で日本に行くので、お父さんには猟銃、お母さんにはネックレス、お兄さんには車を送ったと言う。そしてしばらく日本で暮らした後、ウズベキに帰り、プールとテニスコート付きの家に住むことが夢だと語る。
ギェジュドヴァンでは陶器の製作現場を見学し、買い物を楽しむ。その後ワブキットのミナレットと村のバザールにも立ち寄り、最後は、可愛い4本のミナレットを持つチャルミナルというメドレセを訪ねる。
夕食後、ブハラ空港から夜の9時30分発、小型のプロペラ機でウルゲンチまで約1時間20分の飛行。チケットには座席指定されているにも拘わらず,かまわず座っても良いとのこと。案内放送、表示も一切ない空港、予定時間に飛びたてたのは、全くの幸運と言われ、乗る時も降りてからも、徒歩での移動。飛行場での写真撮影はもちろん禁止、カギを開けてくれた扉から空港を出て、バスに乗車したが、その寒さに身は震えた。アジア・ヒヴァホテルに到着したのは、真夜中の零時。お風呂は使えないかもと言われたが、どうにかお湯も出て、ほっとする。

第7日(2月22日、晴れ)
 ヒヴァは、パミール高原からアラル海に注ぐアムダリア川のほとり、ホレズム(「太陽の国」の意味)州にあり、この地域の歴史は紀元前4〜5世紀にさかのぼる。ウズベキスタンの国土の約7割を占めるというキジルクム砂漠に無数に点在する遺跡群が古代ホレズム王国のものと判明したのは1940年代になってから。今日はゆっくりの出発でアムダリア川を渡り、キジルクム砂漠に入り、ゾロアスター教(拝火教)の発祥地と言われるホレズム王国の遺跡を訪ねる。
 戸外の温度は、零下13℃の身に沁みる寒さ。ヒヴァは、先々週は、零下30℃で、1,5mの雪とのこと。バスも出発直後、寒さのためエンジン不調、一旦ホテルに戻りバスを代えて、出なおす羽目になる。
 ホテルのあるヒヴァからウルゲンチを通過しアムダリア川を渡るのだが、ヒヴァからウルゲンチ間にはトロリーバスが走っている(約1時間で、1000スム=50円)。途中の綿花畑には、水道管と並んで天然ガス管が延々と続いている。都市部での家庭暖房で天然ガスを使えるよう各家庭にガス管が配備されたのは、つい最近のこと。ガス代は無料だが、ガス管設置には個人負担もあるという。
 アムダリア川の鉄橋が工事中で、船で作った仮設橋を700m歩いて渡る。風も強くその寒さは骨身にこたえる。耳がちぎれるように痛い。バスは仮設橋を渡れないから、対岸で待機していた別のバスに乗り換え、途中2回ほどの青空トイレも経験し、紀元前1世紀のトプラク・カラ遺跡,6〜7世紀のアヤズ・カラ遺跡を見学する(カラとは都城のこと)。風が冷たく、足元は凍りついている危険な道を必死に登り、寒風の中、宮殿や住居の跡、壁画などを見て回る。アヤズ・カラのユルタ(遊牧民のテントのこと、ラクダ草を燃やすペチカが一つしかなく、ウオッカを飲んでも、物凄く寒い)での昼食は、暖かいデイルラマという肉じゃがみたいなものはとてもおいしかった。
 いよいよ旅も終盤に入る。今晩は夕食の後、ハムズさんを招いて懇親会を行う。皆、手持ちの飲み物やつまみを持って集まり、ハムズさんの婚約者の話に大いに盛り上がる。彼女は、彼より若干年上で、東京でコーヒー店を経営しているらしい。数年前、ウズベキスタンに旅行に来た際の知り合い。その後お互い何回か訪問し合い、毎日数時間パソコンで顔を見ながらの会話、意見が合わない問題もあるが、議論すれば解決できると言う。彼の良い所は、自分の意見をしっかり持っていることで、「自分が彼女を好きならそれで十分だ」とか「宗教は人間のためにあるべきもので、その逆というのはおかしい」などと言っている。今年の9月には、東京で結婚式を挙げ(ウズベキスタンでやると招待客だけでも1200人になる)、しばらくは日本に住むつもりとのこと。彼は平然とウオッカを一気飲みし、それでも翌日「昨夜はありがとうございました。何時に帰ったか覚えていません」とお礼を言う。最終日のタシュケント空港では、彼の親切なガイド感謝を述べ、再会を約束して別れました。

第8日(2月23日、晴れ)
第8日目 ヒヴァ
第8日目のヒヴァの観光は零下13℃、急いでマフラーを買い防衛した。
(画像のクリックで拡大表示)
 今朝は零下13℃位らしい。三々五々散歩に出る人も多かったが、防寒の支度を完全にしないと、とても歩けない。
 城壁に囲まれたヒヴァの城内(イチャンカラ)は、世界遺産。ホテルのある南門から11時半に歩いて出発、そのまま民家レストランで昼食。
 最初のムハンマド・アミン・ハーン・メドレセは、1852年に完成、中央アジア最大の神学校だったが、昔は監獄として使われたこともあったが、現在はホテルとして利用されている。
 カルタ・ミナル(「カルタ)とは短いという意味)は、未完成の大ミナレットで、基礎の直径からみると70〜80mの高さになったのと思われるが、実際は26mで中断されたままになっている。
 17世紀に建てられたクフナ・アルクは、古い宮殿という意味で、要塞に囲まれ、公邸、くつろぎの間、モスク、ハーレム、兵器庫、造幣所などがあった。
 タシュ・ハウリ宮殿は、1830年に建てられたもので、公務の部屋や宴会の場のほか、中庭を囲む2階建てのハーレムには多数の女性たちが暮らしていたと言う。
 ジュマモスクは、約3m間隔で212本の彫刻された木柱が並ぶ、もっとも古い4本は10〜11世紀のホレズムから運ばれたもの。
 夕食後、バスでウルゲンチ空港に戻り、午後8時20分発のタシュケント行きジェット機(300人乗り)に搭乗する。タシュケント空港が工事中とのことで、雪のなか野外で寒さに震えながら30分ほどスーツケースの出てくるのを待つ。空港は軍事施設なので、その間マシンガンを背負った兵士が背後で見張っているのは、あまり気持ちの良いものではない。空港からバスに乗って着いたのは、タシュケント・パレスホテルというこの旅では一番デラックスホテル。これがウズベキスタン最後の夜かと早々眠りに着く。

第9日目(2月24日、晴れ)
 中央アジアの首都ともいわれるタシュケントは、国民の約1割がここで暮らす大都会。オアシス都市としての歴史は古く、2000年前にさかのぼり、11世紀頃から「タシュケント(石の街)」としてシルクロードの中継点として栄えた。1865年から始まった帝政ロシアの支配以後ロシア人の入植が続き、急速にロシア化していく。1966年に直下型大地震に見舞われ、殆どの建物が崩壊するなど、この街は壊滅的な打撃を受けた。当時の社会主義ソ連は、3万人の労働者を動員、わずか数年で全く新しい近代都市として生まれ変わらせ、それを「中央アジアの奇跡」として社会主義の宣伝に使った。この広大な新市街の街並みは50年前に建設されたもの。
 最後のタシュケント観光は、朝ゆっくりの出発。日本人墓地に向かう。第2次大戦後ソ連によってシベリアに連れ去られた日本人は約60万人、そのうち2万5千人がウズベキスタンに送られ、水力発電所や灌漑工事、劇場建設などに従事させられ、過酷な労働のなか多くの人が命を落とした。ウズベキスタンで亡くなったのは約800人で、そのうちの79名の方が眠る日本人墓地。私達も、赤と白のカーネイションの花を手向けて、命の尊さと平和への願いを込めて祈りました。
 ウズベキスタンの人に親日家が多い理由に、この方々のご苦労を挙げる人が多い。「日本人は真面目で、嘘をつかない」という印象をこの国の人々に植え付け、タシュケントの人たちは、それを50年前の地震で実感。地震で多くの建物が崩壊したが、「日本人の建てたこのナヴォイ劇場はびくともしなかった」と。今も現役の劇場で、演劇のリハーサルをしていた。
 もう一つの理由は、ウズベキスタン政府が、その経済改革を進めるにあたり日本の明治維新や戦後復興を手本にしたいと、日本研究に力を入れ、毎年100人の留学生を日本に送り込み、ウズベキスタンの大学では300人の学生が日本語を学んでいる。こうした日本との密接な関係が、日本への親近感を育てているとの話を聞きました。
 旧市街のチョルスー・バザールを訪ね、果物や香辛料、チーズや焼き肉、凍っているかぼちゃやメロンが並ぶ。その後、中央アジアでただ一つという地下鉄に体験乗車、距離に関係なく1回500スム(25円)。やたらに警察官が多いのは気になるが、ここは非常時には軍事施設に早変わりするように作られているらしい。もちろん写真撮影は厳禁、知らないで撮った人のところには警察官が飛んできた。
 かつてのソ連が威信をかけて建設した地下鉄には、社会主義を称揚する芸術性に富んだ壁画やレリーフ、駅名が使われたが、今は急速度にこれらを一掃し、ウズベキスタンの歴史上の人物に置き換えようとしているようだ。新市街の中心にあるチムール広場には、かつてのスターリンやレーニンに代わり、新生ウズベキスタンの象徴としての大きなチムール像が立っている。
 しかし、実際は現在のカリモフ大統領(70才)の一党独裁が20年を超えている。昨今のアラブから始まった民衆の力の爆発も、他人事とはいえない時も来るかもしれない。
 今回のツアーの最後の夕食は、ナヴォイ劇場で中華風のバイキングだった。夕食後、タシュケント空港へ。この空港は、トルコへの卒業旅行の帰りの学生など、トランジットで混雑していたが、日本人学生のマナーの悪さには驚いた。夜の10時15分発のウズベキスタン航空で、一路帰国の途につく。
 今回のツアーに参加した方からは、「あなた方のグループに入るには、どんな条件が必要ですか」との問い合わせも数件ありました。「何もありません。ご自由にご参加ください」と言っておきました。
 東京は、この日、春一番が吹き、気温は17℃とあって、ヒヴァとの温度差30℃には本当にびっくり。成田空港のゲートで、「おかえりなさい」とのあいさつもあり、「今回は激動の旅だった。やはり日本はいいなあ」と、何だかほっとした気分になりました。