ショパン-花束の中に隠された大砲

 シューマンはショパンの音楽を「花束の中に隠された大砲」と表現したそうだ。
 この本の著者の(チェ) 善愛(ソンエ)さんは、一橋フォーラム「ピアノの楽しみ」第7回(3月8日)に登場し、「ショパン 花束の中に隠された大砲」と題してお話とピアノ演奏をしてくれたが、それは大変感動的で心打つ話と音楽であった。かつて帰国の権利を奪われた在日のピアニストの崔善愛さんは、ご自身の運命がショパンのそれと重なりあうところがあるように思われて話された言葉が聴き手の心に響いたのではなかろうか。
 フォーラムの当日、会場で彼女の本とCDを販売しており、彼女の話に感動して私は『ショパン 花束の中に隠された大砲』(岩波ジュニア新書)という本を買い、本にサインをして貰った。
 この本を読んでからは、ショパンの音楽を聴くと、これまでとは違った響きに聞こえるような気がします。

「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにありました。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせたショパン。かつて帰国の権利を奪われた在日のピアニストが、共感をこめて描きます。 (本のカバー裏面より)

まえがき

 ショパンと言えば、ピアノの道を志す者にとって、「ピアノの王道」のようなものです。

 ショパンは、ピアノという楽器のもつ可能性を最大限に広げ、ピアノの魅力の新しい境地を切り開きました。ショパンの曲を弾いていると、ピアニストであることに幸せを感じます。ショパンほど、ピアノを「歌わせる」ことのできる作曲家は、他にいないでしょう。

 テクニック的にもハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどより格段に難しく、ショパンの輝かしい一曲をマスターすると、まるで人生のひとつの難題を征服したかのような気持ちになるほどです。入学試験のため、演奏会のてめと、中学生のころから、私のピアノの譜面台にはいつもショパンの曲がありました。

 楽譜を読みはじめたころは、弾きこなすことに必死でしたが、ある程度弾けるようになると、もっと作曲家の想いを深く知りたくなります。そこでショパンの伝記をいくつか読みはじめましたが、聞き慣れないカタカナの長い名前が次々に出てきますし、皇帝や伯爵夫人、サロンやフランス革命なども登場して、いま自分が生きている世界とはあまりにかけ離れた、関係のない話のようにしか思えませんでした。結局、私のショパンに対するイメージは、「ロマン派のピアニスト」「ピアノの詩人」というありきたりの域を出ることはありませんでした。

 そんな私がショパンのまったく別の姿を知ったのは、音楽を学ぶためにアメリカの大学に留学していた27歳のころでした。あるとき、大学のキャンパス内の本屋さんで、"Chopin's Letters"(ショパンの手紙)という一冊の本と出会いました。そして、その中に一通の手紙に衝撃を受けたのです。

出発の日を決めるだけの強さがない。永遠に家を忘れるためにこの国を離れる紀がしてならない。死ぬために出発するような気がする。

 これは、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものです。

 大げさかもしれませんが、私はこの手紙を読んで、まるで稲妻に打たれたように立ちすくんだのです。なぜなら、私自身もそのときやはり日本に帰国できない、二度と帰れないまもしれない、という状況に追い込まれていたからです。

 「在日韓国人」として生まれた私は、当時、「外国人登録」の切り替えのために必要とされていた、指紋の押捺を拒否した状態で、アメリカへ留学していました。そのため、日本を出国する際にあらかじめとっておくべき「再入国許可」を得られず、日本での「特別永住権」も失っていました。

 私は、大阪で生まれ北九州で育ち、多少は勉強したものの韓国語は話せませんし、日本の学校に通い、日本人の友人たちとともに育ちました。成長するにつれ、自分の名前が他の人と違うこと、なのに先生も友だちもしれに触れようとしないこと、それから韓国の親戚やまわりの在日のおじいさんやおばあさんたちは、どうやら日本人をあまり好きでないらしいことなどに気がつくようになりましたが、なるべく考えないようにしていました。

 ところが、中学2年の14歳のとき、区役所から「外国人登録に来てください」というハガキが来ました。このとき改めて、自分が「外国人」という異質のものなのだということを自覚させられました。

 区役所に登録に行くと、4枚の書類に指紋を取られました。そのとき私は、自分たちがこの国にどう思われているのかということに、気づきはじめました。私たちは、「犯罪者」とみられているのだ、と。

 それから三年ごとに登録があり、17歳のときにも区役所で指紋を取られました。そのことは「外国人」である以上、仕方のないことだと思っていました。

 1980年の末、21歳になって迎えた3回目の更新のとき、6歳下の妹が「私は指紋を押さない。学校の友だちはだれも取られていないのに、どうして私だけ押さなきゃいけないの」と言い、指紋押捺拒否を宣言しました。私は彼女に、「世の中、正しいことばかりじゃないけど、いちいち文句を言っていたら、それだけで人生終わっちゃうよ。まじめに勉強して、まじめに生きていけば、認めてくれる人もいるかもしれないし・・・・・・」と説得しようとしましたが、彼女の決意は変わりませんでした。そして考えたあげく、翌年の1月、自分も指紋押捺を拒否することにしたのです。

 その結果、1983年に私は法律違反で訴えられ、大学に通いながら裁判がはじまりました。85年に出た判決は、罰金1万円の有罪でした。

 このころ、指紋押捺拒否者には、「再入国許可」が出なくなっていました。日本国籍をもたない「外国人」は、日本を離れるときに「再入国許可」を取らなければ、日本での在留資格を維持することができないのです。留学を考えていた私は、裁判中から、どうすべきか悩んでいました。留学の前に指紋を押せば再入国は許可される、けれども、そうすればこれまで裁判所で述べてきた自分の言葉をすべてひっくりかえすことになる――、それはどうしてもできませんでした。私は、1986年に再入国許可を申請したのですが、やはり不許可になってしまいました。指紋押捺を拒否した私がいったん日本を離れれば、日本政府はもう帰国させない、ということです。

 しかし、アメリカ領事館の領事は、「あなたは日本で生まれ日本で育った、だから日本に帰ってこられないはずはないでしょう」と言って、アメリカ行きのビザを出してくれました。そして私は、インディアナ大学大学院に留学したのです。けれども日本に戻れる保証はなく、いつも日本やそこに住む家族のこと、そして自分の将来を思っては不安になり、それらを思い出さないようにしながらアメリカでの日々を過ごしていました(詳しくは、拙著・岩波ブックレット『「自分の国」を問いつづけて――ある指紋押捺拒否の波紋』をお読みいただけると幸いです)。

 そんなとき、"Chopin's Letters"に出会い、「そうだったんだ、だからショパンの曲には、「革命」や「英雄ポロネーズ」なんていうタイトルがつけられていたんだ」と気づき、まるでこれまでの謎がすべて解けていくようでした。今まで私はなにを思ってショパンを弾いてきたんだろう、毎日のようにショパンを練習し、大学院の修士修了演奏でもショパンの「ソナタ第2番」を弾いたのに――。

 このとき、はじめて私の前に、「ピアノの詩人」としてではなく、自分の国を追われ、苦しみ、悩み、怒る一人の人間の姿として、ショパンが現れたのです。

 帰れないからこそ、自分を育てた国を一層いとおしく思う――、その気持ちに共感した私は、ショパンの人生をもっと知りたいと思い、ショパンにひきつけられてゆきました。

 ショパンの生きた時代のヨーロッパは、フランス革命の混乱のまっただ中にありました。彼がポーランドを出てパリに到着した1830年はフランスの「7月革命」の翌年、そして彼が亡くなる前年には、パリで「2月革命」が起こります。彼は次々と起こる革命の時代に生きたのです。「ピアノの詩人」というよりも「革命のピアニスト」と呼んだほうが、彼にはふさわしいのではないかと思うほどです。

 これからはじまるショパンの人生の最後のほうに、「ZAL」(ジャル)という言葉が出てきます。この「ZAL」こそが、ショパンの悲しみを表すキーワードです。また、ショパンの音楽からほとばしるような情熱を、シューマンは「花束の中に隠された大砲」と表現しました。ショパンがどんな思いで、その美しく華やかな曲の中に、「大砲」や「ZAL」を埋め込んだのか、考えながら呼んでいただければと思います。

ZAL

 ショパンがパリで出会った1歳年下のリストは、当時もっとも人気のあったハンガリー出身のピアニストで、ショパンよりも先にパリの音楽界で活躍していましたが、ショパンのことをたいへん尊敬していました。彼は、ショパンのエチュード「別れの曲」に感激して、「自分の寿命の4年分を、このエチュードの4ぺーじと引き換えてもいい」と述べたほどです。

 そのリストが書いた評伝『ショパン』の中に、こんな場面が描かれています。それはある日の晩餐後の会話です。

 私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。

 彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏(アラバスタ)のすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。

 麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。

 と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。

 ここで『ザル』と書かれているポーランド語は「ZAL」(ジャル、注:Zには実際には上に・が付く)と表記されます。ショパンが何度も繰り返し使ったというこの言葉はショパンの音楽に影のようにつきまとう悲哀のすべてを表現しています。彼の音からにじみ出る「ZAL」をショパンはティトゥスへの手紙にも書き表そうとしています。

 僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)

 私がもっとも,深いZALを感じるショパンの作品は,「ノクターン 嬰ハ短調・遺作」です.この曲は1830年,祖国を離れてまもない時期に作曲され,姉ルドヴィカへの手紙に添えられていました.そして,マリア・ヴォジンスカのアルバムにもはさまれたいた曲です.

 彼はこの小品を出版せず,個人的なものにとどめました.そのためか,だれかに語りかけるというよりも,まるでひとり,ピアノの前で泣いているような曲です。

 ショパンは,「ZAL」というポーランド語は,他の言葉で表すことはできないと言っていますが,リシャルト・プシビルスキは,「わびしい諦念」「深い恨みのもと」「激しく反発する抗議」と表現しました(イレナ・ポニャトフスカ著/寺門祐子訳『フレデリク・ショパン』より).

 ショパンの悲哀や郷愁,喪失感といったものはすべて,「亡命者の悲しみ」のうえにあるものです.ZAL――.この言葉を口にするとき,ショパンは涙ぐんでいたとリストは語っています.

三つの遺言

 (1849年)10月13日、危篤状態に入ったショパンのために呼ばれた神父によって、彼は秘蹟を受け、その数日後には、病室にいる友人たちひとりひとりに感謝の言葉をかけ、そして遺言を残しました。

 まず、出版されていない下書きの多くの楽譜はすべて焼却処分にすること、また葬儀では、モーツァルトのレクイエムを演奏すること。そして自分の心臓を取り出してワルシャワに持って帰ること――。心臓を故郷にという遺言に、亡命者ショパンの悲しみが感じられます。最後を迎えるショパンに残された道は、体はポーランドに帰れなくても、せめて命を刻み続けた心臓だけでもポーランドに運んでもらうことでした。

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 ショパンの死から約3ヵ月後の1850年1月2日、姉ルドヴィカは防腐処理されたショパンの心臓を入れた壷を大事に持ってパリを出発しました。

 そして、1月9日、ショパンがワルシャワで最後に過ごした家の2軒隣にある聖十字架教会にその心臓は安置され、ショパンはついに悲しい帰国を果たしました。彼の肉体はパリに葬られましたが、その魂はポーランドに帰ってきたのです。(P.159〜160)

おわりに

 ここまで、みなさんにショパンの生涯とその思想についてお話ししてきましたが、最後に、私自身にとっての思想を表現するということの意味を、伝えたいと思います。私がはじめて「音楽は思想」という言葉を聞いたのは、私の父からでした。

 「はじめに」でも触れましたが、在日韓国人として生まれた私は、法的には「外国人」として、自分の生まれ育ったこの日本という国で生活しています。

 私は、大学を卒業するころから、留学を夢見ていました。それは音楽をさらに深く学びたいという思いがあったためだけではなく、生まれ育った日本で「外国人」と言われている自分自身が、いったい何者であるのかわからなくなったからでした。

 「日本」という鏡に映してしか自分を見ることができないのに、この鏡に映る自分は、いつもゆがんでいるように思えてなりませんでした。だったら、鏡が変われば、自分も違って見えるのではないだろうか、と思うようになっていたのです。私はどうしても日本をいったん離れなければ前に進めない、自分が何者かわからなければ、音楽によってなにを表現したいのかもわからない、そんな思いが津洋なりました。

 もちろん、日本を出て自分自身を見つめ直したいと言っても、決して日本に帰国したくないと思っていたわけではありません。けれども、21歳のとき指紋押捺を拒否したために、何度再入国許可を申請しても、不許可になるばかりでした。いったん日本を離れればもう帰国できないかもしれない、それでも留学すべきか――私は3年間悩み、苦しみました。

 そんなとき、私の姿を見かねた父が言ったのが、「すばらしい音楽家には思想がある」という言葉でした。父は「それは、たとえばショパンだ」と言い、私を励ますような目をしたのです。

 このとき、父は私に、たとえ帰国できなくても、自分の思想・信念を曲げず貫くこと、それが思想をもつことだ、と言いたかったのだと思います。けれどもそれは、自分の娘が二度と日本に帰国できなくなり、会えなくなるかもしれない、ということでもあり、父にとってもつら選択のはずでした。

 しかし、このときの私は、まだ自分の将来に対する不安がいっぱいで、父の気持ちを考える余裕もなく、また父のかけてくれた言葉についても、「ショパンの思想ってなんのことだろう」と思うばかりでした。

 けれども、父は、ショパンの音楽の核にある思想を見抜いていたのです。それは、父がショパンと同じ「亡命者」だったからでしょう。

 私の父は、分断される前の北朝鮮に生まれました。そしてひとりで38度線を越え、自分で学費を稼いで現在の韓国にある大学を出たころ、南北を分断する朝鮮戦争になりました。父は、武器を持って闘うことを避けるために、南の島の山奥に潜んだそうです。

 その後、どうしても勉強したくて、24歳のとき、ひとりで日本に渡ってきたのです。父がふたたび生まれ故郷に帰ることはありませんでした。祖父の死に目にも会えませんでした。

 父が選んだ亡命者のような人生の苦悩やさびしさを、日本で父と一緒に過ごしていた約20年間、私は考えようともしていませんでした。しかし、自分が家族と離れてアメリカに行き、帰国できないかもしれないという状況になったとき、はじめて、私は父の苦しみを実感し、その感情に近づくことができました。亡命者の悲しみ、それは、家族と自分が生きていた場所から「断絶させられる」ことです。

 そして、それは遠い時代の遠い世界の話ではないのです。ショパンの人生を知ったとき、私は自分が日本で生きていることと重なり、そして父の歩んだ人生をもっと知らなければと気づきました。ショパンの悲しみが自分の悲しみとして響いてきました。

 北朝鮮と韓国、そして世界中には、家族親族が引き裂かれて、生きていながらお互いに会えない人が、まだまだたくさんいます。ショパンの音楽は、時代を超えて、そのような人びとの悲しみの声として、私には響いてきます。

 ショパンは生涯を通して「民族の音楽」を音楽の核に置いていました。私の父もよく「民族」という言葉を口にしました。「民族こそがもっとも大切なものなんだ」と、私にいつも語っていたのです。

 私の父が生きた朝鮮半島は、日本に侵略された歴史をもっています。父は、自分の名前を日本名に変えさせられ、日本語を強要される教育を受けました。父の言葉は国を奪われた体験からにじみ出るものだったのです。

 けれども私は、この「民族」という言葉に苦しみました。なぜ「民族」がそんなに大切なものなんだろう、そもそも「民族」っていったいなんだろう、と。私は朝鮮が侵略された時代を知りません。民族を奪われているという実感がないのです。

 ですから、私は、侵略された人びとの痛みが、どこまで自分のこととしてわかっているのか、と今も自分に問うています。それは、私の父親たちの心情、侵略された朝鮮人の苦しみや怒りが自分のものにならないという壁であり、同時に、侵略の苦しみを訴えるショパンの音楽を本当に理解し共感することができるのか、という壁でもありました。

 けれども、ショパンの言葉で触れ、ポーランドの侵略された歴史を追うことで、ショパンの音楽が訴えている「侵略に対する怒り」というのは、人間として当然のことだと思えるようになりました。それによって、ようやく私は、ショパンを感じるように父の感情を理解し、ポーランドの歴史を思うように朝鮮の歴史に思いをはせればいいのだと思えるようになりました。

 韓国人であろうと、日本人であろうと、ロシア人であろうと、ポーランド人であろうと、人間として、決して侵してはいけないものがあります。それをショパンは音楽で訴えていたのではないでしょうか。そのショパンの悲しみを忘れてはならない、と思うのです。

 そして私がショパンや父の痛みを理解したいと願ったように、お互いをもっと知りたい、もっと理解しあいたい、という情熱をもちつづけられれば、平和に一歩ずつ近づいていくのだと私は信じています。わかりあう努力はをやめたとき、暴力は戦争がはじまるのではないでしょうか。ポーランドの魂とは、侵略を拒否し、平和を求める魂なのです。

 この本を書くことは、私の思想の表現でもあります。言葉を探し、組み立て、なにを伝えたいのかを模索する過程は、苦労でもありますが、それ以上に、なにものにも代えがたい大きな喜びでした。音楽では語りきれないことを言葉にし、また言葉にできないものを音楽にする喜びをみなさんに伝えられたとすれば、大変うれしいです。

 最後に、このような機会を与えて下さった岩波書店の岡本厚さんと朝倉玲子さんに、心から感謝を申し上げます。「(チェ)さんのショパンを書いて下さい」という岡本さんの言葉に、終始支えられました。また朝倉さんは、拙い文章しか書けない私を、最後まで導いてくださいました。

 また、私がアメリカの大学の書店で購入した"Chopin's Letters"で省略・割愛されていた手紙、および評論など、訳出できなかったものについては、参考文献に挙げた本のうち、特に関口時正さんと小沼ますみさんの訳に頼らせていただきました。ここに記してお礼を申し上げます。

 みなさんにはぜひショパンの音楽を聴いてほしいと思います。音楽のなかに彼の心からの声が注ぎこまれていること、彼は音楽のなかでこそ輝き、音楽によって生かされていたことを、きっと感じることができるでしょう。

2010年8月
崔 善愛