ホームOB・OGインタビュー

相澤 美智子先生

今回は、アメリカのスワスモア・カレッジSwarthmore Collegeに留学し、
平和学Peace Studiesを学ばれた、相澤美智子先生にお話を伺いました。
現在は一橋大学法学研究科専任講師として、ジェンダーの視点から労働法を教えていらっしゃいます。
三度のアメリカ留学から学ばれたことはなにか、現在日々学生と接する中でどう活きているか、
などお聞きしました。


【ご経歴】
1991年 一橋大学法学部入学
1993年 米・スワスモア大学留学
1995年 一橋大学法学部卒業
1996年 カリフォルニア大学バークレー校ロースクール修士課程修了
1998年 一橋大学大学院法学研究科修士課程修了
2001年 東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得
2001年 東京大学社会科学研究所助手
2004年	現職




<全米屈指のリベラル・アーツ・カレッジで学ぶ>

Q. なぜスワスモア大学を選ばれたのですか?

A. スワスモア・カレッジはアメリカのペンシルヴァニア州にあります。
学部生のみのすごく小さな学校で、一学年400〜500人くらいの規模なんですね。
行くことを決意したのは、学部生の教育に特化していることが最大の魅力と感じたからです。
アメリカには、こういう学部だけの教養大学があって、大学院はないけれども
学部生の教育の点では非常に質が高いと聞いていました。
スワスモアはその中でも毎年上位3校の中に入る大学だったんです。



<スワスモアでの一年をきっかけに将来の方向性が一転>

Q. 現在は労働法・ジェンダーと法を専門にされていますが、
   留学中はなぜ平和学を学ばれたのですか?また、その頃はどのように将来をお考えでしたか?

A. 私は大谷先生のゼミで国際法を勉強していました。
当時は外交官か、国際公務員をめざしていたからです。
私は小学校の低学年までアメリカに住んだ経験から、もう一度大人の目でアメリカを見たい、と
いう思いがあったのですが、アメリカで法律を学ぶには大学院レベルのロースクールに行くしかない。
法律を勉強する国としてはあまりよくなかったのですね。
じゃあどうしようと考えたときに、外交官や国際公務員になれたなら、
そのときに活きるような勉強をしたいと思い、平和学を選びました。
帰国したら採用試験を受けようと思って留学に旅立ったんですが、
結論からいうと、考え方や将来の方向性がまったく変わって帰ってきました。
大学院で勉強を続けたいと思うようになったのです。



Q. 留学中に、将来に関してどのような転換があったのですか?

A. 留学してすぐ、「アメリカ外交史」の授業でレポート提出の課題が出ました。
スワスモアでは、外国人もアメリカ人も含め、レポートをWriting CenterでWriting Tutorに
添削してもらうことができたので、私も持っていったら、すごく酷評されちゃって。
「君のレポートは何を言いたいのかわからない」「英語の間違い以前に論理が通ってない」
「どうやって助けていいかわからないよ」とまで突き放されてしまってとてもショックでした。

 半べそかきながらしょぼしょぼと寮に帰ってきたら、寮の斜め向かいのお部屋の友人が、
「どうしたの?」と声をかけてくれて、事情を話したら、親切に、私がお願いもしないうちに
レポートを見始めてくれました。その友人も実はWriting Tutorのひとりだったんです。
二日間ほとんど徹夜で一生懸命直しました。そしたら、初めてのそのレポートが、
なんとA+という評価だったのです。すごくうれしくて。
学期末にも同じ授業のレポートがあったのですが、友達に教えてもらったことを振り返りながら、
今度は自分で書きました。そうしたら、それもA+をもらったんですね。

 それがきっかけで「ものを書くのって楽しいぞ」って思いはじめた。
ものを書くにはただ書くだけではなくて、図書館に何日も何日も通い詰めて
いろいろな文献を読んで、自分の作品を作っていくわけです。
まわりの友達にも「この大学でA+をもらうなんてスゴイ!」と褒められるうちに、
大学院に進んで、研究を続けて、研究者になるのもいいかなと思うようになりました。




<外交的アプローチから個人の内面の平和に目を向けるように>

Q. ご自身の研究分野に関して、考えの変化はありましたか?

A. フェミニズムの問題に興味を持ちだしたのもその頃でした。
印象的な授業の一つに、南米とか政情不安定なところで、人々がどう平和を構築してくかを
テーマにドキュメンタリー映画を制作していた映画監督の方の授業がありました。
その方は、大学には、非常勤講師という身分でいらしていました。
その授業で読んだ本はどれも、紛争・平和というものについて、
それまでとはまったく違うことを考えさせてくれるものでした。
私がそれまで考えていた紛争や平和というのは、国家レベルとか規模の大きいものだったのですが、
紛争や平和っていうのは、個人のレベルの問題としても考えなければならないと
思うようになったのです。一人ひとりの人間が、個人として尊重され、生活が安定し、
他人と折り合いをつけながら共に生き、結果として心が平和であること、
そういう「小さな」平和の実現に、より関心が向くようになったのです。

 もっと小さな規模の平和あるいはその反対である紛争に目を向けたいと思ったときに、
身近にある様々な差別問題に興味を持つようになりました。
そのなかでも、自分が女性だっていうことも影響しているのでしょうけれど、
女性に対する差別に一番強く関心を持つようになりました。
ジェンダーやフェミニズム関連の授業を積極的に受講するようになったのはそれからですね。
帰国するころには大学院に進学して研究者に、とおぼろげながら考えていましたけれども、
研究者を志すとしても国際法ではなく、自分の身近なところにある差別の問題を研究したいのかなと、
自分自身の関心が少しずつ絞り込めてきたという感じでした。



Q. 「差別」ということに関して、スワスモア大学の雰囲気はいかがでしたか?

A. 非常に自由な校風でした。人種や性や性的指向をめぐり
何か問題が起こりそうになると、自治会を始めとした有志の学生の組織が動き出し、
言論の自由を確保し、不正を許さない行動に出る、というような雰囲気がありました。
女子学生と男子学生の比率も、当時の一橋は女子が一割くらいで男社会っていう
雰囲気だったけれども、スワスモアは男女が半々くらいでしたし、女性の教授も多かった。
人種もさまざまな人種の人を入学させるように、大学側もアファーマティブ・アクションを
実施していたのではないかと思います。留学生もかなり受け入れていたので、
民族問題にも配慮するようにという大学の雰囲気にいつも包まれてたという気はしますね。
自由な言論が許される雰囲気が、スワスモアはアメリカのなかでも
際立って強い学校だったと思いますね。留学生として学ぶにもいい環境でした。



<大学院に進み、労働法とジェンダーの研究を>

Q. 留学から帰ってきて、どのような進路を選ばれたのですか?

A. 性差別のなかでも私は特に、雇用に関して興味をもっていました。
働くということは生きてくことと直結すると思います。
それに経済的な自立は精神的自立と密接不可分と思います。
今でさえ一橋にもジェンダー関連の科目がありますけれど、
当時はそのような名前のつく科目は全然ありませんでしたし、
そうした問題関心を伸ばしてくださる先生もあまりいませんでした。
自分なりに考えて、いちばん希望を実現できるのは労働法かなと思い、
大学院から盛先生に師事しました。




―相澤先生はその後、1995年に一橋大学大学院に入学。
 翌年、米カリフォルニア大学バークレー校のロースクールに留学し、修士号を取得。
 1998年には本学の修士課程も卒業する。さらに、東京都立大学で博士号を取得後、
 東京大学の社会科学研究所に助手として勤務。
 その間にも同じくカリフォルニア大学に留学し、計3回の留学を経験したことになる。―


Q. なぜ3度ともアメリカに行かれたのですか?

A. 雇用差別を禁止するアメリカの法律と日本の法律との比較研究をするように
なったからです。アメリカは1964年に世界初の雇用差別禁止法を連邦レベルでつくりました。
その法律は、一定程度は社会に浸透したけれども、法律ができて社会が変わることを
成功と呼ぶならば、必ずしもそうなってはいません。
60〜70年代までは、その法律が比較的よく機能したけれども、80年代に入ると
バックラッシュが始まりました。なぜそのようなことになったのか、アメリカ社会の構造を、
法律との関係で明らかにしたかったんですね。それを通して、じゃぁ日本で同じように
雇用差別禁止法を作るにしても、どのような法にし、どのように運用していくべきか、
何かヒントが得られるのではないかと思って。

 研究上の理由としては、今お話したようなことが理由なのですが、
個人的な面からいえばアメリカを選んだのはこういうことだったんだろうと思います。
私は小学校の低学年まで、様々な人種の人々が住むロサンゼルスで暮らしたのですが、
子ども心にも差別、特に人種や出身国による差別ってあるな、と強く感じたのを覚えています。
子どもの頃の原体験って大きいですよ。私の脳裏にやきついているあの差別は、
どういうところから生じていて、それに対する社会の対応はどうなっているのだろう、
といった疑問や関心、そういうものは、成長する過程において、自分の中に常にあったと思います。
だから雇用差別禁止法の存在を知ったときはなるほどと思いましたし、
でもそれが必ずしも成功してないからこそ、私がロサンゼルスで暮らした70年代後半当時も、
子どもながらに差別を肌で感じたんだって思いましたね。



<スワスモアの先生からの学びが、教員としての今のスタンスに活きている>

Q. 3度の留学のなかで、スワスモアでのご経験はどのように位置づけられていますか?

A. いつまでも残る友達が一番多く出来たのはスワスモア時代ですね。
皆、スワスモアのリベラルな校風の中で育った受けたせいか、貧困、環境、移民問題などについて、
「世直し」をやろうとしてる友達ばかりで。恵まれた環境で育った友人たちが、
アメリカ社会の暗い面にあえて目を向けて、弱者とともに生きていこうとしている。
そういう仲間を得られたことが何よりですね。学生時代の留学ってひとりでいくでしょう。
家族もいない、そういう環境のなかで、いろんな人にお世話になりながら、世界中に友だちをつくる。
ひとりのほうが視野も広がります。若くて柔軟なうちに留学するってすごく大事だと思います。
人間って年をとるほど柔軟性を失っていきますし、特に日本では何歳までに何をするとか
年齢で区切られているでしょう、大人になるほど身動きがとれない。日本の社会って、
自分のペースで生きていきたい人に対して不寛容にできてるなって残念に思いますが・・・



Q. 今後はどのようにご自身の将来を考えていますか?

A. 私はスワスモアで勉強の楽しさを教えてもらったと思います。
だから私は、現在大学教員という立場で日々学生に接しているという意味では、
学生に勉強することの楽しさを伝えたいなぁと思っています。
特に、日本の学生は自分で考えたことを人にわかるように書いたり、説明したり、
議論したりすることが苦手だと思うんですよね。
自分の考えを大事にしてそれを表現するっていうことを伝えていきたいですね。
学生という、日々教室で会う生きた人間、すごく可能性のある若い人たちに、
私が自分の経験から得たものを伝えていきたいと思う。
特に私は一橋で学び、留学もさせていただいた末に、一橋で職を得たので、
そうすることが恩返しかなと思っています。

 私が留学したスワスモアの先生は一流の研究者なんだけれども、
どんなに自分の研究をやっていても学生の教育をおろそかにしない。
他の大きな大学では教授が研究者志望の院生に指導して、院生がTeaching Assistantとして
学部生を教えることが多いんですね。学部生と先生が直接関わる場面が少ない。
でもスワスモアの先生は、自分の研究もやっているんだけれども、教育に対して絶対に手を抜かない。
将来研究者になる人だけ教育しようというのではなくて、社会のどこに出て行くかわからない
学部生の教育を一生懸命やっていた。それが私にとってはすごくロールモデルというか、
模範的な姿勢だなと、こういう立場にたって今すごく思いますね。




いかがでしたでしょうか?
苦労がやりがいにつながる、という先生のお話どおり、
現在カリフォルニア大学に留学中の先生のゼミ生は、「毎日がゼミのようです」と
その勉強のハードさを実感しているそうですが、そのぶんトップレベルの学生たちと
日々研鑽しあい、充実した留学生活を送っているようです。
生徒思いな先生の後半のメッセージには、思わず胸が熱くなったメンバー一同でした。
相澤先生、どうもありがとうございました!


2007年10月30日インタビュー実施 法学部4年 増本明彦 社会学部4年 澤本慶亮 編集・文責  小林香織